古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

鵜葺草葺不合命(鸕鷀草葺不合尊)の名義について

2025年01月06日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 いわゆる記紀神話の最後に登場するウカヤフキアハセズノミコトは、記に、「天津あまつ日高日子ひこひこ波限なぎさたけ葺草かや葺不合命ふきあはせずのみこと」、紀に、「ひこ波瀲なぎさたけ鸕鷀草葺かや不合尊ふきあへずのみこと」とあって、ヒコホホデミノミコト(日子穂穂手見尊、彦火火出見尊)とトヨタマビメ(豊玉毘売、豊玉姫)の子で、母親の妹のタマヨリビメ(玉依毘売、玉依姫)に育てられた後、妻として迎えて神武天皇が生まれた話へとつながっている。紀ではウカヤフキアハセズノミコトまでを神代、神武天皇以降を人代としており、「神話」の最後の神さまということになっている。ウカヤフキアハセズノミコトの名は、母親のトヨタマビメが海辺に産屋うぶやを造る時、鵜の羽で屋根を葺こうとしたが葺き終らないうちに陣痛が始まり、その中に入って産んだことに由来するとされている。お産の現場を見るなと言ったのに見られて恥をかかされたといって、トヨタマビメはお里へ帰ってしまい、妹のタマヨリビメが代わりに遣わされて乳母になり、育てられたことになっている。

 是に海神わたつみむすめ豊玉毘売命とよたまびめのみことみづかでてまをさく、「あれすで妊身はらめり。今む時にのぞみて、これおもふに、天つ神の御子は海原うなはらに生むべからず。かれ、参ゐ出で到る」とまをす。しかくして、即ち其の海辺うみへ波限なぎさに、鵜のを以て葺草かやにして、産殿うぶやを造る。是に其の産殿未だ葺き合へぬに、御腹みはらにはかなるにへず。故、産殿に入りす。爾くして、まさに産まむとする時に、其の日子ひこぢまをして言はく、「おほよ他国あたしくにの人は、産む時に臨みて、本国もとつくにの形を以て産生むぞ。故、妾、今もとの身を以て産まむとす。願はくは、妾をな見たまひそ」といふ。是に其の言をあやしと思ひて、ひそかに其のまさに産まむとするをうかかへば、八尋やひろわにとりて匍匐はらば委蛇もごよふ。即ち見驚きかしこみて退く。爾くして、豊玉毘売命、其の伺ひ見し事を知りて、うらはづかしと以為おもひて、乃ち其の御子を生み置きて白さく、「妾、つね海道うみつぢとほりて往来かよはむとおもへり。然れども吾が形を伺ひ見つること是いとはづかし」とまをして、即ち海坂うなさかへて返り入りき。是を以て、其の産める御子をなづけて、天津日高日子あまつひこひこ波限なぎさたけ葺草かや葺不合命ふきあへずのみことと謂ふ。波限を訓みて那芸佐なぎさと云ふ。葺草を訓みて加夜かやと云ふ。しかくしてのちは、其のうかかひしこころうらむれども、ふる心にへずして、其の御子を治養ひたよしに因りて、其のおと玉依毘売たまよりびめけて、歌をたてまつる。其の歌に曰はく、
  赤玉あかだまは さへ光れど 白玉しらたまの 君がよそひし たふとくありけり(記7)
 しかくして、其のひこぢ、答ふる歌に曰はく、
  沖つ鳥 鴨く島に 我が率寝ゐねし いもは忘れじ 世のことごとに(記8)(記上)
 後に豊玉姫とよたまびめはたしてさきちぎりの如く、其の女弟いろど玉依姫たまよりびめひきゐて、ただ風波かざなみをかして、海辺うみへた来到きたる。臨産こうむ時におよびて、ひてまをさく、「やつここうまむ時に、ねがはくはなましそ」とまをす。天孫あめみまなほしのぶることあたはずして、ひそかきてうかかひたまふ。豊玉姫、みざかりに産むときにたつ化為りぬ。しかうして甚だぢて曰はく、「し我をはづかしめざること有りせば、海陸うみくが相通かよはしめて、永くへだて絶つこと無からまし。今既にはぢみつ。まさに何を以てか親昵むつましきこころを結ばむ」といひて、乃ちかやを以てみこつつみて、海辺にてて、海途うみつみちを閉ぢてただぬ。かれ、因りて児をなづけまつりて、彦波瀲武ひこなぎさたけ鸕鷀草葺かや不合尊ふきあへずのみことまをす。(神代紀第十段本文)
 是より先に、別れなむとする時に、豊玉姫、従容おもふるに語りてまをさく、「やつこ已に有身はらめり。風濤かざなみはやからむ日を以て、海辺に出で到らむ。ふ、我が為に産屋を造りて待ちたまへ」とまをす。是の後に、豊玉姫、果して其のことごと来至きたる。火火出見尊ほほでみのみことまをして曰さく、「妾、今夜こよひこうまむとす。請ふ、なましそ」とまをす。火火出見尊、きこしめさずして、猶櫛を以て火をともしてみそなはす。時に豊玉姫、八尋やひろ大熊鰐わに化為りて、匍匐逶虵もごよふ。遂にはづかしめられたるを以てうらめしとして、則ちただ海郷わたつみのくにに帰る。其の女弟いろど玉依姫たまよりびめを留めて、みこ持養ひたさしむ。児のみなを彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊とまを所以ゆゑは、の海浜の産屋に、また鸕鷀かやにして葺けるに、いらかおきあへぬ時に、児即ちれませるを以てのゆゑに、因りてなづけたてまつる。(神代紀第十段一書第一)
 是より先に、豊玉姫、天孫あめみままをして曰さく、「妾已に有娠はらめり。天孫のみこを、あに海の中に産むべけむや。かれこうまむ時には、必ず君がみもとまうでむ。如し我が為にうぶやを海辺に造りて、相ちたまはば、是所望ねがひなり」とまをす。故、彦火火出見尊、已にくにに還りて、即ち鸕鷀の羽を以て、葺きて産屋うぶやつくる。いらか未だふきあへぬに、豊玉姫、自ら大亀おほかめりて、女弟いろど玉依姫をひきゐて、海をてらして来到いたる。時に孕月うむがつき已に満ちて、こうときみざかりせまりぬ。これに由りて、葺き合ふを待たずして、ただに入りす。已にして従容おもふるに天孫に謂して曰さく、「妾みざかりに産むときに、請ふ、なましそ」とまをす。天孫、みこころに其の言をあやしびてひそかうかがふ。則ち八尋大鰐やひろのわに化為りぬ。しかも天孫の視其私屏かきまみしたまふことを知りて、深く慙恨はぢうらみまつることをいだく。既にみこれまして後に、天孫きて問ひてのたまはく、「児のみないかなづけばけむ」といふ。こたへて曰さく、「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と号くべし」とまをす。まををはりて、すなはわたわたりてただぬ。時に、彦火火出見尊、乃ちうたよみしてのたまはく、
  沖つ鳥 鴨く島に 我が率寝ゐねし いもは忘らじ 世のことごとも(紀5)
亦云はく、彦火火出見尊、婦人をみなを取りて乳母ちおも湯母ゆおも、及び飯嚼いひかみ湯坐ゆゑびととしたまふ。すべ諸部もろとものを備行そなはりて、ひたし奉る。時に、かり他婦あたしをみなりて、を以て皇子みこを養す。これよのなかに乳母を取りて、を養すことのもとなり。是の後に、豊玉姫、其のみこ端正きらぎらしきことを聞きて、心にはなはあはれあがめて、また帰りて養さむとおもほす。ことわりきてからず。かれ女弟いろど玉依姫をまだして、きたして養しまつる。時に、豊玉姫命、玉依姫に寄せて、報歌かへしうたたてまつりてまをさく、
  赤玉あかだまの 光はありと 人は言へど 君がよそひし たふたくありけり(紀6)
凡て此の贈答二首ふたうたなづけて挙歌あげうたと曰ふ。(神代紀第十段一書第三)
 是より先に、豊玉姫、出できたりて、まさこうまむとする時に、皇孫すめみままをして曰さく、云々しかしかいふ。皇孫従ひたまはず。豊玉姫、大きに恨みて曰はく、「やつこことを用ゐずして、あれ屈辱はじみせつ。故、今より以往ゆくさきやつこ奴婢つかひびと、君がみもとに至らば、また放還かへしそ。君が奴婢、もとに至らば、亦復還かへさじ」といふ。遂に真床覆衾まとこおふふすま及びかやを以て、其のみこつつみて波瀲なぎさに置き、即ち海に入りてぬ。此、海陸うみくがあひかよはざることのもとなり。あるに云はく、「児を波瀲に置くはし。豊玉姫命、自らいだきてくといふ。ややひさしくして曰はく、「天孫のみこを、此のわたの中に置きまつるべからず」といひて、乃ち玉依姫をしていだかしめて送りいだしまつる。初め、豊玉姫、別去わかるる時に、恨言うらみごと既にひたぶるなり。故、火折尊ほのをりのみこと、其のまた会ふべからざることをしろしめして、乃ちみうたを贈ること有り。已にかみに見ゆ。(神代紀第十段一書第四)

 最初に、名号の訓み方について確認しておく。紀の伝本の傍訓にはフキアハセズとある(鴨脚本、兼方本、丹鶴本など)。フキアヘズと訓みたがるのは、本居宣長・古事記伝による。「○葺不合は、……不合を、阿閇受アヘズと云る、イト宜し、必古きヨリドコロぞありけむ、是に従ひて訓べし、阿波世受アハセズツヾめて、阿閇受アヘズと云は、古言なり、下巻朝倉御哥に、麻那婆志良マナバシラ袁由岐阿閇ヲユキアヘとあるも、ユキアハなり、此ホカにもアハ阿閇アヘと云る例多し、【フキアハセズノ○○○○○○○命と訓はわろし、あはせずと云言、御名に似つかはしからず、凡て上代の名に、然詞の調シラベあしきは無きをや、】さて凡て屋をフクには、ナタナタノキより、葺上フキノボりて、ムネにて葺合フキアハせて、ヲフることなる故に、葺終るを、葺合フキアハすとは云なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/443~444、漢字の旧字体は改めた)とある。「葺終るを、葺合フキアハすとは云なり」と断じていながら、「御名に似つかはしからず」として退けており、必ずしも歯切れのいいものではない。ただ、現行の解釈ではどれもフキアヘズとなっている。葺き終わらないうちに生まれたことを表すという。アフは「敢」、「堪」などの字を当てる下二段活用の動詞で、補助動詞として、終わりまで持ちこたえる意を表している。しっかと〜する、〜しおおせる、の意になっている。一例をあげる。

 常の恋 いまだまぬに 都より 馬に恋ひば になへむかも(万4083)

 アフという語は、打消、疑問、反語と結んで、不可能や困難な意を表すことが多い。すなわち、ウカヤフキアヘズという言い方は、そもそもが鵜の羽を茅葺き屋根のように最後まで葺くことなどできようはずがない、ということを含意していると考えられる(注1)
 常識をもって考えれば、鵜の羽をもって屋根を葺くなどという話は奇想天外である。そんな話(咄・噺・譚)が構想され、創作され、伝達されている。天才作家が機智、頓智を駆使して意図的に物語を拵えたものであろう。上代の人たちは、話のなかに散りばめられている機智、頓智をとてもおもしろく感じ、互いによろこびながら話し伝えたものと想像される。
 話(咄・噺・譚)に、水鳥のウ(「鵜」(記)・「鸕鷀」(紀))の羽をもってして屋根を葺いている。この発想はとてもユニークである。古く釈日本紀に、「大問云、以此鳥羽産屋。有由緒哉、如何。先師申云、無慥所見。但、廻今案、鸕口喉広、飲-入魚、又吐-出之、容易之鳥也。是以象産出平安、令此羽於産屋者歟。以産屋、称鷀葺屋者、以鸕鷀羽葺之本縁也。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12866187/1/25~26、返り点等を付した)とする説が載る。納得できるものではない。産屋とはウム(生)+ガ(助詞)+ヤ(屋)のことだからウ(鵜)+カヤ(草)であろうとする俗説は、着想として考えた場合には当たっているかもしれない(注2)。とはいえ、ウ(鵜、cormorant)という鳥の名がことさらに叫ばれており、その羽を葺き草に使ったことを皇子の名前に反映させている。ガチョウやアヒルの羽をもって羽毛布団を作ったというのなら現実的でわかりやすいが、鵜の羽を産屋の屋根材に用いると言っている(注3)。比喩として話しているとしか考えられない(注4)
 何が変か。他の鳥ではなく鵜が選ばれているところである。
 「以鵜羽葺草、造産殿。」(記)などとある。草で屋根を葺くように鵜の羽を使っていると考えられている。訓注に、「訓葺草加夜」とある。カヤとは、屋根を葺くのに適した丈の長い葉をした比較的堅い草の総称である。近代に伝わる茅葺屋根の例としては、ススキやアシ、チガヤ、スゲ、カリヤス、ムギなどが用いられた。耐久性の点で、ススキやアシは好まれたらしい。イナワラを使うこともあったが、数年で駄目になってしまう。それらの草を刈り取って乾燥させて束ねたものを屋根材に使っている。話(咄・噺・譚)ではその代わりに「鵜羽」を用いたことになっている。実際にあり得ないどころか想定することも滑稽である。鵜の実状を見ればわかる。
羽を乾かす鵜
 鵜という水鳥は潜水に特化した種とされている。一般的な水鳥、ハクチョウやカモなどでは、尾脂腺から脂肪分の多い分泌物を出し、嘴を使ってそれを羽に塗りつけることで水をはじいている。浮き進む時、船のように見える。他方、ウの場合、脂が羽に付いておらず、水上で浮かんで進む様子も潜水艦が浮上運行しているように見える。そして魚を捕まえようと水に潜ってはびしゃびしゃになっている。目的を果たした後は、陸に上がっては羽を大きく広げ、バタつかせて乾かしている。
 そんな鳥の羽をわざわざ選んで屋根材にしようなどとは誰も思わない。雨漏りしてかなわないではないか。つまり、名義のウカヤフキアへズという言い方自体、自己矛盾を抱えていて、絶対的に肯定されているのである。鵜の羽を葺草かやにして屋根を葺くなどということはあり得ないし、仮に着手して時間をかけたとしても屋根には仕上がらない。論理学的禅問答を名としているのであった。
 その証拠に、名のなかにカヤという言葉が含まれている。助詞のカヤ(カ、ヤ)は、疑問の意を表す。また、詠嘆を表すこともある。

 慨哉うれたきかや大丈夫ますらをにして、慨哉、此には于黎多棄伽夜うれたきかやと云ふ。いやしきやつこが手を被傷ひて、報いずしてやみなむとよ。(神武前紀戊午年五月)

 この例は、何ともいまいましいことよ、の意である。カ(終助詞)+ヤ(間投助詞)の構成である。他に、カ(係助詞)+ヤ(間投助詞)の形で、特にトカヤという形をとって、……といったか、……とかいうことである、の意を表す場合、また、カ(係助詞)+ヤ(係助詞)の形で、活用語の連体形に下接し、疑問や反語の意を表す場合がある。それらのカヤという意味合いをカヤ(「葺草」)という言葉に塗り込める使い方を行っていると仮定すると、「以鵜羽葺草」という言い方は、鵜の羽をもって葺草とするとは一体全体どういうことなのか、これはまた何とすごいことか、そんなことはとてもあり得ないよ、といった激しい気持ちを吐露する表現となっている。説明調に置き換えてみれば、「鵜の羽を以て葺草かやるかや」などと畳み重ねた言い方になる。それを簡潔に記している。無文字時代、言語のすべてが口頭の音声言語によるものである以上、いま発した言葉に自己循環的な論法で言及し、それをこそなるほど納得の言葉遣いであると考えたに相違あるまい。すなわち、「以鵜羽葺草」という珍妙な形容は、その言葉自体にその言葉のからくりが語られている。鵜の羽でカヤにするとはねぇ、何たることだろうねぇ、という意味を包含しており、言辞自体がわざとらしい珍奇な言い分であることを主張している。
 鵜の羽は始終濡れている。濡れるは古語で、ヌル(濡)という。ヌルには髪などがゆるんでほどける意がある。

 松浦川まつらがは 川の瀬光り 鮎釣ると 立たせるいもが すそれぬ(万855)
 家づとに 貝をひりふと 沖辺おきへより 寄せ来る波に 衣手ころもで濡れぬ(万3709)
 嘆きつつ 大夫ますらをのこの 恋ふれこそ わが髪結かみゆひの ぢてぬれけれ(万118)
 たけばぬれ たかねば長き 妹が髪 この頃見ぬに き入れつらむか〈三方沙弥〉(万123)

 束ねようにもほどけてしまうのがヌルである。鵜の羽は濡れていて、屋根材に適用するために束ねようにもその段階からしてできないのである。鳥の名はウ(鵜)である。否応なく、なかば強制的に応諾させられる際の発語は、同音のウ(諾)である(注5)。ウ、ウ、ウと言葉に詰まりながら認めざるを得なくなっている。鵜の羽は屋根材のカヤに当たらないのに、葺けと強要されて否応なくそうしている。完成には至らない。
 出産を迎えるに当たってトヨタマビメは、その場面を見るなとオモフルニ言っている。ホホデミノミコトはその禁を破って見てしまう。いわゆる見るなのタブーを冒した顛末が描かれている。紀一書第三に、「已にして従容おもふるに天孫に謂して曰さく、「妾みざかりに産むときに、請ふ、なましそ」とまをす。天孫、みこころに其の言をあやしびてひそかうかかふ。則ち八尋大鰐やひろのわに化為りぬ。しかも天孫の視其私屏かきまみしたまふことを知りて、深く慙恨はぢうらみまつることをいだく。」とある。話として古事記とよく似ており、神代紀本文にも「従容おもふるに」要請する描写がある。どうしてオモフルニと形容しているのか。オモフルニはゆったりしたさまを表す。語源はともかく音感からは、オモ(面)+フル(振)ことをしていると感じられる。オモ(面)+フル(振)こととは左右を見ながらゆっくりと歩くことである。練供養ねりくようのような所作である。トヨタマビメは用心深く作戦をることをしている。聞かされたヒコホホデミノミコトは、いやに用心深いではないかと思ったであろう。相手がネルことをしてきているのだから、こちらはその真相をネラフことで対処しようとする。それが言葉の理にかなっている。ネラフ(狙)とは、ひそかに獲ようと目をつけることである。動物を狩るときの行為である。彼はもともと山幸彦(山佐知毘古)であった。獲物を捕らえるには物陰に隠れて狙う。斥候うかみ(窺見)をするようにウカカフ(覘、窺、伺)のである。他者に知られないように周囲に目を配りながら相手の真意や事の真相をつかもうとすることである。そういう展開にふさわしい言葉が選ばれている。そして、ウカカフという言葉の名詞形、ウカカヒ(ヒは甲類)は、隙を狙うことを表す。生まれてきた子の名前に絡んでいる。ウカヒ(鵜飼、ヒは甲類)とよく似た音である。上代の人にとって、鵜とは、ウカヒ(鵜飼、ヒは甲類)のために飼育された動物であった。彼らに動物分類学的な種の同定の意識は薄く、実用面から鵜飼に使う鳥 cormorant のことをウと呼んだのである。一旦飲み込んだ魚をウッと吐き出すからウと名づけたと考える。この箇所に鵜を登場させているのは、山幸彦が海神の宮へ行って学んだ、魚に対する狩猟法こそが鵜飼なのだということを述べているものと考えられる。

 …… おほき戸より うかかひて 殺さむと すらくをらに 姫遊ひめなそびすも(紀18)
 御真木入日子はや 御真木入日子はや おのを 盗みせむと しりつ戸よ いたがひ 前つ戸よ い行き違ひ うかかはく 知らにと 御真木入日子はや(記23)
 このをかに 小牡鹿をしかみ起こし 窺狙うかねらひ かもかもすらく 君ゆゑにこそ(万1576)
 窺狙うかねらふ 跡見とみ山雪の いちしろく 恋ひばいもが名 人知らむかも(万2346)

 古事記には、トヨタマビメが到来していることについて、「今む時にのぞみて、これおもふに、天つ神の御子は海原うなはらに生むべからず。かれ、参ゐ出で到る」とまをす。しかくして、即ち其の海辺うみへ波限なぎさに、鵜のを以て葺草かやにして、産殿うぶやを造る。」と語られている。出産するのに実家のある海原うなはらでは駄目で、海辺うみへ波限なぎさに来ている。そこに産屋を造って出産準備を整えている。民俗的風習としては、母屋とは別に産屋を造ることは珍しいことではない。だが、実家で出産することに問題があるとは考えにくい。農耕を主体とする人と漁撈を主体とする人との間の関係を示すものとも考えられている。その際、海原うなはら海辺うみへへの移動は何を物語るのか。海辺うみへ(の波限なぎさ)は海岸の波打ち際のことだから、漁民の領域であるようにも思われる。そんなところへ産屋を建てるのはおかしなことである。満潮時、水に濡れてしまう。だからこそ、鵜の羽はゆるんでほどける意のぬれ○○ることになり、屋根は完成しなかった。
 ナギサ(波限、波瀲、渚、汀)の語源は不明であるが、語の音感として、同根の語と思われるナグ(凪、和)と関係がありそうで、海の波が穏やかであることを表すように思われる。と同時に、草が薙ぎ払われたように横倒しになっている様子もイメージされる。「其の剣を号けて草薙剣くさなぎと曰ふといふ。」(景行紀四十年是歳)とある。ふだんは静かでも台風などが来れば生えていた草も家もなぎ倒される。だから、産屋は完成に至っていない。
 記紀の話の五伝(記、紀本文、紀一書第一、第三、第四)のうち、産屋うぶやを作ったとする話が三伝(記、紀一書第一、第三)、生まれてきた赤ん坊をかやなどで裹んだとする話が二伝(紀本文、紀一書第四)にある。このうち、産屋を作ったとする話では、ヒコホホデミノミコトが造ったように語られている。紀一書第一や第三では、トヨタマビメ側から造って待っているようにと要請されている(注6)。鵜飼に使う鵜の羽を使って産屋を建てようとしている。鵜に首結いをつけて、大きな魚は食道に留まるようにして、それを吐かせて獲物とした。そのように鵜自体を使って魚を捕まえるばかりでなく、鵜の羽を竿やロープに付けておいて、それを川面に叩きつけるなどしてあたかも鵜が近づいて来たかのように魚に思わせ、驚いて逃げていくところを一網打尽に網で捕獲する漁も行われていた。それも鵜飼の一種とされ、万葉集では「鵜川うかは(を)立つ」(万38・3991・4023・4190・4191)と言い表している。囲っておいて鵜が来たようにして逃げ惑う魚を捕ったのである。もちろん、その囲い立てに屋根はない。
 鵜の羽だけを使った鵜飼をする場合、鳥の鵜はおらず、つまり、ふつうなら鵜は魚を飲み込んで胸を膨らませているところだが、それがない。鮎を飲み込んでふくらんだ大きな胸は見られないのである。鵜のオホムネ(大胸)が見られないということは、鵜の羽ではオホムネ(大棟)は作れないということである。そのことは鵜の観察から証明されている。鵜の両翼は、背のいちばん高いところへ被さるわけではない。羽を広げて乾かす時など、羽根のない背中が露出している。尾脂腺から脂が出ないから、背中の頂部に羽毛をまとうには及ばない。すなわち、ウカヤフキアハセズという言い方は、その言葉自体で論理が完結している。ウカヤなるものが仮にあったとしても、それはフキアフ(葺合)ことは体現され得ず、完成されることは決して望めないものであることがまたしても証明されているのである。
 大棟とは屋根のいちばん高いところのことである。棟木が渡されており、そこを覆う屋根のことをイラカ(甍)と呼んでいる。新撰字鏡に、「屋脊 伊良加いらか 甍 上に同じ」、和名抄に、「甍 釈名に云はく、屋の脊を甍〈音は萌、伊良加いらか〉と曰ひ、上に在りて屋を覆蒙おほふなりといふ。兼名苑に云はく、甍は一名を棟〈音は多貢反、訓は異なる故に別に置く〉といふ。」とある(注7)
 和名抄では、また、「棟 爾雅に云はく、棟は之れを桴〈音は敷、一音に浮、無祢むね〉と謂ふといふ。唐韻に云はく、檼〈隠の音、去声〉は棟なりといふ。」とある。紀一書第一に、「甍未合時」(一書第一)をイラカオキアヘヌトキニ、一書第三の「屋蓋未合」もヤノイラカイマダフキアヘヌニと訓んでいる。それぞれその前に「全用鸕鷀羽草葺之」、「即以鸕鷀之羽、葺為産屋」と断られている。鵜飼は鵜飼でもやり方が違うからできないのだとわかるようになっている。産屋は産屋でも、鵜の羽で造るということは、鵜の巣にするのがせいぜいのものであって、いわゆるお椀形にしかならない。ウ(鵜)+ス(巣)の形はウス(臼)の形である。甍を載せることなどないのである。
カワウの巣(大阪市立自然史博物館「日本の鳥の巣と卵427」展展示品)
 オホムネのないことが語られている。白川1995.に、「おほむね〔概(槪)・略〕 中心となる重要な点。「むね」は趣旨のあるところで、「むね」「むね」「むね」と同根の語。本来名詞であるが、のち副詞的に用いることがあった。副詞としては概・略などの字を用いる。」(191頁)とある。話の主旨のことから概略のことまで表している。

 二に曰はく、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。則ち四生の終帰をはりのよりどころよろづの国の極宗おほむねなり。(推古紀十二年四月、寛文版本にヲホムネ、岩崎本傍訓に「極」にキハメ、「宗」にムネ、その下にナリとある)
 此則西方南海法徒之大帰オホムネ矣。(南海寄帰内法伝・第一、長和五年頃点)
 みだりに去就して其のおほむねくこと有ること无れ。(大唐西域記・第三、長寛元年点)
 語言は異なりと雖もおほむねに印度に同じ。(同)
 ヲホムネ天子之孝也。(古文孝経・天子章第二、仁治二年点)
 盖 居泰反、フタ、ケダシ、オホフ、キヌガサ、オホムネ、フタ、カブル、和カイ(名義抄)

 名義抄では、大垣・大分・大都・大底・槩・概・梗槩・略・枑・率・盖といった字にオホムネの訓みを載せている。なかでも「蓋(盖)」をオホムネと訓む例は示唆的である。「屋蓋」(一書第三)はヤノイラカであり、屋根に蓋をすることである。説文に、「蓋 苫なり、艸に从ひ盍声」とある。とまはチガヤの類で、菅茅を編んで作った覆いをいう。覆い被せてフタのように雨露から守る肝心なところがオホムネということになっている。ウカヤフキアヘズとは、主旨も概略もないということ、まとめとして何かがあるということではなく、事の次第としてそうなったのだということを物語っていると考えられる。
 肝心要のオホムネの類義語に、要害、要衝の地、大切な場所を表すヌミという語がある。

 賊虜あたる所は、皆是要害ぬみところなり。(神武前紀戊午年九月)
 凡そ政要まつりごとのぬみ軍事いくさのことなり。(天武紀十三年閏四月)
 新羅に要害ぬまところを授けたまひ、(欽明紀二十三年六月、兼右本左傍訓)

 このヌミには、ヌマという別訓も見られる。同音に沼の意がある。古形は一音のヌである。足をア、水をミと言っていたのと同様とされる。幸田露伴『音幻論』に、「沼はヌであり、塗はヌルであり、……海苔・糊・血はすべてノリである。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126366/38~39)とあり、ヌには、濡れていて、どろどろしていて、ぬめりのあるものの意があり、糊状のものとは塗るべき対象であるとしている。そして、沼はまた、一音でヌともいい、ヌには、瓊の意がある。瓊が塗るべき対象かといえば、勾玉を磨く時に、砥石に水を塗ってそこで磨いていくとやがてどろどろとぬめりを帯びてくる。そこで、タマ(玉、瓊)のこともヌと呼ぶことがあったものと思われる。トヨタマビメやタマヨリビメという女性役は、「たけばぬれ」る髪の毛を持っていたと措定していたのではなかろうか。

 行方ゆくへ無み こもれる小沼をぬの 下思したもひに われそ物思ふ このころのあひだ(万3022)
 廼ち天之瓊あまのぬ 瓊は玉なり。此にはと云ふ。ほこを以て、指し下してかきさぐる。(神代紀第四段本文)
 其の左のもとどりかせる五百箇いほつみすまるたまひきとき、瓊響ぬなと瑲瑲もゆらに、あまの渟名井まなゐに濯ぎ浮く。(神代紀第七段一書第三)

 以上、ウガヤフキアヘズノミコトの誕生の説話について考究した。民俗的な風習があってそれを表すために説話が構想されたものではない。ヤマトコトバの理解のために、言葉を循環的に説明すると必然的に生じるおかしな話(咄・噺・譚)が述べられている。今日の人が神話として読みたがる記紀の説話には、ヤマトコトバの自己言及的語釈の記述の要素が必ず含まれている。無文字時代の言語が言語としてあり得るのは、その言葉を声に出して絶えることなく発し続けることによる。記録する手段の文字がなく、記憶のみによって残された言葉であった。言葉が言葉として成立する前提がすべて発声に負っているのだから、民族の記憶庫から忘れらないようにときどきは声に出して諳んじてみなければならない。その場合、単なる棒暗記では対応できない。棒暗記の共有は、教育勅語の強制に見られたように限界がある。誰もが興味深く感じ、なるほどと思い、面白がることのできるテキストが求められる。洒落と頓智の入り混じった話(咄・噺・譚)がかなっている。記憶を確かなものにして、多くの人へ、また、次の世代に伝えていくのに役立つ。社会言語学的に言えば、ヤマトコトバの世界征服の魂胆が、頓智話に籠められているといえる。記紀説話を創作した構想の一端には、ヤマトコトバファーストをモットーとして、ヤマトコトバ語族を広げて確かならしめようとする野望のようなものが垣間見られる。その限りにおいてのみ、記紀の叙述は、古代において支配の正統性を担保するものであったと言える。

(注)
(注1)筆者旧稿の考えを改め、現行の解釈を凌ぐものとなっている。
(注2)思想大系本古事記に、「鵜の羽で産殿を葺いたというのは、鵜の羽に安産の霊力があると信じられていたためであるという説(可児弘明)がある。鵜の羽を持っていると安産できるという俗信がかつて沖縄にあり、また中国では妊婦が鵜を抱いて安産を願う信仰があったという。ただし産殿(うぶや)の意にあたる「うみがや(うむがや、生むが屋)」の転化がウガヤとなり、そのウが鵜に結びつけられたとする解釈もある。」(361頁)とある。可児1966.には、「豊玉姫神話がウの安産に関してもつ霊力を反映したものだとすれば、なぜ羽だけに限定されたかは別にして、ウによって安産を願う日本の宗教思想はウの胎生説とともに中国から渡ってきたにちがいない。」(49~50頁)と、かなり乱暴な議論が行われている。
(注3)そのようなことは歴史を遡ってみても聞いたことがないばかりか、試そうという気にすらなれない。民俗慣行のおまじないにヒントを求めても、話のなかで鵜の羽をわざわざとり上げて屋根を葺いている理由を説明しきれるものではない。
(注4)仏典に膨大な比喩の話を典拠とするなら、典拠を示すことで研究は完成、終了ということになるであろう。瀬間1994.は、海宮訪問の表記とストーリーには、経律異相と一致するところがあると論じている。書き方の問題は太安万侶の筆には関わろうが、稗田阿礼の誦習とは無関係である。
(注5)拙稿「事代主の応諾について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/0c9178d94e7bad106c7159a74fd78ad1参照。
(注6)記でも、産気づいて「入-坐産屋」とあるから、それまではそこに近づいていなかったことがわかり、トヨタマビメが自ら産屋を造っていたのではない。
(注7)イラカは、屋根の最も高いところ、大棟の上を覆って雨を屋根の左右へ別ける役割を果たしている。イラカという語については、イロコ(鱗)と同根とする説と、イラ(莿・苛)+カ(処)という構成とする説がある(注11)。イラという語には、草木のとげのことを指すほか、魚の背びれの棘のことも言う。鱗にしても背びれの棘にしても海神の宮にあったとしたらよくかなうものである。異国風の情景を思わせるために、瓦製の甍のことがイラカという言葉の原初であるかもしれない。「海神わたつみの 殿のいらかに ……」(万3791)とある。瓦葺き屋根は波立つ海面の様子にもよく似ている。
 それに対して山幸彦であるヒコホホデミノミコトは、屋根のすべてを葺草かやによって葺こうとしている。海原うなはら海辺うみへ(の波限なぎさ)で作ろうとしていたから気づかなかった。もし海辺うみへではなく川辺かはへへと河口から川を遡っていたら気づいたかもしれない。川辺かはへのことは川原かはらとも言う。同音にかはらがある。かはらというヤマトコトバは、防火対策に特段の効果があるから注目された結果なのだろう。川原に建物を建てて消防用水に恵まれることと同様だと考えられて和訓となった可能性が高い。

 冬十月の丁酉の朔にして己酉に、小墾田に宮闕おほみやを造りてて、瓦覆かはらぶき擬将せむとす。……是の冬に、飛鳥板蓋宮あすかいたぶきのみやひつけり。かれ飛鳥川原宮あすかのかはらのみやうつおはします。(斉明紀元年十月~是冬)

 尤も、イラカという言葉がすべて瓦製のことを指していたとは思われない。
 イラカという語については、角川古語大辞典に、和名抄の解説を受けて、「「甍」の字義よりすれば、瓦葺きの屋根の棟(むね)、また、その棟瓦をさし、「屋背」の字義よりすれば屋根の棟をさし、「在上覆蒙屋」の字義は、棟をさすとも、屋根一般をさすともとれる。しかし上代の用例では、一般の屋根にはいわず、瓦とは断定できないが、みな立派な御殿についていい、中古以降は特に瓦屋根の意に用いられる。」(①338頁)とある。また、日本国語大辞典の「語誌」には、「語源については、その形態上の類似から、古来「鱗(いろこ)」との関係で説明されることが多かった。確かにアクセントの面からも、両者はともに低起式の語であり、同源としても矛盾はしないが、上代においては「甍(いらか)」が必ずしも瓦屋根のみをさすとは限らなかったことを考慮すると、古代の屋根の材質という点で、むしろ植物性の「刺(いら)」に同源関係を求めた方がよいのではないかとも考えられる。」(①1375頁)とある。また、古典基礎語辞典の「解説」には、「瓦で葺いた屋根のいちばん高い所。」(157頁、この項、西郷喜久子)とある。上代の用例にイラカ(甍)が瓦製かどうか、文例から完全には掌握できないため何とも言えない。筆者は、元来が他の屋根部分とは異なる造りであることを示した言葉ではないかと考える。結果的に素材の違いになって現れることもあったということである。
 板葺き(杮葺き)や樹皮葺き(檜皮葺)の屋根でも、棟部分だけ、他とは別に丸く包んで押さえる方法がとられている。棟包みと呼ばれる桟に当たるものを使い、棟の端から端まですべてを途切れることなくつなぎ覆っている。産屋を造る伝とは別に、かやなどで子を裹んだとする文がある。「乃以草裹児、棄之海辺、閉海途而俓去矣。」(紀本文)、「遂以真床覆衾及草、裹其児之波瀲、即入海去矣。此海陸不相通之縁也。」(紀一書第四)。苞にして贈り物を贈るやり方でパッケージングしているのは、屋根の甍の造りと同様だからであろう。ただし、茅葺き屋根の棟部分にのみ棟瓦を敷き置いて被覆する方法は、瓦巻き、瓦棟などと呼ばれて現在残されているが、この棟仕舞は明治時代以降の流行と言われている。
 まとめると、面として屋根を葺いたのとは別仕立てで、大棟部分から雨が侵入しないように工夫したところをイラカと呼ぶことにしていたものと考えられる。イラ(棘)のある籬を動物が避けるように、イラのあるところを雨は左右へ避けるのである。雨は屋根の最下部まで伝って行って流れ落ちている。
左から、天平の甍(新薬師寺)、家形埴輪(今城塚古墳出土、古墳時代、6世紀、今城塚古代歴史館展示品)、東三条殿?(年中行事絵巻模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574885/18をトリミング)、イワヒバを冠した芝棟(川崎市立日本民家園)
 家形埴輪の例は鰹木を載せたイラカとなっている。家や屋根の傾斜以上に大棟部分が肥大して作られており、甍形埴輪の様相である。当時の人々の関心の所在が明らかになっている。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第一巻』角川書店、昭和57年。
可児1966. 可児弘明『鵜飼─よみがえる民俗と伝承─』中央公論社(中公新書)、昭和41年。
幸田露伴『音幻論』 幸田露伴「音幻論」『露伴随筆集(下)』岩波書店(岩波文庫)、1993年。国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126366
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
思想大系本古事記  青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
白川1995. 白川静『字訓 新装版』平凡社、1995年。
瀬間1994. 瀬間正之『記紀の文字表現と漢訳仏典』おうふう、平成6年。
日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第一巻』小学館、2000年。
山田1935. 山田孝雄『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』宝文館、1935年。国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870273

※本稿は、2018年3月稿を2020年8月に整理したものについて、2025年1月に誤りを正した新稿である。

大伴家持の「亡妾」歌(万462)─夏六月に秋風が寒く吹く理由を中心に─

2025年01月02日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 大伴家持がまだ若い頃に「妾」を亡くして詠んだとされる歌が万葉集の巻三に載る。万462番歌を皮切りに、弟の書持の「即和歌」一首を含めて万474番歌まで計十三首(長歌一首)あり、家持は深い悲嘆に暮れたと捉える見方が大勢を占めている。ここでは、そのうち最初の四首をあげる。歌い始めの最初の歌、万462番歌を詳しく読み解くためである。

  十一年己卯の夏六月みなつき大伴宿禰おほとものすくね家持やかもちの、みまかりしをみなめ悲傷かなしびて作る歌一首〔十一年己卯夏六月大伴宿祢家持悲傷亡妾作歌一首〕
 今よりは 秋風寒く 吹きなむを いかにかひとり 長きむ〔従今者秋風寒将吹焉如何獨長夜乎将宿〕(万462)
  おと大伴宿禰書持ふみもちの即ちこたふる歌一首〔弟大伴宿祢書持即和謌一首〕
 長きを ひとりやむと 君が言へば 過ぎにし人の おもほゆらくに〔長夜乎獨哉将宿跡君之云者過去人之所念久尓〕(万463)
  又、家持の、みぎりの上の瞿麦なでしこの花を見て作る歌一首〔又家持見砌上瞿麦花作謌一首〕
 秋さらば 見つつしのへと いもゑし 屋前やど石竹なでしこ 咲きにけるかも〔秋去者見乍思跡妹之殖之屋前乃石竹開家流香聞〕(万464)
  つきたちに移りて後に、秋風を悲嘆かなしびて家持の作る歌一首〔移朔而後悲嘆秋風家持作謌一首〕
 うつせみの 世は常なしと 知るものを 秋風寒み しのひつるかも〔虚蟬之代者無常跡知物乎秋風寒思努妣都流可聞〕(万465)

 書持の万463番歌の一・二句目にある「長きひとりやむ」は、家持の万462番歌の四・五句目の「いかにかひとり長きむ」を受けて言い換えているだけである。亡くなった人のことが思われるねえ、と言ったところで、そもそも家持は「悲-傷亡妾作歌」を歌っているのだから当たり前のことをくり返しているだけである。兄貴、あなたが寝られないと訴えている理由がわかるよ、亡くなったあの娘のことが自然と思われるよ、と同情した、それをわざわざ歌に拵えて周囲に聞かせたというのだろうか。書持の歌の意図は理解できないし、言語芸術になっていないことになる(注1)
 最初の一首に疑問がある。題詞に、夏六月のこととされながら歌詞に「秋風」とある。大切な人を亡くしたから夏でもうすら寒い風が吹いたと感じられたのだろうとか、暦のめぐりあわせだろうと考える向きがある(注2)。個人的な感慨は思うのは勝手でも、歌に作り声に出して訴えられたら心理カウンセリングの対象としなければならない。弟の書持はそこに狂気も不自然さも感じずに「即和歌」を作っている(注3)。暦意識が根づいていてその妙を捉えた歌とするなら、書持もそれに倣っていていいはずだがそうはしていない。そして、万465番歌に至っては、「移朔而後、悲-嘆秋風」と、性懲りもなく再び「秋風」の寒いことを歌っている。「移朔」、つまり、月が改まって秋七月一日になったら「秋風寒み」と詠んでも何の不思議もない。
 そうなると、夏六月時点での万462番歌は、暦の話ではなく特別な修辞によって歌が作られていると考えなければならない(注4)。聞いている人がすぐにわかることが歌われている。相手が、そして周囲の人が理解できないことが仮に歌われたとしても、そのようなものはすぐに忘れられるから万葉集に残されることはない。
 どういう状況のもと歌われたかは題詞に明記されている。題詞は歌の設定、枠組みを示すために置かれている。
 ヲミナ○○メ(妾)のことをミナ○○ツキ(六月)に歌っている。ミはともに甲類である。ミナという言葉が歌の全編を覆う仕掛けということだろう。ミナ(ミは甲類)には蜷という言葉がある。今日、ニナと呼んでいる巻貝である。巻貝のことを連想しているのは、マク(巻、纏)という動詞を意識してのことと考えられる(注5)。共寝することをマクと言った。歌っているのは大伴さんである。オホトモなのだから、トモに寝ることに齟齬はない。共寝、つまり、纏くみなに当たるヲミナ○○メ(妾)が突然亡くなった。ミマカル(亡)という言葉も、ミ(身、ミは乙類)+マカル(罷)の意で、マカル(罷)はマク(任)と同根の言葉である。ミナ○○ツキ(六月)なのに纏いて寝る相手がいなくなって独り寝を強いられている。そのことを歌っているのである。
水槽に吸着するカワニナ
 人が亡くなっているのをネタにして駄洒落の歌を歌っている。倫理的にどうなのかと思うかもしれないが、この「をみなめ」が家持とどのような関係にあったのかについては議論がある(注6)。実際に男女の関係にあったかは推測の域を出るものではない。家持が独り寝のことを歌っているからと言って、家持が実際にこのをみなめと共寝をしていたという証拠にはならない。なにしろ家持は、一連の「亡妾」の歌の冒頭で駄洒落の歌を歌っている。考え方によっては、身分が低く名も明かされないをみなめのことを追悼するのに歌に作って歌うということは、良い供養であると思われたかも知れないのである。
 廣川2003.は宴席の場での歌だとしている。万462・463番歌は宴の晩に詠まれたものであろう。家持が、今からは秋風が寒く吹くことだろうよ、どうやって一人で長い夜を寝るつもりなのか、寝ないで宴を楽しもうよ、と歌ったのに対して書持は、長い夜を一人で寝るのか、いやいや寝ることなんてできないよ、蜷を食べていると亡ったを妾のことが自然と思い出されるもの、と答えている。楊枝のようなもので一生懸命にくるくるっと巻きながら「みなわた」(万804・1277・3295・3649・3791)(注7)を引き出していたところだったらしい。一人で寝られないとは、宴会で酒を飲んで酔っぱらい、寝そうになっている参加者を無理やり起こしていたということである。家持は最初の歌で、今、お配りしたのは蜷ですよ。宴も酣ではございますが、夜も押し詰まって参りますと六月なのに季節外れの秋風が寒く吹くことでしょうから、と言っている。亡くなった妾を弔うために、この長い夜、一人で寝るなんてことできないでしょう、いつまでも起きていて飲み明かしましょう、と盛り上げようとしていたのであった。
 家持は地口、駄洒落で歌を作り、その意図が書持にも伝わり「即和歌」し、二人とも歓喜している。ミナ(ミは甲類)のことを言っているのだね、と書持がピンと来て「即和歌」して言語芸術は成立し、万葉集はその歌を収録している。万葉歌は知的な言語ゲームの成果であった(注8)

(注)
(注1)秋風が吹いたら悲しくなるものだ、という日本的情緒(?)がこの歌で初めて表明されたのだといった感想は現在も語られるが、実証的でなく、学問の名に値しない。上野誠「『万葉集』はいかなる歌集か…日本文化+中国文明=万葉集?」(テンミニッツTV - 1話10分で学ぶ大人の教養講座)https://www.youtube.com/watch?v=M-BRU6YPc24(10:04~10:21、2024年12月25日閲覧)参照。
(注2)この天平十一年は、暦の上で六月二十四日が立秋のため、暦月と節月のずれを述べているとする見解(大濱1991.や廣岡2020.)がある。「年のうちに 春はにけり ひととせを 去年こぞとやいはむ 今年ことしとやいはむ」(古今集1)と同様だと考えるわけだが、題詞に「ふる年に春たちける日よめる」と断られている。家持にはホトトギスの歌をはじめ暦に基づいた歌があるが、その場合も題詞などに明記されている。そうしないと歌意がわからないからである。
(注3)廣川2003.は、「即和歌」とある場合、儀礼や宴席という場が存在するという。
(注4)鉄野2017.は、暦の上での立秋によって歌っているとする説を追認し、「父旅人の歌の表現や方法を踏襲し、それを露わに見せながら、一方ではそれと異なって、季節やそれによる景物の変化とともに妻の死を捉えようとする姿勢が見られる。」(8頁)という。
(注5)古典基礎語辞典には、「まく【負く】自動カ下二/他動カ下二 解説 マクは上代・中古で「負」「敗」「纏」「蜷」の訓として使われる。マク(負く)とマク(巻く)とは共に『名義抄』によるアクセントが「上平」で語源が同じ。マク(負く)はマク(巻く、カ四)の受身形で、相手の力に巻き込まれること、圧倒され動きがとれなくなることが原義。」(1103~1104頁。この項、須山名保子)とある。
(注6)この歌群については虚構論議が行われた。例えば中西1963.に、「第三者の「亡妾」であったか、全く架空であったかは不明だが、少くとも家持自身の事ではなかろうと考える。」(451頁)とある。現在、「亡妾」は実在したのか、家持との関係はいかなるものか、という事実をめぐる議論は下火となっている。例えば、鉄野2017.は、家持との間に「若子みどりご」(万467)を成しているはずとの立場から、「思うに、妻のような身近な人の死を悲しむ情は、時を経て初めて歌いうるのではないだろうか。死別の直後の悲哀は、後から振り返って自らを造形し直す以外には表現しえない。」(17頁)という。
(注7)「みなわた」は枕詞で「か黒き髪」を導いている。実体として使われている言葉ではないものの、身近な存在だったから形容するために用いられたのだろう。
(注8)歌人大伴家持について、その経歴と歌作とを結びつけて考えようとする傾向が強くなっている。しかし、そのようなことは可能なのか、また、有効なのか。現今でもドラマや舞台で活躍する俳優や、ライブや配信で人気の歌手がいる。顔、声、演技、歌唱に魅せられることがあるが、その人の真の人柄を知らないことも多い。親戚でも近所に住んでいるわけでもなく、会ったことすらないのがほとんどである。彼ら彼女らの実生活とその表現との間に強いて関連するところを探ることなど、週刊誌的、パパラッチ的、SNS的関心でしかないのではなかろうか。万葉集研究は変な方向へ向いていないだろうか。

(引用・参考文献)
有木1970. 有木節子「「亡妾歌」の真実─家持文学のアプローチとして─」『国文目白』第9号、1970年1月。
大濱1991. 大濱眞幸「大伴家持作「三年春正月一日」の歌─「新しき年の初めの初春の今日」をめぐって─」『日本古典の眺望 吉井巖先生古稀記念論集』桜楓社、平成3年。
小野寺1972. 小野寺静子「「悲傷亡妾歌」歌」『国語国文研究』第50号、北海道大学国語国文学会、昭和47年10月。
倉持・身崎2002. 倉持しのぶ・身崎寿「亡妾を悲傷しびて作る歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第八巻 大伴家持(一)』和泉書院、2002年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
佐藤1993. 佐藤隆『大伴家持作品論説』おうふう、平成5年。
鉄野2017. 鉄野昌弘「結節点としての「亡妾悲傷歌」」『萬葉』第224号、平成29年8月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/2017
中西1936. 中西進『万葉集の比較文学的研究』南雲堂桜楓社、昭和38年。(『万葉論集 第一巻 万葉集の比較文学的研究(上)』講談社、1995年。)
西宮1984. 西宮一民『萬葉集全注 巻第三』有斐閣、昭和59年。
橋本2000. 橋本達雄『万葉集の時空』笠間書房、2000年。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。(「家持の亡妾悲傷歌─作品形成における季の展開について─」『三重大学日本語学文学』第4号、1993年5月。三重大学学術機関リポジトリhttp://hdl.handle.net/10076/6466)
廣川2003. 廣川晶輝『万葉歌人大伴家持─作品とその方法─』北海道大学大学院文学研究科、2003年。
松田2017. 松田聡『家持歌日記の研究』塙書房、2017年。(「家持亡妾悲傷歌の構想」『国文学研究』第118巻、1996年3月。早稲田大学リポジトリhttp://hdl.handle.net/2065/43573)
身﨑1985. 身﨑壽「「家持の表現意識─「亡妾悲傷歌」を例として─」『日本文学』第34巻第7号、日本文学協会、1985年7月。J-STAGE https://doi.org/10.20620/nihonbungaku.34.7_23
森2010. 森斌『万葉集歌人大伴家持の表現』溪水社、平成22年。(「大伴家持亡妾を悲傷する歌群の特質」『広島女学院大学日本文学』第15号、2005年12月。広島女学院大学リポジトリhttps://hju.repo.nii.ac.jp/records/567)

八咫烏(頭八咫烏)について 其の三

2024年12月31日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
(注)
(注1)上代文学における、記の八咫烏記事の先行研究の一つに坂根2011.がある。発話文の解釈を定めるものである。
 「八咫烏」、「頭八咫烏」の訓みについては、紀の古訓にヤタカラス、ヤタノカラスなどとあるが、「八尺鏡八尺、云八阿多やあた」(記上)と訓注で指定され、「尺」は「咫」と通用していると考えられてヤアタカガミとしているのに従ってヤアタカラスとした。
(注2)アタとアダの清濁の違いについて無視することはできない。古典基礎語辞典に、「アタは近世中期までは清音であったが、敵対するものの意をカタキが表すようになるにつれ、アタは主に、害やうらみなどのよくないことを表すようになった。一方、アダ(徒)も無益・無用の意を表すので両者の混同が起こり、アタ[(仇・敵)]がアダになったと考えられる。」(32頁。この項、白井清子)とある。五来2004.は、言葉の時代考証を欠いている。
(注3)「「儒者に曰く、「日中に三足の烏有り、月中に兔・蟾蜍有り」と。(儒者曰、日中有三足烏、月中有兔蟾蜍。)」(論衡・説日)、「一日いちぢつまさに至り、一日方に出で〈交会し相代るを言ふ也〉、皆烏〈中に三足の烏有り〉を載す。(一日方至、一日方出〈言交会相代也〉、皆載于烏〈中有三足烏〉。)」(山海経・大荒東経)などとある。
(注4)無文字時代のヤマトコトバにおける思惟に、言葉は事柄を表す、あるいは、極力同じにしようと志す傾きがあった。その時、言葉には言霊が宿るものと考えていた。ところが、今日一般に古代の言霊信仰といえば、言葉にはすべからく霊力や呪力が備わっているものと信じられていたことと捉えられている。誤解である。文字がないとき言葉は音でしかない。発する言葉、受け取る言葉に担保となるものが見当たらない。証文をとることもできなければ、漢字でどう書くかによって言葉の理解の一助にすることもできない。そこでヤマトの人々は、言葉と事柄とが必ず同一になるように使おうとした。その結果、言葉には事柄が必ず貼りついているようになり、嘘偽りがなく社会の安定に資することとなった。
 しかし、言葉には同音異義語がある。音の数は限られているから生じている。そうなると言葉が必ずしも事柄を表さない誤解が起こってしまう。大前提が崩れてしまうことをヤマトの人は嫌ったから、その不協和な事態を解消するために音が同じなら同じ事柄を表していると認められるべく、概念規範のほうを展開、駆使させた。すなわち、同音なら同事という命題を遵守して言葉を使い、言葉を定義しながら逐次言葉を用いるような仕業をくり広げていったのである。そういう次第で言葉にはまるで霊魂でもあるかのように感じられたから、それを言霊と呼んだのである。
 大浦2019.に、「上代における「言霊」という語の用法が万葉集の三例に限られること、その他の文献には全く見られないことを認識しつつ、「言霊信仰」を当時の民俗生活全般に及ぼし、また始原的に存在したものとして捉えることは、古代の「言霊」というものに対して現代の側に形作られた信仰─現代における「言霊」信仰─の様相すら呈しているように思われてならないのである。」(125頁)とある。大浦のいう「言霊」ならびに「言霊信仰」は、従来の考え方に基づいている。万葉集の「言霊」三例は、次の歌である。

 …… そらみつ やまとの国は 皇神すめかみの いつくしき国 言霊ことだまの さきはふ国と 語りぎ 言ひ継がひけり ……(万894)
 言霊の 八十やそちまたに 夕占ゆふけ問ひ うらまさる いもあひ寄らむ(万2506)
 磯城島しきしまの 倭の国は 言霊の たすくる国ぞ まさきくありこそ(万3254)

 万894・3254番歌は、対外交渉の結果から、我が国の言葉の特徴が、言=事、それも口に発した音声言語が事柄と同じであることの優位性に気づいたことから使われている。中国の漢字は、一字→一音→一義として決められている。しかし、例えば同じ音の「提」と「啼」、「災」と「栽」が同じ事柄を表すとは言えない。それに対してヤマトコトバは、同じ音なら同じ概念に基づいていると丸めこんでしまう戦略をとったのである。
 無文字時代におけるヤマトコトバの特徴によって、巧みに操る者が優位な地位を得て、知恵にまさることで勢力の拡大を見た。音声でしかない言葉を発したその時点で相手を納得、調伏させるには、こと向けやはす言語能力が必要であった。そして、「名に負ふ」人はその名のとおりに行動することが求められ、逆にまた、あり方や行動に従って命名されてもいた。一見、無関係に思われる言葉に関しても、互いに関連づけるような説話が物語られたり一口話が作られて、こじつけにも思える洒落や地口が横行しており、現代の感覚ではおよそ無意味に感じられる地名譚も数多く残されている。
 カラス(烏)とカラス(枯)とが同じ音だからといって同根の言葉であったかどうかはわからない。それでも言葉を一から理解しようとする人にとっては、crow は水を好まないように見えて wither 的な鳥だろう、wither は kill と同等の意であろう(注5参照)、kill をいうコロス(殺)とその鳥の鳴き声のコロクはよく似ているだろう、ということになれば、アハ、なるほどね! と腑に落ちるのである。そのとき、カラスという鳥の名は、まったくもって他の言い方では示すことのできない揺るぎないヤマトコトバとして人々の間で共有される。
 これは決して語源という形で突き止められるものではない。そもそも語源なるものは証明できるものではなく、縄文時代からとするなら5000年、10000年の単位で使われているヤマトコトバのうち、たかだか1300年ほど前に表れた文字資料によって何となく理解しているに過ぎない。そうではなく、記紀万葉に残されている上代資料から、当時の人々がどのような感覚でヤマトコトバを用いていたか、その語感を探るべきである。そのことは、彼らの概念規範を理解することになる。ものの考え方がわかるということは、その時代のことがまるごとわかるということである。しかし、今日では、ロゴスの学よりもマテリアルの学が好まれる時代になってしまっている。言語においても、文字というマテリアルな次元でばかり思考されており、上代人の思惟に近づくことはできずにいる。
(注5)白川1995.に、「鳥獣の類に「殺す」というのは、草木の類を「枯らす」というのと相対するものであろう。」(346頁)とある。
(注6)この個所の訓読について、現在通行しているものに誤りがあるので改めている。拙稿「神武東征譚における熊野での熊の話」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/85d0190d2bc4024b9c0144cf1986c2db参照。
(注7)赤羽2008.に、「熊は隈に宿る」、「隈に潜むもの」と小題があり、「熊の語源に「くま」がある。「奥まった暗い場所」「光と闇の接するところ」「かたすみ」「ふち」などの意味を綴っていくと、熊の行動の跡をなぞっていることになるのである。」(257頁)としている。語源説は際限がないため論じても仕方がないが、連関をもって用いられていたことは確かであろう。
(注8)「委曲」について、マツブサニ、ツバヒラケキコトといった訓が試みられている。マツブサニは、十分に、完全に、の意、ツバヒラケシは、くわしい、ものの端々までよくわかることをいう。状況としては、天神と雉とでは声の高さや音色は違えども、雉の鳴女は天神の詔を一言半句違えずに伝えていることを言っている。雉が言葉を理解してこんこんと説いているのではなく、理解はしていないがそのとおりにオウム返しをしていると考えられる。すると、ここでは、ツバラニ、ツバラカニ、また、ツバラツバラニという訓み方がふさわしいと考えられる。隈なく、まんべんなく、しみじみと、の意である。鳴女は間諜なのだから隈に潜みながら偵察活動をしている。意味合いを考えればそれらの訓みは正しいと明かされる。雉は一音一音再現してみせているのだから、ツバラツバラニと訓みたいところである。

 浅茅原あさぢはら つばらつばらに〔曲曲二〕 物思へば りにしさとし 思ほゆるかも(万333)
 朝びらき 入江ぐなる かぢおとの つばらつばらに〔都波良都波良尓〕 吾家わぎへし思ほゆ(万4065)
 …… 山のに いかくるまで 道のくま いつもるまでに つばらにも〔委曲毛〕 見つつ行かむを ……(万17)
 …… 筑波嶺つくはねを さやに照らして いふかりし 国のまほらを つばらかに〔委曲尓〕 示したまへば ……(万1753)
 難波潟なにはがた 潮干しほひのなごり よくも見む〔委曲見〕 家なるいもが 待ち問はむため(万976)

(注9)本当にスパイらしいスパイとして諜報活動している記事としては、紀では、上にあげた推古紀にある新羅の者ばかりとされている。
 直木2009.は、古代の日本では、スパイについて「せいぜい宮廷貴族内での勢力争いに利用されただけで、国際的な活動をしていた朝鮮半島の諜者とは、スケールがちがう。」(103頁)とする。これは、滝川1984.の、「推古天皇の御代、我が朝廷が百済の僧観勒を貢進せしめて、遁甲の術を伝習せしめられたのは、半島にある我が軍が、新羅の間諜のために屢々悩まされた苦い経験によって、我が国人も遁甲の術を学んでこれに対抗する必要が痛感されたからである。」(295頁)とする説に対抗するものである。直木2009.は、滝川1984.が、間諜者迦摩多の渡来と、翌推古十年に百済僧の観勒の来日して遁甲方術の書を貢したこととをあわせて、我が国の忍術の源流を求めた点について、「間諜と遁甲の術とをむすびつけ、忍者の源流とする構想は、古代における間諜の役目や性格を矮小化するもの」(104頁)と批判する。筆者は、忍術の源流であるウカミ(間諜、斥候)は、天佐具女(天探女)やヤアタカラスにすでに現れていると考えている。スパイ活動に身を紛らせることは当たり前のことで、遁甲の術に通じていておかしくないし、誰だかわからないのが間諜の要件なのだから、失敗例の迦摩多をもってスパイ活動の全貌を知ろうとすることは本末転倒である。
 偵察による諜報活動は、よほどの功績や政権の大転換でもない限り、歴史の表舞台に詳解されることはない。今日でも、英国の諜報員は、逆スパイになってバレでもしなければ名前すら知られずに終わる。程度の差はあれ、本邦でも従前より当然のこととして行われていたものと考えられる。武家名目抄・第二に、「忍者〈又間者・諜者と称す〉……按忍者はいはゆる間諜なり、故に或は間者といひ又諜者とよふ。……古来間諜の術をなせしもの諸書に注する所少なからすといへとも其名目を載せさるは悉くこゝにもらせり」(170~175頁、漢字の旧字体は改め、適宜訓み下し句読点を補った)とある。
(注10)オニ(鬼)という言葉については判断が難しい。時代別国語大辞典に、「仮名書きの確例はなく、オニの上代語としての存在が疑われている。……しかし、日本書紀古訓から遡って、……「鬼・魑魅」がオニとして考えられたものとすることに特に支障もない。第三例[霊異記中二五話]の鬼は仏教的なものであるが、それも含めて上代に近い用例として引き得るすべてのオニが鬼人としての形態を示している。「……天皇崩于朝倉宮…是夕於朝倉山上鬼、著大笠視喪儀ミモノヨソホヒ」(斉明紀七年)の「鬼」は神が姿をあらわしたものかと思われる。現在、法隆寺金堂増長天の邪鬼が残ることから、上代人が鬼に対する概念をもっていたことがわかる。「続断於尓乃也加良オニノヤガラ」(鬼の矢柄か)「馬勃於尓布須倍オニフスベ」(鬼燻べであろう) (本草和名)のような植物名もオニのイメージを知る手がかりになろう。」(152~153頁)、古典基礎語辞典に、「オニという語は中古から見える。オニを表す漢字「鬼」は、中国で死者の霊をいう。「鬼」の字を『万葉集』ではモノ(亡霊・怨霊の意の上代語)と訓み、マ(魔=悪鬼の意の漢語)とも訓む。……オニは冥界に属する、姿を見せない存在だったが、仏教の羅刹らせつ(大力・暴虐で人を食うという)などとの混同が起こり、中古末期以後は、異形の怪物で人を害する恐ろしい賊などもオニというようになった。中世末期の『日葡辞書』には、オニは「悪魔。または、悪魔のように見える恐ろしい形相」とある。上代以来、陰陽道による年中行事として、朝廷では十二月三十日に追儺ついな(鬼遣おにやらい)をして疫鬼を追う儀式をした。これがのちに節分の豆まきとして行われるものとなった。中国から入った「鬼」という観念と、日本のモノ(怨霊。のちに物怪もののけという)という観念とが影響し合って、オニが成り立った。」(246頁、この項、須山名保子)とある。国際日本文化センター・怪異・妖怪画像データベース「鬼;オニ,牛車;ギッシャ」(http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiGazouCard/U426_nichibunken_0061_0003_0000.html)、ならびに拙稿「オニ(鬼)のはじまり」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/495a4403b1942d7a8abc633cdf510b99参照。
(注11)なかでもコクマルガラスの賢さについては、ローレンツ1963.に詳しい。
(注12)例えば、チビという蔑称のような愛称は、「ちひさし」によっている。
(注13)狐を稲荷の神の使いとするのは、御食津神みけつかみ三狐神みけつかみと付会した俗信からとする説がある。天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記に、「御倉神三座。素戔嗚尊子、宇賀之御魂神。亦名専女。三狐神」とあり、三狐神をミケツカミと訓み、御饌津神のことであろうとすることによっている。五来2010.は、「『物類称呼』(二)には、「関西にてしべて、けつねと呼ぶ也」とあり、れっきとした登録語なのである。……動物としての狐をはなれてケツネということばを詮索せんさくしてみると、御饌津神みけつかみと言うように、ケは食物や稲のことである。……ツは「の」という意味で、ネは根元、あるいは先祖ということだから、ケツネは「食物の根元」あるいは「食物をあたえる先祖」ということになる。ことばとしてのケツネは、すでに稲荷神の宇迦之魂神や保食神と同体なのである。」(29~30頁)とする。また、大森2011.は、ケツネのケは、もののけのケでもあり、狐憑きとの関連を指摘している。狐は悪さをする悪霊・悪神であり、巫覡がそれを鎮める呪術を行ったとする。いずれの場合も、ケは乙類との想定である。
 論としては興味深いが、狐をケツネという例は、関西地方の方言や江戸期の本朝食鑑などにあるばかりで、上代にそのような言い方がされていた証左はない。万葉3824番歌に「狐」とあるのは、キツネ(キは甲類)と訓むべきとされる。

 さし鍋に 湯沸かせ子ども 櫟津いちひつの 檜橋ひばしよりむ きつねむさむ(万3824)

 本草和名に「狐陰茎 和名岐都禰きつね」、和名抄に「狐 考声切韻に云はく、狐〈音は胡、岐豆禰きつね〉は獣の名にして射干なり、関中に呼びて野干と為るは語の訛れるなりといふ。孫愐に曰はく、狐は能く妖怪と為り、百歳に至りて化けて女と為る者なりといふ。」、名義抄に「狐 キツネ クツネ」とある。説文には、「狐 䄏獣也、鬼の乗れる所、三つの徳有り、其の色中和、小さき前大きなる後、死するに則ち丘に首むかふ、犬に从ひ瓜声」とある。稲荷社とキツネとの語学的関係については、拙稿「稲荷信仰と狐」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/e922fd95ff532a8e2f55e3db6ea885dc参照。本稿で、稲荷社と狐、専女の関係が意識されていることが理解されたことは、稲荷信仰と狐との結びつきが、語学的に言って、相当に根深いものであることを予感させる。イナリに稲荷という字を当てた魂胆は、上代からすでに指向されていたということになる。
(注14)国際日本文化研究センター・怪異・妖怪画像データベース「牛鬼;ウシオニ,火車;カシャ,亡者;モウジャ」(http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiGazouCard/U426_nichibunken_0379_0001_0006.html)参照。
(注15)奈良国立博物館収蔵品データベース(https://www.narahaku.go.jp/collection/644-0.html)参照。
(注16)「火車 西国雲州薩州の辺。又は東国にも間々ある事にて。葬送のとき。俄に大風雨ありて。往来人を吹き倒す程の烈しき時。葬棺を吹き上げ吹き飛ばす事あり。其時。守護の僧珠数を投げかくれば異事なし。若左なきときは。葬棺を吹き飛ばし。其尸を失ふ事あり。是を火車クハシャに捉まれたるとて。大に恐れ恥づる事なり。愚俗の言伝に。其人生涯に悪事を多くせし罪により。地獄の火車が迎ひに来りしといふ。後に其尸を引き裂き。山中の樹枝。又は岩頭イハカドなどに掛け置く事あり。火車と名付くるは。仏者よりいひ出だしたる事にて。……其火車に捉まれたるといふは。和漢とも多くある事にて。是は魍魎といふ獣の所為シハザなり。罔両とも。方良とも書く。酉陽雑俎に。周礼方相氏歐罔象。好食亡者肝。而畏虎与レ柏。墓上樹柏。路口致石虎此也とあり。此獣葬送の時。間々出でゝ災をなす。故に漢土にては聖人の時より。方相氏といふものありて。熊皮をかぶり。目四つある形に作り。大喪の時は。柩に先立ちて墓所に至り。壙に入りて戈を以て。四隅をうち。此獣をる事あり。是を険道神ケムダウシムといふ。事物紀原に見えたり。此邦にても。親王一品は方相轜車を導く事。喪葬令に見ゆ。 今俗葬送に龍頭タツガシラを先きに立つるも。其遺意なり。時珍の綱目に。述異記を引きて。秦の時陳倉の人。猟して此獣を得たり。形に若彘若羊とあり。古より。愚俗の誤りて火車クハシャと名くるゆゑ。地獄の火車ヒノクルマと思ふ。笑ふべし……」(茅窓漫録・下巻)とある。
(注17)拙稿「轜車について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/6bd57f8689ef57db4f0ca8bdc742ae16参照。
(注18)古典基礎語辞典に、「あたり【辺り】……アタル(当たる)と同根。上代には、人や動物の居る場所として見当をつけた所を表した。」(34頁、この項、白井清子)、白川1995.に、「あたり〔辺(邊)〕 その一帯のところ。周辺をいう。「あたる」と同根の語で、いわゆる見当というのに近い。」(70頁)とある。
(注19)それが他の諸言語の無文字時代の説話の多くにも該当することなのか、不勉強でわからない。
(注20)日本霊異記・上・「狐をとして子を生ましむる縁 第二」に、「故、其の相生ましめし子の名を岐都禰きつねなづく。亦、其の子の姓をあたへほす。」とある。「直」に「狐直」と校訂されることがあるが誤りである。狐は伊賀専女のことだとわかっているから、アタアタ話として「あたへ」を「与へ」るに「あたひ」するという地口である。語用論的調和(pragmatic symmetry)の極みと言える。この点が理解されなければ無文字に生きた人々の言語観には到達できない。
(注21)この追儺や午王符に関しては、言葉の連関の可能性を示唆しているにすぎない。時代考証的に、すべての項目が無文字的発想に基づいているとは認めきれない。追認する形で成り立っている印象を受けることを述べた。
(注22)発語において、「ちん……」といえば天皇のそれであるし、『暴れん坊将軍』に「……」といえば徳川将軍吉宗のそれとわかるのと同じである。
(注23)蒲谷・松田1996.に、コクマルガラスの鳴き声は、英文では、“t’yak,t’yak”、“tchak-ak”、“kia”、“kraare”、“chaair”、“tchak-ak”などの記載があり、日本人には、キャッ、キャッという甲高い音に聞こえるとしている。
(注24)拙稿「コノハナノサクヤビメについて」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/1a4da9b05e9aee34901bb20e05d7878aほか参照。
 山上憶良の貧窮問答歌に、甑の話が載る。

 …… かまどには 火気ほけふき立てず こしきには 蜘蛛くもの巣きて いひかしく 事も忘れて ……(万892)

 甑の形と蜘蛛の巣の形とを掛けた高次の修辞表現である。
(注25)景行紀に、「八月に、的邑いくはむらに到りて進食みをしたまふ。是の日に、膳夫等かしはでたちうきわする。かれ時人ときのひと、其の盞を忘れし処をなづけて浮羽うきはと曰ふ。今いくはと謂ふはよこなばれるなり。昔筑紫つくしくにひと、盞を号けて浮羽うきはひき。」(景行紀十八年八月)とある。膳夫かしはでという職掌名は、神饌に餅を供える食器の「葉盤ひらで」などがカシハ(柏・槲)の葉を重ねてできていることによる。ヒラデについては、新撰字鏡に「𦲤〓(𦲤の亻の代わりに石) 比良天ひらで久保天くぼて」、和名抄に「葉手 漢語抄に葉手〈比良天ひらで〉と云ふ。」とある。イクハ~ウキハという音韻的なジョークは、豊後風土記に知られる的と餅との密接な関係に支えられている。
槲御膳かしはのみけ(木村孔恭・蒹葭堂雑録・巻一、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2562884/1/28をトリミング)
 そして、甑で蒸した餅米から酒を造り、やはり神に捧げた。その容器が盞である。新編全集本日本書紀の「浮羽うきは」の注に、「「盃うきは(どうしたか)」の意であったかとする説がある。」(363頁)とあり、飯田武郷・日本書紀通釈・第三に、「-哉ハヤアカ酒盞ウキと宣し所なりと云。……〈此紀に朕之酒盞者也アカウキハヤ。なと詔ひし御言なけれは。羽ノ字の義解かたし。……〉さてかく盞者也ウキハヤと詔ひ出て。惜しみ玉へるは。尋常の御物にはあらし。世に珍き大御酒坏にてそありけらし。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/933890/1/120~121)とある。新釈全訳日本書紀は、「盞を忘れたことからウキハとなる理由は、サカヅキをウキハということによると次文にある。『釈紀』述義「公望私記」に引く「筑後国風土記』逸文では、天皇がこの村に酒盞を忘れたといい、「天皇勅して曰はく、惜(アタラ)しかな、朕が酒盞(ウキ)はや〈俗の語に、酒盞を云ひて宇枳(ウキ)と為す〉。困りて宇枳波夜(ウキハヤ)の郡と曰ふ。後の人、誤りて生葉(イクハ)の郡と号づく」という。ウキということばから地名を説明しようとするものである。『風土記』は、盞(ウキ)とイクハとをつなぐべく、ウキハヤ(ウキよ、ああ、という天皇のことばとうけとられる)がイクハに訛ったという。『日本書紀』が、盞をいう「筑紫俗」のことばがウキハだったとして説明するのに対して、天皇とつなぐために別な解釈をもとめたか。古訓ウクハとあるが、「浮」字にひかれたものか、イクとの音通をもとめたか。」(481頁)と迷宮入りしている。
 膳夫等は、的邑での食事会なのだから、餅ばかり作ればいいと思っていた。だから酒の用意をしなかった。土器や木器の盞は持って行かないで、葉盤ばかり用意していた。そんな葉盤は、水に「浮き葉」である。複数の葉っぱで編み作って水に浮かぶ大きな葉っぱの姿に作られている。的邑なのだから、餅をいくはにしたら鳥になって飛んでいったように、軽くて「浮き羽」になるものがふさわしいと考えていた。しかし、主人たちがしたいのは風流の宴席である。曲水の宴などできたら最高なのに、「浮き葉」では「浮きは」するが、酒を酌んで流したら漏れ出て水に置き換わる。さかずきを揚げて酌み交わそうにも肝心の中身の酒が漏れてしまう。弓の的に餅を使うことが本末転倒で死絶荒廃したように、浮きはするが酒が保てない容器も本末転倒で台無しである。きわめて論理学的な思考から、イクハ~ウキハのジョークがたしなまれている。
(注26)無文字文化に暮らしていた人と、文字を獲得してからの人とでは、言葉に対する感覚は様相を異にする。いったん文字に慣れてしまうと、無文字時代の言葉の感覚は理解しにくいものになる。記紀の話の多くにおいて、現代人の頭でっかちな捉え方では、肌感覚として腑に落ちないものばかりである。記紀の話は、今日の人とは別の文化圏に暮らしていた人たちが残した、異世界のテキストということになる。記紀研究の目標とは何か。ヤマトコトバのジグソーパズルを並べ当てはめ、一枚の絵を完成させることである。現代人が手中にある設計図を当てがってみても何の意味もない。オング1991.参照。

(引用・参考文献)
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大浦2019. 大浦誠士「コトと「言霊」」上野誠・大浦誠士・村田右富実編『万葉をヨム─方法論の今とこれから─』笠間書院、令和元年。
大森2011. 大森惠子『稲荷信仰の世界』慶友社、2011年。
オング1991. W・J・オング、桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳『声の文化と文字の文化』藤原書店、1991年。
蒲谷・松田1996. 蒲谷鶴彦・松田道生『日本野鳥大鑑 鳴き声333【下】』小学館、1996年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
五来2004. 五来重『熊野詣─三山信仰と文化─』講談社(講談社学術文庫)、2004年。
五来2010. 五来重『宗教歳時記』角川書店(角川ソフィア文庫)、平成22年。
坂根2011. 坂根誠「『古事記』八咫烏の先導段における発話文」『古事記年報』53、古事記学会、平成23年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝訳・校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『日本書紀①』小学館、1994年。
集成本古事記 西宮一民校注『古事記』新潮社、昭和54年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
滝川1984. 滝川政次郎『公事師・公事宿の研究』赤坂書院、昭和59年。
直木2009. 直木孝次郎「古代朝鮮における間諜について」『古代の動乱』吉川弘文館、2009年。
武家名目抄・第二 故実叢書編集部編『新訂増補 故実叢書』明治図書出版、昭和30年。
柳田国男「産婆を意味する方言」 『柳田国男全集 第二十七巻』筑摩書房、2001年所収。
ローレンツ1963. コンラート・ローレンツ、日高敏隆訳『ソロモンの指環』早川書房、1963年。

※本稿は、2014年3~4月稿を2019年10月に改稿し、さらに2024年12月に加筆してルビ形式にしたものである。

八咫烏(頭八咫烏)について 其の二

2024年12月30日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
鬼・的

 オニ(鬼)という言葉は、もともとのヤマトコトバにはなかったとされる。万葉集では鬼の字をモノと訓む(注10)。和名抄に、「人神 周易に云はく、人神は鬼と曰ふといふ〈居偉反、於邇おに。或説に云はく、和名の於邇おには隠奇の訛れるなり、鬼物は隠れて形を顕すことを欲せず、故に以て称するなりといふ〉。唐韻に云はく、呉人は鬼と曰ひ、越人は𩴆〈音は蟻、一音に祈〉と曰ふといふ。四声字苑に云はく、鬼は人の死にし神魂なりといふ。」とある。漢字の隠(隱)の古い字音 on に、母音 i をつけた語という説が根強い。鬼が隠と密接に関係するものと考えられるなら、姿を隠して探りを入れる斥候に通じるものである。紀に、次のような例がある。

 これ、桃をちておにやらことのもとなり。(神代紀第五段一書第九)
 是のよひに、朝倉山あさくらのやまの上に、鬼有りて、大笠おほかさを着て、喪のよそほひのぞる。ひとびと嗟怪あやしぶ。(斉明紀七年八月)
 皇太子ひつぎのみこいま大臣おほおみの心のなほただしくいさぎよきことを知り、追ひてづることをして、かなしなげくことがたし。即ち[蘇我]日向ひむか臣を筑紫大宰帥つくしのおほみこともちのかみす。世人ひとあひかたりて曰はく、「是隠流しのびながしか」といふ。(孝徳紀大化五年三月)

 二例目は天皇客死後の九州北部の記事である。カササギの笠や、後述する火車という語と関係しそうである。三例目のシノビナガシについては、包み隠した流罪の意であるとする説がある。出世の形をとった左遷、つまり、本稿で述べている反転、転倒の義に相当する。そしてシノビという語は、忍者のことをいうシノビにも負っていよう。じっとこらえる、秘密にするという意のシノブという語は、忍・隠が常訓の字である。忍び隠れている邪鬼のような存在が具現したものである。蘇我日向という人物は、讒言する輩で性根があまのじゃくである。そして、筑紫大宰帥は九州北部の話で、間諜の盛んな新羅を意識した外国への窓口であり、倭国の諜報機関のうかみの拠点に当たる。そこはコクマルガラスやカササギの分布地でもある。外来語のような新設のポスト「筑紫大宰帥」は、「筑紫大宰つくしのおほみこともちのつかさ」(推古紀十七年四月)、「筑紫率つくしのかみ」(天智紀七年七月)ともある。率の字は、紀の頭八咫烏の鳴き声、イザワの意とされる感動詞イザに当てられている。いずれにせよ、オニ同様、大陸からの外来語をもとにして飛鳥時代に新しい言葉が生まれていることを示唆する。間諜活動をすると形容されるに値するほどに、カラスは知恵が発達していると思われていたのだろう(注11)
 「無名雉」(紀)、「鳴女」(記)はキジである。キジは、まっすぐに駆け飛ぶところから矢のイメージがあり、使者にふさわしいと連想されたとされている。アメワカヒコの説話の末尾で、「雉の頓使ひたつかひ」(記)、「反矢かへしやむべし」(紀)という諺は、この話によるものであるとそれぞれ述べられている。反転の話として総括されているのである。命令を受けて行ったのに行ったきりで、かえって、逆に命令に反して逆賊になってしまったことが一連の話の教訓である。矢が当たらなければみすみす相手に武器を供給していることになる。だから、射返してくることができる。本稿の冒頭にあげた五来2004.の指摘にあったアタとアダの関係は、同一の言葉ではなく、反転を示して生きた言葉になる。アダは空、徒、仇である。濁音化は悪い意味や侮蔑の意味をこめるときに起こることが多い(注12)。つまり、アタアタ烏の話の続きとしてアダな話が記されている。スパイは寝返って逆スパイ、二重スパイになることが間々ある。アメワカヒコに矢が当たったのが寝ている時であるのは、寝返るという言葉の含意を伝えたかったからに違いない。孫子・用間篇に「反間」とある。敵のスパイの逆利用である。
 矢は、アメワカヒコの胸に「あた」っている。当たる意味で、的中することを表す。アタアタの話であるし、コクマルガラスの正面図像は的であった。古語では、弓矢の的のことをイクハという。「くふ」弓を引くときに狙うべきなのは、的の真ん中だから、それをイクハと呼んだらしい。餅の的伝説が風土記に載る。

 田野たの こほり西南ひつじさるのかたにあり。此の野は広く大きく、土地つち沃腴えたり。開墾あらき便たより、此のところたぐふものなし。昔者むかし郡内くぬち百姓おほみたから、此の野に居りて、多く水田こなたを開きしに、糧に余りて、畝に宿とどめき。大きに奢り、已に富みて、もちひちていくはと為しき。時に、餅、白き鳥とりて、発ちて南に飛びき。当年そのとしほどに、百姓死に絶えて、水田を造らず、遂に荒れてたりき。それより以降このかた、水田に宜しからず。今、田野といふ。これ其のことのもとなり。(豊後風土記・国埼郡)
 風土記に曰はく、伊奈利いなりふは、秦中家はたのなかつへの忌寸いみき等が遠つおや伊侶具いろぐ秦公はたのきみ稲粱いねを積みて富みゆたけし。乃ち、餅をちていくはと為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利いねなりひき。遂にやしろの名と為しき。其の苗裔すゑに至り、先のあやまちを悔いて、社の木をねこじて、家にゑてみ祭りき。今、其の木を殖ゑてきばさきはひを得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。(山城風土記逸文)

 この伝承は、もともとは、コクマルガラスのよく見られる九州の話として伝わったものであろう。山城風土記では、子孫が過ちを悔いて、稲荷社として祭ったとある(注13)。稲荷信仰に神の使いとされる狐は、隈にいる熊とは異なり、人間の生活圏にときおり現れる存在である。そのアンビバレントな存在から、超人的な力を持った鬼に類似したものととらえられるに至る。すなわち、狐のイメージは専女たくめ・たうめに近しい。狐にはタウメという訓み方がある。

専女・火車・婆

 語義の詳細は不明ながら「伊賀専女いがたうめ」という言葉がある。①狐の異名で、タウメだけで狐の意を表すこともある。イガは、稲の意の古語、ウカと同根、稲荷の祭神である宇賀御魂うがのみたまと関係するという。おそらくは、伊賀は古来より忍者に縁あるところとされていたのだろう。「野干きつね坂ノ伊賀専いがたうめ男祭をまつりニハ、鮑苦本あはびくぼヲ叩イテ舞ヒ、……」(新猿楽記・第一、本の妻〈老女〉)、「延久四年於伊勢斎宮寮前大和守成資三男藤原仲季射殺霊狐、〈号白専女シラタウメ〉」(山槐記・治承二年閏六月五日)などとある。②狐が人を騙すように、仲人口をきいて人を誑かす媒酌人のことをいう。「……「ふりはへ、さかしらめきて、心しらひのやうに、思はれ侍らんも、今更に、「伊賀たうめにや」と、つゝましくてなむ」と、聞ゆ」(源氏物語・東屋)とある。上の意と含み併せて、人を誑かす老練な鬼婆的存在をいったようである。
 人を誑かす狐を象徴とする媒酌人でありつつ、古来、忍者の郷として名高い伊賀の地名を冠している。となれば、それは、間諜、スパイのことを指している。それが老練な女であるとすると、鬼婆おにばばと呼ばれる存在になる。鬼婆は火車婆かしやばばともいう。火車婆は、遊郭の女性を取り仕切る遣り手婆をいう。身近にいるにもかかわらず遊女には一切情をかけず、地獄行きの仕事をしているためであろう。また、花車くわしや香車きやうしやともいう。将棋の駒の香車は、遣り手婆と同じヤリ(槍)である。ただし、コロコロと回転させる対象が、遊女のほうか客のほうかは定かではない。重箱読みならカクルマである。
 火車とはもともと、①仏語で、火炎をあげて燃えながら走る車のことである(注14)。悪事を働いた者は責め立てられ乗せられ、地獄へと運ばれるという。大智度論・第十四に、「去らむと欲ひ未だ王舎城の中にきて、地自然おのづから破裂し、火車来迎し、生きながら地獄に入る。(欲去未到王舍城中。地自然破裂火車来迎生入地獄。)」とある。地獄へと追いやる遣り手婆としての鬼婆の様子は、地獄草紙の第二段、函量所に、三つ目の総白髪姿で描かれている(注15)。②葬送の時、暴風を起して棺を吹きあげたり、屍を引き裂いたりする妖怪のこともいう。この意の火車も、人が死ぬ時、あの世へ旅立つ時に起こるものである。茅原定・茅窓漫録に、酉陽雑俎の記事を引きながら魍魎という獣のことを指すとしている(注16)
 ②の意については、葬儀のときに、にわかに風が起こって棺が吹き飛ぶ話が、天稚彦のもがりの箇所に見える。

 是の時に天国玉あまつくにたま、其のおらぶ声を聞きて、則ち天稚彦あめわかひこの已にかくれたることを知りて、乃ち疾風はやちつかはして、かばねげてあめに致さしむ。便ち喪屋もやを造りてもがりす。(神代紀第九段本文)

 下から上への風は、飄や飆と書いたつむじ風、巻き上げる旋風である。古語にツムジといい、頭頂にある旋毛と同根の語である。旋回とは回転しながら巻き上がるものである。転の字の本字は轉で、旁に通用している專と云とは、まわりめぐることである。云は雲の初文で、説文では「雲」の項に、「云は雲の回轉する形に象る」とある。入道雲の巻き上がって上昇していくさまを描いて上下逆さまにした形という。回転と反転がダブルになっている。
 ばばという言葉自体、元来が経験豊富な遣り手を指す。その意を焦点のように表すのは産婆の仕事である。柳田国男「産婆を意味する方言」によれば、前近代の産婆は、トリアゲババ、コトリババ、コナサセババなどと、各地でいろいろな呼び方がされている。そして、「其以外の一つの方言群は九州に在つて、是のみは東北との一致が無い。コズリババ(博多) コーヂーババ(筑後三瀦郡) コゼンボウ(佐賀地方)などの僅かの例を見ると、何とでも臆説は立てられるが、比較をして見ると疑の余地は少ない。即ち、コゼンボ、コゼンバ(肥前北高来郡) コゼンバ(同平戸辺) コゼウバ、コゼバンバ(同五島魚目) コウゾエバンバ(同三井楽) コゼババサン(長崎) コゾイババ(肥後球磨郡) コズヱババ、コゼンボ(鹿児島県) コズヱババ(宮崎県) コズイ(豊後日田郡)の諸例が示す如く、もとは子をスヱルという語の、色々に変化したものである。而うしてスヱルということは、「手に取りすゑる」即ち把持することで、粗末な語を使ふならば「生存の承認」であつたらうかと思ふ。」(410~411頁、漢字の旧字体は改めた)とする。九州地方でコズヱババは、子を人間の仲間に据える、ないし、添えるという意味を表すらしい。方言に九州にあって東北にないことを問うのは、方言集圏説による。コクマルガラスや防人などと同様、九州に特徴的な意味合いを示し述べるための語群であることを予感させる。
 他の言い方としてヒキアゲババとあるのも、この世に引き上げるという意味で、単に出産の介助をするという物理的なことにとどまらず、呪術的という言い方で表されている。前近代のお産は、現在の医学水準からはかけ離れており、死産の確率が非常に高かった。子供をこの世のものとするか、あの世のものとするか、それを決めるおそろしい存在を婆という言葉に込めた。したがって、婆は鬼でもある。すなわち、婆は原初から鬼婆であった。そして、子をこの世かあの世か、いずれかに分けることとは、コ(子)+クマル(分)という言葉で表されよう。コクマルガラスは産婆を象徴する名称である。
 産婆は、子どもを頭から引っ張り出す。足からの場合は逆子で危ない。古語では頭部全体をカシラと呼び、頭髪を含めて頸から上辺をカウベ、頭の前頂部、わけても乳児のひよめきのことをアタマと言った。和名抄に、「顖会 針灸経に云はく、顖会は一名に天窓といふ〈顖の音は信、字は亦、囱に作る。和名は阿太万あたま〉。楊氏漢語抄に云はく、䫜〈訓は上と同じ、音は於交反〉といふ。」とあり、おつむのことである。ひよひよと動いていることが大事である。全体が出てきたら産湯に浸からせる。出産の際は火事場のような忙しさでもある。アタアタと熱いから泣いてアタマが動いているのが確認される。それによってこの世に入れる。他方、あの世への送りに際しても、葬儀は打ちひしがれながら忙しい。湯灌をして体を清め、まわりの人が泣く。朝鮮半島では葬儀で泣く専門職がいる。ヤマトの文献に見られるのは、やはりアメワカヒコの殯の箇所である。

 きぎし哭女なきめとし……(記上)
 鷦鷯さざきを以て哭者なきめとし、……烏を以て宍人部ししひととし……(神代紀第九段本文・分注)

 鷦鷯も雉もすでに本稿で検討した鳥である。霊柩車の車輪はキーキーと軋むところから、「轜車きぐるま」(孝徳紀大化二年三月)と呼ばれる(注17)が、サザキ、キギシも軋んだような名前である。キは甲類である。言葉の体系がかなり見えてきた。

他のアタアタ

 他のアタアタ関連語を検討してみる。
 「あたり」とは、基準とする所から近い範囲、また、おおよその目安、目当てを指して漠然とそのへんのことをいう(注18)

 天離あまざかる ひな長道ながぢを 恋ひれば 明石あかしより 家のあたり見ゆ(万3608)
 春の野に あさるきぎしの 妻ひに おのあたりを 人に知れつつ(万1446)

 人はおおよその目安を辿って行って、目的とするところへ到達する。見当をつけていって推し量って生きている。忍者に使う忍という字は、シノブ・シノビ以外にオシとも訓む。最初からわかっていること、わかり切っていることは世界に少ない。よくわからないけれどわずかな手掛かりを頼りとして、その先の不分明なところまで敷衍していき、そうではないかと推測しながら進んで行く。軍事作戦においてその役割を担ったのが斥候である。鳥獣に対する狩りにおいても同じことをする。狩猟において、手負いの獣が逃げて行ったあとに血がしたたり落ちて跡が点々と残っていることがある。それを蹤血はかりという。どこへ逃げたか推し量ることができるからである。

 射ゆ鹿ししを つな川辺かはへの 和草にこぐさの 身のわかかへに さらはも(万3874)
 照射 〈蹤血附〉 続捜神記に云はく、聶支はをさなき時、家貧しく常に照射ともし、一つの白き鹿を見て之れを射てつ。明くるあしたに蹤血を尋ぬといふ。〈今案ふるに、俗に照射は土毛之ともし、蹤血は波加利はかり〉(和名抄)

 蹤血が獲物までのあいだをつないでいる。認識とは、本来を知ることで、失ったものを探し当ててつながりを回復させることをいう。
 また、「あたふ」は、賜予のことで、「上よりして与えるときに用いる。」(白川1995.69頁)のである。神武記に、「於是亦、高木大神之命以覚白之『天神御子、……』」とある文章は、坂根2011.が「(高倉下が)高木大神のお言葉によって、(天神御子に)教え申し上げることには、」(60頁)と解説するとおりである。上よりして与えられている状況を一致的、同包的に表している。その状況に一致する形で出現しているのが、上空を飛行するカラスである。ヤアタカラスにナビしてもらうことは、「高木大神之命以覚白之」を具現化することへと自己循環する。この循環論法の連続によって、口頭に発せられているヤマトコトバの確からしさは規定されていく。逐次的、随時的に、まるで辞書のように文が構成されて行っている。無文字文化に伝承された説話らしい特徴である(注19)
 さらに、「あたひ(値)」とは、物の価値に相等しいこと、「あた(適)ふ」の名詞形である(注20)。能は任によく堪え忍ぶこと、能手とは遣り手のことである。適は適宜、適当の義、相匹敵することをいい、正面からの敵対者をいう「あた(賊)」のことである。敵はまたカタキという。二つで一組を作るものの一方の意で、憎悪・怨恨の相手のことにも使われている。憎悪・怨恨は、相手が鬼が見え、自分の心にも鬼が巣くうようになる。鬼をやらう行事に、追儺ついながある。上述の火車②の意では、その魍魎くわしゃを撃退する役目を方相氏が担うとされている。周礼・夏官に、「方相氏。熊皮を蒙り、黄金の四つの目あり、玄衣と朱裳もて、戈を執り盾を揚げ、百隸を帥ひて時に儺し、以て室を索めて疫をることを掌る。(方相氏。掌熊皮、黄金四目、玄衣朱裳、執戈揚盾、帥百隸而時儺、以索室敺。)」とある。本邦では、民間行事として節分の夜に豆まきをする。禁中の追儺の儀式は、桃の弓、葦の矢を使い悪鬼を追い遣る行事であった。各地に残る追儺の一例として、法隆寺に今でも残る追儺では、黒鬼、青鬼、赤鬼が斧、棒、剣を持ち、松明を振りかざして暴れまわった後、毘沙門天が法力で調伏する。最後に信者に厄除けの牛玉札ごおうふだが配られている。熊野三山の牛玉宝印のお札は、八咫烏の文様でよく知られる。この行事は、「悔過けくわ」の修二会後の結願の鬼追いの式である。過ちを悔いる話は、本稿ではすでに孝徳紀大化五年三月条、山城風土記逸文で紹介した。いろいろな事柄が、循環するかのようにめぐりめぐってそれぞれの言葉を相互自縛的に説明しているように感じられる(注21)
熊野速玉大社の牛王符(カラスの目は白く描く)

イザワ(イザクワ)

 頭八咫烏の鳴き声として、神武前紀戊午年十一月条の、兄磯城、弟磯城との交渉場面で、「天神あまつかみみこいましを召す。いざわ、率わ」と同じことをそれぞれに言っている。それに対して、兄磯城は鳴き声を悪いものと聞いて弓を弾いて矢を射てきた。反対に、弟磯城は、鳴き声を良いものと聞いて食器を用意して饗宴に招いている。同じ言葉(鳴き声)が二通りに解釈されている。

 兄磯城、忿いかりて曰はく、「天圧神あめおすのかみいましつと聞きて、慨憤ねたみつつある時に、奈何いか烏鳥からす若此かくしく鳴く」といひて、……
 弟磯城、惵然ぢて改容かしこまりて曰はく、「やつこ、天圧神至りますと聞きて、旦夕あしたゆうへかしこまる。きかな烏。若此かく鳴く」といひて、……

 「慨憤ねたみ」と「かしこまる」との違いである。ネタム(妬・嫉・嫌)は、「他人より劣る、不幸であるという競争的な意識があって、心にうらみなげくことをいう。」(白川1995.592頁)から、兄磯城は天圧神と競り合う気があったが負けているためにうらやみ、いまいましく思っている。オヅ(怖・懼・畏)は、「驚きおびえ、自ら委縮して動作しがたいことをいう。」(白川1995.182頁)から、弟磯城は天圧神を最初から恐ろしいと思っていて、その前で身動きが取れずにカチカチになっている。
 紀の原文に、「天神子召汝。怡奘過、怡奘過。過音倭。」とある。大系本日本書紀は、「イザは、人を勧誘する辞。ワは、間投詞。万葉三三四六に「見欲しきは雲居に見ゆるうるはしき十羽の松原、小子ども率和(いざわ)出で見む」と例がある。過は、集韻に戸果反という反切もあり、γwaの音と推定される。これとアクセントだけを異にする文字に「和」があり、呉音以前ではワと発音する。それによれば、過にもワの音があったと推定される。ただしこの巻は古写本に乏しいから、何かの誤写かと推測するとすれば、濄または㗻という字がある。濄は倭と同音、㗻は和と同音の字である。下文に特に「過音、倭」と注があるが、この注記の形式は一般の例に合わないものである。」(227頁)とする。また、新編全集本日本書紀には、「イザは勧誘の語。ワは感動の助詞。本来一人称代名詞ワで、我われを含めた「我等」に呼び掛ける用法であったのが、文末・語末に用いられ、感動・確認の意を表す助詞となったか。イザワの例は『万葉集』三三四六に「うるはしき十羽とばの松原童わらはども率和いざわ出で見む」がある。」、「『万象名義』に「過、古貨反」とあるから、音はクヮ。従ってイザクヮと訓まれ、烏の鳴声であるとの説もある。ただし神武紀の編者は率いざワ……の意味で鳴いたと理解させたかったので、ワの音注を施した。原資料の文字に「過」が用いられ、その古韻がワであることが忘れられた時代になっていたか。」(219頁)とある。新釈全訳本日本書紀では、「……「過」字をクヮと読ませないための指示だが、この注記の形式は異例。ワは「過」字の古音と推定されるというが(大系)、明証があげられない。『集解』は、「過」を「濄」にあらため、『広韻』をあげる。『広韻』によれば「濄」は小韻「倭」(反切は「烏禾切」。音はワ)と同音であり、「音は倭」がそのような『切韻』系の韻書にもとづいている可能性は十分にある。」(323頁)としている。
 イザについては、諸説のとおり、人を誘ったり、自分から何かしようとする際に発する語で、さあ、どれ、などの意味が第一義であろう。ただ、イザワがイザ+ワ(助詞)の連続した形に限って捉えられるとは言えない。新撰字鏡に、「専為 伊佐和いざわ」とあり、専為とは、ほしいままにすることをいう。荘子・山木篇に、「肯へて専為する無く、一は上り一は下り、和を以て量と為す。(無肯専為、一上一下、以和為量。)」とある。ホシキママという言葉は、タクメという言葉とセットで使われ、すでにあげた例に、「たくめ国政をほしきままにして、……」(武烈前紀仁賢十一年八月・皇極紀元年是歳)、「……詎か情のほしきままに、たくめ奉仕らむと言ふこと得む。……」(用明紀元年五月)とあった。両者は親和的な言葉であると言える。したがって、熟語イザワについても、一方的に、専一に、自分に都合のいい誘い掛けの声と言えよう。ヤアタカラスが、自分が専女たくめであること、遣り手婆であること、間諜であることを自供的に示唆していることになる(注22)
 イザを動詞化した形はイザナフである。率・誘を常訓の字とする。誘の字をイザナフと訓む例は上代には見られない。ただ、誘の正字は㕗で、説文に、「㕗 相いざなひ呼ぶなり、ムに从ひ、羑に从ふ」とある。紀では、誘の字は、ヲコツル(ワカツル)、アザムクと訓じている。新撰字鏡に、「サソフアサムク(詴の旁の上にノがつく字)、二字同、以酒反、上美、上古字、訸也、導也、引也、教也、進也」とあって、騙したり惑わしたりしてさそい、良くない方向へ誘導する意とされている。上手なセールストークに引っかかって悪徳商法の餌食に遭うようなケースに当たる。同じセールストークでも、受けた側にとっても利益につながり、互恵関係になる場合もあるだろうが、その場合は純粋な勧誘を表すイザ、イデなどといった掛け声になるのであろう。
 用字に「過」とある。過の音はあくまでもクワである。k音が入っている。ローレンツ1963.に、ニシコクマルガラスはお気に入りの雌を、巣を作ろうとするところへ誘おうとして、高く鋭い声で、ツィック、ツィック(注23)と呼びかけるとの観察記事が載る。その行動は多分に象徴的なものに過ぎず、そこがほんとうに巣を作るのに適しているかどうかは問題ではないという。騙し欺くような誘惑である。紀の編者が用字「過」を選択しているのは、コクマルガラスの誘いの声は、イザクワなのかもしれないと主張している可能性が高い。コクマルガラスのキャッ、キャッという鳴き声を醸しつつ、その鳴き声が騙しなのかもしれないということを、その書記においても「過」一字にこだわって過不足なく伝えようとしている。単にイザワと訓ませたいだけなら、紀の編者は過の字を用いる必要はなく、一般の形式と異なる訓注を施すこともしないであろう。
 くわという語は、養老令・考課令に、「功過くうくわ」、「過失くわしち」、令義解に、「公務廃闕をくわ」とあり、あやまち、失敗を表す。修二会の儀式で触れた「悔過けくわ」とは、仏教で懺悔する行事のことであった。また、通行手形のことを指すものとして、養老令・関市令、公式令に「過所くわしよ」、万葉集に「過所くわそ」(万3754)とあり、通過を表す。生まれた子がこの世にか、あの世にか「くまる(分)」ことをするとは、そのいずれかへの通行手形を発していることに当たる。産道は関所であった。紀に「怡奘過」と書いた過の用字は、その義にまでも自己言及している。あたかも筆があやまちを犯したようにしながらそれを見過ごしやり過ごして、真に迫った表現に努めようとしている。
 クワ音は、火車に出てきたくわと同じである。養老令・軍防令に、「凡そ兵士は、十人を一火いちくわ。」とあって、軍兵集団の最小単位をいい、野営の際に一つの火を囲んだものである。その統率者を火長くわちゃうという。防人歌の万葉4373~4375番歌左注に、「火長くわちゃう」として、今奉部いままつりべの与曽布よそふ大田部おほたべの荒耳あらみみ物部もののべの真嶋ましまの名がある。つまり、イザクワとは、イザ(率)+クワ(火)を示唆して、小隊長を表している。防人は、10人単位で小隊を構成していた模様である。コクマルガラスの棲息する九州の話である。火が熱くてアタアタを表すことは言うまでもない。
 火を率いる小隊長は、養老令・職員令に「主殿寮しゆでんれう」として載る役割に相当する。殿守りの意で、トノモヅカサ、トノモリヅカサと訓んでいる。神武紀二年二月条の論功行賞記事は、ヤアタカラスの苗裔が葛野>かづのの主殿県主あがたぬしとし、地名の後に「主殿」と限定している不自然な記事である。火長という語は、また、後に検非違使けんびゐしに所属した看督長かどのをさ案主長あんじゆちやうの総称でもある。平安時代、看督長は、牢獄の看守を本来の職務としたが、のちには罪人追捕を主とするようになった。カドは看督の字音の音転とされている。つまり、カヅノノトノモリノアガタヌシラのカヅノとは、鹿角のことを示唆し、罪人を捕える刺又や首枷のような刑具を思わせる。拘束された囚人を入れて運ぶ牢獄も仏教思想にある。火車である。この世で悪行を犯した罪人を地獄へと導く火車の横に控えた看守役として、頭八咫烏の末裔は役職を得たということになる。防人に召集されることは、部領使ことりづかひにうまいことを言われて連れて行かれるのだが、実際には、地獄行きほどの苦痛と思われることであった。
 神武紀二年二月条に、「又頭八咫烏、亦入賞例。」とあった。神武紀で間者の性格は、「日臣命ひのおみのみこと」、改め、「道臣命みちのおみのみこと」に引き継がれており、二年二月条でも「道臣命みちのおみのみこと宅地いへどころたまひて、築坂邑つきさかのむらはべらしめたまひて、寵異ことにめぐみたまふ。」と最初に行賞されている。これらは、孫子・用間篇に、「故に三軍の事、間より親しきは莫く、賞は間より厚きは莫く、……(故三軍之事、莫親於間、賞莫厚於間、……)」とあるのに倣うものであろう。間諜の話として一貫している。
 紀の分注にイザワと読ませるように表記しつつ、兄磯城、弟磯城にもイザクワとも聞こえたものとして記したのだと考えられる。鳴き声がイザクワと烏流になっていることによって特別な意味合いが生まれている。兄磯城は、頭八咫烏がイザクワと鳴いたことを、イ(射)+サク(割)+ワ(輪)、すなわち、流鏑馬などで使われる鏑矢の的のような同心円と捉えたのだろう。彼がヤアタカラスの声を聞いた時、「吾為慨憤時」と敵愾心をいだいている。アタ(仇敵)のことを考えていた。自分の名、エシキ(エはヤ行のエ、キは乙類)とは、エ(役)+シキ(磯城)のことで、北部九州に築かれた大野城のように、環濠をめぐらせて防御する防人駐屯の城であると思っていたからである。そこへヤアタカラスが舞い込んだのだから、射かけることになって当然である。コクマルガラスを頭を正面にして見れば、中心が黒、その周りが白、さらにその周りが黒の模様になっており、矢の的と見立てられる。ヤアタカラス自身が、ほらほら的ですよ、と言っていると聞いたのである。
 兄磯城は、天神の子をわざわざ天圧神あめおすのかみと呼び、「圧、此云飫蒭」と訓注が付されている。その前段に、兄宇迦斯えうかし(兄猾)・弟宇迦斯おとうかし(弟猾)の話があり、オシ(圧・圧機・機・押機・押)が登場している。獣を捕獲するために圧死させてしまう猟具である。棒竿を格子状に組んで上に大きな石を載せたものや、大きな重い板状のものを支柱に立て掛け、下に餌を置いておき、熊などの獲物が餌を銜えてひくと支柱が倒れて重量物によって圧しつぶされる仕掛けである。奸計を道臣命に見破られた兄宇迦斯(兄猾)は、言い逃れができずに自らが作ったそれに入り、押しつぶされて滅んでいる。

 ……つかまつらむと欺陽いつはりて、大殿おほとのを作り、其の殿のうち押機おしを作りて待ちし時に、……「……殿を作り、其の内に押機を張りて待ち取らむとす。……」……「いが作り仕へ奉れる大殿の内に、おれ、先づ入りて、其のまさに仕へ奉らむとかたちを明かしまをせ」といひて、即ち横刀たち手上たかみを握り、矛ゆけ、矢して、追ひ入れし時に、乃ちおのが作れるおしに打たえて死にき。(神武記)
 「……皇師みいくさいきほひ望見おせるに、へてあたるまじきことをぢて、乃ちひそかに其のいくさかくし、かり新宮にひみやを作りて、殿おほとのの内におしき、みあへたてまつらむとまをすに因りて作難まちとらむとす。……」……乃ちおのれおしみて圧死おされしにき。(神武前紀戊午年八月)
左:圧機おし(木村孔恭、蔀関月・日本山海名産図会・「陸弩捕熊」の図、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200021673/61?ln=jaをトリミング)、右:「棝斗」、別名「鼠弩おし」(寺島良安・和漢三才図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2569715/1/54をトリミング)
 防人が勤務したエシキ(役城)は、そのような殺傷能力のある防御装置を備えていない。ただ水城になっているだけである。うらやましくていまいましい。
 一方、弟磯城は、コクマルガラスの円い輪の模様を、車輪を表していると捉えた。すなわち、イザクワの音を、イ(蛛網)+サク(咲)+ワ(輪)と聞いて、こしきのことと考えた。轂は、蒸し器のこしきと同根の語であり、いずれもコは乙類、キは甲類である。中心に穴が開いてスポークが放射し、周囲に輪がつく形になっている。語源は不明だが、その形は、蜘蛛の巣のように見える。蜘蛛の巣が張って丸く完成したことを、花が咲くことに譬えたのである。その譬え方は、記上の「木花このはな佐久夜比売さくやびめ」、神代紀第九段の「木花このはなの開耶姫さくやひめ」において行われており、「木の花の阿摩比能微あまひのみさむ」(記上)という不思議な語として記されている(注24)。蜘蛛の巣を持ち出しているのは、コクマルガラスの誘いの鳴き声によって巣へと導かれるからである。巧みに木の葉などを編みこんで作られている。
 弟磯城は、イ(蛛網)+サク(咲)+ワ(輪)→コシキ(甑)のことだと鳴いているつもりになり、柏の葉でお皿を作って甑で蒸しあげたお餅を並べ、一緒に御馳走を食べたという話に展開していっている。コクマルガラスから続く的の話である。的と餅とは、上代の説話に循環的に説明されている(注25)蜘蛛くも(モは甲類)の一種は、グルグルと回りながら巣を懸けていく。同音のくも(モは甲類)について、説文に「云は雲の回轉する形に象る」とある点が、火車の意の一つ、葬送の時の暴風と関係することについてはすでに見たとおりである。同音の言葉は同じ概念のもとに培われていると考えた、ないしは、そう志向していた。あるいは、そうこじつけることでヤマトコトバを体系として自得していたのである。
 弟磯城は、天神の子が来たと聞いておぢかしこまった。弟磯城(ト・キは乙類)は、オト(音、トは乙類)+シキ(磯城)なる名を負っている。防御方法が敵の襲来を音で知らせるだけであった。鳴子のようなものを周囲に廻らせているだけの警備であり、本気で攻められたらどうすることもできない。
 音をアラームとするであると自認する弟磯城は、攻め立てて来た敵を圧機おしで押しつぶして殺傷までする強力な警備とわたりあえるはずがないことを悟っている。今日でも都会のカラス対策に音を用いるものがあるが、一時的に逃げることはあっても根本的な対策にはつながらず、すぐに慣れてしまう。だから、弟磯城はヤアタカラスの鳴き声を聞いたとき、圧機が生贄用の獣を用意し、甑が餅を用意するものなのだと了解した。自らが生贄の獣扱いにされたらたまらないからである。「惵然改容」っている。と同時に神事のために葉盤ひらでを作って使者の烏を饗応している。畏まって行う厳粛な儀式の後、打ち上げの宴席が催される。その豊明節会とよのあかりのせちえと同じ作法である。柏の葉を用いたお皿を作り、神さまに餅をお供えし、そのあと降ろしてきて皆で宴会を開くのである。豊後風土記の餅を的にしたとの言い伝えと齟齬なく連動している。
 イザクワ、コシキ、餅、的は、それぞれ関連する一連の言葉群である。それらは稲荷社との関係もあって、その使いは人を誑かす狐、伊賀専女であった。これらのヤマトコトバの語義の連鎖を総括すれば、ヤアタカラスとは烏は烏でもコクマルガラスで、九州筑紫に関係が深い話であり、イザクワとは、イザ(率)+クワ(火)という意味合いの、防人を表す鳴き声で鳴いていたということになる。
 以上のように、記紀に伝わるヤアタカラスの話は、さまざまなヤマトコトバの義をひとまとめに説解したものなのである。換言すれば、言葉から創話してヤマトコトバの体系を簡潔な形に組み立てたものが、記紀の説話ということになる。内容としてだけなら、ウカミ(間諜、斥候)のことを指しているにすぎないことを、ヤアタカラス(八咫烏、頭八咫烏)と譬えることで、ヤマトコトバという言語の深奥へと誘ってくれている。ある言葉がわからないとき辞書を引くが、そこに記された説明もまたわからなければ、さらにまた引き直す。そのくり返しのような作業がひとつの説話のなかにほどこされている。上代の人にとっては、糸口さえ見出されれば、一つの説話の理解によって、出てくる多くの言葉が皆なるほどと納得できるのである。そういう仕掛けになっているから人から人へと伝えらえ続けることができたのであった(注26)。言葉で世界は構成されているのだから、言葉がわかれば世界が分かるのである。ここに、言=事とする言霊信仰の真髄がある。記紀の説話はヤマトコトバの辞書として構成され、世界を物語っているのであった。
(つづく)

八咫烏(頭八咫烏)について 其の一

2024年12月29日 | 古事記・日本書紀・万葉集
八咫烏問題の焦点

 記紀のなかで神武天皇(神倭伊波礼毘古命かむやまといはれびこのみこと・神日本磐余彦尊)は日向の高千穂を出発し、大和の橿原宮で即位する。その間の道中を東征説話という。竺紫(筑紫)、阿岐(安芸)、吉備、浪速(難波)へと順調に進むが、日神ひのかみの御子が日に向かって戦をしたためか前途を阻まれ、紀伊半島を南へ迂回する。そして、熊野においても危ない目に遭い、どちらへ行ったらいいのかわからなくなる。そのとき、高木神たかぎのかみの言い付け、ないし天照大神の夢のお告げにしたがって派遣された八咫烏やあたからす(頭八咫烏)が現われ、それを先導にした結果、進軍することができた。さらに、宇陀うだ(菟田)の土豪勢力の反抗にも八咫烏を派遣し、その計略を見破って討伐することができた。記紀において、八咫烏についての記事は、以下に示すものばかりである。

 是に、亦、高木大神たかぎのおほかみみことを以て、さとしてまをさく、「あまかみ御子みここれより奥つ方に便ち入りいでますことなかれ。あらぶる神、いと多し。今、あめより八咫烏やあたからすつかはさむ。かれ、其の八咫烏、引道みちびきてむ。其の立たむしりへより幸行いでますべし」とまをす。故、其のをしさとしのまにまに、其の八咫烏の後より幸行せば、……。故、しかくして、宇陀うだ兄宇迦斯えうかし弟宇迦斯おとうかしの二人有り。故、づ八咫烏を遣はし二人に問はしてはく、「今、天つ神御子幸行しぬ。なれつかまつらむや」といふ。是に、兄宇迦斯、鳴鏑なりかぶらを以て其の使つかひを待ち射返しき。故、其の鳴鏑の落ちしところは、訶夫羅かぶらさきふ。(神武記)
 時に夜いめみらく、天照大神あまてらすおほみかみ天皇すめらみことをしへまつりてのたまはく、「われ今し頭八咫烏やあたからすを遣さむ。以て郷導者くにのみちびきとしたまへ」とのたまふ。はたして頭八咫烏有りて、おほぞらよりくだる。天皇ののたまはく、「此の烏の来ること、おのづからにき夢にかなへり。大きなるかな、さかりなるかな。我が皇祖みおや天照大神、以て基業あまつひつぎを助け成さむとおもほせるか」とのたまふ。是の時に、大伴氏おほとものうぢ遠祖とほつおや日臣命ひのおみのみこと大来目おほくめひきゐて、元戎おほつはもの督将いくさのきみとして、山をみちをわきて、乃ち烏のむかひのままに、仰ぎて追ふ。(神武前紀戊午年六月)
 十有一年しもつきの癸亥の朔にして己巳に、皇師みいくさおほきにこぞりて、磯城彦しきひこめむとす。先づ使者つかひつかはして兄磯城えしきさしむ。兄磯城、おほみことけず。さらに、頭八咫烏を遣してす。時に烏、其のいほりに到りて鳴きてはく、「天神あまつかみみこいましを召す。いざわ、率わ」といふ。過のこゑ兄磯城忿いかりて曰はく、「天圧神あめおすのかみいましつと聞きて、慨憤ねたみつつある時に、奈何いかに烏鳥からす若此かくしく鳴く」といひて、圧、此には飫蒭をすと云ふ。乃ち弓をひきまかなひて射る。烏即ち避去たちさりぬ。つぎ弟磯城おとしきいへに到りて鳴きて曰はく、「天神の子、汝を召す。率わ、率わ」といふ。時に弟磯城、惵然ぢて改容かしこまりて曰はく、「やつこ、天圧神至りますと聞きて、旦夕あしたゆうへかしこまる。きかな烏。若此かく鳴く」といひて、即ち葉盤ひらで八枚やつして、くらひものを盛りてふ。葉盤、此には毗羅耐ひらでと云ふ。因りて烏のままに、詣到まういたりてまをしてまをさく、「やつここのかみ、兄磯城、天神の子でますとうけたまはりて、すなは八十梟帥やそたけるあつめて、兵甲つはものそなへて、とも決戦たたかはむとす。すみやかたばかりたまふべし」とまをす。(神武前紀戊午年十一月)
 又、頭八咫烏、亦たまひものつらる。其の苗裔のちは、即ち葛野かづのの主殿とのもりの県主あがたぬし是なり。(神武紀二年二月)

 八咫烏についての研究(注1)としては、舞台となる熊野の信仰との関係から説かれることも多い。議論の導入として、五来2004.を引用する。

 八咫烏のあたは周の尺度で八寸の長さをさしたものらしいので、六尺に余る大きな烏という意味と、八つの頭をもった烏という二つの解釈がおこなわれた。また日本の原始時代にトーテミズムがあったとして、熊野に大烏をトーテムとする部族がおったと解する説もある。神魂命かむみむすびのみことの孫、鴨健角身命かものたけつぬみのみことは八咫烏で、鴨族はその子孫だとするのである。しかしいずれも神話的で歴史事実とはかんがえられない。ただ「やあた」を「あた」をつよめた語とすれば、「あた」は「いやらしい」「にくにくしい」「いまわしい」などの古語だから、きわめて不吉な烏ということで、風葬にともなう烏にふさわしい名称になる。また「あた」は「あだ」とおなじで、あたし野(化野)、あたしが原(安達原)、あたし身(徒身)、あたし世(徒世)など「むなしい」「はかない」意であるから、死に関係ある烏ということになろう。すなわち神武天皇東征伝説から解放されて八咫烏をかんがえると、隠国の熊野にふさわしい「死者の国の烏」ということになる。(56~57頁)

 新撰姓氏録は、鴨県主かものあがたぬし(賀茂県主)が八咫烏の子孫であるとする。そこから、氏族伝承のトーテム説話であるという説が生まれるが、上にあるとおり歴史事実とは無縁であろう。話として成立している記紀の叙述について、何が言いたいのかを探ることのみが「読む」行為の本来の姿勢である。当然ながら、この説話を動物寓話とみて、鳥類のカラスが人間の道先案内人になったと考えることはできない。上の引用に、「あた」と「あだ」とが関わるのではないかとの指摘がある(注2)が、音の清濁を加味した検討が行われなければならない。。そもそもの捉え方として、中世に盛んとなった熊野信仰は時代が隔たっており、記紀万葉と直接の関係はない。ヤアタカラスは記紀に語られたのち、かなり経ってから熊野信仰にとり入れられたと考えるのが妥当である。
 ここでは熊野信仰のなかでのヤアタカラスではなく、あくまでも神武天皇東征説話にまつわるヤアタカラスについて考えていく。飛鳥時代の人々が想念したヤアタカラスとは何であったか、それが本稿のテーマである。それを知るためには、書記された「八咫烏(頭八咫烏)」という特殊極まりない表現に収斂された過程を遡ってゆくことが求められる。記紀の記事では、ヤアタカラスは軍の先導役、また、敵族への使者の役割を果たしている。
 日神の末裔が神武天皇ゆえ、烏は日神の使いであるとする信仰から生れた表現であるとする説がある。はやくは源順・和名抄に、「陽烏 歴天記に云はく、日の中に三足の烏有りて赤色なりといふ。〈今案ふるに文選に之れを陽烏と謂ひ、日本紀に之れを頭八咫烏なりと謂ひ、田氏私記に夜太加良須やたからすと云ふ〉」とある。日の中に足が三本の烏がいるとあるのは中国の説話による。山海経・大荒東経、論衡・説日以下、謂われがある(注3)。本邦でも、法隆寺の玉虫厨子の須弥山図の日像や、サッカー協会のシンボルマークに三足烏は描かれている。しかし、記紀において、ヤアタカラスの足が三本であったとする記述はない。源順は、和漢の伝承を混同して解釈し、勇み足をおかしたのであろう。わざわざ「八咫烏」、「頭八咫烏」と記してある根拠を考えなければならない。

アタ

 あたは親指と中指とをひろげた幅のことである。説文に、「尺 ……周の制に、寸・尺・咫・尋・常・仭の諸度量、皆人の体を以て法と為す。凡そ尺の属、皆尺に从ふ」、「咫 中婦人の手の長さ八寸、之れを咫と謂ふ。周の尺なり。尺に从ひ只声」とある。「八咫烏」とは長さを表した表現である。紀に「頭八咫烏」と書いてあるのは、頭が大きかったことを示すものとも、寸法を頭の大きさで測ったからとも言われている。しかし、鳥の大きさは、ふつう、頭から尾までの長さや、翼を広げたときの幅で測る。ずんぐりむっくりや八頭身美人を登場させなければならない理由は見当たらないから、頭と冠して書いた理由は他に求めなければならない。
 紀でわざわざ頭という字を冠しているのは、第一に、頭部に注目すべき特徴があるという指示語の意味合いを含めたいから、第二に、アタマ(頭)+ヤ(八)+アタ(咫)+カラス(烏)と記すことによって、アタアタと音が重なることに注目させたいからであろう。
 アタという音で表されるものには、まず、熱いことがあげられる。神武紀二年条の論功行賞の記事の最後に、頭八咫烏の末裔が「葛野かづのの主殿とのもりの県主あがたぬし」であると記されている。古代、山城国の葛野県かづののあがたは広大で、葛野、愛宕の諸郡を含んだものと考えられている。「葛野県主部」とあるなら地方領主になるが、わざわざ間に「主殿とのもり」と挿入され、役割が限定されている。養老令・職員令に、「主殿寮しゆでんれう 頭一人。供御くご輿輦よれん蓋笠かいりふ繖扇さんせん帷帳ゆいちやう湯沐たうもくのこと、殿庭でんぢやう栖掃さいさうせむこと、及び燈燭とうそく松柴しようし炭燎たんれう等の事を掌る。」などとある。殿舎、また、行幸の際の施設の維持管理を担った。火を扱ったから熱かったものとみられる。京都の愛宕神社は、火伏せ、防火に霊験があると知られる。「火迺要慎ひのようじん」と書かれた火伏札は、台所、厨房、茶室などに貼られる。また、愛宕の三つ参りという風習があり、数え年の三歳までに参拝すると一生火事に遭わないとされていた。ヤアタカラスも熱いものに関連するのであろう。その証拠に、語源はどうあれ、カラス(烏)は、カラス(枯、涸)と関連する語と思念される(注4)。火で熱すれば枯らすことができる。カラスは、烏の行水という言葉どおり、あまり水を好まないように見え、また、乾燥したところを好んでか樹上に巣を作る。自ら、身をカラカラにし向ける傾きがあるように見える。
左:おくどさん「火迺要慎」お守り(東京・愛宕神社で正月に配られる。唐辛子の欠けた部分は筆者が食した)、右:太郎坊社(同神社内末社、修験道の行者の上座の者の名で、猿田彦神の化身(本地、化身がどちらなのかは説により異なる))
 和名抄には、「烏 唐韻に云はく、烏〈哀都反、加良須からす〉は孝鳥なりといふ。爾雅に云はく、すべて黒にして反哺する者は之れを烏〈哺の音は簿故反、食は口に在るなり〉と謂ふといふ。兼名苑に云はく、一名に鵶〈音は䃁、字は亦、鴉に作る、広韻に見ゆ〉といふ。」とある。この「烏」はハシボソガラスのこととされている。中国では、カラスは生まれると母親鳥に哺育され、成長すると逆に母親鳥を哺育するものと考えられていた。それを反哺という。したがって、慈孝な鳥ということになっている。寺島良安・和漢三才図会では、「凡そ烏の類に四種有り。慈烏からす〈小さくして純黒、小さき觜の反哺する者〉、鴉烏はしぶと〈慈烏に似て大きく、觜・腹の下の白くして反哺せざるもの〉、燕烏ひぜんがらす〈鴉烏に似て大きく白き項の者〉、山烏やまがらす〈鴉烏に似て小さく、赤き觜にして穴居する者〉。」と分類している。ヤアタカラスはこのいずれかが当てられたものではないか。
射垛あづちの的(寺島良安・和漢三才図会、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569715/30をトリミング)
 ヤアタカラスと言って、アタが八回ほども重ねる点については、何かが当たることも関係しよう。的に命中させること、正鵠を射ることである。ヤアタカラスは、エウカシ(兄宇迦斯、兄磯城)に射かけられている。矢の的の模様は、黒と白の同心円状になった霞的がよく知られている。そんなカラスといえば、和漢三才図会に「燕烏」と記されるコクマルガラスが思い浮かぶ。「案ずるに、燕は乃ち国の名なり〈燕雀の燕に非ざるなり〉。九州肥前に多く之れ有り。故に肥前烏と称す。」と解されている。大陸に広く分布し、列島には多くは九州北部に冬鳥として、ないし、迷鳥として飛来する。体長は33㎝ほどで、ハシボソガラス、ハシブトガラス、ミヤマガラスの50㎝内外と比べると小さく、ハトほどの大きさである。ふつうのカラスの小ぶりなもの、雌雄に譬えるとカラスの雌に相当するとも捉えられる。和漢三才図会の大きさの記述は誤りらしい。コクマルガラスには淡色型と暗色型があるが、白黒がはっきりしている個体を見ると、額から顔の前面、喉から胸までは黒く、後頭から首側、腹にかけては白く、背や尾のほうになると再び黒くなっている。つまり、頭のほうから見れば、外側から黒、白、黒の三重丸になっている。的の印に見え、黒丸烏と記されることもある。爾雅・釈鳥に「燕は白脰烏こくまるがらす」、註に「小爾雅に云はく、白きうなにしてむらがり飛ぶは之れを燕烏こくまるがらすと謂ふといふ」とある。黒丸烏をコクマルガラスと訓むのは重箱読みである。コクマルガラスと古くからヤマトコトバに呼ばれていたとすれば、コクマルは、コ(子)+クマル(分)の意味として名づけられた可能性がある。後述する。
左:コクマルガラス(ウィキスピーシーズhttps://species.wikimedia.org/w/index.php?title=Coloeus_dauuricus&uselang=ja、christoph_moning様画像をトリミング)、右:カササギ(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/カササギ画像を左右反転)
 コクマルガラスは、止まっている限りにおいて、体の模様はカササギ(鵲)とよく似る。カササギは鵲烏とも書く。カササギが七夕の夜に列をなして天の川に架かって橋となり、牽牛と織姫とが出会っているとした旨の詩が懐風藻に見える。漢籍に依拠している。日本では現在、佐賀平野にのみ生息し、天然記念物に指定されている。歴史的にも、九州北部に在来していたか、いたとしても極めて数が少なかったようである。豊臣秀吉の朝鮮出兵の折に移入、定着したとする説もある。江戸期には、カチガラス、唐ガラス、高麗ガラス、朝鮮ガラス、肥後ガラスとも呼ばれていた。古代の文献にはわずかに散見される。

 其[倭]の地に牛・馬・虎・豹・羊・かささぎ無し。(魏志・倭人伝)
 難波なにはの吉師きし磐金いはかね、新羅より至りて、鵲二隻ふたつを献る。乃ち難波杜なにはのもりはしむ。因りて枝にすくひてこうめり。(推古紀六年四月)
 新羅王しらきのこにきし献物たてまつるもの、馬二匹ふたぎ・犬三頭みつ・鸚鵡二隻ふたつ・鵲二隻、また種々くさぐさの物あり。(天武紀十四年五月)
 此の[船引]山に鵲住めり。また韓国からくにの烏といふ。枯木の穴に栖み、春時はる見えて、夏は見えず。(播磨風土記・讃容郡)

 和漢三才図会にコクマルガラスは肥前烏であるから、この両者は兄弟のような間柄と捉えられていたのではないか。カササギの名の由来については、朝鮮語との関連から解かれることが多いが、和名抄に、「鵲 本草に云はく、鵲〈且略反、加佐々岐かささぎ〉は、飛駮、馬泥は鵲の脳の名なりといふ。」、また、新撰字鏡に、「嘖 側伯反、至也、呼也、烏鳴く、又加左々支かささぎ鳴く」とある。紀で、新羅から贈られたものと記されており、ヤマト朝廷の人にとっては、新羅や九州北部と関連が深い鳥であると考えられたと目される。
 カササギとよく似た名として、ミソサザイの古語、サザキ(鷦鷯、雀)がある。新撰字鏡に「鷯 聊音、鷦、加也久支かやくき、又左々支さざき」、和名抄に「鷦鷯 文選鷦鷯賦に云はく、鷦鷯〈焦遼の二音、佐々岐さざき〉は小鳥なり、蒿萊の間に生れ、藩籬のもとに長ずといふ。」とある。このサザキとカササギの共通点は、巣の形にある。一般的に鳥の巣はお椀形をしていると理解されているのに対し、球状に作っている。サザキは巣作りのプロとされ、タクミドリと呼ばれる。和名抄に「巧婦 兼名苑注に云はく、巧婦〈太久美止利たくみどり〉は好く葦皮を割きて中の虫を食ふ、故に亦、蘆虎と名づくといふ。」とある。タクミ(巧、匠、工)なる語は、第一義的に工具を使った手仕事の巧みさを表すものと考えられよう。そして、カササギも樹上にたくさんの枝を重ね、その体が見えなくなるほどの大きな球状の巣を作る。カササギはカサザキから音の清濁に転倒が起こったものかもしれない。カササギの巣は、実はなかにもうひとつお椀形の巣が入っていて、外側に見えるのは巣を隠す柵である。コクマルガラスの巣も、樹上に小枝などを組み合わせてボール状の巣を作る。巣作りが巧みだと認められる。

タクメ(専)とクマ(熊・隈)

 タクミに似た音の言葉にタクメ(専女、メは甲類)がある。音便化してタウメともいう。和名抄に「専 日本紀私記に云はく、専領〈多宇女乎佐女たうめをさめ、今案ふるに俗に老女を呼びて専と為、故に負に継ぐのみ〉といふ。」とある。
 また、副詞のモハラ、今日、もっぱらという意味のタクメ・タウメ(専)という古語は、日本書紀の傍訓ばかりにしばしば見られる。

 此[紀9~11番歌謡]皆、密旨しのびのみことを承けて歌ふ。へてみづかたくめなるにあらず。(神武前紀戊午年十月)
 ……「……故、いましたうめ東国あづまのくにをさめよ」とのたまふ。(景行紀五十六年八月)
 大臣おほおみ平群真鳥臣へぐりのまとりのおみたくめ国政くにのまつりごとほしきままにして、日本やまときみとあらむとおもふ。(武烈前紀仁賢十一年八月)
 「……たくめ賞罰たまひものつみおこなへ。しきりまをすことにわづらひそ」とのたまふ。(継体紀二十一年八月)
 つつしみてたくめ皇后きさきの為に、伊甚いじみの屯倉みやけたてまつりて、闌入之罪みだれがはしくまゐれるつみあがなはむとまをす。(安閑紀元年四月)
 「……あにたくめ蘇我臣そがのおみ仏法ほとけのみのりおこし行ふにれるにあらずや」とまをす。(敏達紀十四年三月)
 「……たれこころほしきままに、たくめ奉仕つかへまつらむと言ふこと得む。……」といふ。(用明紀元年五月)
 「蘇我臣、たくめ国政を擅にして、さは行無礼ゐやなきわざす。……」といふ。(皇極紀元年是歳)
 「入鹿いるか極甚はなは愚痴おろかにして、たくめ行暴悪あしきわざす。身命いのち、亦あやふからずや」といふ。(皇極紀二年十一月)
 「……廼者このごろ、我がおほみたからの貧しくともしきこと、たくめはかつくるに由れり。……」とのたまふ。(孝徳紀大化二年三月)

 時代別国語大辞典に、「副詞としての意味と、老女を意味するタウメ(土左日記などに見える)との関係はわからない。」(416頁)と解釈を諦めている。二十巻本和名抄では、「……今案ふるに、専は訓〈毛波良もはら〉、専は一の義なり、太宇女たうめ毛波良もはらの古語なり……とかんがふ。」としている。新編全集本日本書紀に、「『和名抄』に……タウメはモハラの古語というが未詳。また「老女たうめ」と「負」(=刀自とじ)との説明も不審。」(478頁)とあり、白川1995.は、モハラの「「も」には深くうちに蔵する意があり、「はら」は「ひら」「はる」と同源の語で、おしなべての意を持つ語であろう。」(756頁)とする。「…… おしなべて 吾こそ居れ ……」(万1)とあるように、威圧的なニュアンスがある。これをなぜタクメと訓んだのか、上代人の理解を探らなければならない。
 紀の例を見ると、ほとんどのたくめ・たうめは口語調の文章で用いられている。武烈前紀、安閑紀の例も、「と欲ふ」、「と請す」と、会話を想起する文章にある。神武前紀の例は、歌についての解説だから、口に出して言う言葉が引きずられて出ているものとも考えられる。なお、「天皇すめらみこと専使たくめつかひつかはして、髪長媛かみながひめさしむ」(応神紀十三年三月)とある「専使たくめつかひ」は、「そのことだけのために遣わされる使者。」(大系本日本書紀(二)201頁)のこととされているが、文書を持って行っただけの子供の使いではない。無文字時代だから暗記して行き、言葉巧みに交渉したネゴシエーターのことを言っている。
 政治的で口語的な事柄といえば、天皇のみことのりがあげられる。臣下は天皇の御前にあって控えている。束帯を身にまとい、天皇のお言葉、ミコトをうかがう。その際、しゃくという板片を手に捧げ持って恭しくする。笏の音はコツであるが、骨と通じるというので嫌われて、その長さがおよそ一尺(約30㎝)だからシャクと言うとされる。もともとは中国に発祥し、官人が備忘のための書きつけをした板であった。6世紀頃伝来し、朝廷の公事の式次第を、備忘のために笏紙しゃくがみ・しゃくしという紙に書いて笏の裏に貼りつけ、カンニングペーパーにしていた。やがて、儀式や神事に際して威儀を正すために持つようになった。恭しく手を組んでいる。タ(手)+クメ(組)である。問題は「たくめ(メは甲類)」である。上代、四段活用の動詞「組む」は、已然形ならメは乙類、命令形なら甲類である。儀式なのだから手を組め! と命令している意に当たる。式典で君が代を斉唱する場合に、起立することが強制されるようにである。
笏を持つ姿(巨萬福信像、府中郷土の森博物館展示品)
 タクメという訓を当てる専の字は、説文に、「專 六寸の簿なり、寸に从ひ叀声、一に專は紡專なりと曰ふ」とある。段注には二尺六寸の笏をいうとするが、本当に六寸、約18cmで、一般の笏より小さいものをいったのではないか。簿は、文字を書く薄い竹の札である。それを綴じたものが簡、すなわち竹簡や木簡である。簿も笏も手版である。説文の咫の説明に、「中婦人手長八寸謂之咫」とあった。男性よりも小さめである。つまり、尺よりも専のほうが短い。また、シャクフ(杓)という近世以降に文献に見られる語は、手やひしゃくで液体や浮遊物を汲み取ることを言うが、ちょろっとひっかけるように、不完全にスクフ(掬)ことを指す。すなわち、専という字で表される意は、笏と同じく手控えのメモ帳として用いられながら、人には持っていることさえ気づかれない用途に用いられた本当の意味でのカンニングペーパーということになる。
 専の字の上部の叀は、まるく平らな素焼きの紡錘のおもりをつり下げたさまを描いた象形である。鏄という字は、金属製の紡錘、ツムのことで、ひとりでに回っていく。転(轉)の字は、車軸をつけて回ることを表す。下部の寸は手の形で、紡錘のおもりに手を添えて回転させ、糸をひとすじにまとめて紡ぐことを表す。また、一説に、糸巻きの形をした素焼きの玩具のことともいう。紡錘のミニチュアで、幼子の手のなかに持たせて喜ばせた。これも手組めである。
 回転を表す擬音語は、カラカラ鳴る、クルクル回る、コロコロ転がるなどと使われる。それぞれ母音と子音の交替した形である。また、古代人の農耕にまつわる観念から、カラス(枯)とコロス(殺、コ・ロは乙類)は密着していた語であると考えられている(注5)。そして、カラス(烏)の別名をコロク(コ・ロは乙類)という。

 からすとふ 大をそどりの 真実まさでにも まさぬ君を ころくとそ鳴く(万3521)

 カラスというたいへんな慌てものの鳥が、本当にいらっしゃらないあなただのに、コロクとこそ鳴くよ、という歌である。コロクは、自分のほうから転がるようにやってくるの意で、来訪を得ないことをなじる歌になっている。紀には「専用威命ころたちぬ」(雄略紀九年五月)という古訓がある。コロ(自、コ・ロは乙類)+タツ(立)の意で、自分勝手に振舞うこと、権勢の専横をいう。以上から考えると、八咫烏(頭八咫烏)という存在は、「専使たくめつかひ」(応神紀十三年三月)を象徴した形容に由来して想定されていると理解できる。
 カラスを絵として描くと最後に目を入れたくなるが、カラスは全身が黒いから全体が真っ黒になって絵にならない。だから、烏という象形文字は目のところを反転させて描かない。「大をそ」(万3521)して慌てて目を描いたら、何だかわからなくなる。コクマルガラスの場合は、項が白いから頭部が黒い目になっている。コクマルガラスは、烏という象形においては描かれない目が描かれてそれが頭になっている。ヤアタカラスがそのことを言いたいなら、「頭八咫烏」(紀)と記すことは知恵のある書き方である。土台ごとの反転、転倒を伴って表している。
 話は、熊野での出来事である。神武天皇の一行が熊野で遭難したときの記事に次のようにある。

 かれ神倭伊波礼毘古命かむやまといはれびこのみこと其地そこよりめぐいでまして、熊野の村に到りましし時、大熊おほくまかみ、出で入りて即ち失せぬ。しかくして、神倭伊波礼毘古命、儵忽たちまちにをえまし、また御軍みいくさ、皆をえてしき(注6)。(神武記)

 毒気に当てられて正気を失ったというのである。和名抄に、「熊 陸詞切韵に云はく、熊〈音は雄、久万くま〉は獣の羆に似て小さきなりといふ。」とある。本州の熊は、北海道にいる全身が黒褐色のひぐまよりもひとまわり小さく、一般にツキノワグマと呼ばれる。胸のところに三日月形の白い模様が入っている。カラーデザインは白黒ばかりで、コクマルガラスとオーバーラップしている。隈、阿、曲などと書くクマは、山や川、道などが入り込んだり、曲がりくねったりした先で見えにくいところを指す。籠ったり、隠れたりすることができ、神隠れに隠れ住む聖所となり、畏怖の念を起こさせるほど暗かったり、黒かったりする。そんな熊が下りてくるところは、森蔭になった山の隈の部分である(注7)
 熊野とはまさしくそのような場所であった。そして、神武天皇の一行は、ヲエ、すなわち、くたびれ果てていた。疲れたとき、目の下に三日月形の隈ができることがある。目の下が黒ずんでくる。なのに、ツキノワグマは、クマと呼ばれながらその模様は逆に白い。白黒反転、転倒している。むろん、隈が白いからといってシロクマとは呼ばない。クマという語に自己撞着が起こっている。あえていえば、コロクマとでも形容するのだろうか。
左:鳥居清長(1752~1815)「鉞をかつぎ熊に乗る金太郎」(江戸時代、18世紀、東博展示品)、右:クマザサ

間諜うかみ

 その熊野の地で、神武天皇の一行は、その「大熊」に象徴されるような賊に遭遇している。その際に活躍するのが、先導役兼交渉役のヤアタカラスである。敵が白黒反転しているクマだから、こちらも白黒反転していてなおかつその義において真をついているコクマルガラスで対抗したというわけである。敵と交渉するそのようなやりとりとしては、記紀には先例がある。高天原側の神々は、葦原中国を平定するために、天菩比神あめのほひのかみ天穂日命あまのほひのみこと)を派遣するが大国主神おほくにぬしのかみ大己貴神おほあなむちのかみ)に付いてしまう。そこで、アメワカヒコ(天若日子、天稚彦)を派遣するが、これもシタデルヒメ(下照比売、下照姫)を娶って葦原中国を専有しようとしていた。真意をただそうときぎし鳴女なきめ無名雉ななしきぎし)を遣わしたところ、アメワカヒコ側は、天佐具売あめのさぐめ天探女あまのさぐめ)が様子を見聞きし、射殺すべきであると上申している。この、鳴女と天佐具売のやりとりが、軍同士の衝突の前にある情報戦にあたる。

 故、しかくして、天照大御神あまてらすおほみかみ高御産巣日神たかみむすひのかみ、亦、もろもろ神等かみたちを問はく、「天若日子あめわかひこ、久しく復奏かへりことまをさず。又、いづれの神をつかはしてか天若日子がひさしく留まれる所由ゆゑを問はむ」ととふ。是に、諸の神と思金神おもひかねのかみと、答へてまをさく、「きぎし、名は鳴女なきめを遣すべし」とまをす時に、のりたまはく、「なむちきて、天若日子を問はむかたちは、『汝を葦原中国あしはらのなかつくに使つかはせる所以ゆゑは、其の国の荒振あらぶ神等かみどもことやはせとぞ。なにとかも八年やとせに至るまで復奏さぬ』ととへ」とのりたまふ。故、爾くして、鳴女、あめよりくだり到りて、天若日子がかど湯津ゆつかつらうへて、委曲つばらつばら(注8)に天つ神の詔命みことのりごと言ひき。爾くして、天佐具女あめのさぐめ、此の鳥のことを聞きて、天若日子に語りて言はく、「此の鳥は、其の鳴くおといとし。故、射殺すべし」と云ひ進むるに、即ち天若日子、天つ神のたまへるあめのはじ弓・天のかく矢を持ちて、其の雉を射殺しき。……天若日子が朝床あさどこねたる高胸坂たかむなさかあたりて死にき 此、還矢かへりやもと。亦、其のきぎしかへらず。故、今に、ことわざに「雉の頓使ひたつかひ」と曰ふもとは是ぞ。(記上)
 是の時に高皇産霊尊たかみむすひのみこと、其のひさひさかへりことまをしまうこざるをあやしびて、乃ち無名雉ななしきぎしを遣し伺はしめたまふ。其の雉、飛びくだり、天稚彦あめわかひこ門前かどさきてる 植、此には多底屡たてると云ふ。湯津ゆつ杜木かつらすゑり。杜木、此には可豆邏かつらと云ふ。時に天探女 天探女、此には阿麻能左愚謎あまのさぐめと云ふ。見て、天稚彦にかたりてはく、「あやしき鳥きたり、かつらの杪に居り」といふ。……其の矢くだりて、則ち天稚彦が胸上たかむなさかちぬ。時に天稚彦、新嘗にひなへして休臥いねふせる時なり。矢にあたりてたちどころみまかる。此、世人よのひと所謂いはゆる反矢かへしやむべし」といふことのもとなり。(神代紀第九段本文)

 天孫降臨に先立って葦原中国を平定させるために、高天原から二人目として派遣されたのがアメワカヒコである。前人と同様、復命することなく、シタデルヒメを娶って寝返ってしまった。そして、天神から言伝を携えて遣わされた鳴女という名の雉を、下賜されていた弓矢を使って射殺した。矢が雉の胸を突き通って天上に達したため、逆につき返されて朝寝している彼の胸に当たって命を落としたというのである。
 「雉、名鳴女」(「無名雉」)と「天佐具売」(「天探女」)の情報戦において、記では、天佐具女は「此鳥[鳴女]者其鳴音甚悪」、紀では、天探女は無名雉を「奇鳥」といってアメワカヒコに射殺すようにと入れ知恵をしている。大将、ないし軍隊が進むよりも先に探るのは、間諜、斥候、隠密、すなわち、スパイである。サグメのメは甲類で、女スパイを表しているらしい。間諜は女性扱いされている。説文の、「咫 中婦人手長八寸謂之咫」が思い起こされる。紀ではウカミ、ウカミヒトと訓み、窺い見る意である。

 ……新羅の間諜うかみひと迦摩多かまた対馬つしまに到れり。則ちとらへてたてまつる。上野かみつけののくにに流す。(推古紀九年九月)
 其[改新之詔]のつぎのたまはく、初めて京師みやこをさめ、畿内国うちつくにみこともち郡司こほりのみやつこ関塞せきそこ斥候うかみ防人さきもり駅馬はゆま伝馬つたはりうまを置き、また鈴契すずしるしを造り、山河を定めよ。(孝徳紀大化二年正月)
 近江京あふみのみやこより倭京やまとのみやこに至るまでに、処処ところどころうかみを置けり。(天武紀元年五月是月)

 白川1995.に、「うかみ〔候〕 敵情をさぐること、またその人をいう。「うか」は「うかがふ」「うかねらふ」の「うか」。「穿く」「穿うかつ」と同根の語で、ものの内部を意味する。「うかみる」という動詞もあった。ミは甲類。……こうこう声。矦が候の初文。……その字義は矢を以て悪邪をはらうこと、すなわち候禳こうじょうを任務とするものである。もとは辺境にあって、そのような宗教的な任務を以て外族と対したものであるが、のち外族の動静をうかがうことから、「うかがふ」意となり、すべて斥候のことをもいう。」(139~140頁)とある。密かに覗き見て様子を探るのである。見ていることを敵に悟られてはいけないから、姿、とりわけその目を隠そうとした。目のところだけをあけて頭巾をかぶり、黒ずくめの衣装を身にまとった忍者の姿はかなりの伝統があるらしい。それは、烏という文字の象形において、全身が黒いから目を入れないでおいたとする考え方とよく似ており、コクマルガラスが頭部をもって目としていることに通じている。すなわち、ヤアタカラスとは斥候のことを指している。女性の手の大きさに由来する咫という尺度を用いていたのは、それが体の小ぶりなコクマルガラスをよく表し、女スパイであることを示している(注9)
 忍者という概念を広義に捉え、間諜する者にその起源を求めるとするなら、記紀においては天探女(天佐具女)が忍者第一号に当たるといえよう。天探女は、やがて仏教由来の天邪鬼あまのじゃくと通じていく。あまのじゃくとは、人の邪魔をする悪い精霊であり、自分の心に逆らって素直な行動が取れない性格のことを表す。スパイのやっていること、ないし、スパイにしてやられてしまうことをうまく言い当てている。邪鬼は、仏教では四天王像の足下の像として知られる。本来は、仏教的コスモロジーにおけるさまざまな神たちの階層を表しているが、彫像の印象が強いから、踏まれてもがきうなっているように見える。いずれにせよ鬼である。
(つづく)

俀人(ねぶひと)を謗る歌(万3836)

2024年12月19日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻十六、3836番歌は「ねぢけびとそしる歌」とされている。

  ねぢけびとそしる歌一首〔謗侫人歌一首〕
 奈良山の 児手柏このてがしはの 両面ふたおもに かにもかくにも ねぢけびととも〔奈良山乃兒手柏之兩面尓左毛右毛侫人之友〕(万3836)
  右の歌一首は、博士はかせなのぎやうもんの大夫まへつきみ作れり。〔右歌一首博士消奈行文大夫作之〕
「謗俀人歌一首」(西本願寺本萬葉集、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1242469/1/21をトリミング)
 本文校訂により、「俀」字を尼崎本などにより「侫」(「佞」の俗字)に改めている。
 これが理解を阻む原因となった(注1)
 「佞人」ではなく「俀人」であったなら、「倭人」のことになる。魏志に「倭人」とあったのを、隋書では「俀人」としている。歌の作者、博士はかせなのぎやうもんは大学寮の教員を勤めた養老年間の学者であり、新羅の人であった。すなわち、「倭人」の特徴を捉えて歌を作っていると解し得るのである。
 康煕字典に、「俀」は「集韻、吐猥切、音腿。シナヤカ也。」とある。ヤマトの人のことを中国では「倭人」「俀人」としている。「倭」については、説文に「倭 したがかほなり、人に从ひ委声。詩に曰く、周道倭遲ゐちたり。」とあり、しなだれるような姿を特徴として捉えていたということのようである。
 歌にはなぜか「児手柏このてがしは」が持ち出されている。葉が縦に立っていて、左右どちらが表とも裏とも言えない。そこで、八方美人に振舞う喩えとして使われている。他の似たような葉ではなく、コノテガシハが選ばれている。カシハ(柏)の類であることが求められているものと思われる。カシハ(柏)は、葉が大きく、神事においてなどに料理をよそう器として利用された。だから、料理人のことを膳夫かしはでという。カシハデには拍手かしはでの意もある。神さまの前で拍手を打って挨拶する。儀式的には二礼二拍手一礼をとることが多く、四拍手することもある。一般には、二回手を打ち合わせて頭を下げて拝むことが多い。この拍手の挨拶は、倭人の慣行として中国、東アジアに知られていた。魏志倭人伝に、「大人のうやまへるにふときは、但だ手をちて以てはいに当つ。(見大人所敬、但搏手以当跪拝。)」とある。「搏手」=拍手の礼は我が国独自の法である。
 周礼・春官・大祝に「辨九拝、一曰稽首、二曰頓首、三曰空首、四曰振動、五曰吉拝、六曰凶拝、七曰奇拝、八曰褒拝、九曰粛拝、以享右祭祀。」とある。その「振動」の語について、鄭玄の注に「動読為董、書亦或為董、振董、以両手相撃也」、唐初の陸徳明の釈に「振動、如字李音董、杜徒弄反、今俀人拝、以両手相撃、如鄭大夫之説、蓋古之遺法。」とある。唐初においても、拍手礼が倭人特有の儀礼であると考えられていたようである(注2)。下記の例、大安寺資財帳の例は、筑紫朝倉宮で病に倒れた斉明天皇が百済大寺の造営を中大兄に託して崩御した時の記事である。

 爾の時に、手をちて慶び賜ひてかむあがり賜ひき。(爾時手柏(拍)慶賜而崩賜之)(大安寺伽藍縁起并流記資財帳)
 公卿まへつきみ百寮つかさつかさ羅列あまねをがみたてまつりて、手つ。(持統紀四年正月)
 乙酉、参河国みかはのくにまをさく、「慶雲けいうんあらはる」とまをす。ほふし六百口をくつして西宮さいくう寝殿しむでん設斎をがみす。慶雲見るるを以てなり。是の日、りよの進退、また法門ほふもんおもぶき無し。手を拍ちて歓喜くわんきすることもは俗人ぞくじんに同じ。(続紀・神護景雲元年八月)

 日本在来の儀礼として、慶賀・歓喜を表現するのに拍手礼が行われていたことを示している。これが新羅人の消奈行文(注3)には珍しかったから歌に詠んでいる。彼は新羅から来日する前に、漢籍を読んで倭国のことを勉強していたのだろう。文献にはほかにも次のようにも書いてある。

 俗はばん無く、くにかしを以てす。食ふに手を用ゐてくらふ。(俗無盤爼、藉以檞葉、食用手餔之。)(隋書・俀国伝)

 俀人はカシハを食器にして手づかみで食べているという。実際に目にしてみると少し事情は異なるが、勉強した本の内容が完全に誤りであったわけではなさそうである。書物には祭祀場面ばかり重視して書いてあったということのようである。多少のギャップを埋めるべく、頓智を利かせた歌を詠もうとした。漢籍に「俀人」と書いてあったことを「そしる歌」としている。単にそういう人をけしからんと言っているのではなく、ヤマトの人のことをそのように記していることが不親切だと指摘しつつ、当然ながら人前で座興として歌を歌うのだからおもしろくなくてはならない。歌の勘所は頓知にある。
 「倭人」≒「俀人」である。ヤマトの人は礼をして頭を下げたり上げたりしつつパチパチと手を叩いている。「俀」という字は、人偏に妥の旧字体である。礼の仕方として「妥」という言葉は使われている。「天子にはることかふよりのぼらず、おびよりくださず。国君には妥視だしし、大夫にはかうし、士には視ること五歩ばかりす。(天子視不上於袷、不下於帯。国君、妥視、大夫、衡視、士視五歩。)」(礼記・曲礼下)とある。「妥」は「綏」の意である。えりもとの上あたりを見ることを言った。挨拶の礼として頭を下げたり上げたりしている。そういう人たちなのだというのが、「俀人」と記された理由なのだろうと解釈している。
 そして、手を拍つ様子を植物のコノテガシハと絡めて語るとするならば、葉がどちらからも表となって剥げないのとは異質な状態、手を打ち合わせるように葉を合わせて裏だけになる植物のことを思い浮かべて対比させていると考えられる。ネムノキである。ネムノキは夜になると葉を閉じて眠る。古語ではネブリ、ネブリノキ、ネブと言った。ネムノキのことを「合歓木」と記すところは、歓喜を表すのに拍手礼が行われていたことをよく表すものである。拍手かしはでを打って手を合わせるように寝ている。

 昼は咲き 夜は恋ひる 合歓木ねぶの花 君のみ見めや 戯奴わけさへに見よ(万1461)
 合歓樹 无採時、祢夫利ねぶり(新撰字鏡)
 合歓木 唐韻に云はく、棔〈音は昏、禰布利乃岐ねぶりのき〉は合歓木、其の葉は朝に舒び暮にをさむる者なりといふ。(和名抄)
 眲 莫卑反、眠也、目合也、祢夫留ねぶる、又伊奴いぬ(新撰字鏡)
 ひてねぶる。(神代紀第八段本文)
 既にして穴穂あなほの天皇すめらみこと皇后きさきの膝に枕したまひて、昼ひて眠臥みねぶりしたまへり。是に、眉輪まよわのおほきみ、其の熟睡とけてみねませるを伺ひて、刺しせまつれり。(雄略前紀安康三年八月)
 猿、なほ合眼ねぶりて歌ひて曰はく、……(皇極紀三年六月)
左:コノテガシワ、右:ネムノキ(夜間)
 すなわち、万3836番歌は、「倭人」≒「俀人」がお辞儀をしたり手を叩いたりする礼について、居眠りをしては手を叩いて起こそうとしている、または、それでも上瞼と下瞼がついて寝入りそうになるうところと見て取ったのである。ヤマトの人はカシハデを重んじている。神さまに祈りを捧げる時、拍手を打ち、膳夫にお供えを作らせ、串を使って柏の葉を器の形に象って饌物を供えている。拍手を打ってお祈りをするのにどこの神さまと分け隔てすることなく、その時その時で都合のいい神さまに対して「両面ふたおもに」お願いをしている。その都度お辞儀をして手を打っていて、その都度居眠りをしては手を打って起きている。ことほど左様に「かにもかくにも」、「倭人」は眠くてたまらない「俀人ねぶひと」なのだと洒落ている。その一大集団がヤマトの人である。ヤマトの人たちは本に書いてあったように、「俀人ねぶひととも」だと気づいたというのである。

  俀人ねぶひとそしる歌一首
 奈良山の 児手柏このてがしはの 両面ふたおもに かにもかくにも 俀人ねぶひととも〔奈良山乃児手柏之両面尓左毛右毛俀人之友〕(万3836)
  ヤマトの人のことを隋書に「俀人」と書いてあるところから着想を得たが、「俀人」の意味するところの居眠りする人のことを感心しないと思う歌
 奈良山のコノテガシワが両面とも表を見せるのと同じように、膳夫が料理を供えては拍手を打ってはお辞儀するのがヤマトの人の習わしのようだが、その仕種、実際のいずれにせよ、居眠りをこいている人ばかりの集団のようになっていて東アジア世界で浮いていないかなあ。

(注)
(注1)「佞人」をネヂケビトと訓むと字余りになるから、他の訓み、コビヒト、カダヒト、また、音読みしてネイジンも試みられている。
 「ねぢけびと」に限らずいずれの訓みでも、皆、権力者に対して媚びへつらい、あちらにもこちらにもいい顔をする人のこと、右顧左眄のおべっか野郎の意味と捉えられ、それを揶揄、非難する歌であろうとする解釈は定着している。「なら坂や児の手がしはのふたおもてとにもかくにもねぢり人かな」(南都名所集)、「奈良坂や児の手柏の二おもてとにもかくにも侫人ましけひとかな」(南都名所八重桜)などへと流伝している。
(注2)西本1987.に負っている。西本氏は内裏儀式の「両段再拝・拍手・揚賀声」が内裏式で「再拝・舞踏・称万歳」へと変わっていることを指摘している。
(注3)又詔して曰はく、「文人ぶんじん武士ぶしは国家の重みする所なり。……百僚きやくれうの内より学業がくげふ優遊いういうし師範とあるに堪ふるひとぬきいだして、こと賞賜しやうしを加へて後生こうせいを勧めはげますべし。」とのたまふ。因りて、……第二の博士正七位上背奈せな行文かうぶん・……に、各あしぎぬ十五疋、糸十五絇、布卅端、鍬廿口。(続紀・養老五年正月)
 従五位下大学助背奈王行文 二首(懐風藻)

(引用・参考文献)
白川・字通 白川静『字通』平凡社、1996年。
西本1987. 西本昌弘「古礼からみた内裏儀式の成立」『史林』第70巻第2号、1987年3月。京都大学学術情報レポジトリhttp://hdl.handle.net/2433/238914
橋本2006. 橋本亜佳子「佞人を「謗る」歌─萬葉集巻十六・第二部の題詞の特質─」『古代中世文学論考 第17集』新典社、平成18年。
山﨑2024. 山﨑福之「「佞人」とネヂケビト」『萬葉集漢語考証論』塙書房、2024年。
※上記、橋本、山﨑論文に引く参考文献は割愛した。「佞人」ではなく「俀人」について論じた。

山部赤人の難波宮の歌(万933)について─巻六配列付け足し説─

2024年12月09日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻第六の万928~934番歌において、笠金村、車持千年、山部赤人の作歌がつづいている。

  冬十月、難波宮なにはのみやいでましし時に、笠朝臣金村かさのあそみかなむらの作る歌一首〈并せて短歌〉〔冬十月幸于難波宮時笠朝臣金村作謌一首〈并短謌〉〕
 おしてる 難波なにはの国は 葦垣あしかきの りにし里と 人皆の 思ひ休みて つれも無く ありしあひだに 続麻うみをなす 長柄ながらの宮に 真木柱まきばしら 太高ふとたか敷きて 食国をすくにを をさめたまへば 沖つ鳥 味経あぢふの原に もののふの 八十やそともは いほりして 都なしたり 旅にはあれども〔忍照難波乃國者葦垣乃古郷跡人皆之念息而都礼母無有之間尓續麻成長柄之宮尓真木柱太高敷而食國乎治賜者奥鳥味経乃原尓物部乃八十伴雄者廬為而都成有旅者安礼十方〕(万928)
  反歌二首〔反謌二首〕
 荒野あらのらに 里はあれども 大君おほきみの 敷きます時は 都となりぬ〔荒野等丹里者雖有大王之敷座時者京師跡成宿〕(万929)
 海人あま娘子をとめ 棚なし小舟をぶね 漕ぎらし 旅の宿りに かぢおと聞こゆ〔海未通女棚無小舟榜出良之客乃屋取尓梶音所聞〕(万930)
  車持朝臣千年くるまもちのあそみちとせの作る歌一首〈并せて短歌〉〔車持朝臣千年作謌一首〈并短哥〉〕
 鯨魚いさなとり 浜辺はまへを清み うちなびき ふる玉藻たまもに 朝凪あさなぎに 千重ちへなみ寄せ 夕凪ゆふなぎに 五百重いほへ波寄す つ波の いやしくしくに 月にに 日に日に見とも 今のみに 飽きらめやも 白波の い咲きめぐれる 住吉すみのえの浜〔鯨魚取濱邊乎清三打靡生玉藻尓朝名寸二千重浪縁夕菜寸二五百重波因邊津浪之益敷布尓月二異二日日雖見今耳二秋足目八方四良名美乃五十開廻有住吉能濱〕(万931)
  反歌一首〔反歌一首〕
 白波の 千重に来寄きよする 住吉の 岸の黄土はにふに にほひてかな〔白浪之千重来縁流住吉能岸乃黄土粉二寶比天由香名〕(万932)
  山部宿禰赤人やまべのすくねあかひとの作る歌一首〈并せて短歌〉〔山部宿祢赤人作歌一首〈并短歌〉〕
 天地あめつちの 遠きがごとく 日月ひつきの 長きがごとく おしてる 難波なにはの宮に わご大君おほきみ 国知らすらし 御食みけつ国 日の御調みつきと 淡路あはぢの 野島のしま海人あまの わたの底 おき海石いくりに 鰒珠あはびたま さはかづ 船めて 仕へまつるし たふとし見れば〔天地之遠我如日月之長我如臨照難波乃宮尓和期大王國所知良之御食都國日之御調等淡路乃野嶋之海子乃海底奥津伊久利二鰒珠左盤尓潜出船並而仕奉之貴見礼者〕(万933)
  反歌一首〔反謌一首〕
 朝凪あさなぎに かぢおと聞こゆ 御食みけつ国 野島のしま海人あまの 船にしあるらし〔朝名寸二梶音所聞三食津国野嶋乃海子乃船二四有良信〕(万934)

 これらの歌は、神亀二年(725)の聖武天皇難波行幸の際に詠まれたものと考えられている。なかには、金村、千年、赤人の「三歌人による連作的なものを感じる」(久米1970.668頁)とされることもあるが、それぞれの歌を吟味すると、「赤人は金村、千年の作を聞き知った上で(前々からの分担としてではなく)、自己の歌の内容を工夫していったことになる。」(坂本1989.49頁)との指摘もある。題詞に「冬十月、幸于難波宮時」と期日指定があるのは最初の笠金村の歌(万928~930)である。車持千年と山部赤人の歌についてはただ後に続けて記されているだけのこと、いつ詠まれたのかは不明である。車持千年の歌(万931・932)には「住吉」と地名が出てきて難波宮から行っていると考えられるわけだが、それがいつのことか本当のところはわからない。ただ、歌意に特段際立ったところはなく、笠金村同様、神亀二年十月の、平城京から行幸した時の作と見ても齟齬は起こさない(注1)
 一方、山部赤人の歌(万932・933)の場合、歌の言葉に「難波宮」とあり、笠金村の歌にある「長柄の宮」とは呼び方が異なっている。笠金村が行幸に従って歌ったとき、そこはいまだ天皇が常在する都ではなく、あくまで「行幸」である。対して、山部赤人が歌っている時は、「難波宮」が既成事実化している後期難波宮の時、あるいはそこへの遷都が現実味を帯びていた時の歌であると考えられるのである(注2)。つまり、赤人歌は、正式な都にふさわしく造営工事をした後に歌われているということになる。実際、神亀四年以降、造成工事が進められている(「造難波宮雇民、免課役并房雑徭。」(神亀四年二月)、「知造難波宮事従三位藤原朝臣宇合等已下、仕丁已上、賜物各有差。」(天平四年三月)、「正五位下石川朝臣枚夫為造難波宮長官。」(天平四年九月)、「陪従百官衛士已上、并造難波宮司・国郡司・楽人等、賜禄有差。免-奉難波宮東西二郡今年田租調、自余十郡調。」(天平六年三月)、「班-給難波京宅地。三位以上一町以下、五位以上半町以下、六位以下四-分一町之一以下。」(天平六年九月)、「任装束次第司。為難波宮也。」(天平十六年正月))。
 難波京遷都は、恭仁京遷都同様、聖武天皇が決めたことである。だが、天平十六年(744)に恭仁京にあって、都をどこにするか朝議に諮っている。不思議なことが行われている。

○閏正月乙丑の朔に、詔して百官を朝堂に喚し会へ、問ひて曰はく、「恭仁・難波の二京、いづれをか定めて都とむ。おのおの、其の志をまをせ」とのたまふ。是に、恭仁京の便宜へんぎぶるひと、五位已上廿四人、六位已下百五十七人なり。難波京の便宜を陳ぶる者、五位已上廿三人、六位已下一百卅人なり。○戊辰に、従三位巨勢朝臣奈弖麻呂・従四位上藤原朝臣仲麻呂を遣し、市に就きて京を定むる事を問ふ。市の人、皆恭仁京を都と為むことを願ふ。但し、難波を願ふ者一人。平城ならを願ふ者一人有り。(続紀・天平十六年閏正月)

 こうなってくると俄然形勢が変わる。遷都のために「行幸」しそうな気配が出てくる。正式な都をどこと定めているのか、以下、続紀の行幸、遷都、宮にまつわる記事を見ていく。

天平十六年(744)閏正月
○乙亥(11日)、天皇行-幸難波宮。以知太政官事従二位鈴鹿王・民部卿従四位上藤原朝臣仲麻呂留守。是日、安積親王、縁脚病桜井頓宮還。
同二月
○二月乙未(1日)、遣少納言従五位上茨田王于恭仁宮、取駅鈴・内外印。又追諸司及朝集使等於難波宮
○丙申(2日)、中納言従三位巨勢朝臣奈弖麻呂、持留守官所給鈴印、詣難波宮。以知太政官事従二位鈴鹿王・木工頭従五位上小田王・兵部卿従四位上大伴宿禰牛養・大蔵卿従四位下大原真人桜井、大輔正五位上穂積朝臣老五人、為恭仁宮留守。治部大輔正五位下紀朝臣清人・左京亮外従五位下巨勢朝臣嶋村二人、為平城宮留守
○甲辰(10日)、幸和泉宮
○丁未(13日)、車駕自和泉宮至。
○甲寅(20日)、運恭仁宮高御座并大楯於難波宮、又遣使取水路-漕兵庫器仗
○乙卯(21日)、恭仁京百姓情-願遷難波宮者、恣聴之。
○丙辰(22日)、幸安曇江-覧松林。百済王等奏百済楽
○戊午(24日)、取三嶋路、行-幸紫香楽宮。太上天皇及左大臣橘宿禰諸兄、留在難波宮焉。
○庚申(26日)、左大臣宣勅云、今以難波宮定為皇都。宜此状、京戸百姓任意往来
同三月
○三月甲戌(11日)、石上・榎井二氏、樹大楯槍於難波宮中外門
○丁丑(14日)、運金光明寺大般若経、致紫香楽宮。比朱雀門、雑楽迎奏、官人迎礼。引導入宮中、奉安殿。請僧二百、転読一日。
○戊寅(15日)、難波宮東西楼殿、請僧三百人、令大般若経
同四月
○夏四月丙午(13日)、紫香楽宮西北山火。城下男女数千余人、皆趣伐山。然後火滅。天皇嘉之、賜布人一端。
○丙辰(23日)、以始営紫香楽宮、百官未成、司別給公廨銭。惣一千貫。交閞取息、永充公用。不-失其本。毎年限十一月、細録本利用状、令太政官
同七月
○秋七月癸亥(2日)、太上天皇幸智努離宮
○戊辰(7日)、太上天皇幸仁岐河。陪従衛士已上、無男女、賜禄各有差。
○己巳(8日)、車駕還難波宮
同十月
○庚子(11日)、太上天皇行-幸珎努及竹原井離宮
○壬寅(13日)、太上天皇還難波宮
同十一月
○癸酉(14日)、太上天皇幸甲賀宮
○丙子(17日)、太上天皇自難波至。

 「和泉宮」や「紫香楽宮」、「智努離宮」などはこの時点で都ではなく、あくまでも行幸したり法事をさせた先の行宮である。天平十五年十二月には「至是、更造紫香楽宮。仍停恭仁宮造作焉。」こととなり、あまり恭仁京の居心地は良くなかったようである。そして、天平十六年二月には難波京へ遷都し、天平十六年時点で「還」る所として「難波宮」をあげている。ただし、「恭仁京」、また、「平城宮」に「留守」官を置いている。
 この情勢を総合的に勘案すると、二京態勢(複都制)をとって難波京を定めたものと考えられる。複数の都を置く形をとって新たに「難波宮」にて天皇が「国知らす」時、天平十六年に歌われたのが、赤人歌であったと推定される。以下、その仮説を検証する。
 長歌では、前半に難波宮で天皇が統治することが歌われている。後半では淡路の野島の海人が鰒を取って珠を献上することが歌われている。一首だけある反歌では、長歌後半の野島の海人のことだけを承けてその船の楫の音が聞こえると歌っている。長歌と反歌との関係として、後半だけしか反映していないところは不審と言わざるをえない(注3)
 この関係をどう捉えたらいいか。上代の人の身になって検討する。事は上代の人の常識において理解されなければならない。そうでなければこの歌が歌われることも、万葉集に採録されることもないからである(注4)
 長歌前半部の冒頭四句「天地あめつちの遠きがごとく日月ひつきの長きがごとく」については、慶雲四年七月の詔(第三詔)にある、「天地あめつちと共に長く日月ひつきと共に遠く不改常典あらたむましじきつねののり」が意識されているとする説(注5)が有力視されている。
 この「不改常典あらたむましじきつねののり」については、嫡系相続の原理を天智天皇が定めたフカイジョウテンなるものがあったと推測され、ほとんど定説化している。大宝令以前に近江令があったと推測されもするが、記録に見られない。筆者は、そのようなものはなかったと考えている。天皇の位は、親子、兄弟、夫婦へと引き継がれるのが自然な流れとされよう。しかし、後継者として皇太子が定められているにもかかわらず、事情があって時にイレギュラーな嗣ぎ方をすることがある。天智天皇(中大兄)は舒明・皇極天皇の子であり成人していたが、蘇我氏を滅ぼしたクーデターの後、自分では位を継がずに叔父に当たる孝徳天皇(軽皇子)に譲り、自らは皇太子の地位のまま政治に参与した。同様のことが起きていたことについて、文武天皇が語っているのが第三詔である。祖母の持統天皇の言葉として、幼い自分が持統から位を譲られつつ共治する形をとったことを述べている。第五詔では、元明天皇がその娘でありながらも独身の元正天皇へ位を譲ったことについて述べていて、以後は元明系列の子孫を天皇にするようにと言っている。聖武天皇(首皇子)はまだ幼かった。第十四詔では、聖武天皇が叔母に当たる元正天皇から譲位されたときに聞いたことを述べている。それらを「不改常典あらたむましじきつねののり」と呼んでいる。すなわち、「不改常典あらたむましじきつねののり」とは、世の中にはいろいろと決まりがあって天皇位の継嗣順も親子、兄弟、夫婦へと引き継がれるのが通例だと決まってはいるが、そんな決まり事を超えて臨機応変に対処すべきであることを指している。時に超法規的な措置を講ずることによって世の中は丸くおさまり、「天地あめつちと共に長く日月ひつきと共に遠く」天皇代は続くのである。情勢により、決まりに縛られないでうまく進めること、それこそが、どんなことがあっても改めるには及ばない、決まりごとを超えた決まりごとなのである(注6)
 「不改常典」という典範が存在していたわけではなかった。歌においてももちろん、それに従った文言として「天地あめつちの遠きがごとく日月ひつきの長きがごとく」という言い回しが歌われているわけではない。そもそも、詔に登場する「天地あめつちと共に長く日月ひつきと共に遠く」という文言とは言い方が違うではないか。言葉が違えば言い表したいことは違う。一般には、「天地が悠遠であるように、日月が長久であるように、」難波宮で我が天皇は国をお治めになるらしい、という意に解されている。けれども、そう捉えることには障りがある。短期間に遷都をくり返している聖武天皇に対して、今度こそ難波宮に落ち着いてくださいね、と言っているように疑われてしまう。臣下の分際で何を抜かすかということになる。
 歌は言葉でできている。歌われて言葉は空中を飛んでいる。聞き返すということがない。「天地あめつちの遠きがごとく日月ひつきの長きがごとく」という言い回しの後、「おしてる難波なには……」と聞いたなら、それはただの形容にすぎないとすぐに理解されたであろう。すなわち、「おしてる」と言えば「難波なには」と続くことは、天地が遠いように、日や月が長いようにあることなのである。「おしてる」は枕詞で、しかも他の言葉にかかることのないものである(注7)。将来的にもこの決まり文句は揺るがない。そのことを形容して「天地あめつちの遠きがごとく日月ひつきの長きがごとく」と大仰に述べている。言っていることがその時その場で理解可能になっている。恭仁京へ遷都したのが天平十二年(740)、四年後の天平十六年(744)には難波宮へと遷っている。宮都を造りながら遷ることに節操がないと非難する意見もあっただろうし、天皇自身も自らの首都計画がうまく行っていないことに忸怩たる思いがあったかもしれない。そういう不協和音を自動的に消す働きを担うことになりそうな言い回しが、「おしてる難波なには」という常套句である。「おしてる」は絶対に「難波」にかかり、今後ともそうであろうから、それと同様に、難波宮の新都経営も悠久の時を刻むことになる可能性を秘めていると隠し述べることになっている。そこがこの赤人歌の真骨頂ということになる。
 では、なぜ続けて野島の海人のことが歌われているのか。
 すでに指摘されているように、野島の海人の真珠取りのことが関係する。故事として允恭紀に載るとおりである。允恭天皇は淡路島へ狩りに出かけた。しかし、嶋の神のたたりで一向に獲れず、神の言にしたがって赤石あかし(明石)の海底の真珠を捧げることとなった(注8)

 十四年の秋九月の癸丑の朔にして甲子に、天皇すめらみこと淡路嶋あはぢのしまかりしたまふ。時に、麋鹿おほしかさる莫々紛々ありのまがひに、山谷にてり。ほのほのごと起ちはへのごとさわく。然れども終日ひねもすひとつししをだに獲たまはず。是に、かり止めて更にうらなふ。嶋の神、たたりてのたまはく、「獣を得ざるは、是我が心なり。赤石あかしの海の底に真珠しらたま有り。其の珠を我にまつらば、ふつくに獣を得しめむ」とのたまふ。ここに更に処々ところどころ白水郎あまつどへて、赤石の海の底をかづかしむ。海深くして底に至ることあたはず。唯しひとり海人あま有り。男狭磯をさしと曰ふ。これ阿波国あはのくに長邑ながのむらの人なり。もろもろの白水郎にすぐれたり。是、腰に縄をけて海の底に入る。やや須臾しばらくありて出でてまをさく、「海の底に大蝮おほあはび有り。其の処れり」とまをす。諸人もろひと、皆はく、「嶋の神のこはする珠、ほとほとに是の蝮の腹に有るか」といふ。亦入りて探く。ここに男狭磯、大蝮をむだきてうかび出でたり。乃ちおきえて、浪の上にみまかりぬ。既にして縄をおろして海の深さを測るに、六十むそひろなり。則ち蝮をく。まことに真珠、腹のなかに有り。其の大きさ、桃子もものみの如し。乃ち嶋の神をまつりて猟したまふ。さはに獣を獲たまひつ。唯、男狭磯が海に入りてみまかりしことをのみ悲びて、則ち墓を作りて厚くはぶりぬ。其の墓、なほ今までうせず。(允恭紀十四年九月)

 淡路島は狩りの盛んな猟場かりにはであった(注9)。ニハがとり上げられている。そして、今、赤人が歌にしようとしているところは、ナニハ(難波)である。難波のニハは朝廷(朝庭)のニハ、朝から政をするニハである。
 歌は言葉でできていて空中を飛んでいる。だからその瞬間にわかるものでなければどうにもならない。ニハのことを言っているんだ、おもしろいことをいうねぇ、と皆思ったから、歌として聞かれて拍手喝采され、記憶に留まるに至っている。題詞に「山部宿祢赤人作歌一首〈并短歌〉」とあって「山部宿祢赤人讃難波宮歌一首〈并短歌〉」などとないのは当然のことである。ニハの洒落を歌にしただけであり、難波宮讃歌でも天皇を寿いだ歌でもない。ナニハがニハとしてあるためには、対岸の淡路島についても由緒あるところなのだからニハとしてきちんと機能してもらわなければならず、嶋の神の祟りをやすめ祀るため鰒を取って真珠を捧げる必要があった。淡路島がニハであることを強調するためにとってつけたように「御食みけつ国」として定位し、毎日、御調みつきを献上する役目を果していることに話を作っている。言いたいことはニハの洒落だけであり、毎日、実際に食べ物を運んでいたと考える必要はない。「鰒珠」を真珠とすると食べられないから矛盾するので別案をあげる向きもあるが、洒落の通じない輩は相手にならない。毎日でも海人の男狭磯をさしが深く海に潜って真珠をとっていれば淡路島はニハとして安泰ということになるからである。
 ナニハの宮についてニハをとり上げるため、淡路のことをとり立てている。それはそれで良いとしても、難波宮と淡路とは直接の関係はない。とり上げて述べた理由は何だろうか。
 その答えは、長歌のなかに出てくる「海石いくり」と反歌から窺うことができる。反歌には「かぢの音聞こゆ」とある。これも故事として伝わっていた。記紀に歌謡が載る。

 枯野からのを しほに焼き が余り 琴に作り くや 由良ゆらの 門中となか海石いくりに ふれ立つ なづの木の さやさや(記74、紀41)

 老朽化した大型船を塩焼きの燃料に使ったという話である。燃え残ったところを琴に作って奏でたところ、海のなかの「海石いくり」にふれた木が「さやさや」と音をたてたというのである。山部赤人の長歌の後半と反歌は、そのことを踏まえて詠んでいると考えられる。

 …… 淡路あはぢの 野島のしま海人あまの わたの底 おき海石いくりに 鰒珠あはびたま さはかづ 船めて 仕へまつるし たふとし見れば(万933)
 朝凪あさなぎに かぢの音聞こゆ 御食みけつ国 野島のしま海人あまの 船にしあるらし(万934)

 「さやさや」という音のことを思っている。鞘鞘と二つ鞘がある。「二鞘の」という言い方がある。

 人言ひとごとを しげみか君の 二鞘ふたさやの〔二鞘之〕 家をへなりて 恋ひつつをらむ(万685)

 刃物を二本、入れておく鞘があった。だからこそ、長歌で難波のことと淡路のことの二つを一緒に歌にしていた。そうするには意味があった。難波宮は複都である。都が二つあるから入れるところが二つある鞘のことを持ち出している。当時の人たちの考えにおいて、すべての辻褄が合う。過誤の余地なく歌は完成している。上代においてはそのことをもって名歌と呼んでも過言ではないだろう。

(注)
(注1)坂本氏ほか、これらの歌を「難波宮讃歌・・」とする前提で議論を始める向きがあり承服し難い。
(注2)その間にも神亀三年十月の印南野行幸の際に難波宮へ還って来ていたり、天平六年(734)三月、天平十二年二月にも難波宮へ行幸している。最後の例では「留守」を決めて出掛けている。
(注3)現行の解釈では、必ずしも不思議がられているわけではない。長歌前半の八句は「一首における総論の機能を果たしている」(伊藤1996.320頁)とし、「野島の海人」のさまを視覚的に詠まんがためのものであり、反歌も「野島の海人」のことを聴覚的に歌ったものであると捉えられている。車持千年が難波行幸時に住吉へも出向いたときに歌われているように、山部赤人も難波行幸時に海岸から淡路の野島を臨んで詠んだというのである。
(注4)万葉集編纂の際に、この山部赤人歌も神亀二年の作であると誤解されていた可能性もなくはない。都をどこに定めるか決められない天皇像を思い起こさせる歌だからこんなところへ引っ付けたのだと考える。
(注5)吉井1984.71頁。吉井氏は、不改常典を嫡子による皇位相続の原則と見、「今、文武天皇の嫡子である聖武天皇の即位の翌年、最初の難波宮行幸であるので、赤人が、聖武の即位を期待して即位した元明の詔を思わせる表現で、聖武の治政を讃えたのはきわめて適切であったといえる。聖武天皇の難波宮造営は、複都制を定めた天武天皇の継承といえる。」(同71〜72頁)と述べている。この議論はあり得ない。赤人は何様のつもりで上から目線で天皇を讃えているのか想像がつかず、けっして許されるものとは思われない。
(注6)拙稿「「不改常典」とは何か」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/3bddbb4328249f122b7eb1c665c3ff83参照。
(注7)拙稿「枕詞「おしてる」「おしてるや」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/966680300fa50239c38ae3a90e1588a5参照。枕詞のなかには、「ももづたふ」のように「角鹿つぬが」、「度会わたらひ」、「ぬて」、「磐余いはれ」などさまざまな語にかかるものがあるが、「おしてる」や「おしてるや」は必ず「難波なには」にかかり、他の語にはかからない。
(注8)この話については、拙稿「允恭紀、淡路島の狩りの逸話、明石の真珠について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/17d842a2bc10d3783b29a39e7b44b4e8参照。
(注9)応神紀二十二年九月にも記載がある。猟場のことも漁場のこともニハという。

 武庫むこの海の 庭よくあらし いざりする 海人あま釣船つりふね 波のうへゆ見ゆ(万3609)
 猟場にはたのしびは、膳夫かしはでをしてなますつくらしむ。(雄略紀二年十月)

(引用・参考文献)
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釋注 三』集英社、1996年。
梶川1997. 梶川信行『万葉史の論 山部赤人』翰林書房、1997年。
久米1970. 久米常民『万葉集の文学論的研究』桜楓社、昭和45年。
神野志1975. 神野志隆光「赤人の難波行幸歌─天皇の世界と海人─」『萬葉の風土・文学』塙書房、平成7年。
栄原2006. 栄原永遠男「行幸からみた後期難波宮の性格」栄原永遠男・仁木宏編『難波宮から大坂へ』和泉書院、2006年。
坂本1987. 坂本信幸「山部赤人─難波宮従駕作歌をめぐって─」『論集万葉集 和歌文学の世界 第十一集』笠間書院、昭和62年。
鈴木2024. 鈴木崇大『山部赤人論』和泉書院、2024年。
高松2007. 高松寿夫『上代和歌史の研究』新典社、平成19年。
中野渡2014. 中野渡俊治「天平十六年難波宮皇都宣言をめぐる憶説」(続日本紀研究会編『続日本紀と古代社会』塙書房、2014年。
橋本2018. 橋本義則『日本古代宮都史の研究』青史出版、平成30年。
仁藤2015. 仁藤敦史「留守官について」舘野和己編『日本古代のみやこを探る』勉誠出版、2015年。
吉井1984. 吉井巌『万葉集全注 巻第六』有斐閣、昭和59年。

世の常に 聞くは苦しき 呼子鳥(万1447)

2024年11月25日 | 古事記・日本書紀・万葉集
  大伴坂上郎女の歌一首〔大伴坂上郎女謌一首〕
 世のつねに 聞くは苦しき よぶどり 声なつかしき 時にはなりぬ〔尋常聞者苦寸喚子鳥音奈都炊時庭成奴〕(万1447)
  右の一首は、天平四年三月一日に佐保のいへにして作れり。〔右一首天平四年三月一日佐保宅作〕

 初句の「尋常」をヨノツネニと訓む説が大勢を占めている(注1)。トコトハニと訓む説(注2)、また、ヨノツネニを世のならいとして、という意味と、平生、ふだん、いつも、という意とではニュアンスに違いがあるとして疑義を呈する向きもある(注3)。次の万葉歌は、世の中の常のことを言い表しており参照すべき歌である。

 世間よのなかの つね道理ことわり くさまに なりにけらし ゑし種子たねから(万3761)

 万1447番歌の場合、題詞で作者のこと、左注で詠まれた日と場所が明記されている。特に日時が指定されていることは珍しいことである。三月一日とは、一月から三月を春と決めていた令制において、「孟春はじめのはる」、「仲春なかのはる」、「季春すゑのはる」の別のうちの「季春すゑのはる」の最初の日に当たる。スヱという言葉の語義は、漢字で書いた時、「末」、「陶」、「須恵」、「据」に限られる(注4)。万3761番歌にもこのスヱという言葉が見え、世の常のこと、ものごとの道理のことは、スヱという言葉で言い表す対象であると考えられていたようである。時間が経って、スヱ(末)となっても世の常の道理は変わらないからであろう。万1447番歌の場合、時間が経ってスヱ(季)の春になったら状況が一転したと言っている。その機知を歌に詠んでいる。
 動詞「据う」を用いた万葉歌に、次のような例がある。

 大君おほきみの さかひたまふと 山守やまもり据ゑ るといふ山に 入らずはまじ(万950)
 矢形尾やかたをの 鷹を手に据ゑ 三島野に 狩らぬ日まねく 月そにける(万4012)

 「据う」という言葉は、ものごとを根を下ろさせるようにしっかりとその場に置きつけること、人間を含めた生き物をそれにふさわしい位置に置くことをいう。三月一日、スヱの春になったのであらためて据え置いてみた。何をどこに据え置いたか。ス(巣)にヱ(餌)を置いたのである。巣に餌を運んで育てることは鳥として当たり前のこと、世の常のことである。それまで世の常のこととして嫌な鳴き声をあげて鳴いていた呼子鳥がいたのだが、この時、呼子鳥はすでに巣立ってしまっていたというのだろう。親鳥は呼子鳥がいなくなっているので、その声が懐かしいと思っている。
 呼子鳥については、万葉集中での用法としては、呼んでも答えてくれないのになお呼び続ける鳥として片恋の苦しさを表すことがある(注5)。ただし、それがすべてではない。実際の鳥類の何に当たるのかについては諸説あるが、カッコウではないかとする説が有力である。カッコウは生態として特徴的なところがある。托卵である。別の鳥の巣に卵を産んで育ててもらうのである。カッコウは大きくなる鳥だから、体の小さな代理の親鳥が体の大きなカッコウの雛に給餌することになる。はたから見ていれば実に滑稽である。大きさからしてみれば、どちらが親でどちらが子なのかわからないことになっている。そこでヨブコドリ(呼子鳥)と洒落た命名をしたらしい。呼子鳥という名は、巣にいる体の大きなカッコウが、その子のような体の小さな鳥を呼んでいるような変なことだというわけである。巣のなかで餌をねだる声が汚く聞こえるというよりも、托卵は詐欺行為であり、それが進行してなお騙し続けていて、大きな体をしているのに小さな鳥に餌を運ばせているところが「聞くは苦しき」存在なのである。
自分より大きなカッコウの雛に餌を与えるオオヨシキリ(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/托卵、Per Harald Olsen氏撮影)
 三月一日、スヱの春になると、今までどおり甲斐甲斐しく偽られたままに自分の子だと思っていたカッコウのもとへ、巣に餌を運んできた代理親鳥は、自分の子だと思っていた鳥が、飛び方も教えぬまま突然いなくなってしまっていたため育児ロスに陥っている。この時、親鳥はすべてを悟ることになる。自分とは比べ物にならないほど大きくなっているのに餌をねだっていた。変だなあと思ってはいた。そうか、あれは自分の子ではなく、カッコウだったのだ。自分の実の子、産んだ卵は巣から蹴落とされて死んでしまった。いまいましいことである。とはいえ、育てたことには違いがなく、あれほど大きくなるまで手がかかったことを思えばかえって情が湧くのも当然のことである。道理としてこのようになるものだというのが言い方として通例である。万3761番歌では「くさまになりにけらし」と言っている。
 このようにあるのは尤もなことだと言っている。斯くある、は、上代語でラ変動詞カカリといった。似た言葉に、かかっている、よりかかる、関係がある、という意味の四段動詞カカル(懸)があり、形容詞カカラハシという語に派生している。

 初めより 長く言ひつつ 頼めずは かる思ひに はましものか(万620)
 要仮たとひ縄にかかるとも、進みありくことあたはず。(顕宗紀二年九月)
 …… 世の中は くぞ道理ことわり 黐鳥もちどりの かからはしもよ ゆく知らねば ……(万800)

 第三例のように、世の常としての道理を説くのに、カク(斯)と一緒にカカラハシという言葉を使うのは、高度に修辞的な用法と言えるだろう。
 万1447番歌の場合も、いた時には「聞くは苦しき」といい、いなくなったら「声なつかしき」と言っていて、呼子鳥の鳴き声のことに注意が向いている。呼子鳥はどのように鳴いたか。おそらく、その鳴き声をカカと聞きなしていたのであろう。古代には、鳥の鳴き声として「かか鳴く」とする例が見られる。そう捉えれば、カカリ(斯有)、カカル(懸)と音が通じ、言葉の使用のすべてにおいて理にかなった修辞となっていることになる。

 つく波嶺はねに かか鳴く鷲の のみをか 泣き渡りなむ 逢ふとはなしに(万3390)
 嚇 唐韻に云はく、鳴〈音は名、奈久なく〉は鳥の啼くなり、囀〈音は転、佐閉都流さへづる〉は鳥のうたふなりといふ。文選蕪城賦に寒鴟嚇鶵と云ふ。〈嚇の音は呼格反、師説に賀々奈久かかなく〉(和名抄)

 世のつねに 聞くは苦しき よぶどり 声なつかしき 時にはなりぬ(万1447)
 世の常のこととして、托卵して育てられている体の大きくなったカッコウの雛の鳴く声を聞くと、あんまりだと苦しい思いがするものだが、日時は三月一日となり、春も末の時季を迎えて雛は勝手に巣立って行ってしまった。きっと親鳥はス(巣)にヱ(餌)を運んできて、ほらお食べと上げ膳据え膳をしていることだろうが、いつの間にかいなくなっていて、切なくなつかしく思っていることだろう(注6)

(注)
(注1)「尋常」字に対してヨノツネと訓む例は、名義抄、遊仙窟に見られる。
(注2)澤瀉1961.61〜62頁。
(注3)渡辺1978.、武市2004.、山﨑2024.参照。山﨑氏は、漢語「尋常」の歴史的転義を考証している。そして、文言と白話の意味の違いを見、両用の訓、解釈を試みている。
(注4)白川1995.は、「その間に何らかの関係があるかも知れない。」(427頁)としている。
(注5)渡辺1978.。
(注6)中西1980.は、「世の常として聞くのは不本意な呼子鳥だが、声に心ひかれて聞く時になったことだ。」(174頁)という訳は、肝心の言葉遊びの要点、三月=スヱの春、スヱ=巣餌の義を述べてはいないが、訳自体としては近似解と言える。

(引用・参考文献)
澤瀉1961. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 第八巻』中央公論社、昭和36年。
高野1980. 高野正美「喚子鳥─坂上郎女覚書─」『太田善麿先生退官記念文集』太田善麿先生退官記念文集刊行会、昭和55年。
武市2004. 武市香織「巻八の大伴坂上郎女歌」『セミナー万葉の歌人と作品 第十巻』和泉書院、2004年。
中西1980. 中西進『万葉集 全訳注原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。
山﨑2024. 山﨑福之『萬葉集漢語考証論』塙書房、令和6年。
渡辺1978. 渡辺護「呼子鳥の歌九首」『岡山大学法文学部学術紀要』第39号、昭和53年12月。

飛騨の匠について─日本紀竟宴和歌の理解を中心に─

2024年11月14日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 日本書紀は講書が行われ、竟宴和歌が作られている。ここにあげる葛井清鑒の歌は、天慶度(天慶六年(943))の作である。左注は院政期に付けられたものと考えられている。講書で教授された日本書紀の該当箇所は雄略紀十二年十月条である。併せて掲げる。

  秦酒公はたのさけのきみを得たり〔得秦酒公〕
              外従五位下行造酒正葛井宿祢清鑒〔外従五位下行造酒正葛井宿祢清鑒〕

 琴のの あはれなればや 天皇君すめらきみ 飛騨のたくみの 罪をゆるせる〔己止能祢濃阿波麗那礼波夜数梅羅機㳽飛多能多久美濃都美烏喩留勢流〕(竟宴歌謡50)(注1)
  幼武わかたけの天皇すめらみこと、飛騨の匠御田みたおほせて、楼閣たかどのを作らしめ給ふに、御田、楼閣に登りてく走ること、飛ぶが如し。これを、伊勢の采女、あやしみ見るほどに、庭にたふれて、ささげたる饌物みけつものこぼしつ。天皇すめら、采女を御田がおかせるかと疑ひて、殺さんとする時に、酒公さけのきみ、琴をきて、そのこゑを天皇に悟らしめて、罪を赦さしめたり。

 冬十月の癸酉の朔にして壬午に、天皇すめらみこと木工こだくみ闘鶏つげの御田みた一本あるふみ猪名部いなべの御田みたと云ふは、けだあやまりなり。〉にみことおほせて、始めて楼閣たかどのつくりたまふ。是に、御田、たかどのに登りて、四面よも疾走はしること、飛びくがごときこと有り。時に伊勢の采女うねめ有りて、楼の上をあふぎてて、く行くことをあやしびて、庭に顛仆たふれて、ささげらるるみけつもの〈饌は、御膳之物みけつものなり。〉をこぼしつ。天皇、便たちまちに御田を、其の采女ををかせりと疑ひて、ころさむと自念おもほして、物部もののべたまふ。時に秦酒公はたのさけのきみおもとはべり。琴のこゑを以て、天皇に悟らしめむとおもふ。琴をよこたへて弾きて曰はく、
  神風かむかぜの 伊勢の 伊勢の野の 栄枝さかえを 五百経いほふきて が尽くるまでに 大君に 堅く つかまつらむと 我が命も 長くもがと 言ひし工匠たくみはや あたら工匠はや(紀78)
 是に、天皇、琴の声を悟りたまひて、其の罪をゆるしたまふ。(雄略紀十二年十月)

 雄略紀にある「闘鶏御田」がいつの間にか「飛騨の匠」であることになっている。不審であるというので、「[竟宴]和歌は『日本書紀』の内容を読み替えて歌われ、その解釈は同時期に実在する飛騨工とリンクしながらも、一方で実在から離れたイメージ(解釈)としての飛騨の匠を生み出していっているともいえる。」(水口2024.118頁)と認識されるに至っている。その分析では、「御田」=「飛騨の匠」という概念は、日本書紀講書の初期の段階から解されており、院政期に作成されたと思われる左注も疑いを抱いておらず、受け継がれていたことがわかるという。
 飛騨の匠(「飛騨工」)は、律令制のもとで実在している。

 凡そ斐陁国ひだのくには、庸調俱にゆるせ。里毎さとごとに匠丁十人てむせよ。〈四丁毎に、廝丁かしはで一人給へ。〉一年に一たび替へよ。余丁よちやう米をいだして、匠丁しやうちやうじきに充てよ。〈正丁しやうちやうに六斗、次丁しちやうに三斗、中男ちうなむに一斗五升。〉(賦役令)

 実態としては、「徴発された匠丁は、木工寮、造宮省、修理職などに配属され、一日に米二升を支給されて作業に従事したが、その労働条件は苛酷であったらしく、逃亡する匠丁も多く、またその技術のためか匠丁をかくまう者もあり、しばしばその禁令が出された。仕丁の制度の一変型とみられ、飛驒国が都に比較的近く、山林が多いので特に木工の供給地とされたらしい。」(国史大辞典936頁、この項、中村順昭)という(注2)
 しかし、「[賦役令の]この条のように一国のみを対象とした規定は律令のなかでも特異なものである。」(思想大系本律令593頁)と奇異に見るのが大勢である。竟宴和歌で「闘鶏御田」=「飛騨の匠」と同義とされて何の疑いも入れていないことも疑問である。どうしてそういう人がいるのか、どこから生まれてきた考え方なのか。その謎を解いて当時の人たちの考え方に迫ろうとするのでなければ、賦役令も竟宴和歌も理解したことにはならない。古代の人たちの心性に近づいていないからである。飛騨国に限らずとも大工や木工職人などは必ずいる。どうして飛騨の匠は特別扱いされて造宮や修理に重用されていたのか、それが問題である。
 タクミ(匠、工)の例としては次のような記事がある。

 是歳、百済国より化来おのづからにまうくる者有り。其の面身おもてむくろ、皆斑白まだらなり。しくは白癩しらはた有る者か。其の人になることをにくみて、海中わたなかの嶋にてむとす。然るに其の人の曰はく、「若しやつかれ斑皮まだらはだを悪みたまはば、白斑しろまだらなる牛馬をば、国の中にふべからず。また臣、いささかなるかど有り。能く山丘やまかたく。其れ臣を留めて用ゐたまはば、国の為にくほさ有りなむ。何ぞむなしく海の嶋に棄つるや」といふ。是に其のことばを聴きて棄てず。仍りて須弥山すみのやまの形及び呉橋くれはし南庭おほばに構かしむ。時の人、其の人をなづけて、路子工みちこのたくみと曰ふ。亦の名は芝耆摩呂しきまろ。(推古紀二十年是歳)

 「芝耆摩呂しきまろ」という名は、おそらく石畳を敷くことと関係させたもので、「路子工みちこのたくみ」は道路舗装職人の謂いであろう。この渡来人は、近世に城造りにたけた穴太衆のように、石材の加工に優れた石垣職人であったろう。
 この逸話は有間皇子事件のときに振り返られている。塩屋しほやの鯯魚このしろという家来が助命嘆願するのに、「願はくは右手みぎのてをして、国の宝器たからものを作らしめよ」(斉明紀四年十一月)と小理屈を述べている(注3)。右(ミ・ギの甲乙は不明)を指す言葉には、ヒダリ(左、ヒは甲類)に形を合わせたミギリという言い方がある。ここでは、みぎり(ミ・ギは甲類)と関係させて言っていると推測される。古語では、軒下の石畳や敷瓦(磚)を敷いたところ、また、水限みぎり(ミ・ギは甲類)の意もあって、境界にあたるところをいう。説文に「砌 階の甃なり。石に从ひ切声、千計切」とある。和名抄には、「堦 考声切韻に云はく、堦〈音は皆、俗に階の字を波之はし、一訓に之奈しな〉は堂に登る級なりといふ。兼名苑に云はく、砌は一名に階〈砌の音は細、訓は美岐利みぎり〉といふ。」とある。境のところにある瓦や石の端を切りそろえて重ねた階段のこと、推古紀にある「呉橋」はそれに相当するものではないか。また、「須弥山」は、仏教の世界観において世界の中心にそびえる高い山のことをいう。それを形象化して像として飛鳥の地に置いている。

 辛丑に、須弥山すみのやまかたを飛鳥寺の西に作る。また盂蘭瓫会うらんぼんのをがみまうく。ゆふへ覩貨邏人とくわらのひとへたまふ。(斉明紀三年七月)
 甲午に、甘檮丘あまかしのをかひむかし川上かはらに、須弥山を造りて、陸奥みちのくこしとの蝦夷えみしに饗へたまふ。(斉明紀五年三月)
 又、石上池いそのかみのいけほとりに須弥山を作る。高さ廟塔めうたふの如し。以て粛慎みしはせ四十七人に饗へたまふ。(斉明紀六年五月是月)

 斉明朝は土木・水利事業が推められた時代であった。石造の噴水も作られており、亀の形をした水の流れ出る祭祀遺跡も出土している。技術的要請として、生活用水、農業用水の適切な給排水を求めていたという時代背景が考えられる。
 そんな時、ヒダ(ヒは乙類)のタクミという音を聞けば、ヒ(樋)+タ(田)なる巧妙な仕掛けを作った人たちなのだと理解されよう。水田に用水を取排水するのに、それぞれの田の水位が一定になるように、樋(楲)が設けられているということである。溜池による用水の確保や、沖積平野への展開が進んでいったのがヤマトコトバの爛熟期、古墳時代から飛鳥時代に当たる。土木技術を駆使した灌漑、排水装置を伴った田が運営されて行っていた。「味張あぢはり忽然たちまち悋惜をしみて、勅使みかどのつかひ欺誑あざむきてまをさく、「此の田は、天旱ひでりするにみづまかせ難く、水潦いさらみづするにみ易し」とまをす。」(安閑紀元年七月)などと記述されている。溜池の底樋のつくりなどには確かな水密性が求められ、渡来人等によって伝えられた高度な技術の賜物と言えよう。そのための巧みな工作技術を担ったはずなのがヒダの匠ということになり、飛騨人というだけで重んじられた。実際にどのような形のヒ(樋)が行われていたか、必ずしも全体像がわかっているわけではないが、ヒ(樋)+タ(田)と呼ぶのに遜色ないものと思われる(注4)
左:埤湿ふけの田(深田)の排水方法(大蔵永常・農具便利論、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2556765/1/34をトリミング)、中:狭山池東樋(飛鳥時代、大阪府立狭山池博物館展示パネル)、右:樋の構造概念図(市川秀之「狭山池出土の樋の復元と系譜」狭山池埋蔵文化財編『狭山池出土の樋の復元と系譜(復元)』の東樋下層遺構(奈良時代)取水部復元図(部分)図http://skao.web.fc2.com/rack/ike/hi-fkgn.pdf(3/10))
 五年の夏六月に、人をしていけに伏せ入らしむ。に流れ出づるを、三刃みつはほこを持ちて、刺し殺すをたのしびとす。(武烈紀五年六月)

 水量を計測的に保って流す仕掛けとしては、都の人の周知するところとなっている。中大兄(天智天皇)が作ったとされる漏剋ろこくである。

 又、皇太子ひつぎのみこ、初めて漏刻ろこくを造る。おほみたからをして時を知らしむ。(斉明紀六年五月是月)
 夏四月の丁卯の朔にして辛卯に、漏剋ろこくあらたしきうてなに置く。始めて候時ときを打つ。鐘鼓かねつづみとどろかす。始めて漏剋を用ゐる。此の漏剋は、天皇すめらみことの、皇太子ひつぎのみこまします時に、始めてみづか製造つくれるぞと、云々しかしかいふ。(天智紀十年四月)
漏刻(桜井養仙・漏刻説并附録、九州大学附属図書館・九大コレクションhttps://hdl.handle.net/2324/6632075(6of19)をトリミング)
 漏刻(漏剋)は水の流れを正確に測って時間を告げている。きちんと水をげた時に、確かな時をげることができている。
 ここに、ツゲノミタ(闘鶏御田)という人は、漏刻(漏剋)のように正確に水流を測って流すことができる樋(楲)を造作していたということになる。言葉としてそう認識され、「名に負ふ」人として活躍していただろうと考えられるのである。時を告げるに値するように、田のなかでも天皇のための田、御田の生育をきちんと管理できるような導排水の仕組みを拵えたというのである。ツゲ(黄楊)の木は狂いが生じにくく、櫛のような細工物に多く用いられている。細密な木工である。
 つまり、並みいる諸国の匠のなかでもヒダの名を冠する飛騨の匠こそ、精密な樋を作るのに長けた匠であるということになる。これは、ヤマトコトバを常用しているヤマトの人たちにとって、通念であり、常識とされた。ことことであると認めていた人たちにとっては、言葉が証明していることになっている。飛騨の匠について日本書紀に書いてないのに講書の竟宴和歌に登場しているのは、日本書紀の精神、すなわち、ヤマトコトバの精神を汲んでいるからである。竟宴和歌に歌われて違和を唱えられずに伝えられていることから翻って考えれば、日本書紀はヤマトコトバで書いてあるということの紛れもない証明となっている(注5)。漢籍に字面を求める出典論は日本書紀研究の補足でしかない。

(注)
(注1)梅村2010.は、「琴の音色が素晴らしかったからであろうか、天皇が飛騨の匠の罪を許したのは。」(214頁)と訳している。「あはれなればや」の「や」は反語を表す。天皇が飛騨の匠の罪を許したのは、琴の音色が素晴らしかったからであろうか、いやいやそうではない、の意である。
(注2)水口2024.は、飛騨工ひだのたくみについて次のように位置づけている。すなわち、大宝令以降に定められたものであり、藤原宮の造営のように木工に対する需要が高まってきたことと関係がある。そして、木工寮は木作採材を司る宮内省被官の官司、また、八世紀初頭から史料に現れる造宮省(職)は、 宮城の造営を司る令外官であり、平城宮・平安宮などの造宮には大いに活動した。奈良朝から散見する修理職は弘仁期から常置され、宮殿の修理造作に従う令外官であった。飛騨工は、律令制定時ぐらいから造宮に携わり、奈良〜平安前半(少なくとも九世紀段階)の間、飛騨工は造宮(修理)に当たる者であるという認識があった。
(注3)拙稿「有間皇子謀反事件に斬首の塩屋鯯魚(しおやのこのしろ)について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/2cf5283bf20eb7d4cc3a0d3ea68114e7参照。
(注4)日本書紀や万葉集のなかで飛騨に関する記述としては次のようなものがある。筆者は、仁徳紀六十五年条の異様な人物は、飛鳥の石神遺跡出土の石人像の噴水の形とよく似ているように思う。
左:須弥山石、右:石人像(レプリカ再現、飛鳥資料館展示品)
 六十五年に、飛騨国ひだのくに一人ひとりのひと有り。宿儺すくなと曰ふ。其れ為人ひととなりむくろひとつにしてふたつかほ有り。面おのおのあひそむけり。いただき合ひてうなじ無し。各手足てあし有り。其れひざ有りてよほろくびす無し。力さはにしてかろし。左右ひだりみぎつるぎきて、よつの手にならびに弓矢をつかふ。是を以て、皇命みことに随はず。人民おほみたから掠略かすみてたのしびとす。是に、和珥臣わにのおみおや難波なにはの根子ねこ武振熊たけふるくまつかはしてころさしむ。(仁徳紀六十五年)
 又みことのりしてのたまはく、「新羅しらきの沙門ほふし行心かうじむ皇子みこ大津謀反みかどかたぶけむとするにくみせれども、われ加法つみするにしのびず。飛騨国の伽藍てらうつせ」とのたまふ。(持統前紀朱鳥元年十月)
 冬十月の辛亥の朔にして庚午に、進大肆しんだいしを以て、白き蝙蝠かはぼりたるひと飛騨国の荒城郡あらきのこほりのひと弟国部おとくにべの弟日おとひに賜ふ。あはせふとぎぬ四匹よむら・綿四屯よもぢ・布十端とむらを賜ふ。其の課役えつきは、身を限りてことごとくゆるす。(持統紀八年十月)
 白真弓しらまゆみ 斐太ひだ細江ほそえの 菅鳥すがとりの 妹に恋ふれか かねつる〔白檀斐太乃細江之菅鳥乃妹尓恋哉寐宿金鶴〕(万3092)
  黒き色を嗤笑わらふ歌一首〔嗤咲黒色歌一首〕
 ぬばたまの 斐太ひだ大黒おほぐろ 見るごとに 巨勢こせ小黒をぐろし 思ほゆるかも〔烏玉之斐太乃大黒毎見巨勢乃小黒之所念可聞〕(万3844)
 斐太ひだひとの 真木まき流すといふ 丹生にふの川 ことかよへど 船そ通はぬ〔斐太人之真木流云尓布乃河事者雖通船曽不通〕(万1173)
 かにかくに 物は思はじ 斐太人の 打つ墨縄すみなはの ただ一道ひとみちに〔云々物者不念斐太人乃打墨縄之直一道二〕(万2648)

 語呂合わせの地口にヒダノタクミと言っているに過ぎないから、大層な技術を持っていたかどうかは不明であり、ちょっとした水口用の細工だけでもかまわない。それまでの掛け流し灌漑と違う方法で、畦畔に樋口をつけるだけであっても一枚の田が崩壊せずに済むことは、場所によってはとてもすばらしい新技術であったかもしれない。
(注5)上代、人の名は、名に負う存在だからその体現に努めたとされるが、その名とは呼ばれるものであった。戸籍があって誕生と同時に命名されるものではなく、人にそう呼ばれることで名を体した。今日いう綽名に近いものである。そういうことだからそういうことにし、そういうことだからそういうこととして暮らしていた。文字を持たない文化は、言事一致、言行一致を求めることで確からしい全体状況に落ち着くことができた。そういう前提に立たなければ、無文字社会はカオスに陥ったであろう。

(引用・参考文献)
梅村2010. 梅村玲美『日本紀竟宴和歌─日本語史の資料として─』風間書房、2010年。
工楽1991. 工楽善通『水田の考古学』東京大学出版会、1991年。
国史大辞典 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第11巻』吉川弘文館、平成2年。
思想大系本律令 井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫校注『日本思想大系3 律令』岩波書店、1976年。
西崎1994. 西崎亨『本妙寺本日本紀竟宴和歌 本文・索引・研究』翰林書房、平成6年。
日本紀竟宴和歌・下 藤原国経ほか『日本紀竟宴和歌 下』古典保存会、昭和15年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115791/1/
水口2024. 水口幹記「日本書紀講書と竟宴和歌─「飛騨の匠」の形成と流布─」小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝来』雄山閣、令和6年。

熟田津の歌について─精緻な読解と史的意義の検討─ 其の三

2024年11月09日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
 船団がどの程度の規模であったかはわからない。

 五月に、大将軍おほきいくさのきみ大錦中だいきむちう阿曇比羅夫連あづみのひらぶのむらじ船師ふないくさ一百七十艘ももあまりやそふなて、豊璋ほうしょう等を百済国に送りて、みことのりりて、豊璋等を以て其の位を継がしむ。(天智紀元年五月)

 「一百七十艘」という船の数は、後述する白村江の海戦の時の唐軍の船の数と同じである。なお、天智10年11月に唐領百済から倭に向かった船の数は、47隻、人数は2000人とある。そのまま行くとびっくりして一触即発になるだろうからと、事前通告のために使者が来ていると知らせている。この記事は信憑性が高い。斉明天皇の船団の船数を絞り込むことはできないものの、相当数であったことは確かである。
 船団を組んで進んでいた時、大海人皇子が水先案内人(パイロット)役を担っていたと考える。彼の乳母はその名から、丹後国加佐かさ凡海おほしあま郷、現在の京都府舞鶴市付近に拠点を置いていた凡海(大海)氏であり、いわゆる海人族に育てられたとされている。そのつてで航海技術を持った人は雇われていたに違いあるまい。誘導されるままに斉明天皇らの乗った御船号は進んだ。しかし、難波津のある大阪湾や山陰・北陸の日本海側の海岸の状況と、瀬戸内海西部とでは様子が違っていた。潮汐においてである。

※潮汐表a・bによる。*は「日本沿岸736港の潮汐表」「Anglrタイドグラフ」による。略最高高潮面:満潮時などにこれより高くならないと想定される潮位、大潮升:最低水面から大潮の平均高潮面までの高さ、大潮差:大潮の平均潮差、小潮升:最低水面から小潮の平均高潮面までの高さ、小潮差:小潮の平均潮差、平均水面:潮汐がないと仮定した海面、平均潮差:満潮位と干潮位の平均潮差、平均高潮間隔:月がその地の子午線を経過してから高潮となるまでの平均時間(注11)
 大潮差は、日本列島沿岸では九州の東シナ海側が最も大きく、有明海の佐ノ江では4.6mにも達する。ところが日本海側ではほとんどなく、舞鶴で20㎝に満たない。問題となる松山では2.8m、博多では1.6mである。難波津の値を現在の大阪にとると、1m弱である。潮の干満の大きさに驚いたことであろう。油断して接岸したところ、干潮になると沖合いはるかに干上がっていた。いちばん大きな「御船」号は干潟の奥に取り残された。大海人皇子は皮肉られて仕方のない立場に立たされている。
 古代の船の運航については、上述したように、潮の干満を利用した座礁形式の停泊が行われていた。それがうまくいくためには、船が泊まる津となる場所が、安定的な潮の干満を繰り返していることが望ましい。古代によく利用された難波津(大阪)をみると、大潮の時の平均的な水面の高さ(大潮升)は1.4m、小潮の時のそれ(小潮升)は1.1mである。わずかに30cmしか違わない。つまり、大潮、小潮にあまり関係なく、日に二回、定期的に潮が満ちてくる。これは、船の発着便として必ず日に二回チャンスがあるということであり、時刻表ができることを意味する。そして、海が荒れようとも、砂嘴によって守られているラグーン(潟湖)にある難波津は、天然の良港になっていた。
 日本で最も干満差の大きい有明海の住ノ江では、大潮升5.1m、小潮升3.5mである。1.6mも差がある。大潮の時に船で陸地いっぱいまで来て座礁式に停泊をすると、概念的には、15日後、30日後、45日後、といった日の満潮を待たなければ、船は再び海水の上に浮かぶことはなくて出航できないことになる。そこをタイダル・フラット(干潟)と呼ぶ。熟田津も同じであった。 
 白村江の戦いの様子は紀では簡潔に書かれている。天智2年(663)に戦局は急転回する。百済王に擁立された豊璋は、6月になって近侍の者の讒言を聞き入れてしまい、将軍の鬼室きしつ福信ふくしんと内輪揉めを起こす。福信は滅亡した百済を孤軍奮闘し、どうにか再興にこぎつけた英雄であった。結局彼は、「腐狗痴奴くちいぬかたくなやつこ」と奸侫な輩を罵りながら死刑に処せられた。8月13日には、良将のいなくなったことを知った新羅軍が、百済の王城、州柔つぬを目指して押し寄せる。三国史記・金庾信伝にも記載がある。豊璋は、そのとき牙城であるべき州柔城を抜け出して倭の援軍の来る白村江へ赴く。17日、敵軍は州柔城を包囲し、また唐の海軍も戦艦170艘が白村江に陣を堅固にして位置についた。
 27日に倭の海軍の先発隊が白村江に到着し、緒戦に敗れて退却する。決戦は翌28日である。

 秋八月の壬午の朔にして甲午(13日)に、新羅、百済王くだらのこしきおの良将よきいくさのきみを斬れるを以て、ただに国に入りて州柔つぬを取らむことをはかれり。是に、百済、あたの計る所を知りて、諸将もろもろのいくさのきみかたりて曰はく、「今聞く、大日本国やまとのくに救将すくひのいくさのきみ廬原君臣いほはらのきみおみ健児ちからひと万余よろづあまりを率て、まさに海を越えて至らむ。願はくは、諸の将軍等は、あらかじめ図るべし。我自らきて、白村はくすきに待ちへむ」といふ。
 戊戌(17日)に、賊将あたのいくさのきみ、州柔に至りて、其の王城こきしのさしかくむ。大唐もろこし軍将いくさのきみ戦船いくさふね一百七十艘ももあまりななそふなを率て、白村江はくすきのえ陣烈つらなれり。
 戊申(27日)に、日本やまと船師ふないくさづ至る者と、大唐の船師と合ひ戦ふ。日本、不利けて退く。大唐、つらかためて守る。
 己酉(28日)に、日本の諸将と、百済の王と、気象あるかたちを観ずして、相かたりて日はく、「我等先を争はば、彼おのづからに退くべし」といふ。更に日本のつら乱れたる中軍そひのいくさひとどもて、進みて大唐の陣を堅くせるいくさを打つ。大唐、便ち左右もとこより船をはさみてかくみ戦ふ。須臾之際ときのまに、官軍みいくさ敗続やぶれぬ。水におもぶきておぼほれ死ぬる者おほし。艫舳へとも廻旋めぐらすこと得ず。朴市えちの田来津たくつあめに仰ぎて誓ひ、歯をくひしばりていかり、数十人とをあまりのひとを殺しつ。ここたたかひせぬ。是の時に、百済の王豊璋、数人あまたひとと船に乗りて、高麗こまに逃げ去りぬ。(天智紀二年八月)

 豊璋は高句麗に逃げ、9月7日に州柔は落城する。百済側の内訌や王の単独行動も不可解であるが、倭の海軍も、戦術も何もあったものではない。白村江、錦江の河口を我も我もとただ進んで敗れている。唐の戦艦は十日も前から準備して待っていた。そこへ「気象」を考えないで進軍し、両側から挟まれてすぐに負けている。退却しようにも、「艪舳不廻旋。」となってしまった。
 舳艫とは、もとは船の大きさを示す熟語であった。それを舳と艫とに分解して、船首と船尾とを表そうとした。ところが、どちらがどちらか混乱していく。新撰字鏡には、「舳 以周・治六二反、艪舳、止毛とも」、「艫 力魯反、舟前鼻也、」、和名抄には、「舳 兼名苑注に云はく、船の前頭は之れを舳〈音は逐、楊氏漢語抄に、船の頭の水を制する処なりと云ふ。和名は〉と謂ふといふ。」、「艫 兼名苑注に云はく、船の後頭は之れを艫〈音は盧、楊氏に舟の後に櫂を刺す処と曰ふ。和語に度毛ともと曰ふ〉と謂ふといふ。」とある。名義抄では、区別をあきらめて「舳 ヘ、トモ」、「艫 トモ、ヘ」と両訓をつけている。紀では、「舳艫」・「艫舳」の例は、全部で5例あり、傍訓ではそれぞれ、トモヘ、ヘトモ、また後者はフネとも振られている。

 ……皇軍みいくさ遂にひむかしにゆく。舳艪ともへげり。まさ難波碕なにはのみさきに到るときに、……(神武前紀戊午年二月)
 又、筑紫の伊覩県主いとのあがたぬしおや五十迹手いとて、天皇のいでますをうけたまはりて、五百枝の賢木さかきじ取りて、船の舳艫ともへに立てて、……穴門あなと引嶋ひこしま参迎まうむかへて献る。(仲哀紀八年正月)
 是歳、新羅の貢調使みつきたてまつるつかひ知万沙飡ちまささん等、もろこしの国のきものを着て、筑紫に泊れり。朝庭みかどほしきまましわざ移せることをにくみて、訶嘖めて追ひ還したまふ。時に、巨勢大臣こせのおほおみ奏請まをしてまをさく、「まさに今新羅を伐ちたまはずは、後に必ず当にくい有らむ。其の伐たむかたちは、挙力なやむべからず。難波津より、筑紫海のうちに至るまでに、相ぎて艫舳ふねを浮けてて、新羅を徴召して、其の罪を問はば、やすく得べし」とまをす。(孝徳紀白雉二年是歳)
 是歳、百済の為に、まさに新羅を伐たむと欲して、乃ち駿河国に勅して船を造らしむ。已につくりをはりて、続麻郊をみのき至る時に、其の船、夜中にゆゑも無くして艫舳へともかへれり。ひとびとつひに敗れむことをさとりぬ。(斉明紀六年是歳)

 紀において、舳艫、艪軸の使い分けに意味があったかどうか、筆者には整理がつかない。斉明紀六年是歳条の例は、新造船を続麻郊、現在の宇治山田に近い三重県多気郡明和町まで航行させ、一晩浜辺に陸揚げしておいた。ところが、翌朝になってみると、船首と船尾が反対を向いていたというのである。「其船夜中無故艫舳相反」と書いてあるが、何のことはない、夜中に潮が満ちて船が浮かび、くるりと向きを変えて朝には潮が引いていたということである。宇治山田の大潮差(平均高高潮-平均低低潮)は1.7mである。十分にあり得る値である。「無故」とは理由がないのではなく、潮汐という自然現象がわかっていないことを示した記述に他ならない。前後不覚に「艫舳」と反してしまった。敗戦の予兆を表す記事にふさわしい。
 天智紀二年八月条の白村江の戦いにおいて、「艫舳不廻旋。」とある。みじめな敗戦記事を端的に表現している。実際に起ったのは、河口をいったん遡ったらUターンできずに壊滅したという事態である。引き返そうにも向きを変えられず、唐軍に殲滅せられた。百済を救うために新羅と戦うはずが、援軍の唐と戦って敗れている。戦術的にも外交的にも方向転換が利かなかったことを象徴的に表した記事である。
 「気象」とは、木や風向きなど大気中の変動を表す言葉であるが、ここでは潮位の変化、干満の差の大きさを指し示している。唐の海軍が陣を布いたのは8月17日である(注12)。月齢と潮汐の関係が、それも季節的な変化について経験的に理解されている。特に秋分点頃がいちばん上げ潮がきついと知っていたに違いない。ちょうどその条件のとき、唐軍は白村江において、干満の具合を確かめながら、艦船はそれぞれの持ち場についている。
 白村江、今の錦江クムガンの河口、群山クンサンでは、大潮差は6.0m、小潮差でも2.8mに及ぶ。単純計算で熟田津の二倍以上である。元嘉暦で記されていると推定する一般の説によれば、天智2年は閏月のない年で、8月は小月に当たって29日までである。白村江の決戦は、天智2年(663)8月28日、朔の2〜3日前に河口で戦っている。潮汐表bによって、韓国、全羅北道の群山(緯度35°59′N、経度126°43′E)における、新暦の2002年10月4日(旧暦8月28日)の値を参考にみると、月齢は27.0、月の南中時は10:25である。当日の潮位(潮時)は、614cm(1:33)、136cm(8:30)、574cm(13:51)、83cm(20:40)となっている。約5mもの潮位差がある。今日、セマングムという世界一長い防潮堤が築かれているところである。唐軍は、干満差の激しいことを17日に着いて知っている。2002年でいえば9月23日に当たり、612cm(4:29)、104cm(11:27)、606cm(16:41)、0.7m(23:30)とさらに激しい(注13)
 決戦の時刻が何時頃なのか記載がないが、昼間の戦いであったなら、朝、引いていた潮が、午前中にだんだんと上げ潮になっていって5mほど水位が高まり、その後は反対にどんどん引き潮に変わった。つまり、「艫舳不廻旋。」とは、午前中に川の逆流に乗って先を争って敵に進撃していったところ、両側に陣構えしていた唐の艦船は、川の中央へ向って並んで左右から進み、乱れ進んできたものの流れが止まって動けなくなった倭の艦船を挟み撃ちにした。向きも変えられない倭の艦船を俎上にとらえて、火矢で射、次々と焼いていった。唐側の資料では、旧唐書・劉仁軌伝に、「仁軌遇倭兵於白江之口、四戦捷、焚其舟四百艘。煙燄漲天、海水皆赤。賊衆大潰、余豊脱身而走。」とある。実際の戦闘がいかなるものであったのか確かめ切れないものの、日本書紀のこの部分を書いた人の表現としては、以上のように考えるのが妥当であろう。錦江の逆流を起こす役割を果しているのは、伍子胥ならぬ百済の福信である。海を知らない水軍が、海に敗れたのであった。
 もとより、万葉集の編者がこの熟田津の歌を撰んだのは、極めて杜撰な参戦体制を伝えるためであったろう。狂信的な斉明朝の本質に肉薄するのにとても鋭い切り口である。しかし、それだけを伝えたかったのではない。都に残っていた有力豪族の中には、天智天皇が位につき、中臣鎌足が引き続き内大臣の座に座ることに反感を覚えていた者もあったであろう。天智称制は6年5カ月に及んでいる。その後、近江遷都に批判的な勢力もいたはずである。しかし白村江の敗戦の責任は、司令官の中大兄1人にあるのではなかった。反旗を翻すにも担ぎ上げるに足る皇子がいなかった。大海人皇子の失策こそが敗因となれば大義が立たない。そういう政治力学を編者は伝えたかったのではないか。歌が予祝するもの、時代をリードするものと考えられたなら、斉明天皇代の皇子どうしの力関係だけでなく、次の天智朝を占う意味にも解釈されていたとして過言ではない。
 万葉集の最初の編者は、日本書紀と深く関わりを持っていると筆者は考えているが、紀が書かれたのは早くても天武紀十年(681)三月条にある詔以降のことである。額田王の熟田津の歌の斉明7年(661)から20年経っている。この歌の内実を知っている人が編んでいる。しかし、後の人のつけた左注は要領を得ていない。この額田王の歌は、歌われてからほんの少しの間だけ話題になり、しばらくしてからは人の口に上らなくなったのであろう。斉明天皇の崩御のこともある。戦時中にもかかわらず、政府の失敗からの解放を喜んでいる歌でもある。白村江の敗戦を迎え、熟田津のしくじりが後の戦況に大きく影響しているうえに、経験が教訓として少しも生かされていないとしたら、人々は口を緘したに違いない。潮の干満を、ヤマト朝廷が身に染みて知った最初が熟田津であったということである。そして、万葉集の当初の編纂は、当時の専制政治に対して危険を伴う私秘撰であったと考えられるのである。

(注)
(注1)7世紀の遺構については、橋本2012.参照。
(注2)多くの感染症は科学的知見を得るまで「神忿」として捉えられてきた。
(注3)不改常典の法については、皇位は天皇からその子や妻へと継嗣するとは限らず、臨機応変にふさわしい人を当てるのが望ましいというものであったことに関しては、拙稿「「不改常典」とは何か」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/3bddbb4328249f122b7eb1c665c3ff83参照。
(注4)この「笠」については、新川1999.、拙稿「中大兄の三山歌について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/40096f25187bcf13d2a77224fe00e069ほか参照。
(注5)記紀のなかでも、大国主神おほくにぬしのかみはいろいろな名前を持っており、名を替えては変身を遂げ、それまでとは異なる役割を担っている。大己貴神おほあなむちのかみ大穴牟遅神おほあなむぢのかみ)となれば国作り、八千矛神やちほこのかみとなれば遠くまで婚活に出掛けていた。日本武尊やまとたけるのみこと(倭建命)は、もとは日本童男やまとをぐな倭男具那王やまとをぐなのみこ)といった。その名易えの意味合いについては、拙稿「ヤマトタケル論─ヤマトタケルは木霊してヤマトタケ…と聞こえる件─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/2be6869dc94a6cd22eab0ba37b3578dcほか参照。また、応神天皇は皇太子時代、角鹿つぬが(敦賀)の気比けひ神宮の大神と名を交換したという話がある。拙稿「古事記の名易え記事について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/484020bdb17fb44c8991eed6b4500207参照。
(注6)一例としてあげると、1944年に起きた大規模な昭和東南海地震も、情報統制され、被害は隠蔽されている。
(注7)旧暦で閏月の現れる年の前年で、新暦の日付との対応が新暦に2月29日があるという点からほぼ同じとみて参照した。
(注8)海上保安庁海洋情報部の「潮汐推算」(https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KANKYO/TIDE/tide_pred/index.htm)から、斉明7年(661)の松山の潮汐模様が検索可能である。八木2010.、清原2013.らも3月15日説をとるが、座礁失態とは考えていない。「八番歌の夜の船出は、当事者たちが知恵と経験を縒り合わせ、満月の晩の月と潮の妙なる照応関係を行程上の要件に組み込んで演じたページェントであった」(八木2010.31頁)としている。船の航行において、海を横切ることをことさらに難事とするが、瀬戸内海の漁業者は当時も日常的に船を出して漁をしていたであろう。
(注9)動揺を隠せない発話とすれば、「不知所作有何事耶。」(皇極紀四年六月)は、「知らず。る。何事や有る。」と訓むとも考える。
(注10)不動明王像についての儀軌として伝わるもので、飛鳥時代にさかのぼるものは今日、見られない。
(注11)潮汐に関する用語については、海上保安庁第六管区海上保安本部・海の相談室「潮汐に関する用語について」(http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN6/5_sodan/mame/topic28.htm)において、「広島港の潮位関係図」の図を用いたわかりやすい解説に負っている。
(注12)「銭塘江の海嘯」(http://china.hix05.com/now-2/now211.pororoca.html)参照。アマゾン川のポロロッカと並び称される潮津波、タイダル・ボアである。ポロロッカは春分の頃の朔月の大潮時、銭塘潮は秋分の頃の望月の大潮時に大波が見られる。この現象については、春秋時代、呉越の争いの最中に、奸侫な者の讒言によって、呉王夫差から死を賜った伍子胥の怨念のせいであるという迷信があったらしい。一世紀、王充の論衡・書虚篇には否定的な見解が述べられている。「伝書に言はく、呉王夫差は伍子胥を殺し、之をかまに煮て、乃ち鴟夷のふくろを以て之を江に投ず。子胥恚恨し、水を駆りて涛を為し、以て人を溺殺す。今時会稽の丹徒の大江、銭唐の浙江に、皆子胥の廟を立つ。蓋し其の恨心を慰め其の猛涛を止めんと欲するなりといふ。夫れ呉王の子胥を殺し、之を江に投ずは実なるも、其の恨、急に水を駆りて涛を為すと言ふ者は、虚なり。……涛の起るや、月の盛衰に随ひ、小大満損、齊同ならず。(伝書言、夫差殺伍子胥、煮之於鏤、乃以鴟夷橐投之於江。子胥恚恨、駆水為涛、以溺殺人。今時会稽丹徒大江、銭唐浙江、皆立子胥之廟。蓋欲慰其恨心止其猛涛也。夫殺子胥投、之於江実也、言其恨急駆水為涛者虚也。……涛之起也、随月盛哀、小大満損、不齊同。)」とある。
(注13)20世紀の朝鮮戦争時、仁川インチョン上陸作戦において、国連軍(アメリカ軍)は潮の干満差の大きいことを十分に検討している。

(引用・参考文献)
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大系本万葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。
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※本稿は、2015年1~2月稿を、趣旨に変更はないまま、新たに接した文献を加え、2020年11月に改稿し、2024年11月にルビ形式にしたものである。文字数が超過したため「其の三」を設けた。

家持の立山の賦と池主の敬和賦

2024年11月04日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 

 万葉集巻十七に、大伴家持と池主との間で交わされた、越中国の立山にまつわる歌のやりとりが載っている。当時はタチヤマと呼ばれていた。

  立山たちやま一首〈并せて短歌、此の立山は新川郡にひかはのこほりに有るぞ〉〔立山賦一首〈并短謌 此立山者有新川郡也〉〕
 天離あまさかる ひなに名かす こしなか 国内くぬちことごと 山はしも しじにあれども 川はしも さはけども 皇神すめかみの うしはきいます 新川にひかはの その立山たちやまに 常夏とこなつに 雪降りしきて ばせる 片貝川かたかひがはの 清き瀬に 朝夕あさよひごとに 立つ霧の 思ひ過ぎめや ありがよひ いや年のはに よそのみも 振りけ見つつ 万代よろづよの かたらひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ 音のみも 名のみも聞きて ともしぶるがね〔安麻射可流比奈尓名可加須古思能奈可久奴知許登其等夜麻波之母之自尓安礼登毛加波々之母佐波尓由氣等毛須賣加未能宇之波伎伊麻須尓比可波能曽能多知夜麻尓等許奈都尓由伎布理之伎弖於<婆>勢流可多加比河波能伎欲吉瀬尓安佐欲比其等尓多都奇利能於毛比須疑米夜安里我欲比伊夜登之能播仁余増能未母布利佐氣見都々余呂豆餘能可多良比具佐等伊末太見奴比等尓母都氣牟於登能未毛名能未<母>伎吉氐登母之夫流我祢〕(万4000)
 立山に 降り置ける雪を 常夏に 見れども飽かず かむからならし〔多知夜麻尓布里於家流由伎乎登己奈都尓見礼等母安可受加武賀良奈良之〕(万4001)
 片貝かたかひの 川の瀬清く く水の 絶ゆることなく ありがよひ見む〔可多加比能可波能瀬伎欲久由久美豆能多由流許登奈久安里我欲比見牟〕(万4002)
  四月二十七日に、大伴宿禰家持作れり。〔四月廿七日大伴宿祢家持作之〕
  立山たちやまの賦をつつしみてこたふる一首、并せて二絶〔敬和立山賦一首并二絶〕
 朝日さし そがひに見ゆる かむながら 御名みなばせる 白雲の 千重ちへを押し別け あまそそり 高き立山たちやま 冬夏と くこともなく 白栲しろたへに 雪は降り置きて いにしへゆ ありにければ こごしかも いはかむさび たまきはる 幾代いくよにけむ 立ちてて 見れどもあやし 峰だかみ 谷を深みと 落ちたぎつ 清き河内かふちに 朝去らず 霧立ちわたり 夕されば くもたなびき 雲居なす 心もしのに 立つ霧の 思ひすぐさず く水の 音もさやけく 万代よろづよに 言ひ継ぎかむ 川し絶えずは〔阿佐比左之曽我比尓見由流可無奈我良弥奈尓於婆勢流之良久母能知邊乎於之和氣安麻曽々理多可吉多知夜麻布由奈都登和久許等母奈久之路多倍尓遊吉波布里於吉弖伊尓之邊遊阿理吉仁家礼婆許其志可毛伊波能可牟佐備多末伎波流伊久代經尓家牟多知氐為弖見礼登毛安夜之弥祢太可美多尓乎布可美等於知多藝都吉欲伎可敷知尓安佐左良受綺利多知和多利由布佐礼婆久毛為多奈毗吉久毛為奈須己許呂毛之努尓多都奇理能於毛比須具佐受由久美豆乃於等母佐夜氣久与呂豆余尓伊比都藝由可牟加波之多要受波〕(万4003)
 立山に 降り置ける雪の 常夏に ずてわたるは かむながらとそ〔多知夜麻尓布理於家流由伎能等許奈都尓氣受弖和多流波可無奈我良等曽〕(万4004)
 落ちたぎつ 片貝川の 絶えぬごと 今見る人も まず通はむ〔於知多藝都可多加比我波能多延奴期等伊麻見流比等母夜麻受可欲波牟〕(万4005)
  右は、じょう大伴宿禰池主和へたり、四月二十八日〔右掾大伴宿祢池主和之四月廿八日〕

 家持が「立山たちやま(注1)として作った万4000番歌は、これまで立山を賞讃する歌であるとばかり思われ、都から離れた鄙の地にありながらそれなりの素晴らしさを述べているものと考えられてきた。二上山の賦の流れを汲んでいるとも、人麻呂等によって歌われたいわゆる吉野讃歌や、赤人の「望不尽山歌」(万317〜318)、「登神岳歌」(万324〜325)の表現を踏襲しているとも捉えられている(注2)
 もし仮にそうであったとしたら、これら立山を詠んだ歌には歌としての新鮮味はなく、前作を凡庸に引き継ぎながら立山を対象に替えて詠んだに過ぎないことになる。しかし、そのようなことは考えにくい。歌は、その時その場において声として発せられたものである。テーマを変えながら同じようなことを言っているだけだとしたら、作者も、その歌を周囲で聞いた人も、ましてその歌に対して敬して和した歌を歌った人も、それまでも周りで聞かされている人も、漫然と替え歌のど自慢を耳にしているだけということになる。耐えられない退屈さである。おもしろくないことは覚えられることはなく、編纂したとされる人は最初の歌を作った家持であるとされるが、誇りをもって自身の作を採録することはないだろう。

 

 何がおもしろかったか。万葉の歌は言葉遊びである場合がきわめて多いから、それがおもしろかったのであろう。最初の万4000番歌の長歌後半部分に、歌句に現れていて明らかである。「万代よろづよの かたらひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ 音のみも 名のみも聞きて ともしぶるがね」。タチヤマという言葉を告げれば羨ましがること間違えなしと言っている。言葉が問題なのであって実景など適当に見繕っている程度ということになる。当該歌群はこれまで十分に理解されてこなかったのである。
 最初の「立山賦一首」(万4000)の題詞には「此立山者有新川郡也」(注3)と脚注があって殊更に強調されている。歌のなかで出てくる地名としては、「こしなか」、「新川にひかは」、「立山たちやま」、「片貝川かたかひがは」がある。これらの地名に関連した語呂合わせが行われていると考えられる。
 最初の「こしなか」は越中国のことで言わずもがななのであるが、解釈が定まっているわけではない。「天離あまさかる ひなに名かす」はどこに懸かっているのかが問われている。「懸かす」の「「す」は「こし」の国の神に対する尊敬語。」(集成本98頁)なる説がある。そして、「立つ」ということを名に懸けて、名高い、の意ゆえ「その立山の」に掛かるとする説(橘千蔭・万葉集略解所引の本居宣長説(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/874431/1/145)、大系本229頁、全集本214頁、中西1983.121頁、橋本1985.239〜240頁、多田2010.312頁、新大系文庫本387頁、稲岡2015.230頁)があり、「以下九句は「その立山」を修飾する挿入句。」(多田2010.312頁)などと説明されている。他方、直下の「越の中」に掛かるとする説(契沖・萬葉代匠記(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979065/1/146)、鴻巣盛広・萬葉集全釈(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1259724/1/151)、武田1957.477頁、窪田1985.278~279頁、廣川2003.153〜154頁、阿蘇2013.221~222頁)がある。「「鄙に名懸かす」は、その地方で有名な、の意。」(阿蘇2013.222頁)などと説明し、「都から遠く離れた地方で名高い越の中の国の至る所に」(同221頁)と訳している。
 言葉尻というものがわかっていない。次の歌は、柿本人麻呂が作った明日香皇女への挽歌である。

 …… 御名みなかせる 明日香あすかがは ……(万196)

 名に負っている、の意である。万196番歌の場合のスは尊敬の助動詞ととれはするが、万4000番歌の場合は自発の助動詞と捉えたほうがいいだろう。名に負うことについては、固有名詞である地名は、根拠が先にあって名づけられたわけではなく、すでにそう呼ばれていたものに対してこじつけをして理解の足しにすることが行われた。すなわち、「ひなに名かす」とは、ひなという言葉に自発的にかっている、の意である(注4)。都ではなく鄙であるとは、都から国境を乗り越えてやってきたところのことである。乗り越えてやってくることは古語で「こし」というから、その名のとおり鄙に値するというわけである。鄙であることを地名「こし」は勝手に懸かっていると言っている。「ひなに名かす」は「こし」を導く枕詞的序詞とも呼び得るであろう。
 これは歌である。だらだらと言葉を発し続けている時、九句飛ばして懸かっていることはあり得ない。聞いている人のメモリー機能のキャパシティを超えている。「新川にひかはの その立山たちやまに」の「その」を九句飛ばしの理由、思い出させるための指示詞と捉える説もあるが、題詞の脚注に「此立山者有新川郡也」と念を押しているように、ニヒカハとタチヤマとの意外な結びつきを暗示するための言葉であろう。この続き方の所以として考えられることは、ニヒカハが、ニヒ(新)+カハ(革)、新しく鞣された皮革を示唆している点にある。新しく作った鞣革を使って作った鞘におさめて整ったタチ(大刀)、そのタチという音を持ったタチヤマ(立山)に、云々、と続いて行くということである。その前にあるのは「皇神すめかみの うしはきいます」である。ウシハクとウシ(牛)が出てきていて、牛革がイメージされていたのだとわかる。これによって、越中国の二つの地名の地名譚がなるほどと思われるのである。タチヤマ(立山)はニヒカハ(新川)の郡にあって然るべしということであり、ゆえに、「新川にひかはの その○○立山たちやまに」と強調して言っている。
黒韋包金桐文糸巻太刀(室町時代、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035215をトリミング)
 「常夏とこなつに 雪降りしきて」(注5)とあるのも、鞘の話をしているからである。サヤという音は、サヤ(清)、サヤカ(亮、涼)、サヤケシ(分明)などの意をも表す。サエ(冴)と同根の語で、冷たく、くっきりと澄んでいるさまをいう。冷たいから夏でも雪が降っておかしくないのであり、夏じゅう雪が消えないというのは印象的なできごとである。けっして消えることがなく、雪の存在がくっきりしている。それをサヤという状態言が表している。実際、雷鳥の生息域にある万年雪は氷河であることが確認されている。むろん、現実を写実的に表そうと意図したわけではないが、結果的に言葉巧みに言い当てている(注6)
 タチヤマという音は、タチ(大刀)が山のようにあることを言っている。同じ刀剣類でも諸刃のツルギ(剣)のことではなく、片刃の大刀である(注7)。越中国で立山(連峰)をめぐる川は片貝川である。カタ○○カヒカハの名のとおり、半分ぐらいしか立山をめぐっていない。川が交差して両側から包んでいるのでもなく、片側からしか流れていない、ないしは、その名を体するのに十分な流路を形成している。カタカヒの対義語はマガヒ(紛)である。マガフ(紛)という動詞のうち他動詞になると、入り乱れてあるものを他のものと見間違え、区別がつかなくなることの意になる。

 が丘に 盛りに咲ける 梅の花 残れる雪を まがへつるかも(万1640)

 マガフことがないのがカタカヒ状態である。二つの河川が交わる時、清流と濁流とが流れ込んでどちらの川の水であるか区別がつかなくなっていることがある。そういうことなく、上流から流れてきた水はどこの瀬をとってみても清らかなまま流れてきていると言っている。そして、そこから沸き立った霧も、けぶってよく見えずに紛うことへと影響を及ぼすことがない。なぜなら、タチヤマなのだから、そこの霧は必ずタツ(断、絶)に決まっているというのである。霧という言葉自体、キリ(切)と同音である。
 地名譚としてこのように定めてしまえば、「かたらひぐさ」(注8)として長く受け継がれ、皆羨ましがるであろうと述べている。「万代よろづよの かたらひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ」は、都へ帰って土産話にしようということではない。興味深いことに、「人にも告げむ」と意志を表しているが、何を告げるかと言えば、いま歌にしているその歌の内容をである。歌のなかで歌っていることをそのまま告げると歌っている。枠組みフレームを設けずに論理階型を撞着させたもの言いである。このようなパラドキシカルなもの言いこそ、ヤマトコトバの論理術の特徴である。ある言葉が別の言葉と同じ音だからということでこじつけてしまう思考をくり返していれば、言葉は入れ籠構造としながら表に現れることになり、メビウスの輪、クラインの壺のような様相を呈することになるのである。
 大伴家持の「立山賦」は立山の地名譚であった。中国詩文の「賦」は、万葉集の題詞において、いかにも万葉集らしく転義されて用いられている。立山の情景を歌い、讃えていつつ、その実、地名の由来を語呂合わせによるこじつけで新解釈として披露し、洒落が利いていておもしろいだろうと誇るものであった。ことことであり、その限りで誤謬なくカタル(語、騙)ることができた時、歌の場に居合わせた人たちは、言葉の魔術師にすべての興味を持って行かれたのであった(注9)

 

 池主の「敬和」した一首、万4003番歌については議論が絶えない。「朝日さし そがひに見ゆる かむながら 御名みなばせる 白雲の 千重ちへを押し別け あまそそり 高き立山たちやま」を考えるとき、朝日のさす方向と立山の方向とばかりを見比べて、背中の方に当たると考えて「そがひに」関係を理解しようとしている。しかし、歌われて宙に放たれる言葉の連なりにおいては人々のメモリーの容量を超えている。そんなに離れている言葉どうしだけを対比させることはあり得ない。「そがひに」は背反している状態のことを指している(注10)。何が背反しているのか。朝日がさし込んでいる方向と立山の見える方向とばかりでなく、「朝日さし」のサシ(刺)と「立山」のタチ(断)とである。立山はタチヤマ(大刀山)であると聞こえる。タチ(大刀)は刺すことを主眼に作られたものではなく、断ち切ることを主目的として作られた刃物である。その点が背反して見えることを「そがひに見ゆる」と言っている。「かむながら 御名みなばせる」とはもちろん「立山」という名のことを指している。実景として朝日はさしているのだろうが、それとは反対ごととしてタチヤマという名の山があり、日の差す方向とは違う方に見えている。その妙を示す言葉が「神ながら」である。神意のままに、の意であると無批判に受け止められているが、どこに神は存在すると考えているのだろうか。ヤマトコトバを第一に重んじた上代の人は、言葉のなかに神がいると考えた。もちろん、それぞれの言葉に恣意的に神が宿ると考えていたわけではなく、Aという言葉はどうしてそう言うのだろう、その音の意味するところは別の言葉Bでもある。すると、Aという言葉とBという言葉とはどこかに通底する意味合いを含んでいるはずだと、時には強引に理屈づけて考察に及んでいた。その時、考えオチとして頓知的解釈が成り立ったなら、なるほどヤマトコトバは神憑っていると納得し、それを「神ながら」と表現している。
 池主は家持のモチーフを敬んで受け継ぐ形で和える歌にしている。タチ(大刀)の山のことをさらに深めて言おうと試みている。家持は「霧」としていたが、池主は「雲」と変えている。名刀「あま叢雲むらくも(注11)のことを思い浮かべているものと思われる。「いにしへゆ ありにければ」という句が正しく成り立つためには、事実としてそうだというその土地の人の昔語りだけではなく、いにしへからの、今日、神話と呼ばれる言い伝えが必要である。「ありにけり」に推量を示す言葉は含まれていない。
 しかし、それは「あま叢雲むらくもつるぎ」であり、諸刃である。片刃のタチ(大刀)ではない。だからこそ、白雲を帯びていながらタチ(断、絶)てしまうところがあって、それこそがタチヤマ(立山)なのだと強弁している。白雲を断って、さらには突き抜けて、天に向けそそり立っている。遠く眺めてみると、なるほど言葉どおりにそうなっていて、白雲が何重にもかかるものの、その白雲を断って押し別けるように聳え立っている。すなわち、タチという一語(音)のもとにタチ(断)でありつつタチ(立)であるという、背反していながらも無矛盾な状態、すなわち、「そがひに」状態になっている(注12)
 「そがひに」という語を持ち出して長歌を作った作者、大伴池主の修辞力は、今日から見れば異常に優れていると思われるかもしれない。けれども、上代の人、少なくとも歌をやりとりしている家持と池主、ならびにそれを聞いている人たちは、その時、その場で難なく理解したことであろう。つまり、理解を超えたものではなかった。うまくできているなと感心されはしても、それ以上のものではない。なぜなら、それ以前に誰かが、背反性、裏腹性を示す「そがひ(に)」という言葉を考案した時点で、すでに考え済みのことだからである。言葉の核心を突いてうまく応用して使っているから、おもしろいと思われ、皆が興ずることができたのである。

 

 二首ずつ付けられている短歌(絶)も形、内容とも「敬和」して対称形を成している。

 立山たちやまに 降り置ける雪を 常夏とこなつに 見れども飽かず かむからならし(万4001)
 立山に 降り置ける雪の 常夏に ずてわたるは かむながらとそ(万4004)

 五句目の「かむからならし」、「かむながらとそ」の意は、これまで、立山が神の山であってその性格に違わない、神そのままの姿としてある、などと解されてきた。これらは理解し難い。他にかむ奈備なびやまとされる山で万年雪をいただいているところは知られない。尋常ごとではないから神さまの仕業だろうと考えることも違和感がある。見てきたように、言葉の魔術師たちが言葉巧みに歌を作っている。彼らが専念して考えていることは修辞であり、語呂合わせである。そして、トコナツという言葉を用いている。雪は夏にはふつう見られないが、トコナツ二はあるのだと言っておもしろがっている。どうしてそんなことが言えるかと言えば、トコ(常)はトコ(床)と同音だからである。万年床のように雪が降り置いている。ヤマトコトバはこのようにうまい具合にできている。まさに神の性格ゆえらしい、神の意向ということである、と言っている。言葉のアヤを「かむから」、「かむながら」と表現しているのである。

 片貝かたかひの 川の瀬清く く水の 絶ゆることなく ありがよひ見む(万4002)
 落ちたぎつ 片貝川の 絶えぬごと 今見る人も まず通はむ(万4005)

 カタカヒの対義語がマガヒ(紛)だから、カタカヒは紛うことがないことを指していると上に述べた。家持は片貝川は他の濁った川と交わらないからどこの瀬でも清らかだと言っている。池主は片貝川は紛れもなく存在しているということで、絶えなく流れるさまを表している。この捉え返しのうまさは、第一に、「立山」をタチ(断)と絡めて考えていたこととあわさることになって意味の強化が図られている点にある。第二に、長歌でいにしへからの言い伝えを含意して歌っていたことを、ここで今後のことへと転じて時間軸の上に据えているところにある。

 以上見てきたように、大伴家持の「立山賦」、大伴池主の「敬和立山賦」は、言葉遊び(Sprachspiel)の歌である。言葉だけでやりとりし得る限りで最大限の言語ゲーム(Sprachspiel)のあり方としてヤマトコトバの歌は歌われ、それをもって歓びとしていた(らしい)。無文字時代の言葉は、耳に届くものでしかやりとりできなかったのである(注13)

(注)
(注1)「賦」と記されている三首(また池主の「敬和」歌を含めて五首)について、山田孝雄『万葉五賦』の、「都人士に語らひ草として見せむの下心もありしならむ思はる。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1340920/1/23)とする指摘が罷り通っている。鴻巣盛広『北陸万葉集古蹟研究』の、「任地にある名所を賦して、都への土産とする考であつたかも知れない。」(同https://dl.ndl.go.jp/pid/1225871/1/51、漢字の旧字体は改めた)を承けている。
 家持が「賦」と記した越中での長歌三首には、題詞に小注が付けられていて地理的情報を記している(「此山者有射水郡也」(二上山賦)、「此海者有射水郡旧江村也」(遊-覧布勢水海賦)、「此山者有新川郡也」(立山賦))。歌中でも風土にまつわる歌いまわしが行われており、それをもって山田氏のような言い分は生まれているわけだが、そんなことが行われたとは思われない。越中の地誌的知識を都で語ったとして誰が聞くだろうか。知らない土地の、今後とも交わることのない場所について、想像の翼を広げて思いを致すほど暇ではない。わざわざ小注を付けているのは念を押しているのである。そこにあるイミヅ(射水)、フルエ(旧江)、ニヒカハ(新川)という音が及ぼすヤマトコトバの膨らみを駆使して歌を作っている。だからそれをヒントになぞなぞを解いて欲しいと断っているのである。上代びとにとっての歌とは、音声言語の戯れであった。
 歌はその時、その場で聞いて意が理解され、共有されるものである。後になってよくよく考えて意が通じても役に立たない。周りにいる人を巻き込んで場を盛り上げる形で命脈を保つものが一回性の芸術、上代の歌である。そのために詠まれている。したがって、家持が越中でどのように暮らし、どのような人事があって異動となるのかを調べてみても、歌の内容を繙くことに資することはほとんどない。なぜ題詞に「賦」と称されているのかについても、文選などの中国詩文の影響があり、池主との間で詩歌の応酬をすることで中国趣味が高まっていた(辰巳1987.)といえばそのとおりであろうけれども、それは記述の問題で、人々の前で歌を披露した時に表明されたものではない。池主は「敬和」と承け、「并二絶」とあって、「賦」に対して「絶」という中国詩文の用語を持ち出している。これとても、周囲の人にとって「絶」として聞かれたのではなく、ウタとして聞かれたことに違いあるまい。ちょっと格好をつけて書いてはみたものの、結局流行らずに終わっている。
 行幸で宮廷人が連れ立って行っている地の地名を持ち出しているのではなく、ただ家持が赴任しているところの地名を持ち出しているにすぎない。ヤマトコトバの中心地とは距離があるのに歌の文句にしていたら、ほとんど東歌レベルになるわけであるが、ただその地の景観を歌っているのではなく、都にいる人たちを含めてヤマトコトバを話す人なら誰にでもわかり、おもしろがられる歌を創案したから皆さん聞いてくださいね、という意図をもって「賦」などと特別な名称を付けているのであろう。中国詩文の「賦」は漢字でずらずら書き連ねられているが、漢字が皆読める(ことを前提としている)のが中国の学芸水準の基本であった。(芳賀1996.は文選の初めから見られる長い賦ではなく、小篇の賦、経国集に収められている藤原宇合・棗賦のように「乱」の添えられていないものを引き合いに出しているが、家持の意図するところは、ずらずらと連なっていて一見理解できないかも知れないと思われるということを示そうとして「賦」と書いているものと考える。)彼の地の人がいちいち漢字をたどっていけば理解できるように、一見知らない地名が出てきたとしても、ヤマトの人ならその言葉をいちいちたどっていけばわかるようになっている、そういう歌のことを示そうとして、中国詩文の「賦」という書き方を採用したものと思われる。中国に影響されて受動的に「賦」という書き方をしているのではない。
(注2)諸論による。数多くの論者が、歌句が同じである、または似ているということを理由にして、立山賦以前に歌われた歌からの影響を指摘している。以前歌われた歌の歌句を継ぎ接ぎした時、歌意も以前歌われた歌と同じであると言うことらしい。万葉の時代に換骨奪胎はなかったとの主張なのか。筆者自身はこの次元の議論に与しない。
(注3)翻って、万196番歌の「懸かす」も、明日香皇女のお名前につけておいでの明日香川、という意ではなく、明日香皇女のお名前に自発的に懸かっている、勝手に名前がゆかりあるものになっている明日香川、という意味に受け取るべきである。
(注4)原文は校訂において、西本願寺本のような「此山者……」ではなく、「此山者……」(元暦校本等)と「立」字があるのが正しいだろう。理由は以下に述べている。
(注5)「常夏とこなつに」という語については、夏中通して、ととる説と、夏に限らずいつも、ととる説と、今を盛りの夏に、ととる説があげられている。雪を頂いている立山の表現を、常夏の島ハワイという現代語から推測することはできそうにない。「常初花とこはつはなに」(万3978)が、いつも咲き始めの花のように初々しいことを言おうとした表現であることから鑑みれば、いつも夏である時のこと、つまり、毎年夏が来た時にその間じゅう、のことを言っていると考えられる。つまり、トコナツ二という言い回しは、助詞の二の意味が効いているのである。冬はもちろん、春や秋であっても雪が降ることはある。しかし、夏に雪が降ることは想定されない。だから、夏という季節の間にまでも、それは毎年のことであるが、雪が降りしきっているということを言っている。
(注6)言い当てることこそ、ことことと相即となるという点で上代の言語使用の根幹をなしている。無文字時代にあって、ことことと一致するように努めることが、上代の人たちが言葉を使うに当たっての第一目的であり、「言霊ことだまさきはふ国」(万894)と呼べる言語空間の完成形であった。
(注7)全集本では、「立山」を現在の剱岳一帯を指すのではないかとするが、それがツルギダケと呼ばれていたとすると区別がついていないことになる。タチ(大刀)、ツルギ(剣)と別語としてあるのは、カテゴリー分けされていたことを物語る。
(注8)クサという言葉はどこにでもあって何の変哲もない有象無象のものであることを含意する。今後、特別な時、例えば祭礼において述べられる祝詞などの形で伝えられるのではなく、誰もが当たり前のこととして語られることを示す。ヤマトコトバに根を張ったクサ(草)ということである。
(注9)これが万葉集の歌の実相である。今日まで理解されていないのは、テキストがエクリチュールとしてあるため、文字文化のなかにある我々にとっては、空間をいっとき飛んだパロールであったという認識にたどり着きにくいからである。結果、現代の概念を持ち込んで、立山の聖性、国褒め、王権の讃美、漢詩文の影響などというキーワードによって解されている。これまで築いてきた研究土壌の上に皆立っている。しかし、それらは架空、幻想である。万葉集の歌を理解するということは駄洒落を理解することであると認め、高等教育の場に位置づけられる「万葉」なるものを解体していくこと、築いてきたものはみな虚構であったと気づいていかなければならない。
(注10)拙稿「そがひについて」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/02b50c2b4222ebe6fafcd500c7fbe8b3参照。
(注11)「時に素戔嗚尊すさのをのみこと、乃ち所帯かせる十握剣とつかのつるぎを抜きて、つだつだに其のをろちを斬る。尾に至りて剣の刃少しき欠けぬ。かれ、其の尾を割裂きてみそなはせば、中にひとつの剣有り。これ所謂いはゆる草薙剣くさなぎのつるぎなり。〈草薙剣、此には倶娑那伎能都留伎くさなぎのつるぎと云ふ。一書あるふみに曰はく、もとの名は天叢雲剣あまのむらくものつるぎけだ大蛇をろち居る上に常に雲気くも有り。故、以てなづくるか。日本武皇子やまとたけるのみことに至りて、名を改めて草薙剣と曰ふといふ。〉素戔鳴尊の曰はく、「これあやしき剣なり。吾いかにぞへてわたくしけらむや」とのたまひて、天神あまつかみのみもとたてまつりぐ。」(神代紀第八段本文)と見える。
(注12)万4003番歌で「そがひに」という言葉が「朝日さし」のサシと「御名」=「立山」のタチばかりでなく、「立山」が雲を帯びていながらそのたくさん重なっているのを押し分けてそそり立っているという背反性をも示していると考えている。万4000番歌で九句も飛び越えて懸かるはずはないとしていたのに、「そがひに」という言葉が六句先まで及んでいるのは矛盾しているという意見もあるだろう。だが、万4003番歌は万4000番歌をきちんと承けて「敬和」した作である。池主の「敬和」して漫然と同じことをくり返しているのではなく、違う角度から捉え直すとこういう見方もできるのではないですか、という歌を作っている。モチーフは「そがひに」の一語である。「そがひに」をもって立山を表現し、通奏低音のように「そがひに」という語を全編に響かせている。一見、どうでもいいような対句表現(「冬」と「夏」、「立ちて」と「居て」、「峯高み」と「谷を深み」、「朝去らず」と「夕されば」、「立つ霧の」と「行く水の」)が見えるのも、「そがひに」状況を申し述べていることを強調するために付加されているのだろう。
(注13)近代の識字教育の観点に囚われてこの点を卑下するには及ばない。なぞなぞ的な修辞のレベルは近現代人の理解をはるかに超えている。人類の別の道として、そういう言葉の世界もあったことを我々は知るべきである。

(引用・参考文献)
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森2010. 森斌『万葉集歌人大伴家持の表現』溪水社、2010年。(「大伴家持立山賦の特質」『 広島女学院大学論集』第52集、2002年12月。広島女学院大学リポジトリhttps://hju.repo.nii.ac.jp/records/807)

大伴家持の布勢水海遊覧賦

2024年10月28日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 越中国にあった大伴家持は、その地の地名を詠み込んだ「賦」を作って楽しんでいる。「遊-覧布勢水海賦一首〈并短歌〉」は、大伴池主の賛同を得て、「敬-和遊-覧布勢水海賦一首并一絶」を追和されている。

  布勢ふせ水海みづうみ遊覧あそぶ賦一首〈あはせて短歌 此の海は、射水郡いみづのこほりふるむらに有るぞ〉〔遊覧布勢水海賦一首〈并短歌 此海者有射水郡舊江村也〉〕
 物部もののふの 八十やそともの 思ふどち 心らむと 馬めて うちくちぶりの 白波の 荒磯ありそに寄する 渋谿しぶたにの さき徘徊たもとほり まつ田江たえの 長浜ながはま過ぎて 宇奈比うなひかは 清き瀬ごとに かは立ち かきかく行き 見つれども そこもかにと 布施の海に 船ゑて おくぎ に漕ぎ見れば なぎさには あぢむらさわき しまには ぬれ花咲き 許多ここばくも 見のさやけきか たまくし 二上山ふたがみやまに つたの きは別れず ありがよひ いや毎年としのはに 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと〔物能乃敷能夜蘇等母乃乎能於毛布度知許己呂也良武等宇麻奈米氐宇知久知夫利乃之良奈美能安里蘇尓与須流之夫多尓能佐吉多母登保理麻都太要能奈我波麻須義氐宇奈比河波伎欲吉勢其等尓宇加波多知可由吉加久遊岐見都礼騰母曽許母安加尓等布勢能宇弥尓布祢宇氣須恵氐於伎敝許藝邊尓己伎見礼婆奈藝左尓波安遅牟良佐和伎之麻末尓波許奴礼波奈左吉許己婆久毛見乃佐夜氣吉加多麻久之氣布多我弥夜麻尓波布都多能由伎波和可礼受安里我欲比伊夜登之能波尓於母布度知可久思安蘇婆牟異麻母見流其等〕(万3991)
 布勢の海の 沖つ白波 ありがよひ いや毎年としのはに 見つつしのはむ〔布勢能宇美能意枳都之良奈美安利我欲比伊夜登偲能波尓見都追思努播牟〕(万3992)
  右は、かみ大伴宿禰家持作る。 四月二十四日〔右守大伴宿祢家持作之 四月廿四日〕

 布勢ふせ水海みづうみ遊覧あそぶ賦につつしこたふる一首〈あはせて一絶〉〔敬和遊覧布勢水海賦一首并一絶〕
 藤波ふぢなみは 咲きて散りにき の花は 今そ盛りと あしひきの 山にも野にも 霍公鳥ほととぎす 鳴きしとよめば うちなびく 心もしのに そこをしも うらこひしみと 思ふどち 馬うち群れて たづさはり 出で立ち見れば みづがは みなとどり 朝凪あさなぎに かたにあさりし しほ満てば 妻呼びかはす ともしきに 見つつ過ぎき 渋谿しぶたにの 荒磯ありその崎に 沖つ波 寄せ来るたま かたりに かづらに作り いもがため 手にき持ちて うらぐはし 布勢ふせ水海みづうみに 海人あまぶねに かぢかいき 白栲しろたへの 袖振り返し あどもひて 我が漕ぎ行けば 乎布をふの崎 花散りまがひ なぎさには 葦鴨あしがもさわき さざれ波 立ちてもても 漕ぎめぐり 見れども飽かず 秋さらば 黄葉もみちの時に 春さらば 花の盛りに かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見もあきらめめ 絶ゆる日あらめや〔布治奈美波佐岐弖知理尓伎宇能波奈波伊麻曽佐可理等安之比奇能夜麻尓毛野尓毛保登等藝須奈伎之等与米婆宇知奈妣久許己呂毛之努尓曽己乎之母宇良胡非之美等於毛布度知宇麻宇知牟礼弖多豆佐波理伊泥多知美礼婆伊美豆河泊美奈刀能須登利安佐奈藝尓可多尓安佐里之思保美弖婆都麻欲妣可波須等母之伎尓美都追須疑由伎之夫多尓能安利蘇乃佐伎尓於枳追奈美余勢久流多麻母可多与理尓可都良尓都久理伊毛我多米氐尓麻吉母知弖宇良具波之布施能美豆宇弥尓阿麻夫祢尓麻可治加伊奴吉之路多倍能蘇泥布里可邊之阿登毛比弖和賀己藝由氣婆乎布能佐伎波奈知利麻我比奈伎佐尓波阿之賀毛佐和伎佐射礼奈美多知弖毛為弖母己藝米具利美礼登母安可受安伎佐良婆毛美知能等伎尓波流佐良婆波奈能佐可利尓可毛加久母伎美我麻尓麻等可久之許曽美母安吉良米々多由流比安良米也〕(万3993)
 白波の 寄せ来る玉藻 世のあひだも 継ぎて見にむ 清きはまを〔之良奈美能与世久流多麻毛余能安比太母都藝弖民仁許武吉欲伎波麻備乎〕(万3994)
  右は、じょう大伴宿禰池主作る。〈四月二十六日に追ひてこたふ。〉〔右掾大伴宿祢池主作〈四月廿六日追和〉〕
 神堀1978.、橋本1985.、伊藤1992.、廣川2003.などに、家持と池主との共同の営為の作品であると捉えられている。そして、池主の「敬和」とは家持の心を汲みつつ対応させながら補足するように歌い、両者が互いに補完しあって一つの作品として完結するとしている。
 コタフ(和)という語のダイアローグ性が理解されていない。コタフはコト(言)+アフ(合)の約と考えられ、言われたことに対して言葉で応じることをいう。一つの見方から言われたことに対して、それを十分に認めながら、別の見方からするとこうも言えるだろう、というのが「敬和」であろう。言葉の累積、累乗ではあっても補完し合ってようやく一となるという弁証法ではない。家持の歌だけでも、また、池主の歌だけでもきちんと一つの作として完成していると考える。

 

 まず家持の「遊‐覧布勢水海賦一首」(万3991)を見てみよう。この歌は前半と後半に分かれている。「物部もののふの …… そこもかにと」までと、「布施の海に …… 今も見るごと」とである。前半でいろいろと巡り見たが満足できなかった。そこで後半、布勢の海へと進んでいて、そこは遊覧するのにすばらしいところだからこれからも何度も通ってきては遊ぼうと言っている。題詞もそのように成っている。
 多数出てくる地名も、前半に「渋谿しぶたにの崎」、「まつ田江だえ」、「宇奈比うなひかは」、後半に「布勢ふせうみ」、「二上山ふたがみやま」と分かれている。これらは地誌的知識として歌に交えられているようには思われない。そもそも、紀行歌を歌ったとしても聞いた人の興味にかからなければ場の共有に属すことはない。知らない地方の知らない地名を言われても困惑するばかりである。すなわち、自然詠として情景を歌いたくて入れているのではないのである。
 「渋谿しぶたに」とあれば、そこはシブという言葉の示すところであると言葉解きをしている。船の遅くなることをシブ(渋)といい、後には滞ることをシブク(渋)と言ったようである。万1205番歌の例では、船を沖合まで出せば岩礁にぶつかる心配が減るから、一生懸命に漕ぐ必要はなくなって船の進行を遅くしても大丈夫になるが、力を抜いた水夫は出港した地、故郷の方を振り向いて見たいと思ったが、岬の陰になって望み見ることができず惜しいことだと言っている。今昔物語の例では、逃げる際に蔀戸を外してそれに跨ってムササビのように滑空して行った時の様子を言っている。蔀のおかげで抵抗が増して落下速度が遅くなっている。

 沖つかぢ やくやくしぶを 見まく欲り がする里の かくらくしも〔津梶漸々志夫乎欲見吾為里乃隠久惜毛〕(万1205)
 しとみのもとに風しぶかれて、谷底に鳥の居る様に漸く落ち入りにければ、……(今昔物語・十九・四十)

 つまり、「渋谿しぶたにの崎」というところは、ヤマトコトバにタモトホル(徘徊)ところ、同じ場所をぐるぐるめぐることになるに違いないところだからそう歌っている。「まつ田江たえ」という地名も、マツ(待)+タエ(絶)という意味、すなわち、長い時間が経過してもはや誰も待ってはいないことを意味しているはずだから、そこは「長浜」であって、時間は「過ぎて」いるというのである。同様に、「宇奈比うなひかは」というところも、ウ(鵜)+ナヒ(綯)するのがふさわしいところで、鵜飼の縄を綯って使うのが順当である。だから、「鵜川立ち」と続いていくわけである。「鵜川立つ」とは、鵜飼をする場所を決めて鵜飼を行うことをいう。鵜飼は、鵜にまつわるさまざまな漁法のことをいい、魚が鵜を怖がって逃げる習性を活かして行う漁すべてを言った。鵜の羽を竿の先や縄の各所にとりつけて川のなかに入れ、魚を脅かして網へと追い込みをかける漁もその一つである。宇奈比うなひかは=ウ(鵜)+ナヒ(綯)+カハ(川)のことだとすれば、「清き瀬ごとに」場所を決めて追い込み漁をしてはあちらこちらへ行ったということを言っていることになる。
 このように、渋谿しぶたにまつ田江たえ宇奈比うなひかはという地名をピックアップして駄洒落を言っている。そして、これらでは言辞として満足できないということを、遊覧するのにふさわしくはないと歌に昇華している。言葉遊びをしていることを、あたかも紀行しているかのように歌に取り繕っているものなのである。
 後半が歌の主意となる布勢水海遊覧への推奨部に当たる。後半で出てくる地名は、「布勢ふせうみ」、「二上山ふたがみやま」である。二上山についてはすでに「二上山賦」に詠まれている。赤ん坊が二つカミ(噛)する山に喩えられるチチ(乳)と、伝承されている海幸山幸のへの話で「一千」を作って償おうとしたのに受け取らなかったこととを掛けて歌にしている(注1)。この歌でも題詞の脚注に「此海者有射水○○郡舊江村也」と断られている。水に射ても魚は得られず釣り針()を失うばかりなのである。海幸山幸の話では、最終的にもとの釣り針を返せと責めたてていた相手を屈服させ、犬(狗)のように従わせたということになっている。犬を躾けて服従させた代表的なポーズに「伏せ」がある(注2)
「伏せ」のポーズ(埴輪 ひざまずく男子、古墳時代、6世紀、東京国立博物館特別展はにわ展示品、右:群馬県太田市塚廻り4号墳出土、文化庁(群馬県立歴史博物館保管)、左:茨城県桜川市青木出土、大阪歴史博物館保管)
 今、大伴家持は越中国に赴任していて、フセという地名のあることに思いを馳せている。すでに二上山賦で記紀の説話にある海幸山幸のへの話で「一千」について歌にしていた彼は、さらに「布勢ふせの水海」という地名を知り、さらに輪をかけて一連の話として歌に歌い込み楽しみとしている。「遊-覧布勢水海賦」で家持が歌いたいのはただそれだけである。言い伝えに伝えられていることが越中の地名としてあるから、そこへ行って遊ぼうと歌っている。彼が今しているのは言葉遊びである。
 「思ふどち」という言葉が家持長歌に二つ、池主敬和長歌に一つ出てくる。気の合った親しい人同士、の意と考えられており、ここではともに布勢水海に遊覧した越中国の国府に勤める官人のことを指すと思われている(注3)。しかし、「思ふどち」は文字どおり思う者同士の意であろう。布勢水海遊覧の意味を同じように理解する者同士のことである。海幸山幸の伝承の顛末の地として名のあるところ、目的地の布勢水海はを返した時に反抗してきたら溺れさせることのできる水海のことなのだ、と比喩のうちに理解し合えるということである。それがこの歌の主題である。「かくし遊ばむ」とは言葉遊びをすること、ヤマトコトバに戯れて作った歌のことと実際の地名のこととが重合するのを喜ぼうではないか、というのである。布勢水海でアクティビティを楽しもうというのではない。

 

 池主の「「敬-和遊-覧布勢水海賦一首」を見ていく。
 「かぢかいき」について解釈が定まっていない。筆者は、国府勤務の官人が「海人あまぶね」を借りて漕ぎ出していることを考え併せ、何艘かの船を出すなか、操作法がわからずに「かぢ」として船の左右にオールを出して漕いでいる人もいれば、一人乗りのせいなのか「かい」として掻いて使っている人もいるということを言いたくて変な言い方をしているものと考える。「かい」という語は奈良時代からイ音便で使われていた珍しい例として知られている。
 「うちくちぶり」は未詳の語である。諸説あるが不明である。「…… 馬めて うちくちぶりの 白波の ……」と続いている。万葉集長歌の性質として、尻取り式に言葉が数珠つながりになっていることが指摘されている。ただの尻取りであると考えるなら、馬と白波をつなぐことを示すものとして、馬の口の内のことが想起されるだろう。轡を嵌められながら歯を食いしばって息荒く進む時、口のなかは泡だらけになっている。「荒磯ありそに寄する」白波のような状態である。現代語ではあるが、何か言いたげな口ぶり、と言えば、何かを言いたそうにしている様子のことをいう。馬の口ぶりを想像するなら、ただ草を食べたいということだけだろう。よだれが垂れている口の内は、草をむことができずに馬銜はみばかり喰んでいる。白波が立っている。
 「花散りまがひ」の花は具体的に何の花かと特定はできないとされている。ではどうしてこのような句が出てくるか。そこが歌い方のミソである。ヲウノサキ○○(乎布の崎)と言ったから、サキ(咲)の次はチリ(散)ことになり、「散りまがひ」となるのである。その後でもだらだらと対義語を並べて述べ立てている。「さざれ波」は「立つ」を導いているだけなのであるが、すかさず「立ちてもても」と人間の姿勢へと話が転じている。論理展開をして行っているのではなく、音楽的に転調の妙とでも言うべき言葉を尻取り式に繰り出して進んでいる。そのことを池主も「敬和……賦」と言っている。だらだらとヤマトコトバの音声が続いているが聞いてゆけばわかる歌を、だらだらと漢字が続いているが読んでゆけばわかるものである「賦」になぞらえてそう呼んだということである(注4)
 大伴家持の言葉遊びは、この布勢遊覧賦において「敬和」する人を得た。ヤマトコトバの「賦」は、駄洒落、地口のオンパレードである。近現代の人にとっては、常日頃の感覚では近づくことのできない言語空間に、家持や池主は「賦」の歌のなかで「遊覧」(注5)していたということになる。言葉遊びの極みであった。

(注)
(注1)ここでは海幸山幸の話を再現させて歌に詠んでいる点しか示さない。詳細は拙稿「大伴家持の「二上山賦」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/70f132f85c9d58b6d26a0ec6f71effbe参照。海幸山幸の話の顛末は、ホヲリノミコトが地上に戻った時、相手のホデリノミコトを完全に屈服させている。そして、ホデリノミコトは隼人の多君たのきみの祖であると断られている。職員令の定めとして、隼人は、宮門を守護する役を担うこと、溺れた時の様子で歌儛を演じること、竹笠を造作することが定められている。その様子は、狗(犬)のようであると譬えられ、隼人司が演じるべき職掌となっている。犬は「伏せ」と言われたら伏せてじっとしているように躾けられている。服従している。なお、隼人の吠声は犬が遠吠えをするように声を発することである。「本声」、「末声」、「細声」の実態を知りたければ、オオカミの飼育されている動物園を訪れるといい。数頭の飼犬に救急車のサイレンを聞かせても反応して遠吠えすることがある。サイレンが「本声」、応じて一斉に吠え返すのが「末声」、余韻をもって後でも鳴いている一頭のそれが「細声」である。隼人についての史学の議論には不可解な論調が多数見受けられる(補注1)
(注2)犬の調教用語は文献に残らない。ただし、今日でも「お座り」、「待て」、「おいで」、「お手」と並んで「伏せ」と言って躾けている。往時から番犬、猟犬として利用する場合に確実に行われていただろう。松井1995.は、長屋王の邸宅で鷹犬が米を餌にして飼われていたことを論証している。躾けられているから食べ物が目の前にあっても調理や狩猟の際、人間の邪魔をしない。
止まり木上の鷹と沓脱板でお座り姿勢の犬(春日権現験記写、板橋貫雄模、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1287498/1/7をトリミング)
(注3)廣川2003.はさらに、官人の結束への願望が表出されて家持の歌に重出して用いられているとしている(151頁)。
(注4)「賦」と名づけた家持の考えについて、中国の詩文との関連を重く受け止める見解が多く見られる。文心彫龍・詮賦編に「賦者鋪也、鋪采檎文、体物写志也。」と説明されていることなどをどう捉えるか、真面目くさって議論している。実際に「賦」を目にしたダイレクトな印象から思い及んで名づけていると考えてはどうか。家持の作った「賦」の歌の特徴としては、言葉のつながりばかり重視されている点にある。内容面からまともに受け取ろうとすると空疎さが感じられ、歌としては低い評価が下されることが多い(補注2)。近現代の歌とは違う言葉づかいを実践しているのが万葉集の歌である。それは、長歌という形式が万葉集の終結をもって消滅したこととも関係する。尻取り式に言葉を継いで行って歌にしていることがあり得たのは、それが声に出して歌われたものだったからである。内容面から長歌を評価するなど、はじめからおよそナンセンス、まるで勘違いである。これらの長歌は、頓智話、なぞなぞの問題文として作られて歌われている。
 なお、本稿では万3991〜3994番歌の細部には検討を加えていない。家持と池主のやっていることが何なのかを探ることで完結とした。付き合いきれないという気持ちも浮かんでしまった。後考に俟ちたい。
(注5)「遊覧」という語について、中国文学の影響を指摘する説は根強い。例えば、山﨑2024.は、「萬葉集の「遊覧」の全……十例のうち八例までが家持と池主の好尚に関わっていること、それも「遊於松浦河序」に顕著な漢籍志向の「勝景を賛嘆する中に心の解放、遊びを求める」内容をそのまま取り入れたものであった。「遊覧」は、越中における家持の心を捉えていた詩想の一つであったと言えるかもしれない。」(166頁) とまとめている。漢字という形に溺れて按図索驥に陥っていないだろうか。
(補注)
(補注1)中村1993.は諸説をあげ考究している(「隼人の名義をめぐる諸問題」)。この点については拙稿「隼人(はやひと)について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/57ac57810198deb569ae55ab1f1ee5a4で詳述した。ハヤヒトと呼ばれていたことが重要で、「隼人はやひとの名に負ふ」(万2497)という発想が生まれている。上代の人はそのことについて疑問を持つことは少なく、否定することはまったくなく、「名に負ふ」状態にあり、その名に値する行動をとるようにと集合意識として求めている。
 海幸山幸の話の末尾で屈服した様子を「いぬ」に喩えている。官憲の犬と言われるのは、昔は盗人として活躍していたが火付盗賊改に捕縛されて御用を聞くようになった者である(「朱云、凡隼人者良人也。」(令集解))。狩りにおいては獣が捕獲されるが、その時、本来なら獣側にいるはずのイヌが人間側に立って働いている。人間に屈服し、恭順し、今後はずっと人間の役に立つようにすると誓っている。命じられるがままに地べたに腹をつけた「伏せ」の姿勢は屈服を表し、最たる躾けの姿勢であるが、他にも「お座り」、「お手」などいろいろあり、狩猟の際には野性をよみがえらせて吠えたり果敢に飛び跳ねてアタックしたりする。意のままに動くさまを舞いと見立てたのが隼人舞である。舞にはお囃子が付き物である。うまい具合に、ハヤヒトという名からはやすことが期待されている。お囃子がそうであるように、あちらからもこちらからも声があがるよう、左右に分かれて位置して「吠声」を発している。元日や即位の際の儀礼に参与したのである。そんな掛け合いがなされるのはまるでオオカミの遠吠えのようであり、飼犬もつられて呼応したのを見て取っている。まことにうまい形容であると認められよう。
 ハヤという言葉は嘆く時に用いられる助詞である。いちばん嘆くのは身近な人が亡くなった時である。隼人は殯に参列している。また、犬なのだから番犬の役割を果すべく守護人となり、隼人司は衛門府に属している。
 これらのことを解釈する際、隼人の人たちがヤマトに恭順したことは史実として反乱を経てなのかといったことはあまり問題にならない。ヤマト朝廷に服属していく仕方は他の周縁の民と同様であろう。他との違いをあげるなら、南九州には古墳がない。墓制の問題であり、究極のところ生活誌の違いということになるだろう。だから殯に参列はしても埋葬には呼ばれていない。「山(陵)」を造らない理由として考えられるのは、彼らが「海」の民、海人族だったからということになろう。海人として海に潜って漁をしたとすれば、息継ぎをせずに長時間潜水をしていることになり、長い息をしていたということになる。ナガ(長)+イキ(息)を約してナゲキ(嘆)という言葉はできあがっている。嘆くからハヤという助詞に親和性がある。そんなこんなでハヤヒトという名を持つことになっていて、それに順ずる役回りを担うように要請されたということになる。「名に負ふ」ことの諸相によって語学的証明となっている。今日的な概念、例えば「服属儀礼」、「中華思想」、「呪力」といった術語ワードで考察しようとしても的外れである。関連事項を以下に列挙した。

 ここを以て火酢芹命ほのすせりのみこと苗裔のちもろもろ隼人はやひとたち、今に至るまで天皇すめらみこと宮墻みかきもとを離れずして、よよに吠ゆる狗にして奉事つかへまつる者なり。世人よのひとせたる針をはたらざるは、これ、其のことのもとなり。(神代紀第十段一書第二)
 隼人はやひとの 名にごゑ いちしろく が名はりつ 妻とたのませ(万2497)
 …… 犬じもの 道に伏してや 命過ぎなむ〈一に云ふ、我が世過ぎなむ〉(万886、山上憶良)
 かきしに 犬呼び越して がりする君 青山の しげやまに 馬休め君(万1289)
 ……其の大県主、かしこみて、稽首ぬかつきて白さく、「奴にして有れば、奴ながら覚らずしてあやまち作れるはいたかしこし。故、のみの幣物まひものたてまつらむ」とまをして、布を白き犬にけ、鈴をけて、己がやから、名を腰佩こしはきと謂ふ人に、犬の縄を取らしめて献上たてまつる。(雄略記)
 凡そ元日・即位及び蕃客入朝等の儀は、官人かんにん二人・史生二人、大衣おほきぬ二人・番上の隼人二十人・いまの隼人二十人・白丁びやくちようの隼人一百三十二人を率て、分れて応天門おうてんもん外の左右に陣し〈蕃客入朝に、天皇、臨軒せざれば陣せず〉、群官初めてらば胡床あぐらよりち、今来の隼人、吠声はいせいを発すること三節〈蕃客入朝は、吠の限りに在らず〉。(延喜式・隼人司)
 凡そ遠従の駕行には、官人二人・史生二人、大衣二人・番上の隼人四人及び今来の隼人十人を率て供奉ぐぶせよ。〈番上已上は、みな横刀を帯び馬にれ。但し大衣已下は木綿ゆふかづらけよ。今来は緋の肩巾・木綿鬘を著け、横刀を帯び、槍を執りて歩行せよ〉。其の駕、国界及び山川道路のまがりを経るときは、今来の隼人、吠を為せよ。(延喜式・隼人司)
 凡そ行幸の宿を経むには、隼人、吠を発せよ。但し近きみゆきは吠せざれ。(延喜式・隼人司)
 凡そ今来の隼人、大衣に吠を習はしめよ。左は本声を発し、右は末声を発せよ。すべて大声十遍、小声一遍。訖らば一人、更に細声を発すること二遍。(延喜式・隼人司)
 朱に云はく、凡そ此の隼人は良人なりと。古辞に云はく、薩摩・大隅等の国人、初めそむき、後にしたがふなりと。うべなふに請ひて云はく、すでに犬と為り、人君に奉仕つかへまつらば、此れ則ち隼人となづくるのみと。(令集解・巻五)
 歌儛教習けうしふせむこと。……穴に云はく、隼人の職は是なりと。朱に云はく、歌儛を教習せむとは、隼人の中に師有るべきことを謂ふなりと。其の歌儛は常人の歌儛に在らず。別つべきなり。(令集解・巻五)

(補注2)高評価を与えている論考もある。風景描写として捉え、そこに讃美する精神を読み取って優れているとしている。論評に値しない。

(引用・参考文献)
伊藤1992. 伊藤博「布勢の浦と乎布の崎─大伴家持の論─」吉井巖編『記紀万葉論叢』塙書房、平成4年。(『萬葉歌林』塙書房、2003年。)
內田2014. 內田賢德「或る汽水湖の記憶─「遊覧布勢水海賦」をめぐって─」『萬葉語文研究』第10集、和泉書院、2014年9月。
奥村2011. 奥村和美「家持の「立山賦」と池主の「敬和」について」神野志隆光・芳賀紀雄編『萬葉集研究 第三十二集』塙書房、平成23年。
小野1980. 小野寛『大伴家持研究』笠間書院、昭和55年。
神堀1978. 神堀忍「家持と池主」伊藤博・稲岡耕二編『万葉集を学ぶ 第八集』有斐閣、昭和53年。
菊池2005. 菊池威雄「遊覧布勢水海賦」『天平の歌人 大伴家持』新典社、平成17年。
清原1994. 清原和義「家持の布勢水海─あぢ鴨の群れと藤波の花─」『高岡市万葉歴史館紀要』第4号、高岡市万葉歴史館、1994年3月。
島田2002. 島田修三「布勢水海遊覧の賦」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第八巻 大伴家持(一)』和泉書院、2002年。
辰巳1987. 辰巳正明『万葉集と中国文学』笠間書院、昭和62年。
中西1994. 中西進『大伴家持 第三巻 越中国守』角川書店、平成6年。
中村1993. 中村明蔵『隼人と律令国家』名著出版、1993年。
橋本1985. 橋本達雄『大伴家持作品論攷』塙書房、昭和60年。
廣川2003. 廣川晶輝『万葉歌人大伴家持─作品とその方法─』北海道大学大学院、2003年。
西2001. 西一夫「大伴家持論─大伴池主との贈答・唱和作品を中心に─」(博士論文)、2001年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3187651
山﨑2024. 山﨑福之『萬葉集漢語考証論─訓読・漢語表記・本文批判─』塙書房、2024年。
※隼人に関する参考文献は割愛した。拙稿「隼人(はやひと)について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/57ac57810198deb569ae55ab1f1ee5a4を参照されたい。

大伴家持の二上山の賦

2024年10月21日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 大伴家持は越中国司として赴任中、賦と称する長歌を三首作っている。それに大伴池主が「敬和」したものを含めて「越中五賦」と呼ばれている。「賦」は漢文学からとられた用語である。

  二上山ふたかみやま一首 此の山は射水郡いみづのこほりに有るぞ〔二上山賦一首 此山者有射水郡也
 射水川いみづがは いめぐれる 玉櫛笥たまくしげ 二上山ふたがみやまは 春花はるはなの 咲ける盛りに 秋の葉の にほへる時に 出で立ちて け見れば 神からや そこばたふとき 山からや 見がしからむ 皇神すめかみの 裾廻すそみの山の 渋谿しぶたにの 崎の荒磯ありそに 朝凪あさなぎに 寄する白波 夕凪ゆふなぎに 満ち来る潮の いや増しに 絶ゆることなく いにしへゆ 今のをつつに かくしこそ 見る人ごとに けてしのはめ〔伊美都河伯伊由伎米具礼流多麻久之氣布多我美山者波流波奈乃佐家流左加利尓安吉能葉乃尓保敝流等伎尓出立氐布里佐氣見礼婆可牟加良夜曽許婆多敷刀伎夜麻可良夜見我保之加良武須賣加未能須蘇未乃夜麻能之夫多尓能佐吉乃安里蘇尓阿佐奈藝尓餘須流之良奈美由敷奈藝尓美知久流之保能伊夜麻之尓多由流許登奈久伊尓之敞由伊麻乃乎都豆尓可久之許曽見流比登其等尓加氣氐之努波米〕(万3985)
 渋谿しぶたにの 崎の荒磯ありそに 寄する波 いやしくしくに いにしへ思ほゆ〔之夫多尓能佐伎能安里蘇尓与須流奈美伊夜思久思久尓伊尓之敞於母保由〕(万3986)
 玉櫛笥たまくしげ 二上山ふたがみやまに 鳴く鳥の 声のこひしき 時は来にけり〔多麻久之氣敷多我美也麻尓鳴鳥能許恵乃孤悲思吉登岐波伎尓家里〕(万3987)
  右は、三月三十日に、興に依りて作れり。大伴宿祢家持〔右三月卅日依興作之大伴宿祢家持〕

 「二上山賦」と銘打たれた長歌は、前半こそ二上山を題材にしているようでありつつ、後半にはせり出している海の様子を詠んでいる。それをまとめて「二上山○○○賦」と呼んでいて、題詞との間にズレがあるように思わせるものである(注1)
 題詞には脚注が付けられていて、二上山が射水郡に位置していることを殊更に印象づけている。とてもわざとらしい。おそらくは歌の内実を解くヒントゆえのことだろう。歌の最後の方に「いにしへゆ 今のをつつに」とあって、太古の昔から今に至るまでずっとのことであると述べられている。「いにしへ」という言葉は、イニ(往)+シ(助動詞キの連体形)+ヘ(方)のことで、過ぎ去ってしまってはるか遠い昔のこと、自分が実地に知ることのできない、言い伝えられている神話的説話の時代のことを指している。そんな大昔のことを持ち出すことができるのは、二上山があるのが射水郡だからということのようである。
 射水いみづという言葉から連想される言い伝えとしては、海幸・山幸の話がある。山で狩猟をしていた山幸が、海で漁撈をしていた海幸との間で、互いにサチを交換しようということになった。サチとは得られた獲物を表すと同時に、それを捕獲する手段となる、とっておきの道具のことも表した。それさえあれば獲物は捕れたも同然だからである。そのとっておきの道具とは、狩猟では弓矢の矢の先につける鏃であり、漁撈では釣りをするとき糸の先につける釣り針()のことと考えられた。鉄器で製作されるようになり、生産性が高まったことに基づいての考えからであろう。そして、鏃と釣り針を互いに交換し、持ち場も替えてみたのである。狩猟民が釣りにおいても弓矢を放つのと同じだろうと思い、魚をめがけて放ったところ、ただ失われるばかりのこととなった。水に向けて矢を射ることをした場所として、イ(射)+ミヅ(水)という言葉が想起されたのである。
 山幸こと、ホヲリノミコトは、兄である海幸こと、ホデリノミコトに、失くしてしまったを返すようにと責めたてられた。そこで、佩いていた十拳剣とつかのつるぎを鋳潰して、千個の鉤にリサイクルし、償いとしようとしたが受け取ってはもらえず、頑なにもとの鉤を求めてきた。途方に暮れて海辺に佇んでいると塩椎神しほつちのかみ塩土老翁しほつつのをぢ)が知恵を授けてくれた。その後、海神宮わたつみのみやを訪問する話へと展開していく。千個の鉤のことは、「一千」(記上)と言っていた。チチはちちと同音である。乳と言えば赤ん坊が求める女性のそれが代表であり、二つある。それを赤ん坊は噛んでは吸っている。フタガミヤマ(二上山)という言葉(音)から何をイメージしているか理解されよう。すなわち、「二上山賦」は、海幸・山幸の説話をもとにした地名譚を創案して朗々と歌われたものなのである。海幸・山幸の言い伝えが人口に膾炙していて、それをもとにすれば射水郡のいくつかの地名は繙くことができた。そのため、それらをつなぐ言葉として、「いめぐれる」(注2)と述べている。心のうちに想念として人々が共通して持っている昔語りを自然の景観に託しなぞらえて歌にしている。恋情を自然に託しなぞらえて歌にするのと同じ手法である。
 全集本は、「秋の葉」は「春花」の対偶語で、ともに翻訳語であろうという(206頁)。なぜ対偶的な言葉が求められているかといえば、フタ○○ガミヤマ(二上山)を詠んでいるからであろう。二つ対立するように述べ立てている。「春花はるはな」が「春花しゆんくわ」、「秋の葉」が「秋葉しうえふ」を訓んだ翻訳語かどうか決める決定打はない。春には植物が花を咲かせることが特徴としてある。対して、秋はどうかと言ったとき、色づいた「葉」が目につくと思うことに不自然なところはない。漢籍を知らなければ生まれることがない言葉であるとは考えにくい。その後も、フタ○○ガミヤマ(二上山)を強調して表すために、「神からや」、「山からや」というように対句形式を用いている。カラはから、本性、性格の意である。二上山ふたがみやまの神の性格、山の性格とは何か。乳のことであると見立てているのだから、貴いのはおっぱいが出て乳児はそれを飲むことができて健やかに育つことかとも思われる。見たいと思うのは男性がそう思うということであろう。今、乳を望んでではなく二上山を望んで歌にしている(注3)。したがって、あるいはそういうことであろうか、と疑問の意を含めるために「や」という疑問の助詞が付いている。
 「かむから」という言い方は、一般に、うまい具合に表現している常套句コロケーションなど、ヤマトコトバとして上手に連絡していて言い得て然りとする時に用いられる(注4)。おっぱいが出ることは自然の摂理だが、なかには出の悪い方もいる。神の性格、なせる業と考えることは用法として少し無理がある。二上山に見立てられる乳房の二つあることと「一千」という言い伝えの言葉とがうまく連動してわかりやすくなっているところこそ、まるでそこに神が実在しているかのようなからくりであると見て取って「かむから」と言っている。このヤマトコトバには神が宿っているようではないか、と言っている。
左:裳の襞がプリーツスカートのように凸凹している例(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/高松塚古墳)、右:飾襞付き裳裾部分をアップ(高松塚古墳壁画・女子群像、明日香村教育委員会)
 神代の時代に乳房をたくわえた神さまといえば、女神と限定され、その代表格はアマテラス(天照大御神、天照大神)である。そこで、「皇神すめかみ」という言い方で言い直している。スメカミは一地域を領する最高位の神のことも指すからである。女神を前提にしているから、山裾のことは女性が身につける裳の裾のことともイメージが重なって的確である。裳の裾にはたくさんの襞があり、裾を廻るには上り下りをくり返すことになりそうだと形容している。ちょうどそこに「渋谿しぶたに」という地名がある。シブ(渋)とは進行が遅くなることをいう言葉のようである。下にあげた万1205番歌の例では、船を沖合まで出してしまえば岩礁にぶつかる心配が減るから、一生懸命に漕ぐ必要はなくなって船の進行を遅くしても大丈夫になるが、力を抜いた水夫は出港した地やさらにその先の故郷の方を見たいと思い振り向いたが、岬の陰になっていて望み見ることができず惜しいことだと言っている。今昔物語の例では、逃げる際に蔀戸を外してそれに跨ってムササビのように滑空して行った時の様子を言っている。蔀のおかげで抵抗が増して落下速度が遅くなっている。

 沖つかぢ やくやくしぶを 見まくり がする里の かくらくしも(万1205)
 しとみのもとに風しぶかれて、谷底に鳥の居る様に漸く落ち入りにければ、……(今昔物語・十九・四十)

 山からすれば谷に当たる所、そこが凸凹していて浜を有さずに磯となって海に面している。「渋谿しぶたにの 崎の荒磯ありそ」とは、そういう海に埋没した山裾の様子を言っている。
 次にも対句形式が来ている。「朝凪あさなぎに」、「夕凪ゆふなぎ」である。しかし、凸凹した磯場では潮が引いても浜が現れることはない。いつも海水を被っている。「寄する白波」、「満ち来る潮」と言っている。そしてそのことをもって「いや増しに 絶ゆることなく」と続いて行っている。このように引くことのない様子を歌にしているのは、当初から歌に込めている元ネタ、海幸・山幸の話による。山幸こと、ホヲリノミコトは、を見出だせずに途方に暮れていると、海神の宮への行き方を教えられて行ってみた。何年か過ごした後、鉤が見つからずに責められていたことを打ち明けると、鯛の喉にあることがわかり、なおかつ海神から鉤の返し方を教えられた。念の入った呪詛法で、相手の兄が逆ギレして攻撃してきた時のことまで踏まえていた。すなわち、攻めてきたら相手を溺れさせることが可能になっていたのである。だから、いま越中の地で見えている光景も、白波が寄せたり潮が満ちて来たりして、「いや増しに 絶ゆることなく」という状態になっている。それは「いにしへ」以来のことであり、「今のをつつ」、現在の実景にも当てはまることだと言っている。まさにこのように、この地の有り様を目にする人は、言い伝えどおりであることを皆よくよく心に「かけてしのはめ」、海幸・山幸伝承をダブらせて思いを致すのだろう、と言っている(注5)
 短歌二首が添えられている。

渋谿しぶたにの 崎の荒磯ありそに 寄する波 いやしくしくに いにしへ思ほゆ(万3986)

 万3986番歌は長歌の内容を念を押した作である。同じく「いにしへ」とあって、言い伝えにある海幸山幸の話、を返した時の対応によっては溺れることになるという話が自然と思い出されると歌っている。「寄せる波」が「しくしく」、つまり、く寄せてくるように、呪詛の言葉により溺れる話が思い出されることとを言い重ねている(注6)

 玉櫛笥たまくしげ 二上山ふたがみやまに 鳴く鳥の 声のこひしき 時は来にけり(万3987)

 万3987番歌では、「鳴く鳥」が登場している。この鳥はホトトギスのことを指していると考えられている。この歌群の一つ前に前日の歌が載る。

  立夏りつか四月うづきは既に累日るいじつて、由未だ霍公鳥ほととぎすくを聞かず。因りて作る恨みの歌二首〔立夏四月既経累日而由未聞霍公鳥喧因作恨謌二首〕
 あしひきの 山も近きを 霍公鳥ほととぎす 月立つまでに 何か鳴かぬ〔安思比奇能夜麻毛知可吉乎保登等藝須都奇多都麻泥尓奈仁加吉奈可奴〕(万3983)
 玉にく 花橘はなたちばなを ともしみし このが里に 鳴かずあるらし〔多麻尓奴久波奈多知婆奈乎等毛之美思己能和我佐刀尓伎奈可受安流良之〕(万3984)
  霍公鳥は立夏の日に来鳴くこと必定ひつぢゃうなり。又、越中こしのみちのなかの風土は橙橘たうきつのあることまれなり。此れに因りて、大伴宿禰家持、おもひをこころおこしていささかに此の歌をつくる。三月二十九日〔霍公鳥者立夏之日来鳴必定又越中風土希有橙橘也因此大伴宿祢家持感發於懐聊裁此歌。三月廿九日

 二上山賦の反歌に「霍公鳥ほととぎす」が詠まれている理由は、ホトトギスが、ホト+トギ、と間髪を入れずに鳴く鳥であると聞き做されつつ、ほとんど時は過ぎる、というようにも解されていたからである(注7)。時が過ぎてしまうことを指す鳥が霍公鳥ほととぎすなのだから、いにしへの故事を偲ぶのにふさわしい鳥として登場させている。しかも、山幸ことホヲリノミコトの海神宮探訪は、いわゆる浦島伝説の本となるもので、いやがうえにも時の経過を思わせる故事であった。ほとんど時は過ぎるとされた鳥、霍公鳥はそのことをよく体現しているわけであった。
 左注に、「興に依りて作る。」とある。心中に感興をもよおして、の意であると思われている。「依興」という言葉を特に使っている点について、例えば、伊藤1976.は、文字どおり感興に乗って表現すること自体を目的としたものと考え、橋本1985b.は「非時性」を見、小野2004.は、「賦」という新しい試み、積極的な新しい歌作りをさせしめた感興をいうとし、鉄野2007.は、自己の情動そのものを捉える語であるとする。みな印象論にとどまっている。見てきたように、古からの言い伝えを越中の地名譚として見出すことができて家持は喜んでいる。うまいことを思いついたから、その「興」に「依」ってうまいこと歌にした。それを左注に記している。捻って考えたらおもしろく考えられたということを書き添えて、皆さん、私の頓知がわかりますか、と出題のヒントに加えている。聞く人たちは家持の意図がわかっただろうか。おそらく少なからずわかる人がいたと思われる。通じないことをぐずぐず言ってみても仕方なく、その場合、世の中から消去、抹消されたに違いないからである。通じる人が多くいて、相変わらずうまいことを仰るなあ、家持卿、と一目も二目も置かれたから、家持としてもまんざらではなく、この歌群は後世に残されることになった。そしてまた、他の「賦」の歌、布勢水海遊覧賦、立山賦の創作へと駆り立てることとなった。見事だと思う人のなかには池主もいて、後で作られた賦には「敬和」した作が追和されている(注8)
 今日の人がこの歌、題詞に「賦」とまであるにもかかわらず何ら新鮮味を覚えることなく、ただの冗漫な、二上山への讃歌(注1)であると解するようなことは、歌が歌われた当時あり得なかった。それほどまでに、奈良時代の人にとっても、古からの言い伝えは人々の間に流布し、人々の思考を拘束していて、時には不可解に思われる政治情勢についても言い伝えを鑑みれば理解の助けになるものなのである。
 
(注)
(注1)この歌群についての評価としては、好悪を問わず、二上山讃歌であるとする見方が大勢を占めている。「国守の任国の地勢把握の作」(內田2014.62頁)とする控えめなものから、「風土記の撰進に類した国守の職掌としての意識も加わって、意欲的に作られている」(坂本2021.146頁)、「国守として、天皇の「みこともち」として、天皇の「遠の朝廷みかど」を讃える歌として、その王土の象徴たる二上山の讃歌を作ったのである。そしてそれが「興に依りて作」られたのである。」(小野2004.93頁)とする事大評価までいろいろである。なお、小野2004.には、刊行時点までの諸論が紹介されているので参照されたい。本論はそれらと無関係なのでほとんど触れない。
(注2)橋本1985b.は、「この「い行きめぐれる」が二上山を讃える条件の一つとした表現であることはいうまでもあるまい。」(188頁)と断じている。二上山賦を山への讃歌であると捉え、その意味合いを妄想的に深化させる議論ばかり目につく。
(注3)諸論では、二上山を讃め称え、聖なる山として崇めたものであろうと勘違いしている。家持は「立山賦」(万4000)も作っている。越中の山は聖なる山だらけということになってしまう。聖地で禁足地となると入り会いすることができず、生業に差し支えることになるだろうし、三輪山や宗像沖ノ島のように入山に規制がかかったとする歴史も持たない。「玉櫛笥たまくしげ玉匣たまくしげ)」という美しい語が登場するが、そのような櫛を入れる箱は蓋付きだからということからフタにかかる枕詞で「フタ○○ガミヤマ(二上山)」を導出している。言葉尻を捉えることしかしていないのである。
(注4)拙稿「「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/61bf39dd1ec35148ebc105c4de9f0abd参照。
(注5)諸説に、「かけて」は心にかけての意と、口にかけての意とがあるが、そのいずれかが問われている。前者とする説では、「偲ふ」は思慕するがゆえに賞で讃えるの意ととり、心にかけて賞美する、と解している。後者とする説では、今、家持が二上山の賦を言葉にあらわして詠んで讃美していることと解している。しかるに、「かけて」は「かく」に助詞テのついた形である。「かく(懸)」は、何かに何かを懸ける、何かと何かを懸けることが原義である。漠然と心にかける、心がけるということではない。
 「いにしへゆ 今のをつつに」とあり、現在のことを詠んでいるのなら結句は「しのふらめ」が自然な表現であり、字余りを避けたものかとしている(新大系文庫本377頁)。海幸・山幸の言い伝えを詠み込んでいるのだから、「しのはめ」がふさわしい。
(注6)今日では、この「いにしへ」(万3985・3986)について、漠然と遠い昔のこと、のように考える向きが多い。大伴氏の歴史の始まりを含めるように解する説もある(阿蘇2013.)。以前の研究では、この山には上代に謂れがあった(賀茂真淵・萬葉考)、神代に二上山に何かめでたい故事があったが現代には伝わっていない(鹿持雅澄・萬葉集古義、井上通泰・萬葉集新考、山田1950.)、名山として地方人に謡われていた(鴻巣1934.)などと考えられていた。越中の故事ではなく、ヤマトコトバを話すヤマトの人なら誰でもが知る故事でなければ互いに話は通じない。二上山の故事が特別にあるなら、巻十六の「有由縁」歌にあるように、題詞などに縷々書き記してかまわないことである。
(注7)拙稿「万葉集のホトトギス歌について 其の一」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/c341f72de9b0f0f693a7f885e4fd3a09/?img=3537338ac37f56610c9c590101e5b121ほか参照。
(注8)もちろん、家持と池主の二人だけの間で楽しまれたということではない。一家族だけで使われるだけとなった20世紀後半のソグド語のような様態を、よりによって書記に努めることはない。

(引用・参考文献)
阿蘇2013. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第9巻』笠間書院、2013年。
伊藤1976. 伊藤博『万葉集の表現と方法 下』塙書房、昭和51年。
稲岡2015. 稲岡耕二『和歌文学大系4 萬葉集(四)』明治書院、平成27年。
內田2014. 內田賢德「或る汽水湖の記憶─「遊覧布勢水海賦」をめぐって─」『萬葉語文研究』第10集、和泉書院、2014年9月。
小野1980. 小野寛『大伴家持研究』笠間書院、昭和55年。
小野2004. 小野寛「家持「二上山賦」のよみの現在」万葉七曜会編『論集上代文学 第二十六冊』笠間書院、2004年。
鴻巣1934. 鴻巣盛広『北陸万葉集古蹟研究』宇都宮書店、昭和9年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1225871
坂本2021. 坂本信幸「越中万葉の文化的意義」奈良県立万葉文化館編『大和の古代文化』新典社、2021年。
集成本 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典文学集成 萬葉集五』新潮社、昭和59年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(四)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。 
全集本 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集5 萬葉集四』小学館、昭和50年。
大系本 高市市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系7 萬葉集四』岩波書店、昭和37年。
多田2010. 多田一臣『万葉集全解6』筑摩書房、2010年。
鉄野2007. 鉄野昌弘「「二上山賦」試論」『大伴家持「歌日誌」論考』塙書房、2007年。(『萬葉』第173号、平成12年5月。萬葉学会HPhttps://manyoug.jp/memoir/2000)
橋本1985a. 橋本達雄『萬葉集全注 巻第十七』有斐閣、昭和60年。
橋本1985b. 橋本達雄『大伴家持作品論攷』塙書房、昭和60年。
針原2002. 針原孝之「二上山の賦」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第八巻 大伴家持(一)』和泉書院、2002年。
山田1950. 山田孝雄『万葉五賦』一正堂書店、昭和25年。
中西1983. 中西進『万葉集 全訳注原文付(四)』講談社(講談社文庫)、1983年。

隼人(はやひと)について

2024年10月14日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 隼人は、古代の九州南部の人をいい、朝廷で隼人舞や警護の任についた。隼人(はや(ひ)と)の名義については、これまでに多くの説が唱えられてきた。中村1993.の研究史整理をもとにした原口2018.の分類をあげる。

(1)性行説
隼人の名義がその性質・性格・行動・しぐさによるとする説。
○敏捷・猛勇な隼人の性行が、古語でハヤシなどということにもとづくとする説(本居宣長)。
○「凶暴な人」を意味するチハヤビトにもとづくとする説(内田銀蔵)(注1)
(2)地名説
○『新唐書』にみえる「波邪」という地名にもとづくとする説(喜田貞吉)。
(3)方位説
○マリアナ語では南を「ハヤ」といい、南風を意味する「ハエ」と同様に「ハヤ」が南方をさすとする説(松岡静雄など)。
○四神思想で南方を意味する朱雀は、漢籍では「鳥隼」と関係があるとされる場合もあり、隼人の名義がここから採用されたとする説(駒井和愛・中村明蔵・原口耕一郎)。
○隼人・熊襲・蝦夷の名義は、天・陸・水という宇宙三界を表象するという説(大林太良)。
(4)職掌説
隼人の朝廷における職掌によるものとする説。
○ハヤシビト(囃し人)にもとづくとする説(清原貞雄)。
○隼人の歌舞のテンポが他の歌舞よりも早かったことによるとする説(井上辰雄)。
○隼人の狗吠/吠声から「吠人(はいと)」とされたことによるとする説(高橋富雄・菊池達也)。(原口2018.73~74頁に原口氏説を加えた)

 どうしてハヤヒトと呼ばれていたかを問うことはあまり生産的なことではない(注2)。言葉の語源を正すことは、歴史的に、すなわち、文献的に証明されるもの、例えば近代に生まれた翻訳語のように証明されるものならともかく、なぜ spring のことをヰ(井)というのかを考えても始まらないものである(注3)。地名のうちのかなりのものも、所与のものとしてあり、それを後からこじつけて何を表しているのか考えているだけである(注4)。このハヤヒトの場合も、由来を辿って行き着くところがあったとしても、それを証明と呼ぶことはできない。その点を承知のうえで筆者なりの意見を述べるなら、海人族として海に潜っていたことと関係があるかと考える。素潜りだから長く息を止める。ナガ(長)+イキ(息)、約してナゲキ(嘆)である。ナゲク(嘆)様子は助詞のハヤに表される。だからハヤヒト(隼人)である。文字によらない口語的世界、ブリコラージュとしての言葉遊びのなかで輝いて聞こえる言葉である。
 終助詞のハヤは、感動、感嘆、哀惜など、歌謡の例にあるように口に出して発話する言葉として用いられる。崇神紀十年九月条に、「御間城入彦みまきいりびこはや」とあり、何かを言っているのではなくただ歌っているだけであるという。景行記に、「あづまはや」とあり、倭建命やまとたけるのみことが東征からの帰路で溜息まじりにつぶやいている。同じく「その大刀たちはや」ともあり、自分から離れてしまったことに言葉が続かなくなっている。雄略紀十二年十月条に、「いひし工匠たくみはや あたら工匠はや」とあり、処刑されそうな大工を惜しんでいる。允恭紀四十二年十一月条に、「うねめはや、みみはや」とあり、朝貢した新羅人が畝傍山うねびやま耳成山みみなしやまを嘆き讃えた声が訛っていて、朝廷側は采女と姦通したのではないかと疑うことになっている。
 海人族のナガ(長)+イキ(息)からナゲキ(嘆)の声、ハヤを冠する族名となっている。海人族は他にも多いから、他の地域の海人もハヤヒトと呼ばれておかしくないが、南九州の人のみそう呼ばれている。どうしてそう落ち着いたのかは不明であるが、翻って、ハヤヒトと呼ばれたことを出発点として議論は始まることになる。「隼人はやひとの名に負ふ」(万2497)とはどういうことか組み立てて行っている。史料や木簡などには「隼人」という用字が常用されている。当時の人たちの共通認識として、そう宛てがうのがふさわしいと感じられたからであろう。先にハヤヒトという言葉があり、それに漢字を当てている。もし「隼人」という漢字が先にあって律令制のもとに初めて定められたとするなら、音読みしてシュンジンなどと名づけられていたのではないか(注5)。上代の人はハヤヒトとあることについて疑問を持つことなく、否定することはまったくなく、その名に値する行動をとるように集合意識として求めていくことになっている。

 凡そ元日・即位及び蕃客入朝等の儀は、官人かんにん二人・史生二人、大衣おほきぬ二人・番上の隼人二十人・今来いまきの隼人二十人・白丁びやくちようの隼人一百三十二人を率て、分れて応天門おうてんもん外の左右に陣し蕃客入朝に、天皇、臨軒せざれば陣せず、群官初めてらば胡床あぐらよりち、今来の隼人、吠声はいせいを発すること三節蕃客入朝は、吠の限りに在らず。(延喜式・隼人司)
 凡そ遠従の駕行には、官人二人・史生二人、大衣二人・番上の隼人四人及び今来の隼人十人を率て供奉ぐぶせよ。番上已上は、みな横刀を帯び馬にれ。但し大衣已下は木綿鬘ゆふかづらけよ。今来は緋の肩巾・木綿鬘を著け、横刀を帯び、槍を執りて歩行せよ。其の駕、国界及び山川道路のまがりを経るときは、今来の隼人、吠を為せよ。(延喜式・隼人司)
 凡そ行幸の宿を経むには、隼人、吠を発せよ。但し近きみゆきは吠せざれ。(延喜式・隼人司)
 凡そ今来の隼人、大衣に吠を習はしめよ。左は本声を発し、右は末声を発せよ。すべて大声十遍、小声一遍。訖らば一人、更に細声を発すること二遍。(延喜式・隼人司)
 朱に云はく、凡そ此の隼人は良人なりと。古辞に云はく、薩摩・大隅等の国人、初めそむき、後にしたがふなりと。うべなふに請ひて云はく、すでに犬と為り、人君に奉仕つかへまつらば、此れ則ち隼人となづくるのみと。(令集解・巻五)
 歌儛教習けうしふせむこと。……穴に云はく、隼人の職は是なりと。朱に云はく、歌儛を教習せむとは、隼人の中に師有るべきことを謂ふなりと。其の歌儛は常人の歌儛に在らず。別つべきなり。(令集解・巻五)

 養老令や延喜式にみられる隼人の任務としては、①朝廷における儀式への参加、②吠声を発すること、③竹器の製作にあたること、の三つに大別される(注6)。延喜式では、宮廷に仕える隼人は、元日即位の日や外国使節の入城、践祚大嘗祭に、応天門の外に異様ないでたちで立ち、赤い模様に飾られた楯と槍を持ち、吠声を発する決まりになっている。また、行幸に際しても、同行して国境や曲がり角で吠声を発することになっている。ハヤヒトという名から役割が整えられていっており、ハヤヒトという名ゆえに言い伝えにも反映したものとなっている(注7)。海幸山幸の話のなかで、最後に相手が屈服して仕えると誓ったとき、それを「隼人」の祖であるとし、「狗」とし、「俳優」としている。「隼人」、「狗」、「俳優」がヤマトコトバのなかで同一にカテゴライズされて納得が行っているのである。

 ここを以て火酢芹命ほのすせりのみこと苗裔のちもろもろ隼人はやひとたち、今に至るまで天皇すめらみこと宮墻みかきもとを離れずして、よよに吠ゆる狗にして奉事つかへまつる者なり。世人よのひとせたる針をはたらざるは、これ、其のことのもとなり。(神代紀第十段一書第二)
 火照命ほでりのみこと 此は、隼人の阿多君あたのきみおや。(記上)
 火闌降命ほのすそりのみことは、即ち吾田君あたのきみ小橋をはし本祖とほつおやなり。(紀本文)
 [火酢芹命ノ曰サク]「吾已にあやまてり。今より以往ゆくさきは、やつかれ子孫うみのこ八十やそ連属つづきに、恒にいましみこと俳人わざひとと為らむ。あるに云はく、狗人いぬひとといふ。はくはかなしびたまへ」とまをす。(神代紀第十段一書第二)
 [火酢芹命ノ曰サク]「……願はくは救ひたまへ。し我をけたまへらば、やつかれ生児うみのこ八十やそ連属つづきに、いましみこと垣辺かきへを離れずして、俳優わざをきたみたらむ」とまをす。(同第四)
 [火照命ノ]頓首ぬかつきてまをししく、「やつかれは、今より以後のち汝命ながみこと昼夜ひるよる守護人まもりびとて仕へ奉らむ」とまをしき。かれ、今に至るまで其のおぼほれし時の種々くさぐさわざ絶えずして、仕へ奉るぞ。(記上)

 海幸山幸の話の末尾で、ホノスセリが屈服した様子を「いぬ」に喩えている(注8)。狩りにおいては獣が捕獲されるが、その時、本来なら獣側にいるはずのイヌが人間側に立って働いている。人間に屈服し、恭順し、今後はずっと人間の役に立つようにすると誓っている。命じられるがままに地べたに腹をつけた「伏せ」の姿勢をとり、屈服を表明していると見受けられる。そして、儀式や行幸の際には、隼人が犬の吠声をたて、あるいは辟邪を司ったとされている。

 …… 犬じもの 道に伏してや いのち過ぎなむ一に云ふ、我が世過ぎなむ(万886、山上憶良)
 ……其の大県主あがたぬしかしこみ、稽首ぬかつきてまをさく、「やつこにし有れば、奴ながさとらずして、あやまち作れるはいとかしこし。かれ、のみの御幣物みまひものたてまつらむ」とまをして、布を白き犬にけ、鈴をけて、おのうがら、名は腰佩こしはきと謂ふ人に、犬の縄を取らしめて献上たてまつりき。(雄略記)
 冬十月の壬午の朔にして乙酉に、みことのりしたまはく、「犬・馬・器翫もてあそびもの献上たてまつること得じ」とのたまふ。(清寧紀三年十月)
 新羅のこきし献物たてまつるものは、馬二疋ふたぎ・犬三頭みつ・鸚鵡二隻ふたつかささぎ二隻及び種々くさぐさの物あり。(天武十四年五月)

 雄略記の例のように、犬を献上することで、犬のように屈服、恭順していることを表明することがあった。鷹狩り用の犬も献上されていた(注9)。飼主の言いつけに従わない犬というのはいない。人に噛みついたり、狂犬病の犬は殺された。雑令に規定されるほか、厩庫律・幖幟羈絆条(逸文)に、「凡畜産及噬犬、有蹹齧人、而幖幟羈絆不法、若狂犬不殺者、笞卅、以故殺傷人者、以過失論、若故放令‐傷人者、減闘殺傷一等、即被雇療畜産倩者、同過失法及無_故触之而被殺傷者、畜主不坐」とある。
 この要件は、犬的な人である隼人にも当てはまる。履中即位前紀に、住吉仲皇子すみのえのなかつみこの「近くつかへまつる隼人」が、ひそかに瑞歯別皇子みつはわけのみこから褒美をあげるといわれて主人を暗殺し、挙げ句の果て、自分の主君を殺すのはけしからんということで殺されている。主人や鷹を傷つけた犬は即刻殺されるということである。飼い犬に手をかまれるとの諺になっている。記では、「墨江すみのえの中皇子なかつみこに近くつかへたる隼人、名は曾婆加理そばかり」といい、紀には、「近くつかへまつる隼人有り。刺領巾さしひれと曰ふ。」と指定されている。
 犬の躾には、他にも「お座り」、「お手」などいろいろあり、狩猟の際には野性をよみがえらせて吠えたり果敢に飛び跳ねてアタックしたりする(注10)。意のままに動くさまを舞と見立てたのが隼人舞である。
 舞にはお囃子が付き物である。うまい具合に、ハヤヒトという名からはやすことが期待されている。お囃子をつかさどって、隼人は「俳優わざをき俳人わざひと」となっている。お囃子がそうであるように、あちらからもこちらからも声があがるよう、元日や即位の際の儀式において左右に分かれて位置して「吠声」を発している。延喜式・隼人式に、「分陣応天門外之左右一二、……今来隼人発吠声三節」とあるとおりである。そんな掛け合いがなされるのはまるで山にいるオオカミの遠吠えの掛け合いのようであり、猟犬、番犬である飼犬もつられて呼応したのだろう。まことにうまい形容であると認められよう。ヨバフ声を発していたわけである。
 ヨバフは、ヨブ(喚)に反復、継続の動詞語尾フのついた形である。その際、聞かせるべき相手は必ずどこかにいる。くり返し大きな声をあげて相手に向って注意を向けさせようとしていたり、見えないけれど必ずいるはずの答えてくれるべき相手を探すように声をあげている。よく通る声でなければならない。崇峻前紀では、捕鳥部万ととりべのよろづが犬のように地に伏し、誰かまっとうに話のできる相手はいないかとヨバフことをしている。この話にはよろづの飼っていた犬の話などがエピローグとして付いている(注11)。「犬(狗)」について深く考えられている。

 隼人はやひとの 名に夜声よごゑ いちしろく が名はりつ 妻とたのませ(万2497)
 かきしに 犬呼び越して 鳥狩とがりする君 青山の しげ山辺やまへに 馬休め君(万1289)
 隼人、多に来て方物くにつものたてまつる。是の日に、大隅隼人と阿多隼人と、朝廷みかど相撲すまひとる。大隅隼人勝つ。(天武紀十一年七月)
 五月丁未の朔にして己未に、隼人大隅にへたまふ。丁卯に、隼人の相撲とるを西のつきもとる。(持統紀九年五月)

 万2497番歌では原文に「早人」とあり、ハヤト、ハヤヒトという名に負うのが大きな夜声であるとしている。令集解・職員令にも、「已為犬、奉‐仕人君者、此則名隼人耳。」とある。隼人舞や犬の吠え声から囃す人のこと、敏捷で動作が速い、隼人舞のテンポの速いこととする説などがあげられている。しかし、犬の本義に近づいていない。猟犬として使うのは鷹狩においてである。鷹狩に使うはやぶさは、猟犬同様、飼い主に忠実である。狩りで捕まえたのだから自分で食べてしまえばいいのに食べずにいる。感嘆に値するし、食べてしまったらお仕置きが怖いから食べられず彼らは嘆息しているように見える。嘆く時に使う助詞はハヤである。鷹狩には鷹、隼、鷲など猛禽類が使われるが、そのなかで隼は最も人に馴れやすく、ペット化しやすい。犬と同等である。
 鷹狩に使う鷹(隼)を調教する際(「振替ふりかえ」)にも、ホッ、ホッと静かに、そして通るように鷹を呼ぶ。ワンワン(bow-wow)言ったら近づいてこない。ホォー(howl)と遠吠えする声のことを言っている。
 番犬として考えた場合、ドーベルマンのように警護の役に就くことに整合性がある。警護のために使う道具は楯である。平城宮跡から隼人の楯は出土している。犬という存在は、主人の楯となって主人を守る楯の役割を果たす。猟犬の記憶、さらにはオオカミの記憶としては、主人以外の人に対して敵対行動をとり、飼犬が楯となって守るのである。その際、誰をご主人様と思うかによって拒絶する相手は変わってくる。延喜式・隼人司に、「凡元日即位及蕃客朝等儀、……」、「凡践祚大嘗日、……」、「凡遠従駕行者、……」、「凡行幸経宿者、……」などとある各条は、すべて天皇を主人として隼人が振る舞うために定められた条項である。
盾持ち人形埴輪(時塚1号墳出土、向日市文化資料館『発掘された京都の歴史2024』展展示品。盾、犬のような耳、入れ墨の特徴を持つ)
 門番と考えるならそれは仁王に値する。大隅隼人と阿多隼人との二地域をあげたのは、左右(東西)に配置させるためで、力自慢の力士による天覧相撲が開かれている。九州南部の人の身長は低かったとされており、大相撲ではなく、犬相撲、闘犬に近い。ガードマンは通せん坊をする。入って来ようとするのを「いなぶ」ことをする。嫌がり拒むことは、古語で「すまふ」ともいうから、「相撲すまひ」を取っている(注12)
 人がいちばん嘆くのは大切な人が亡くなった葬儀の時である。亡くなることは古語で「ぬ」という(注13)。死ぬことは、姿が見えなくなることだから、婉曲的に死ぬことをイヌ(去・往)(万1809)と言い、人は死ぬとき横になって眠るような姿態をとる。だから、イヌという言葉が両方の意味を表していてわかりやすい。なにしろ、動詞イヌ(寝・去・往)を名詞のイヌ(犬)が体現している。イヌ(犬)がイヌ(去)ことをしたという例(桜井田部連膽渟の例、崇峻前紀用明二年七月)もある。まるで、辞書の用例として載っている一連の例文をもって一つの話にまとめられたかのようである。語学的にとても丁寧な解説となっている。ヤマトコトバはヤマトコトバをもってして、言葉を了解的に循環説明し、納得の域に達せしめている。わかりやすくておもしろくてためになる。そんな話(咄・噺・譚)が披露されている。何のための話なのかといった問いは、もはやナンセンスである。この件は辞書的説明が説話の形を整えたものである。イヌ(犬・寝・往)という言葉の本意を伝えるために話が成っている。
 犬であるハヤヒトにも活躍の場が設けられている。隼人はもがりに参列し、番犬の役割として警備に当たる。ゆえに守護人となって隼人司は衛門府に属している。忠犬よろしく殉死することもあったように描かれる(注14)

 三輪君みわのきみさかふ、隼人をして殯庭もがりのには相距ふせかしむ。(敏達紀十四年八月)
 冬十月の癸巳の朔にして辛丑に、大泊瀬天皇おほはつせのすめらみこと丹比たぢひの高鷲原陵たかわしはらのみさざきに葬りまつる。時に隼人、昼夜みさざきほとり哀号おらび、くらひものたまへどもくらはず、七日なぬかにして死ぬ。有司つかさ、墓を陵のきたのかたに造り、ことわりを以てかくす。(清寧元年十月)

 犬は飼い主に忠実であるが、ホォー(howl)と遠吠えする声は何を言っているのかわからず、ただ嘆いているばかりに聞こえる。今日でも、愛犬が救急車のサイレンに反応して遠吠えを始めたら、飼い主は何が起こっているのか戸惑うばかりで、大丈夫だよと声をかけてなだめている。九州南部出身者の方言は、外国語に勝るとも劣らぬほどわからなかったといわれ、まるで犬の声のようであったというのは話のオチのようなことであるが、そこから翻って彼らをハヤヒトと名づけたかどうかはわからない。
止まり木上の鷹と沓脱板でお座り姿勢の犬(春日権現験記写、板橋貫雄模、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1287498/1/7をトリミング)
 以上のことごとを解釈する際、隼人の人たちがヤマトに恭順したことを記録するものであるとか、時代的に言っていつのことに当たるのか、ハヤヒトがいつからそう呼ばれ定められていったかについては問うことができない(注14)。ヤマト朝廷に服属していく仕方は他の周縁の民と同様であろう。たまたまハヤヒトという名を持っていたから、役回りとして上のようなことを担うように要請されたということだろう。それが語学的証明である。今日的な概念規定、例えば「服属儀礼」、「華夷思想」、「呪力」といった術語ワードで考察しようとしても的外れである。

(注)
(注1)宮島1999.は彼らが海人族で、「執檝者かぢとり」に速い人とする説を唱えている。
(注2)『鹿児島市史Ⅰ』が「いくらその語のもつ意味を正確にとらえたところで、大した意義はないように思う。」(100頁)、『鹿児島県史第一巻』が「ハヤに特種の意味を持たせる事は果して適当であらうか。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1261640/1/49、漢字の旧字体は改めた)という言い方に、中村氏は反発している。
(注3)幸田露伴の音幻論など、見るべきものがないわけではない。
(注4)樟葉くずはの地名の由来について古事記は語っている。「皆たしなめらえて、くそ出で、はかまに懸る。かれ其地そこなづけて屎褌くそばかまと謂ふ。今は久須婆くすばと謂ふ。」(崇神記)。
(注5)文字によらずにハヤヒトという言葉があるということは、歴史のない文化を発祥とするということであり、名義の始期を問うことは筋違いである。今日、歴史学では、天武朝からハヤヒトと呼ばれたとし、記紀の説話は後付けで創作された文飾であると考えられるに至っている。文献を歴史学的視座からしか見ていないとそうなる。記紀に書いてあることは話(咄・噺・譚)である。文字を持たずに言葉を操っていた話の時代があり、その話の言葉を文字に書き写して残そうとしたものである。コトコトでなければ収拾がつかなくなるから、必ずコトコトになるように話(咄・噺・譚)とした。嘘をつくことは固く戒められ、ありもしないことをでっちあげることは慎まれた。火のないところに煙が立つようなデマは伝えられることなくかき消されたであろう。情報化社会とは真逆で、基本的に人の口から口へ、一人から一人へしか伝達の術はなかったからである。その間の誰か一人でも覚えることをしなかったら、伝わることはないのである。積極的に相手に覚えさせようとするおもしろさこそが話(咄・噺・譚)を支えた命であった。
(注6)➂の竹器製作の理由については、拙稿「捕鳥部万と犬の物語について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/19cfc757c1bd6945f14dd710ed63dc08参照。
(注7)言い伝えが先か、条文が先かを問うことに関心が向かっているが、見当違いである。言葉として言い当てた時からすべては始まる。話としても法としても創られていく。
(注8)官憲の犬と言われるのは、昔は盗人として活躍していたが火付盗賊改に捕縛されて御用を聞くようになった者である。令集解に「朱云、凡此隼人者良人也。」とあるとおりである。
(注9)「貢上犬壱拾伍頭、起六月一日尽九月廿九日、并一百四十七日、単弐仟弐伯伍頭、食稲肆伯肆拾壱束、犬別二把」(正倉院文書・天平十年筑後国正税帳)と見える。
 なかには貴族邸で完全に愛玩用に飼われていた犬もいたようである。『平成29年度平城宮跡資料館新春ミニ展示「平城京の戌」リーフレット』独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所https://sitereports.nabunken.go.jp/21939参照。
(注10)犬の動作については、それが飼犬である限りにおいて、人によって決められている。基本的な躾に従った動きが求められる。柳亭種彦・足薪翁記に「犬のさんた」のことが記されている。

 犬にさんたせよ\/といへば、前足をあげとびつく事のありしが、他国はしらず。江戸にてさる戯をする者を見ず。手をくれといふが此餘波ともいはん歟。三太はでつち又小僧などいふ下童の通称なれば、かのでつちの狂ひまはるまなびをせよと云事なるべし。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2553925/1/63、漢字の旧字体は改めた)

(注11)拙稿「捕鳥部万と犬の物語について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/19cfc757c1bd6945f14dd710ed63dc08参照。物部もののべの守屋もりやの「資人つかひと」という立場であるが、「犬」という言葉をよく写したものになっている。
(注12)佐佐木2007.は、「印南いなみいなび・び・犬」は音が似通っていて、イメージとして連想される言葉であると指摘する。もちろん、実際の使用においては文脈に依存する。
(注13)寝ることは「ぬ」(下二段動詞)、死ぬことも「ぬ」(ナ変動詞)である。

 大原の りにしさとに いもを置きて われねかねつ いめに見えこそ(万2587)
 夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寐宿ねにけらしも(万1511)
 …… 隠沼こもりぬの したへ置きて うち嘆き 妹がぬれば ……(万1809)
 おくて われはや恋ひむ 稲見野いなみのの 秋萩見つつ なむ子ゆゑに(万1772)
 明日よりは 印南いなみの川の 出でてなば とまれる吾は 恋ひつつやあらむ(万3198)
 まことまさに遠く根国ねのくにね。(神代紀第五段本文)

(注14)殉死が盛んだった中国殷代の様子を白川2000.にみると、殷代の殉葬には、(a)身分関係の如何を問わず、王との親近関係によって、王の歿後においても、なおその側近にあることを要求される親信貴戚・武人・輿馬侍衛・包丁膳宰・𠬝・妾の類と、(b)専らその墓域を修祓潔斎する目的を以て、犬や牛羊とともに埋死された女子小人・閹寺、あるいは同様の目的を以て殉殺される羌・南等の外族犠牲の二種があるという。清寧紀元年十月条の記事は、犬牲の色彩を強くにじませた内容となっている。
(注15)文字言語のもとにある文明ではなく、無文字時代の口頭言語の文化の産物である。無文字文化に「歴史」はない。記憶と記録の違いである。(注5)参照。
 なお、隼人が人間として従ったのではなく、犬の立場に立つ形で仕えたということから、南九州地方に古墳がないことを説明できるかもしれない。埴輪は殉死の代わりとして供えられたという考えが垂仁紀二十八・三十二年条に表れている。今日の歴史学では時代的に合わないこと、殉死の風はヤマトに顕著とは言えず実態を伴わないこと、埴輪の発祥は吉備の特殊器台から転じた円筒埴輪に求められ、形象埴輪を語る記述はあやしいことから、その記述は否定的にばかり見られている。しかし、埴輪とはすなわち古墳を造ることであると据えてみれば、古墳を造ることは殉死の代わりになることと定位することができる。隼人=犬を埋葬するのに、犬の墓に犠牲の犬を求めることは辻褄が合わないから、ヤマト朝廷は南九州の勢力には古墳を作らせることがなかったと理解できるのではないか。日本書紀の記述について、まだまだ感覚として読めていないところがあると感じさせられる。

(引用・参考文献)
伊藤2016. 伊藤循『古代天皇制と辺境』同成社、2016年。
『鹿児島県史第一巻』 『鹿児島県史第一巻』鹿児島県、昭和14年。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1261640)
『鹿児島市史Ⅰ』 鹿児島市史編さん委員会編『鹿児島市史Ⅰ』昭和44年。
熊谷2019. 熊谷公男「蝦夷・隼人と王権─隼人の奉仕形態を中心にして─」仁藤敦史編『古代王権の史実と虚構』竹林舎、2019年。
佐佐木2007. 佐佐木隆『日本の神話・伝説を読む』岩波書店(岩波新書)、2007年。
白川2000. 白川静「殷代の殉葬と奴隷制」『白川静著作集4』平凡社、2000年。
高林1977. 高林實結樹「隼人狗吠考」横田健一編『日本書紀研究 第十冊』塙書房、昭和52年。
中村1993. 中村明蔵『隼人と律令国家』名著出版、1993年。
中村1998. 中村明蔵『古代隼人社会の構造と展開』岩田書院、1998年。
永山2009. 永山修一『隼人と古代日本』同成社、2009年。
原口2018. 原口耕一郎『隼人と日本書紀』同成社、2018年。
前川1986. 前川明久「隼人狗吠伝承の成立」『日本古代氏族と王権の研究』法政大学出版局、1986年。
松井1995. 松井章「古代史のなかの犬」『文化財論叢Ⅱ』同朋舎出版、平成7年。
宮島1999. 宮島正人『海神宮訪問神話の研究─阿曇王権神話論─』和泉書院、1999年。
守屋1973. 守屋俊彦「隼人舞と犬吠え」『記紀神話論考』雄山閣、昭和48年。

※本稿は、2012年2月稿「隼人(はやと・はやひと)の名義は、助詞のハヤによく表れている」を大幅に書き改めたものである。

四天王寺創建説話と白膠木のこと

2024年10月04日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 崇峻前紀に、物部守屋を攻め滅ぼす戦の場面がある。厩戸皇子は白膠木を四天王像に作って戦勝祈願をしている。これが四天王寺発願のこととされて今日でも議論の対象となっている。

 の時に、厩戸皇子うまやとのみこ束髪於額ひさごはなにして、いにしへひと年少児わらはの、年十五六とをあまりいつつむつの間は、束髪於額にし、十七八とをあまりななつやつの間は、分けて角子あげまきにす。今亦しかり。いくさうしろしたがへり。みづか忖度はかりてのたまはく、「はた、敗らるること無からむや。ちかひことあらずは成しがたけむ」とのたまふ。乃ち白膠木ぬりでり取りて、四天王してんわうみかたに作りて、頂髪たきふさに置きて、ちかひててのたまはく、白膠木、此には農利泥ぬりでといふ。「今し我をしてあたに勝たしめたまはば、必ず護世四王ごせしわう奉為みために、寺塔てら起立てむ」とのたまふ。蘇我馬子そがのうまこの大臣おほおみ、又誓を発ててはく、「おほよ諸天王しよてんわう大神王だいじんわうたち、我を助けまもりて、利益つことしめたまはば、願はくはまさに諸天と大神王との奉為に、寺塔を起立てて、三宝さむぽう流通つたへむ」といふ。ちかをはりて種々くさぐさいくさよそひて、進みて討伐つ。……みだれしづめてのちに、摂津国つのくににして、四天王寺してんわうじを造る。(是時、厩戸皇子、束髪於額、古俗、年少児、年十五六間、束髪於額、十七八間、分為角子。今亦為之。而随軍後。自忖度曰、将無見敗。非願難成。乃斮取白膠木、疾作四天皇像、置於頂髪、而発誓言、白膠木、此云農利泥。今若使我勝敵、必当奉為護世四王、起立寺塔。蘇我馬子大臣、又発誓言、凡諸天王・大神王等、助衛於我、使獲利益、願当奉為諸天与大神王、起立寺塔、流通三宝。誓已厳種々兵、而進討伐。……平乱之後、於摂津国、造四天王寺。)(崇峻前紀)

 この記述については、前後の文章と筆法が異なると指摘され、日本書紀の編纂の最終段階で挿入されたと考えられることがある。ただし、所詮は推測に過ぎず、根拠は薄弱である(注1)。日本書紀を編纂している人たちは、史上ほぼ初めて自分たちが使っている言葉を文字に書き起こしている。使っていた言葉とはヤマトコトバである。話し言葉としてあって上手に話していた。それを中国語に訳そうと漢文風に書いたのではなく、試しに漢文調で書いてみて、ヤマトコトバで理解できるように工夫している。ヤマトの人たちの間で通じればいいのであり、倭習と呼ばれる書き方は間違いではない。だからこそ、今日の我々でも理解できる。
 森2002.は、㋑「今亦然。」、㋺「成。」、㋩「蘇我馬子大臣発誓言、」、㋥「助衛我使獲利益、」、㋭「誓已種種、而進討伐○○。」が倭習、筆癖、潤色箇所であると指摘している。㋭は、小島1962.が、金光明最勝王経・護国品の「、発向彼国、欲為討伐○○。」によるものであろう(467頁)と推測する箇所である。
 金光明最勝王経の義浄訳は703年に成ったから、それ以降に書かれたもの、つまり、この文章全体はすべて後から付け足されたものと決めつけている。しかし、清書する前の段階であれば何段階でも書き足すことは可能であり、この文章がまるごといっときに追加されたものなのかわからない。もとより、金光明最勝王経に依った文飾と、「又」は「亦」でなければならないとチェックする採点とでは次元を異にする。可能性の問題として、㋑〜㋥は日本書紀の種本となる「天皇記すめらみことのふみ国記くにつふみ」(皇極紀四年六月)にそう書いてあったからそのまま引き写し、㋭に関してのみ後に潤色したということも考えられる。日本書紀は、すべからく日本書紀区分論を反映して書かれていなければならないと考えるのは本末転倒な研究姿勢である。
 それ以上に困ったことに、文章の印象から後に加えられたものであるとする議論がある。榊原2024.は、「その内容は、物語性が強く、不自然で、いかにも説話的であり、創作されたものであろう。当時の人々の間で自然に発生した伝承ではないと思われる。これまでの研究においても、崇峻即位前紀七月条……の[四天王寺]創建説話に記された内容は、歴史的な事実とは考えられず、創作された説話だとする見解が繰り返し提示されてきた。」(311~312頁)としている。
 断っておきたいのは、日本書紀に書いてあることをもって四天王寺の創建説話ととることは、日本書紀の本意ではない点である。日本書紀に書いてあることは、崇峻前紀であれば崇峻天皇が即位する前にどんなことがあったかということである。四天王寺が自らの創建を日本書紀に求めることはかまわないが、その逆ではない。また、榊原氏の言う「物語性」、「不自然」、「説話的」、「創作されたもの」という位置づけにおいて、それはいわゆる「歴史的な事実」とは相容れないものとして低い評価しか与えられていない。その底流には近代の価値観があるのだが、それで上代の文献を切り取ろうとしても豊かな成果は得られないだろう。なにしろ、日本書紀に書いてあることはヤマトコトバであり、話し言葉である。当時伝えられていた言葉は話し言葉として伝わっている。物語的、説話的、創作的であることのほうが自然である(注2)
 義浄訳金光明最勝王経に依っているとする説では、「護世四王」と「白膠」という文字面を気にしている。「護世四王」という言い方は他の仏典にも見えるが、「白膠」は義浄訳金光明最勝王経を待たなければ現れず、厩戸皇子の所作と祈願はその渡来以降に創られた話なのだとされている。「白膠木で四天王像を作ったという記述も、[仏教伝来記事]同様に『金光明最勝王経』の思想と用語に基づいて記述されたものとしてよいだろう。」(吉田2012.101頁)という。
 この議論はおかしい。義浄訳金光明最勝王経に出てくる「白膠」は、洗浴の法として香薬を三十二味を取れと言っている中の一つである。「牛黄」、「松脂」、「沈香」、「栴檀」、「丁子」、「鬱金」などに混じり、「白膠 〈薩折羅婆〉」とある。西大寺本金光明最勝王経においては、「膠」字にカウと白点(平安初期点)が付けられいる(巻七・金光明最勝王経大弁財天女品第十五、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1885585/1/72)。つまり、この「白膠」はビャクカウのように読まれるものである。
 白膠は、鹿の角などから得られる香材である(注3)

 白膠 味甘平、温無毒。主傷中労絶、腰痛、羸瘦、補中益気、婦人血閉無子、止痛安胎。療、吐血下血、崩中不止、四肢酸疼、多汗淋露、折跌傷損。久服軽身延年。一名鹿角膠。生雲中、煮鹿角作之。得火良、畏大黃。/今人少復煮作、惟合角弓、猶言用此膠爾。方薬用亦稀、道家時又須之。作白膠法、先以米瀋汁、漬七日令軟、然後煮煎之、如作阿膠法爾。又一法、即細剉角、与一片乾牛皮、角即消爛矣、不爾相厭、百年無一熟也。(陶弘景・本草経集注)
 白膠 一名鹿角膠。和名加乃都乃々爾加波かのつののにかは(本草和名)

 金光明最勝王経の「白膠」は、植物のヌルデ(白膠木)とは無関係である。字面として「白膠」が義浄訳の金光明最勝王経に見えるからと言って、それをもとにヌルデの木のことを崇峻前紀で「白膠木」と書いたとは決められない。すでに本草経集注にも見えている(注4)
 ヌルデの木のことは、新撰字鏡に、「檡 舒赤・徒格二反。正善也、梬棗也。奴利天ぬりで木也。」、和名抄に、「㯉 陸詞切韻に云はく、㯉〈勅居反、本草に沼天ぬでと云ふ〉は悪しき木なりといふ。弁色立成に白膠木と云ふ。〈和名は上に同じ〉」とある。「㯉」は「樗」の異体字である。医心方には、「樗鷄 和名奴天乃支乃牟之ぬでのきのむし」とある。ヌルデの木についた虫こぶが、鶏冠のような形状を示していたからこのように書かれたものと推測される(注5)
ヌルデの虫こぶ
 ヌルデの木を材として仏像彫刻とした例は知られない。ウルシ科の落葉高木で、樹液は白く、塗料や接着剤に活用が可能であった。塗る材料の意を表してヌリデと称したというのは合っていると思われる。わざわざ皮膚がかぶれかねないウルシ科の木材を使って彫像することはない。そんなヌルデ(古名ヌリデ)を漢字表記するのに、樹液が白くて膠のような性質を帯びているからということで「白膠木」と記すことに特段の不思議はない。筆者は、厩戸皇子は、ヌルデの虫こぶが膨らんでいるのを四天王像に見立てたものと考えている(注6)。ヌルデの木に注目が行って実用としているのは、医心方にあるとおりその虫こぶであったと考えられる。虫こぶからは付子ふし(五倍子)が取れ、薬用のほか、黒色の染料として用いられた。太子はヌルデの虫こぶを斮り取って彫像しつつ付子によって髪の毛の薄いのを誤魔化すことをしていた。最終的に摂津の国に四天王寺を建立することになったのは、付子はお歯黒に用いられたからで、口の中にはがいっぱいだから、ふさわしいのはツの国だということに相成ったのだろう。ヤマトの人は母語であるヤマトコトバでものを考えている。
 崇峻前紀に記されている「白膠木ぬりで」は話の素材として欠かせないものである。話し言葉のヤマトコトバにとてもよくマッチした話(咄・噺・譚)に仕上がっている。現代の歴史研究者は、古代の人のものの考え方に近寄ろうとしてせず、独りよがりな議論を展開して学と成している。

(注)
(注1)文字(漢字)の使用法をもってすべてがわかるほど、書かれた文章が言葉の多くを占めているわけではない。また、程度の問題としても、書いてあることからわかることは、書くことに慣れた近現代人よりもずっとわずかなことしか理解されないことを悟らなければならない。
(注2)「歴史」は書き言葉、文字によって作られた。ヘロドトス『歴史』、司馬遷『史記』のようにである。日本書紀は言い伝え、すなわち、話し言葉を基礎とする言葉を文字に落とし込もうとして、漢籍の字面を応用している。出典研究が行われて久しいが、典拠として新たに物語ろうとして創作された文章は必ずしも多くはない。なぜなら、書き残そうとしていることはヤマトの昔のことで、中国の思想的背景は脈絡に合わなくなるからである。それらは近代の価値観に基づく歴史的事実ではないかもしれないが、話(咄・噺・譚)として一話完結で成り立っていて、当時の人々の間で自然に発生した伝承である可能性がきわめて高いと考えられる。おもしろくなければ誰も語り継ごうとしないものである。
(注3)満久1977.によれば、中国や日本にはインドボダイジュやウドンゲノキがないから、日本の真言宗ではヌルデが護摩木に代用されたという。白い汁が出る木をもって代えて使うようにと仏典に指示があるという(139頁)。ヌルデは香木というわけではなく、和名抄に「悪木」扱いされているから、吉田2012.が推測するように霊木であったとも考えられない。新修本草にある楓香脂の一名に白膠香ビャクキョウコウとあるが、フウの樹脂を基原とするという(木下2017.307頁)。
(注4)久米邦武・上宮太子実録に、「四天王像の原料白膠木・・・は、倭名ヌリテ、異名を勝軍木という、香脂にして木材にはあらず。本草綱目に楓香脂、一 ハ白膠香とあり、李時珍の註に、 ニ香楓、金光明 ニ其香須薩折羅婆香、即此木謂漆也とある、脂といひ、にへといひ、漆といふ、今ならばゴム質といふべき物なり。其香膠にて作りたる小き像によりて、四天王寺の大伽藍を起せりとは一笑談なれど、勝軍木にちなみたる落想なるべし。釈日本紀に、白膠木(ぬりての木)私記曰、大政殿下 テ曰、白膠木之意如何、 シ云、師説不たしか其後問 ノ有識、或 フ白膠者甚有霊之木也、故修法之壇、取此木乳而塗用也、或 ニ仏之心[]入 ハ此木、取 ルニ_霊、及不朽乎、 ハ華山僧 ノ諸儀軌之文説とあれば、亦有霊の意にも取たるなり。要するに白膠は仏像に塗る用にして、仏像を刻むべき原料にあらず。俗に赤旃壇シヤクセンダンの霊木と称ふるも、此楓香脂を誤認したるにてあるべし。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/780770/1/74、漢字の旧字体は改めた)とあり、これを受けて村田1966.は、「勝軍木または呪薬香だから用いたことが察せられる。」とし、「白膠については北涼曇無讖訳『金光明経』になく、隋釈宝貴の「合部金光明経大弁天品第十二「一切悪障悉得除滅……是故我説呪薬之法……白膠香」とあり、義浄訳『金光明最勝王経』大弁才天女品第十五 「如是諸悪為障難者、悉令除滅……当取香薬三十二味、所謂…白膠〈薩折羅婆〉 」とある。」(76頁)と註している。
(注5)いずれも我が国独自の用字であるという。木下2017.150頁参照。
(注6)「乃斮‐取白膠木四天皇像、」とあり、すぐにできあがっている。拙稿「聖徳太子のさまざまな名前について 其の一」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/bc11138c06bb67c231004b41fc7222bc参照。そこではヌルデの虫こぶ一つを四面の像とも仮定したが、虫こぶは鈴なりに成ることがあるから、一枝に四つできた虫こぶを「四天王」だと洒落て見立てたということかもしれない。戦にあっては、あまりの緊張から萎縮することがある。それを除くためには適度のリラックスが必要であり、厩戸皇子は自らおどけながら仏法による加護が得られることを期待してみせて、軍勢に対して安心感を与えつつ鼓舞することにも成功している、そういう話であると考える。

(引用・参考文献)
春日1969. 春日政治『西大寺本金光明最勝王経古点の国語学的研究』勉誠社、昭和44年。
木下2017. 木下武司『和漢古典植物名精解』和泉書院、2017年。
小島1962. 小島憲之『上代日本文学と中国文学 上─出典論を中心とする比較文学的考察─』塙書房、昭和37年。
榊原2024. 榊原史子「『日本書紀』崇峻即位前紀七月条と四天王寺の創建─「厩戸皇子」像の検討─」小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝来』雄山閣、令和6年。
本草経集注 陶弘景校注『本草経集注』南大阪印刷センター、昭和47年。
満久1977. 満久崇麿『仏典の植物』八坂書房、1977年。
村田1966. 村田治郎「四天王寺創立史の諸問題」『聖徳太子研究』第2号、昭和41年5月。
森2005. 森博達「聖徳太子伝説と用明・崇峻紀の成立過程─日本書紀劄紀・その一─」『東アジアの古代文化』122号、2005年2月。
吉田2012. 吉田一彦『仏教伝来の研究』吉川弘文館、2012年。