古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

記紀のカワラについて

2018年06月03日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 「甲(鎧)(よろひ)」と「かわら」という2つの言葉についての記述は記紀のなかで2つの場面に見られる。

 九月の丙戌の朔甲午に、大彦命を以て北陸(くぬがのみち)に遣す。武渟川別(たけぬなかはわけ)をもて東海(うみつみち)に遣す。吉備津彦をもて西道(にしのみち)に遣す。丹波道主命(たにはのみちのぬしのみこと)をもて丹波に遣す。因りて詔して曰はく、「若し教(のり)を受けざる者あらば、乃ち兵(いくさ)を挙げて伐て」とのたまふ。既にして共に印綬(しるし)を授(たま)ひて将軍(いくさのきみ)とす。壬子に、大彦命、和珥坂(わにさか)の上に到る。時に少女(をとめ)有りて、歌(うたよみ)して曰く、一に云はく、大彦命、山背の平坂に到る。時に、道の側(ほとり)に童女(わらはめ)有りて歌して曰く、
  御間城入彦(みまきいりびこ)はや 己が命(を)を 弑(し)せむと 窃(ぬす)まく知らに 姫遊(ひめなそ)びすも 一に云はく、大き戸より 窺(うかか)ひて 殺さむと すらくを知らに 姫遊びすも(紀17)
 是に、大彦命異(あやし)びて、童女(わらはめ)に問ひて曰く、「汝(いまし)が言(いひつること)は何辞(なにこと)ぞ」といふ。対へて曰く、「言(ものもい)はず。唯(ただ)歌ひつらくのみ」といふ。乃ち重ねて先の歌を詠ひて、忽(たちまち)に見えずなりぬ。大彦乃ち還りて、具(つぶさ)に状(ありつるかたち)を以て奏(まを)す。是に、天皇の姑(みおば)倭迹々日百襲姫命、聡明(さと)く叡智(さか)しくして、能く未然(ゆくさきのこと)を識(し)りたまへり。乃ち其の歌の怪(しるまし)を知りて、天皇に言(まを)したまはく、「是、武埴安彦が謀反(みかどかたぶ)けむとする表(しるし)ならむ。吾聞く、武埴安彦が妻吾田媛(あたひめ)、密に来りて、倭の香山(かぐやま)の土を取りて、領巾(ひれ)の頭(はし)に裹(つつ)みて祈(の)みて曰さく、『是、倭国(やまとのくに)の物実(ものしろ)』とまをして、則ち反(かへ)りぬ。物実、此には望能志呂(ものしろ)と云ふ。是を以て、事有らむと知りぬ。早(すみやか)に図るに非ずは、必ず後(おく)れなむ」とまをしたまふ。
 是に、更に諸(もろもろ)の将軍(いくさのきみ)を留めて議(はから)ひたまふ。未だ幾時(いくばく)もあらずして、武埴安彦と妻吾田媛と、謀反逆(みかどかたぶ)けむとして、師(いくさ)を興して忽(たちまち)に至る。各道を分(くば)りて、夫は山背より、婦は大坂より、共に入りて帝京(みやこ)を襲はむとす。時に天皇、五十狭芹彦命(いさせりびこのみこと)を遣して、吾田媛の師を撃たしむ。即ち大坂に遮(さいき)りて、皆大きに破りつ。吾田媛を殺して、悉(ふつく)に其の軍卒(いくさびと)を斬りつ。復(また)大彦と和珥臣の遠祖(とほつおや)彦国葺(ひこくにぶく)とを遣して、山背に向(ゆ)きて、埴安彦を撃たしむ。爰に忌瓮(いはひべ)を以て、和珥(わに)の武鐰坂(たけすきのさか)の上に鎮坐(す)う。則ち精兵(ときいくさ)を率(ゐ)て、進みて那羅山(ならやま)に登りて軍(いくさだち)す。時に官軍(みいくさ)屯聚(いは)みて草木を蹢跙(ふみなら)す。因りて其の山を号けて那羅山と曰ふ。蹢跙、此には布瀰那羅須(ふみならす)と云ふ。更(また)那羅山を避りて進みて輪韓河(わからがは)に到りて、埴安彦と河を挟みて屯(いは)みて、各相挑む。故、時人、改めて其の河を号けて挑河(いどみがは)と曰ふ。今、泉河(いづみがは)と謂ふは訛(よこなば)れるなり。
 埴安彦、望(みのぞ)みて、彦国葺に問ひて曰く、「何に由りて、汝は師を興して来るや」といふ。対へて曰く、「汝、天(あめ)に逆(さか)ひて無道(あづきな)し。王室(みかど)を傾けたてまつらむとす。故、義兵(ことわりのいくさ)を挙げて、汝が逆ふるを撃たむとす。是、天皇の命(おほせこと)なり」といふ。是に、各先に射ることを争ふ。武埴安彦、先づ彦国葺を射るに、中(あ)つることを得ず。後に彦国葺、埴安彦を射つ。胸に中てて殺しつ。其の軍衆(いくさびとども)脅えて退(に)ぐ。則ち追ひて河の北に破りつ。而して首を斬ること半(なかば)に過ぎたり。屍骨(ほね)多(さは)に溢れたり。故、其の処を号けて、羽振苑(はふりその)と曰ふ。亦、其の卒(いくさ)怖(お)ぢ走(に)げて、屎、褌(はかま)より漏(お)ちたり。乃ち甲(よろひ)を脱(ぬ)きて逃ぐ。得(え)免(まぬか)るまじきことを知りて、叩頭(の)みて曰く、「我君(あぎ)」といふ。故、時人、其の甲を脱きし処を号けて伽和羅(かわら)と曰ふ。褌より屎(くそお)ちし処を屎褌(くそばかま)と曰ふ。今、樟葉(くすば)と謂ふは訛れるなり。又叩頭みし処を号けて我君(あぎ)と曰ふ。叩頭、此には迺務(のみ)と云ふ。(崇神紀十年九月)
 故、天皇の崩りましし後に、大雀命は、天皇の命に従ひて、天の下を宇遅能和紀郎子に譲りき。是に、大山守命は、天皇の命に違ひて、猶天の下を獲むと欲ひて、其の弟(おと)皇子を殺さむ情(こころ)有りて、窃(ひそ)かに兵(いくさ)を設けて、攻めむとしき。爾くして、大雀命、其の兄(え)の兵を備ふることを聞きて、即ち使者を遣して、宇遅能和紀郎子に告げしめき。故、聞き驚きて、兵を河の辺に伏せき。亦、其の山の上に、絁垣(きぬがき)を張り帷幕(あげはり)を立て、詐りて舎人を以て王(みこ)と為て、露に呉床に坐せ、百官が恭敬(ゐやま)ひ往来(かよ)ふ状、既に王子(みこ)の坐す所の如くして、更に其の兄王の河を渡らむ時の為に、船を具へ餝りき。檝は、さな葛の根を舂き、其の汁の滑(なめ)を取りて、其の船の中の簀椅(すばし)に塗り、蹈むに仆(たふ)るべく設けて、其の王子は、布の衣・褌を服(き)て、既に賤しき人の形と為りて、檝を執り船に立ちき。
 是に、其の兄王、兵士を隠し伏せ、衣の中に鎧を服て、河の辺に到りて、船に乗らむとせし時に、其の厳餝(かざ)れる処を望みて、弟王(おとみこ)其の呉床に坐すと以為(おも)ひて、都(かつ)て檝を執りて船に立てるを知らずして、即ち其の執檝者(かぢとり)を問ひて曰ひしく、「玆(こ)の山に忿怒(いか)れる大き猪(ゐ)有りと伝へ聞きつ。吾、其の猪を取らむと欲ふ。若し其の猪を獲むや」といひき。爾くして、執檝者が答へて日ひしく、「能はじ」といひき。亦、問ひて日ひしく、「何の由ぞ」といひき。答へて日ひしく、「時々、 往々(ところどころ)に、取らむと為れども得ず。是を以て、能はじと白(まを)しつるぞ」といひき。河中に渡り到りし時に、其の船を傾けしめて、水の中に堕(おと)し入れき。爾くして、乃ち浮き出でて、水の随(まにま)に流れ下りき。即ち流れて、歌ひて曰はく、
  ちはやぶる 宇治の渡に 棹(さを)取りに 速けむ人し 我が仲間(もこ)に来む(記50)
 是に、河の辺に伏し隠りし兵、彼廂此廂(かなたこなた)、一時共(もろとも)に興りて、矢刺して流れき。故、詞和羅之前(かわらのさき)に到りて沈み入りき。故、鉤(かぎ)を以て其の沈みし処を探れば、其の衣の中の甲(よろひ)に繋(かか)りて、詞和羅(かわら)と鳴りき。故、其地(そこ)を号けて訶和羅前と謂ふ。(応神記)(注1)

 テキストの提示が長くなったが、要するに反乱譚において、甲(鎧)(よろひ)と関係する言葉に、カワラという語があると上代の人は考えている。崇神紀では、輪韓河(わからがは)の戦いの後、甲を脱いだところを「伽和羅(かわら)」と言ったとし、応神記では、宇治の渡りの駆け引きの後、甲に鉤が繋ったときに「詞和羅(かわら)」と鳴ったから「訶和羅前(かわらさき)」という地名にしたとの話である。
 一般に、カワラは擬声語(擬音語)であるとして、それ以上のことは考慮されていない。応神記について、新編全集本古事記に、「擬声語。鎧に鉤が触れて鳴った音。」(272頁)、思想大系本古事記に、「固いものにふれあって、からからと鳴る音。」(218頁)、崇神紀について、大系本日本書紀に、「カワラは擬声語で、甲を脱ぐときにカラカラという音がしたという意に解することもできる。甲を古くカワラといったと解する説もあるが、確証はない。」(①291頁)とある(注2)
 本居宣長・古事記伝には、次のようにある。

○訶和羅鳴(カワラトナリキ)は、訶和羅(カワラ)とは、甲(ヨロヒ)に鉤(カギ)の触(フレ)て鳴(ナリ)たる音を云なり、【新井氏、訶和羅は、甲(ヨロヒ)の古名なりと云て、此ノ段、及(マタ)かの書紀の崇神ノ巻を引キ、又亀甲を、俗にかめのかわらと云も、同意なり、と云り、今按(オモフ)に、式なる筑後ノ国三井ノ郡、高良玉垂ノ命ノ神社は、建内ノ宿禰を祠りて、高良は、とかわらと唱ふ、是レ若シは韓国御言向の時に、彼ノ大臣の服(キ)給ひし甲にやあらむ、伊勢ノ国奄芸ノ郡、丹波ノ国氷上ノ郡などにも、加和良ノ神社ありて、式に出(デ)、出雲風土記にも、意宇ノ郡に、式外に、加和羅ノ社あり、これらも甲(よろひ)に依れる名にぞあらむ、又屋を葺(フ)く瓦(カハラ)は、韓語なりと云も、さることなれども、若シは此レも亀ノ甲(カワラ)と同意にて、本より此方(ココ)の言にて、和(ワ)の波(ハ)に転りたるにもやあらむ、此レらを合せて思へば、甲(ヨロヒ)の古名と云説、いはれて聞えたり、信(マコト)に亀ノ甲と同く、訶和羅と云べき物のさまなり、されば若シ比ノ説に依るときは、此(ココ)の地ノ名をかわらと鳴(ナリ)し故に負(オヘ)りと云は、別(コト)に一ツの伝ヘにて、実は鉤を甲(ヨロヒ)に繋(カケ)て出ダしたるを以て、負せつるなるべし、書紀に、甲を脱(ヌギ)し故に、名クとあるも、古名としてよく叶へり、彼レは、或説に、甲をぬぎてかわらかになれる由なり、源氏物語に、かはらかなりと云語あるに同じ、と云るは、いかゞ、又思ふに、甲(ヨロヒ)をかわらと云しも、其ノ本の起リは、此(ココ)の故事にて、かわらと鳴リしを以ての名かとも云ベけれど、なは然にはあらじ、】(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041637/292)
 
 白川1995.に、「鎧[ガイ]・甲[コウ]の音は、いずれもこの「訶和羅」と通じるところがあり、命名のよるところが似ているようである。」(797頁)とするが、ヤマトコトバに甲(鎧)はヨロヒという語である。新井白石の、カワラは甲の古名という説は確かめようがない。筆者は、カハラ(瓦・河原)という語とカワラ(訶和羅・伽和羅)という語は別語であると考える。音が異なる。上代に瓦はカハラである。「和(ワ)の波(ハ)に転りたるにもや」と仮定して同語であると考えることはできない。上代のハは pa に近い音であったと解されている。pa と wa とが共用されているとは考えにくいのである。また、「瓦(かはら)」という語が外国語かと言われれば、いわゆる和訓と呼ばれるもので、ヤマトコトバの一員であると考える(注3)。カワラ(訶和羅・伽和羅)が擬音語かと言われれば、その側面があることは応神記の記述から認められようが、カラカラと鳴る音とカワラという語を直截に結びつけて考えることに抵抗を覚える。カワラカワラと鳴ると表現しないものをなぜカワラと言ったのか不明である。カラカラと鳴る音はほかにもたくさんある。また、甲に鉤が繋った音と、甲を脱いだときの音を、カワラと一括できるとは考えにくい。甲を脱いでカワラという音、ないし、カラカラという音がするか、音声の受け取り方は人の耳によって変わってくるから定めにくい。また、短甲を脱ぐときにカラカラ鳴るといえても、小札甲ではジャラジャラと音がするようで、その擬音語にカワラ(伽和羅)とするのは無理がある。ザララやガララなどといった語ではなく、特別にカワラという語が決められている。あるいは、説話に登場する甲は短甲であるということなのかもしれないが、今日までその点についてまで目配せした論稿は見られない。そして、崇神紀と応神記では話の展開が違うのに、両者同じようにカワラという語にたどり着いている。単なる擬音語ではなく、もっと深い謎掛けがうごめいているようである。
 末永1934.に、「又記紀に散見する加和羅(かわら)の名は、文章の示す所では、明かに甲を表してゐるが、古事記に於ては、詞和羅前の記事の如く、詞和羅とは鈎が甲に触れた音響であつて甲を意味しない。一方では、新井白石がその著軍器考に、加和羅は屋根の瓦、亀の甲羅と同様に、掩護或は護衛の意味を表す、と解釈してゐる様な事柄を参照すれば、亀の甲羅の如き短い一枚の甲、—即短甲を以て加和羅なる名称に該当せしめ得ないこともなからうけれども、他面小札甲が、恰も屋瓦や鱗甲状に重り合つて形成されてゐる状態に対しても亦該当し得られるから、年代的には、古墳出土の甲冑を加和羅と総称する方が適切であるかの如くに考へられる、併し事実に即した場合、全然形式の相容れない二つのものを一つの名称を以て呼ぶと云ふ矛盾を生じるから、やはり短甲、挂甲の名に於て区別して取扱ふことは勿論必要とせねばならぬ。」(22~23頁、漢字の旧字体は改めた。)とある。
 「全然形式の相容れない二つのもの」である。防具として用途は同じだから同じ言葉になったとするのは短絡的である。弓矢の矢を入れる道具に、靫(ゆき)、胡籙(やなぐひ)、箙(えびら)、空穂(うつぼ)などと使い分けている。armor の異なるタイプを1つの言葉に集約してヨロヒと呼ぶことには、言葉の使い手たちの陰知れぬ努力の賜物と思われる。その言葉の形成過程において、ヨロヒという言葉にはカワラという言葉が関与して出来上がっているものと洞察されよう。armor のことはヤマトコトバにヨロヒである。和名抄に、「甲 唐韻に云はく、鎧〈苦盖反、与路比(よろひ)〉は甲なりといふ。釈名に云はく、甲は物の鱗甲有るに似るなりといふ。」とあり、説明に用いられている鱗甲のことは、「鱗 唐韻に云はく、鱗〈音は隣、伊路久都(いろくづ)、俗に伊侶古(いろこ)と云ふ。〉は魚甲なりといふ。文字集略に云はく、龍魚属の衣は鱗と曰ふなりといふ。」とある。魚の鱗と甲の鱗はともに重なり合う様子をしているが、魚のそれは頭の方へと積みあがっているが、甲のそれは逆向きに積みあがっている点が異なる。
左:短甲の武人埴輪(埼玉県熊谷市上中条出土、古墳時代、6世紀、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttp://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0007191)、右:挂甲の武人埴輪(群馬県太田市飯塚町出土、古墳時代、6世紀、東博展示品)
左:鋲留短甲(広島県三次市三玉大塚古墳出土、古墳時代、5世紀、東博展示品)、右:挂甲(岡山県倉敷市真備町天狗山古墳出土、古墳時代、5~6世紀、團伊能氏寄贈、東博展示品)
 甲は大きく2つの形状に分けられる。甲冑の形式名称については、従来、「短甲」、「挂甲」と通称されていたが、その呼び方には問題があると指摘されている。考古学では、なお整理、収拾の途上である。ここでは、大別した名称を、今日多く使われるように、「短甲」と「小札甲」としておく(注4)。要するに、胸や腹に当てる甲の板が、大判でそれを数枚組み合わせたものか、小さな断片、すなわち小札を800枚前後も綴じつなぎ続けたものかの違いである。800枚という数字は、延喜式の記述に負っている。短甲の場合、板の連接方法としては革綴のほか鋲留がある。
 崇神紀に、甲を脱ぎ捨てたところをカワラとする話が伝わっている(注5)。今日の我々にとって謎だらけの感触である。しかし、当時の人にとって、“わかる”言葉だったから伝えられていると考えられる。甲が脱ぎ捨てられて放置され、いくつか野原に散らばっている。この甲を小札甲と仮定すると、甲は小札の積み重ねでできあがっている。円筒状の小札の山が積みあがっている。小札を残してもぬけの殻となっている。小札の札は昔からサネという言葉であったと思われる。サネという語は、元来、果実の実の中にある核のことである。和名抄に、「核 爾雅に云はく、桃李の類は皆、核〈偽革反、佐禰(さね)、今案ふるに一名に人、医家書に桃人、杏人等と云ふは是〉有りといふ。蒋魴切韻に云はく、核は子の中の骨なりといふ。」とある。そのサネという言葉が、甲を構成する短冊状の木片、革片、鉄片などのことも指す。それをサネと称する理由としては、日本国語大辞典第二版に、「補注(1)古くは木片であった可能性が高く、木製品であったならば、甲冑を付ければ、松の実のように頑丈であるという構造上・機能上の類似性から、植物の実と同じく「サネ」と訓じたと思われる。(2)「類聚名物考─武備部四・甲冑総考上」には「札 さね 実 借字 案に鎧の札にもまた名有り、小札革札鉄札の類ひなり。札をさねと訓る意はかさねの上略にして重畳て威せば、さいへるにや。また菓蓏の核をも実といふ故に借て実(さね)ともいふなるべし。但し西土の書には札字を用ゐたり。是をよしとすべし」という説もある。」(⑥141頁)とある。
 鉄製の甲以前、弥生時代には木製の甲があったことが、出土品から推定されている。応神記の説話では、「衣の中に鎧を服て」いる。その状態は、松毬(まつかさ)でなくてもサネ(核)に当たる。つまり、これは上質な洒落の一種らしい。
 筆者は、拙稿「大山守命の反乱譚の歌謡について」において、応神記において、カワラサキ(訶和羅前)=カワク(乾)+ワラ(藁)+サキ(先)なる洒落ではないかとの説を提唱した。担い棒にかけるフゴ(畚)のことの謂いとするものである。ぼろい藁籠のうちに金属製の器があって、鉤をかけたらそのように鳴ったということで話を盛り上げていると筆者は考えた。そのような、擬音語以外の由来を捩ったものとする考えが成り立つかどうかは、他方の崇神紀に甲を脱いだ場所をカワラと名づけた地名譚にも当てはまるかどうかで決まる。
 サネ(札)にする小さな鉄板片は、大きな鉄板から切り出したであろう。甲の製造方法として記述されたものに、延喜式・兵庫寮式がある。

挂甲(うちかけよろひ)一領(ひとつくり)〈札(こざね)八百枚(ひら)〉。長功は百九十二日、中功は二百二十日、短功は二百六十五日。札を打つに二十日。麁磨(あらとぎ)に四十日。孔を穿(うが)つに二十日。穴を錯(す)る并びに札を裁つに四十五日。稜(かど)を錯るに十三日。砥磨(ととぎ)・青砥磨并びに瑩(みが)くに四十日。横縫并びに連ぬるに七日。頸牒(くびかみ)を縫ふ并びに継ぎ著くるに二日。縁を著くるに一日。擘拘(はくこう)并びに韋を裁つに四日〈擘縮に手力あり。下も同じくせよ〉。中功は日に札を打つに二十三日。麁磨に四十六日。孔を穿つに二十三日。穴を錯る并びに札を裁つに五十二日。稜を錯るに十五日。砥磨・青砥磨并びに瑩くに四十六日。横縫并びに連ぬるに八日。頸牒を縫ふ并びに継ぎ著くるに二日。縁を著くるに一日。擘拘并びに韋を裁つに四日。短功は日に札を打つに二十七日。麁磨に五十六日。孔を穿つに二十八日。穴を錯る并びに札を裁つに六十三日。稜を錯るに十八日。砥磨・青砥磨并びに瑩くに五十六日。横縫并びに連ぬるに九日。頸牒を縫ふ并びに継ぎ著くるに二日。縁を著くるに一日。擘拘并びに韋を裁つに五日。
挂甲一領を修理する料、漆四合、金漆七勺六撮、緋(あけ)の絁二尺五寸、緋の糸二銖、調の綿一屯六両、商布一丈三尺、洗革(あらいがは)四張半、掃墨一合、馬の革一張半、糸一両三銖。単功四十一人。
凡そ諸国の進るところの、甲を修理する料の馬の革は、尾張六張、近江十七張、美濃二十四張、但馬十一張、播磨三十二張、阿波十張。並(みな)駅・伝・牧等の死馬の皮を以て熟(つく)りて送れ。若し足らざれば、買ひ備へて数を満たせ。

 甲を作るとき、面を滑らかにするために砥石が使われている。「瑩」くことが何かについては、春田永年・延喜式工事解に、「本文ノ瑩ノ字塗ノ字トナシテ見ザルトキハ下文修理ノ料中ニ出シ漆四合金漆七勺六撮コレヲ用ルノ日ナシ鉄質コレヲ金漆スルコト前ノ箭鏃ノ例ノ如シ後世ニ所謂ル白檀磨ノ脚当等ノ髤法ナリ今ノ甲匠コレヲ鉄白檀ト言フ」(京都大学貴重資料デジタルアーカイブhttps://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00013036(75/91)、漢字の旧字体は改めた。)としている。筆者は、鏃同様、漆を全面に施したのではなく、鉄の白銀色を残してそこを光らせるために膏を使って「瑩(𨧿)」いたのではないかと考える。刀剣のために、同じ兵庫寮式に、「猪膏五合〈刀を瑩く料〉」とある(注6)。朝鮮半島の甲の様子を考慮に入れると、本邦の古墳時代のそれは、後代の甲冑の色彩感覚とは異なるものがあるのではないかと想像する。
左:吉林集安高句麗族三室墓壁画甲騎具装戦闘図(高句麗古墳壁画、三室塚、5世紀初)、右:挂甲の武人埴輪(後ろ姿、栃木県真岡市鶏塚古墳出土、古墳時代、6世紀、橋本茂・橋本庄三郎氏寄贈、東博展示品。彩色が施されている。)
 つまり、甲の色彩は、きらきらと銀色の小粒が光っていた。銀シャリが連なっている。札(さね)が稲の実(さね)であることが確かめられる。イネ(稲)、サネ(実)、ヨネ(米)、ホネ(骨)など、ものの根底を表わすネ(根)という言葉を含んでいる。白川1995.に、「さね〔核〕 果実の中にある種の部分。ものの種となるようなその本体のものをもいう。〔記、景行〕に「神の正身(むざね)」の語がある。また「たね」ともいう。「さ」と「た」と交替することがあ……[る。]「たね」は芽の出るものとして、その材料の意に用いる。」(369頁)、「たね〔種〕 草木を生ずる種子。それより、すべてものの材料、結果をよび起す原因となるものをいう。」(473頁)とある。サネ(核)とタネ(種)の使い分けは、サネはものの本体、実であることに重点が置かれ、タネはものの原因、発芽することに重点が置かれている。同じ rice でも、籾のなかに入っている主に胚乳を言うときにはサネで、来年植えるためにとって置くものとしてならタネである。餅にする rice は材料として加工するものだからタネである。飯のタネという言い方は、サネのためのタネということになるのかもしれない。
 
 文(ふみ)稍(やうやく)に異(け)なりと雖も、其の実(さね)一(ひとつ)なり。(仁賢紀元年正月)
 即ち知りぬ、形は我が子、実(むざね)は神人(かみ)にますことを。(景行紀四十年七月)
 爰に日本武尊、主神(かむざね)の蛇(をろち)と化(な)れるを知らずして謂(のたま)はく、……(景行紀四十年是歳)
 其の物根(ものざね)を原(たづ)ぬれば、八坂瓊(やさかに)の五百箇(いほつ)の御統(みすまる)は、是吾が物なり。(神代紀第六段本文)

 甲の本体となるサネ(札)は、金属板を切り出して作る。切り出した当初、切片にはバリがあり、表面は荒れている。下手に触ると怪我をする。バリを取るためには、ひょっとすると金やすりを使ったかもしれないが、延喜式の記述からは研磨に数種の砥石を使ったことが知れる。木片を札にした場合も同様であろう。桃の核は堅いから磨くのに用いられた。栄花物語に、「板敷(いたじき)を見れば、木賊(とくさ)、椋葉(むくのは)、桃の核(さね)などして、四五十人が手ごとに居(ゐ)並(な)みて磨(みが)き拭(のご)ふ。」(栄花物語・巻第十五・うたがひ)とある。つまり、札(さね)は核(さね)によって磨き作られている。
 歴史的に見れば、古墳時代中期中葉になって、鉄製の小札甲が見られるようになる。ほぼ同時期に、短甲において鋲留が行われるようになっている。甲において画期があったらしい。大陸から新たな製品と技術が伝わったものと考えられている。当時の人は、新しいモノを見てわくわくして触れ、身に着けて喜んだのであろう。その感動を言葉に直すワザとして、崇神紀や応神記の説話中にカワラなる語で紹介されるに至ったのではないか。その小札甲を脱ぎ捨てて崇神紀の記述のように放置すると、胴体の周りをまわるように囲んでいた小札群が筒状に積み上がったままに残る。そのように、サネが積み重ねあげられて地面に立っている様としては、稲作文化に稲積みのニホ(ニオ・ニウ)の光景があげられる。稲を株ごと刈り、干してから、丸く積み上げて保存しておく。稲穀のサネ(実)が円筒状に積み上がっているから、これは甲のサネ(札)が人体の胴をぬいて筒状に積み上がっていることに等しいと観念される(注7)
手前に大ニホ、奥にハサ(稲架)(成形図説・巻五、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569429/5をトリミング接合)
 ニホは他の民俗語彙系統に、シラ、ボウト、コヅミ、スズキ、スズミ、イナムラ、イネコヅミなどとも呼ばれる。柳田1997.に、「この稲の堆積には一つの様式の共通がある……[。]すべて稲の束を、穂を内側にして円錐形に積む以外に、最後に一束のみは笠のやうに、穂先を外に向けて蔽ひ掛ける者が今も多く、更に其上になほ一つ、特殊な形をした藁の工作物を載せて置く風が今もまだ見られる。」(556頁)とする。
 稲ニホについては、折口信夫や柳田国男にはじまり、従来の民俗学に大きな誤解が生じている。同書に、「安原貞室の「かたこと」といふ京附近の俚言を集めた書に、/穂を拾うてミョウにまゐらする/といふあの頃の諺が出て居る。是は「釈迦に説法」とか、「両替屋に算盤」とかいふのと一類の譬へごとで、無益の心づくしを嘲笑した警句であらうが、之に由つて始めて知り得たのは、江戸期の初頭まで近畿地方にも、ニョウに近い稲積の呼び名があつたといふ以上に、ミョウが拝みかしづかるゝ一種野外の祭場であつたらしいことである。」(554頁)とある。また、柳田1999.に、「今日の農村では稲ニホは日に少なく、茅でも草でもこづむものは皆ニホと呼んで居るが、以前は是が祭の物忌の期間、収穫を田に置く方法であつただけで無く、是が同時に田の神の祭壇でもあれば、又いはゆる苅穂のイホの仮屋を建て添へて、奉仕する場処であつたかも知れぬのである。」(40~41頁)とある。
 柳田国男が引いている俚諺の解釈としては、日本国語大辞典第二版に、「穂を拾うて妙に参らする」の「妙」とは、日蓮宗で梵妻の意であるとし、「僧侶が、しかつめらしく勤行・説法などするが、裏では梵妻にうつつをぬかすの意か。」(⑪1344頁)とする。類例に、俳諧・毛吹草・第二・世話に、「ほをひろふてめうにまいらする ゆをわかしてみづになす」とある。前後を見渡して漢字を施すと、「知恵ない神に知恵つくる 隣厳しくして宝儲くる 穂を拾ふて妙に参らする 湯を沸かして水になす 見るに目欲 触るに煩悩」とある。下拵えが遅くて鍋に入れられずに冷めてしまったり、風呂が沸いたのになかなか入らなかったら元も子もない、という意味と同様の諺として、「ほをひろふてめうにまいらする」という諺は理解されていたと思われる。「まいらする」は差し上げるという意味で、お参りするという意味ではない。柳田国男は、折口信夫が新嘗祭のニヒ・ニヘと稲ニホのニホとを同根であると妄想したことを絶賛している。稲積みを神聖視したくて仕方がないらしい。稲の穀霊の論理に仮に従うとすると、当然落ち穂にも穀霊は存しているはずであろうから、揶揄・嘲笑などもってのほかのことではないかと思われる。お百姓さんが八十八回手入れしてできているお米は無駄にしてはならないと教えられたとき、そこに落ち穂も大切にしなければならないことは含まれていよう。稲積みが穀霊の祭祀場であるとする前提も、また、「穂を拾うてミョウにまゐらする」という言葉の解釈も、曲解していると言わざるを得ない。さらには、信仰の対象とされる場合、食べる米と種籾とがどのように区別されていたのかさえ、検討が不十分であるように思われる。
 柳田国男の研究は、実証的側面はさておき民俗学を確立したとリスペクトされ、後の人にも考え方が引き継がれている。例えば、石塚1994.に、「脱穀技術が発達し、稲扱ぎ箸が千歯(せんば)にかわり、さらに脱穀機によって一気に脱穀してしまう時代になると、もう刈ったイネをそのまま外に積んでおくというようなことはしなくなる。すなわち、トシャク・イナムラ・イナコヅミというような言葉は言葉として残っていても、その実態はみな藁に変ってしまうのであるが、そうなるまでの久しいあいだ、この稲積みなるものは日本の各地に広く見られたのである。」(184頁)、「古い時代の人たちは、人間に魂がある以上、生きとし生けるものにはみな魂がある。それは動物にのみならず植物にもある。穀物にもむろんある。あるからこそ生育し、稔りを見せる。けれども、その魂は不変ではない。人間がそうであるように、時がたてばやがて老朽化する。その時とはすなわち役目を果たしたときであり、稲の場合では一年の収穫を終えた時がそれだ。だからそういうとき、これをそのまま放置しておいたのでは来年の稔りがおぼつかない。そこでこれを産屋に入れ、あたかも人間がするのと同じようにみごもらせ、それによって次代の魂を誕生させねばならない。稲積みはそのための産屋であった。だからこそこれを人間の産屋と同じシラという語で[沖縄では]呼んだ。それが本州側ではもう明確ではないが。ただいくつかの呼称の中のニフという語にはまだその面影が認められる。」(188頁)とする。男性や老人が排除されているかのようなこの考え方は、容認できるものではない。
 稲積みの衰退については、野本1993.に、「イナムラ[稲叢]は、農家の貯蔵空間が狭い場合と、脱穀法が稚拙、非能率である場合にこそ必要となるものであり、脱穀法の近代化によってイナムラの使命は終焉を迎えたと見てよい。」(314頁)とする。ものの考え方、捉え方が近代の枠組みに支配、拘束されている。人類の歴史において、効率性を追求し始めたのは近代になってからのことである。生活に十分なところへ改良を求めることはほとんど行われてこなかった。今日、わずか10年前には、一般に求められていなかったタッチパネル式のスマートフォンが開発され、日常に普及、席巻している。そのようなことは、前近代においては、人々の発想、着想段階からしてなかったことである。間に合っているものについて、改変を加える必要はない。必要は発明の母、が大命題であり続けた。折口1995.では、「私どもの考へでは、今が稲むら生活の零落の底では無いか、と思はれる。雪国ならともかくも、場処ふさげの藁を納屋に蔵ひ込むよりは、凡、入用の分だけを取り入れた残りは、田の畔に積んで置くといふ、単に、都合上から始まつた風習に過ぎぬものと見くびられ、野鼠の隠れ里を供給するに甘んじてゐる様に見える。」(73頁)と捉えられている。彼独自のすべてを祭祀に結びつけようとする牽強説を割り引いても、「都合上から始まつた風習」がどうして見くびることに当たるのか、筆者には不思議である。トイレの落とし紙に籌木などいろいろな方式が伝えられるが、都合上から始めて何が悪いのか、何が貶められているのか、一向にわからない。
 金田2002.に、「平成六年十一月に背振(せぶり)山脈の谷間の村々を訪れた折に、吉野ケ里遺跡近くの佐賀市久保泉町川久保の水田で、偶然刈り取ったばかりの生稲を積みあげてあるのを発見したことがあった。……これは脱穀までのごく短期間(十一月から十二月)の稲積みであるが、かつては一冬田に置いて干燥させたという。佐賀市兵庫では四月頃まで積んであった。背振村鹿路では、下に古ワラを敷き、その上に八把ずつ積みあげて、雨除けのトンビ(イネノカバ)をかぶせる。冬期暇な折にコズ[ママ]ミナオシをし、一~二月頃にさばく。」(164~165頁)とある。今日においても稲積みは禁止されていない。その際、田の神の信仰は付いてくるものではない。もともと付いてきていたのか不明である。
 証拠もないまま信仰と稲積みを結びつける点に疑問も呈されている。南1992.に、「稲積み慣行は根刈り収穫法の普及に伴って成立し、その背景には地干後における稲の乾燥機能と脱殻終了までにおける稲の貯蔵機能という動かしがたい事実がある。こうした農業技術史上における稲積み慣行の成立背景を考慮に入れず、ニオやシラなどの語義探索に基づき、稲積みにまつわる信仰上の意義だけを強調してきた従来の研究態度は、一応警戒しなければならないであろう。」(128頁)とする。この批判的言説は正しい。ここで筆者は、ニホの語義探索から、信仰とは無関係であろうと考える。柳田1947.に、「ニホ 刈稲を円錐形に高く積上げたものゝ名は、ニホというのが最も古いらしく、少なくとも其分布区域が最も弘い。たゞ、其発音が土地によってやゝ変化し、且つ稲そのものを積む風が衰へて、是を他の種の堆積の名に転用した例が多いのである。」(264頁)とある。
 稲野1981.に、「ニホは通常〝鳰〟と記される。字義からではなく、同音のためであろう。……ニホはユ(庾)にニ(似)たものから,ニユまたはニユウ,ニヨウなどができ,そのユまたはユウがホに転じニホとなったのであろう。」(99頁)とする。日本語の音韻の歴史的変遷において、ニユ→ニホなどといったあり難い音転を想定している。語の原形は、ニホである。
 筆者は、稲ニホがどうしてそのように呼ばれたのかについて、ニホ(鳰)という鳥の名で表わされていると考える。上代の人たちは観察眼が鋭い。鳰とは、カイツブリのことである。和名抄に、「鸊鶙 方言注に云はく、鸊鶙〈辟低の二音、弁色立色に邇保(にほ)と云ふ〉は野鳬にして小さくして好く水中に没むなりといふ。玉篇に云はく、鸊鶙、其の膏を以て刀剣を瑩くべしといふ。」とある。カイツブリの主な特徴は、潜るのが得意な水鳥であること、蹼ではなく弁足であること、繁殖期に番いで並んで泳ぐ姿が見られること、巣が鳰の浮巣と呼ばれるものであること、親鳥が雛を体に乗せて移動することがあること、などである(注8)
カイツブリ(ニホ)とその浮巣のようなもの(井の頭自然文化園、2015.6.10)
 鶙◆(?) 二字同、他奚反、尓保(にほ)(新撰字鏡)
 鸊 蒲覓反、◆、尓保(にほ)(新撰字鏡)
 鳰 尓保(にほ)(新撰字鏡)
 熬 伍高反、前魚完菜等煎也、乾也、伊利自志(いりじし)、又尓保志(にほし)(新撰字鏡)
 いざ吾君(あぎ) 振熊(ふるくま)が 痛手(いたて)負はずは 鳰鳥(にほどり)の 淡海(あふみ)の海に 潜(かづ)きせなわ(記38)
 …… 伊知遅島(いちぢしま) 美島(みしま)に著(と)き 鳰鳥(みほどり)の 潜(かづ)き息づき ……(記42)
 にほ鳥の 潜(かづ)く池水 情(こころ)有らば 君に吾が恋ふる 情示さね(万725)
 にほどりの 葛飾早稲を 饗(にへ)すとも その愛(かな)しきを 外(と)に立てめやも(万3386)
 にほどりの 息長川(おきなががは)は 絶えぬとも 君に語らむ 言(こと)尽きめやも(万4458)
 …… 妹の命(みこと)の 吾をばも いかにせよとか にほ鳥の 二人並び居 語らひし ……(万794)
 …… 左夫流(さぶる)その児に 紐の緒の いつがり合ひて にほどりの 二人並び居 奈呉(なご)の海の ……(万4106)
 …… つつじ花 にほへる君が にほ鳥の なづさひ来むと 立ちて居て 待ちけむ人は ……(万443)
 思ふにし 余りにしかば にほ鳥の なづさひ来(こ)しを 人見けむかも(万2492)
 にほ鳥の なづさひ来しを 人見けむかも(万2947、柿本朝臣人麻呂歌集云)
 …… 朝凪に 船出をせむと 船人も 水手(かこ)も声呼び にほどりの なづさひ行けば 家島は 雲居に見えぬ ……(万3627)

 枕詞「にほどりの」は、水に上手に潜る習性から、「潜(かづ)く」、また同音のカヅのある「葛飾(かづしか)」、また、「息長(おきなが)」にかかる。また、繁殖期に番いで並んでいる光景から、「二人並び居」にかかる。また、体が小さく波にもまれているように見えることから、「なづさふ」にかかる。
 「にほどりの」が「潜(かづ)く」を導いている。カヅクという語は、潜る意味と被る意味がある。頭から水の中に潜る。と同時に、鳰の浮巣と呼ばれる巣を親鳥が離れる時、カモフラージュするために卵の上に草をかけることがある。笠を被(かづ)くことを行う。同じようなことは、稲ニホにおいてもみられる。積み上げたニホのてっぺんに雨覆いの蓋を菅笠のように被せている。カヅク存在として同様であると言える。「にほどりの」は「二人並び居」を導いている。稲ニホの場合、複数積み上げることもあったし、雑穀した残りの藁を藁ニホとしてまた積み上げることもしたであろう。今日では脱穀機を使うので、最初から藁ニホだけが積み上げられている。「にほどりの」は「なづさふ」を導いている。ナヅサフという語は、水にもまれて浮かび漂うことをいう。カイツブリは水鳥のなかでも特に小ぶりの部類に入る。荒波にもまれて抵抗できないかの印象を受ける。ナヅサフという語は「なづさひ来」、「なづさひ行」というように使われて、難儀しながら進むことを表わしている。稲ニホにナヅサフ印象は一見したところ感じられないが、実は通じるところがある。
 低湿地の田は、「なづき田」(景行記)、「なづきの田」(記34)である。ナヅサフとナヅキとは、関連のある言葉であろう。そんな水びたしの田にニホを作るためには、畔などの一区画を一段高く土を盛ってその上に藁を敷き、さらにその上に稲束を積み上げたと考えられる。その光景は、水の張った水田の湖面上にニホが浮かぶのと同等だと認識されていたと考える。脱穀が機械化されて稲ニホが行われなくなる前に、水田耕作に中干し法がすすめられたり、深い泥田の湿田が改良されたりして、水面上に浮かぶかに見えることは少なくなっていたようである。図像としては、雪の降ったところにまるで浮かんで見えるようにあるものが一遍聖絵に見える。
ニホ(一遍聖絵模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591577/23をトリミング)
 稲ニホは稔った稲を株元で刈って束にし、ある程度乾燥させた後、集め積んで、「乾湿の繰り返しを防ぎながら徐々に乾燥する方法である。」(稲野1981.99頁)。乾かしつつ保存するものとしては、倉の機能とまったく同じである。ホコラ(祠)の古形はホクラ(「神庫」(垂仁紀八十七年二月))であった。そのホクラという語は、ホス(干)+クラ(倉・庫)の約であると考えられていたと推定される(注9)。倉庫にしまわれるとき、穂首刈りを含めて籾は茎の藁部分から外されて収蔵されている。他方、屋外の稲ニホの場合、藁がついたままで、それが乾いていくことが籾の乾燥状態についても目安になっていた。そうすると、カワラという語は、カワク(乾)+ワラ(藁)の約であると認められたと推測されて理にかなう。角川古語大辞典に、「かわ・く【乾・渇】動カ四①水分がなくなる。湛えられている水がその所になくなるのを「ひる」というのに対し、ぬれている状態、湿っている状態にある物について、水気がなくなるのを「かわく」という。「ひる」は、水、または水のあり場所についての謂であり、「かわく」は水を含む物体についての謂である。」(①916頁)とある。籾の乾燥過程をうまく言い当てた言葉として、カワラなる語が屹立している。
 以上、崇神紀の「故時人号其脱甲処、曰伽和羅。」という形容が、稲ニホとの相同性によっている点を考証した。稲作の大規模展開と甲冑の新形式は、同時期に大陸からもたらされた新技術であったようである。稲ニホにとって米穀を乾燥保存することは、石包丁による穂首刈りをしているうちはできない。通気性を確保した積み方が難しいからである。倉庫に収めるよりほかになかった。収納スペースに限りがある。鎌を使って根元から刈り取って束にすれば、上手に野積みができてそのままで長期にわたる貯蔵が可能となった。倉に入り切らないほど作って収穫しても、翌年までそのつど脱穀して食べていけたのである。人口増加や高齢化に対する余裕ができた。鎌で刈ってニホに積んで保管する新技術を採用して、稲作の生産性は飛躍的に向上したのである。「野鼠の隠れ里を供給するに甘んじてゐる」のではない(注10)
 それは、稲作が生活全体を絡めとる生産体制であることを物語る。サネ(核)を積んでいてサネ(札)の積みあがる仕組みの甲を譬えている。カワラ=カワク(乾)+ワラ(藁・稾)である。お米ばかりを食べながら、藁を生活財に多用している。藁莚や藁布団が、保温性、クッション性に優れ、稲ニホ分あるから使い捨てては田に梳きこんでリサイクルしている。

(注)
(注1)訓読については、拙稿「応神記、大山守命の反乱譚の表現「具餝船檝者」について」参照。
(注2)古典集成本古事記に、「「かわら」と鳴ったから「訶和羅(かわら)」という地名説話であるが、甲冑(かわら)作りの部民の住んだ地名か。「甲冑(かわら)」の語源は「甲羅(こうら)」(体を蔽う殻)らしい。」(196頁)、新編全集本日本書紀に、「『通釈』は『和名抄』の「山城国綴喜郡甲作」とする。京都府綴喜郡田辺町河原に比定され、「甲作」はカワラツクリと訓まれる地名となる。……「甲(かわら)」の訓みはさほど特異でなかったとみてよい。」(①282頁)とある。しかし、「甲作」はカワラツクリとしても、「瓦作」はカハラツクリで別語である。同じ廿巻本和名抄に、「甲 ……與路比(よろひ)……」、「瓦 ……加波良(かはら)……」とあって説明がつかない。「甲作郷」はヨロヒヅクリノサトと訓ずべきであろう。新撰字鏡に、「冑 治右反、去、後也、緒也、胤也、連也、続也、与呂比(よろひ)」、新訳華厳経音義私記に、「甲冑 広雅に曰く、冑兜は◇(敬の下に金)也、◇音牟、訓与呂比(よろひ)、……」とある。
(注3)狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄・巻第三に、「按ずるに、加波良(かはら)は、蓋し梵語ならむ。瓦の梵名、迦波羅(かはら)は梵語雑名に見ゆ。蓋し瓦の皇国に入り、崇峻天皇の時に在らむ。崇峻元年紀に云はく、……当時の人家の屋宇、之れを用ゐること無ければ、是を以て斎宮寮忌詞に、寺を瓦葺と称す。故、瓦を呼ぶに梵語を以てせむ。其の後宮殿を葺くに瓦を以てするに至り、亦旧名に沿ひて改めざる也。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991786/21)とする。この記述から、カハラ(瓦)という語は、梵語の kapara の音訳であると考えられている。語源説は発祥当時を見知ることができない限りにおいて、どこまでいっても“説”である。とても魅力的に感じられる“説”に一見見えるが、無文字時代にカハラという語が成っている点について、もう少し考察を深めた方が良いであろう。どうして極東に暮らす人が、インドの一地方の言葉を頭から覚えなければならないのか。特に、知らない人へ伝達する時に、文字のない時代、それで伝わるとは思われない。筆者は、ヤマトコトバは知恵の塊として成立していると考える。事は屋根を葺く材料である。なにゆえそのようなものをわざわざ窯で焼き、できあがった重いものを屋根の上に載せるのか、初見の人に対して納得させるべく訳語としてのカハラという言葉は作られていると考える。たとえそれが梵語の音に由来するものであろうとも、文字を知らないヤマトの人がなるほどと思うことが肝心である。他の屋根材の茅葺きや板葺きには大きな欠点がある。火災に弱い。すぐに火をもらって火事になる。火事に対して無防備である。唯一の対策としてとられていたのは、消火栓となるべき水が得られる場所に建物を建てることである。それはどこか。河原である。それと同じ効果を発揮するのが、瓦ということになる。そして、河原の石と同じような灰色系統の色をしているのが、還元焼成された瓦である。よって、瓦のことはカハラと呼んでまことにふさわしいことがわかる。
 斉明紀に明記されている。

 皇祖母尊(すめみおやのみこと)、飛鳥板蓋宮(あすかのいたふきのみや)に即天皇位(あまつひつぎしろしめ)す。(斉明紀元年正月)
 小墾田(をはりだ)に、宮闕(おほみや)を造り起(た)てて、瓦覆(かはらぶき)に擬将(せむ)とす。又深山広谷(ふかきやまひろきたに)にして、宮殿(みや)に造らむと擬(す)る材(き)、朽ち爛れたる者多し。遂に止めて作らず。(斉明紀元年七月)
 是の冬に、飛鳥板蓋宮に災(ひつ)けり。故、飛鳥川原宮(あすかのかはらのみや)に遷り居(おは)します。(斉明紀元年是冬)

 これらの記事を素直に読めば、当時、瓦と川原は同じ概念と認められたのだとわかる。今日的な感覚から頭でっかちに、瓦は kapara の音訳であるとしか考えられないようでは、とても上代の人たちの心情、わけても斉明天皇ら宮廷の最高幹部級クラスの人たちの感覚に近づくことはできない。斉明天皇が尼僧であったことは知られない。大系本日本書紀にも、「下文の是冬条に見える板蓋宮の火災にかんがみて、延焼防止に有効な瓦葺を採用しようとし、屋根の重さに耐える用材を深山広谷に求めたとも解される。」(④333頁)とある。最終的に、建築に失敗し、なおかつ火災に遭いながら、その失策、失政をなかったかのようにごまかして、川原へ遷都している。それでみなが納得し、事態が混乱せずに収まっている。
(注4)甲の形式名称としては、研究史上で問題点が指摘されてきた。橋本2009.にまとめられている。美術史、有職故実の呼び名や古文書の名称で古墳時代の甲に遡って当てはめることに無理があるらしい。山岸・宮崎1997.では、「板物甲」、「小札甲」と分類している。阪口2013.では、基本構造から「割付系甲冑」、「単位系甲冑」と分類している。
(注5)崇神天皇時代が歴史上いつごろのことなのか、あるいは弥生時代に遡るのではないかと比定されている。そうなると、新式の甲とは関係がない記述と考えるのが論理的に正しいと目されよう。筆者は、崇神紀の、甲を脱ぎ捨てた形容にカワラという語を提示している点について、むしろ、後述の稲作行程にまつわる事柄を言葉化したものではないかとにらんでいる。
(注6)兵庫寮式の「大祓横刀」条にはほかに、「伊予砥二顆、麁砥二顆、稾八囲〈已上、刀を磨く料〉」とある。その「稾」が何かについて、工事解には、「稾八囲ハ磨刀ノ料ニ非ズ鍛煉ノ時焼テ灰トナシ用テ以テ折畳鑠合スベキノ用ナリ」(同、575頁)とするが疑問である。切れ味を試す材料ではないか。
(注7)甲を身に着けると、小札が円筒状に体の周りをめぐって取り巻く。

 大和には 群山有れど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば ……(万2)

 多くの辞書に、動詞「よろふ」の名詞形が「よろひ」であると語の展開を想定している。動詞の例は上代にほとんどこの例に限られる。あるいは先に名詞の「よろひ」が成立し、それを身に着けることを動詞化する際、「よろふ」という言葉を案出したとも考えられる。ただ、ここに「とり」+「よろふ」とあって、手で取って「よろふ」ことをしたという意味であると解される。何を手に取ったか。香具山の土であろう。

 倭の香山(かぐやま)の土(はに)を取りて、領布(ひれ)の頭(はし)に裹(つつ)みて祈(の)みて曰(まを)さく、「是、倭国の物実(ものしろ)」とまをして、則ち反(かへ)りぬ。(崇神紀十年九月)
 
 手に取って甲としているのが、天の香具山である。他の山々ではそのようなことはしていない。神武前紀戊午年九月条に、天の香具山の土をひそかに取って持ち帰り、呪術のための八十平瓮(やそひらか)や天手抉八十枚厳瓮(あまのたくじりやそちいつへ)などを作っている。呪術器の素材だから、物実はモノシロでありつつモノザネである。サネがたくさん作られれば、それは小札甲を構成する。
 万2番歌に、「山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山」とある「村山有等」とある点について、群山アリトと訓む説が提出されている。国見をする山として天の香具山ありきの歌であると捉え、「取與呂布」対象は「村山」で、群れなす山は大和を四囲に囲む「青垣山」のことであるとしている。しかし、助詞トの使用法としては似つかわしくないと批判されている。そのとおりであろう。群山といえるほどにたくさんの山があるけれど、土を取って甲とした山と認識されている山は天の香具山だけであると言っていると考える。だからその山に登って国見をするのだと口実を述べている。天の香具山が国見をする特別な山であったわけではないのだから、そのようなくだくだしい説明が行われている。三輪山でも筑波山でも国見行事は行われている。
(注8)和名抄の記事にある「玉篇云鸊鶙其膏可以瑩刀剱」という「膏で刀剣を瑩く」ことは、猪膏同様、錆止めを兼ねた光らせ法であろう。尾脂腺から採取したものか。日本書紀には、「忍壁皇子を石上神宮に遣して、膏油(かうゆ)を以て神宝(かむだから)を瑩かしむ。」(天武紀三年八月)とある。何の膏かは不明である。
(注9)拙稿「記紀の諺─神の神庫も樹梯の随に(はしご論序説)─」参照。
(注10)稲ニホが作られた時、ネズミが大増殖したとは考えにくい。少なくともそれまでに、イエネコが到来していたと考える。イエネコについては、従来、仏教の伝来とともに、経典をネズミにかじられないように舶来したとする説があったが、6世紀末から7世紀中頃、姫路市の見野古墳群から出土した須恵器の杯の内側にネコの足跡がついたものがあるとして大幅に時代が遡った。さらに、紀元前1世紀、壱岐のカラカミ遺跡からイエネコの骨が出土している(注11)。ネズミの方は、人間が列島へ移り住んだ時点でいっしょにやってきたとされている。ご承知のとおり、ネズミは食料があって天敵が少なければネズミ算的に増殖する。弥生時代以降のコメの貯蔵に関しては、高床倉庫などの建物、屋内外の貯蔵穴、それに壺などの容器が考えられている。もちろん、それらでネズミを防御し切れるほどに、齧歯目を甘くは見られない。猛禽類やイタチ、キツネ、タヌキなどだけでなく、ネコという天敵が、特に飼うでもなく家の付近を徘徊しており、一定の生態系が築き上げられたなかに人々も暮らしていたと考えたほうがわかりやすい。ニホに稲積みする技術は、根元からの鎌刈り、水利管理技術の高度化、牛馬耕の導入など、渡来人に教えられた新しい稲作方式に基づくものであると同時に、ネコの存在を欠くことができないと考える。
 今日のように家のなかで飼っている場合でさえ、ネコは死に際に人目につかないところへ行く習性がある。古い時代、家や倉のあたりに飼うでもなくさまよっていた場合、どこへともなく行ってしまってもそのままにして探すことはなかったと思われる。穴を掘って埋めるわけではないから、他の動物に食べられたり腐敗や風化が進んでなかなか遺骨は発掘されないことになるであろう。ネコの家畜化自体、人間が農耕を始めて貯蔵するようになってネズミが増えたため、ネコの方から人間の居住域に侵入してきたことが始まりともされている。ネコと稲ニホとの関係については、拙稿「天孫降臨について」参照。稲刈りが“猫の手も借りたいほど”一気呵成に行われるとき、動きの鈍い年寄りは邪魔者扱いされ、幼な児を背負って落穂拾いをする役へと向かわされた。「ねんねこ」で背負いながら落ち穂を拾う。加齢臭におむつが濡れる臭いが加わり、ニホフ。ニホの出現とは、“老人の誕生”を物語る。猫背になっておんぶしている。そんな状態で落ち穂が拾えるのは、株元から鎌を使って刈っているからである。穂首刈りでは落ち穂は草葉の陰に隠れて見つからない。年寄りが草葉の陰に隠れずに生きられるようになったこととは、稲の収穫量が劇的に増えて食べ物に不自由せず、栄養事情がよくなって寿命が延びるとともに、孫をねんねこで背負いながら落穂拾いをするという役割が与えられたことを意味する。刃弦長12~18㎝(刃渡り10~16㎝)、刃幅2.5~4㎝に当たる鎌の稲刈鎌が古墳時代中期中葉、450年頃から急速に見られるようになる。実際に稲刈りに用いられたからであろう(注12)
左:ねんねこ姿(長谷雄草紙、日本国宝全集. 第61輯、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1015420(31/42))、右:鉄鎌(福岡県飯塚市櫨山古墳出土、古墳時代、5~6世紀、安部榮造氏寄贈、東博展示品、一番上は長さ16.6㎝)
 平安時代の類聚三代格第八・承和八年(841)閏九月二日太政官符「稲を乾す器を設くべき事」に、ハサ(稲架)掛け普及促進のお触れがある。ハサによる乾燥方法を広めるお達しである。ニホに積んで乾燥貯蔵する時でも、地干ししてから積んだり、はじめに穂を外に向けて乾かしてから稲束を反対にして穂を内側に積み直して長期保存することも行われた。ニホの姿のようでいて杭を立ててそれに掛ける棒立てとも呼ばれる方法も行われていた。上にあげたニホの浮巣のようなものに近似している。稲を干したり貯蔵したりする方法は臨機応変に行っているのであって、都にいる人がおいしいお米はハサ掛けしたものだと覚えて奨励しても、馬耳東風であったかと思われる。
左:ガードレール藁ハサ、右:大豆ニオ(大場寿樹様「ケイトラツーリズム」の「ワラニオ(9)」https://keitora.exblog.jp/tags/%E3%83%AF%E3%83%A9%E3%83%8B%E3%82%AA/)
(注11)納屋内・松井2011.に、「……カラカミ遺跡から出土したネコ科の出土例は、まだ幼獣であり、厳密にはツシマヤマネコ相当のヤマネコか、家ネコかを判断することはできないが、われわれは韓国金海會峴貝塚にイエネコが含まれていることを報告しており(……[松井2009.])、当然、壱岐や北部九州に移入されていた可能性があると考える。そして、野生のヤマネコの幼獣を狩猟して捨てたと解釈するより、朝鮮半島との交易によって家ネコが移入され、カラカミ遺跡で飼われていたと考えたい。」(160頁)とある。
(注12)寺沢1991.に、「Ⅰ.小形鎌 全長10~12㎝以下,刃幅も概して2㎝以下で,木柄部をさし引いた刃渡りは8~10㎝より小さくなる。……稲などの穂首収穫用の「穂切り鎌」(ただし高刈り用の茎切り鎌としても使用可)と考える。Ⅱ.中形鎌 全長12~18㎝以下(刃渡り10~16㎝)前後,刃幅は概して2~3㎝の量的には最も例の多い鎌である。……古代において基本的な稲の根刈り用切鎌(以下「刈鎌」と呼ぶ)と考える。Ⅲ.大形鎌 全長20㎝程以上(刃渡り17㎝以上)で30㎝にも及ぶ例がある。刃幅も概して3㎝以上と広く,刃厚もあって重い。……山林での下草や柴,枝払いなどの除伐用大鎌,鉈鎌として使用されたものと考えたい。」(51~52頁)とする大別法に従う。貯蔵法に関しては、「古墳時代の穀物(とりわけ稲)貯蔵手段は倉(高床倉庫)と屋(掘立柱建物や竪穴建物),屋外貯蔵穴,国内貯蔵穴といった施設の3形態と容器としての壺などがあり,いずれも弥生時代からの方法を踏襲している。」(63頁)としている。しかし、刈鎌の登場によって稲を株ごと収穫することが始まれば、スピーディに脱穀する技術が伴わなければ、到底、倉と屋、屋外貯蔵穴、屋内貯蔵穴と容器としての壺におさめ切ることはできない。穂首刈りをして穎ごとを倉庫におさめることは考えやすいが、株元から刈ったものをそのまま倉庫におさめるためには、巨大にして多数建築せねばならず、あまりにも非効率であると思われる。そんなことをせずに、近世・近代まで行われていたように、稲ニホに野積みして、折に触れて脱穀をして済むならそうしていたと考えられる。ネコたちを免れたネズミに食われる分を差し引いても、十分に余りあって効率的であるからである。
穂首刈り稲穂の束(唐古遺跡稲束、直良1956.170頁)

(引用・参考文献)
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柳田1997. 柳田国男「稲の産屋(「海上の道」所収)」『柳田国男全集21』筑摩書房、1997年。
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