古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

大山守命の反乱譚の歌謡について

2018年05月24日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 本稿では、大山守命の反乱譚の歌謡、記50・51、紀42・43歌謡について考察する(注1)

 是に、其の兄王(あにみこ)、兵士(いくさ)を隠し伏せ、衣の中に鎧(よろひ)を服(き)て、河の辺に到りて、船に乗らむとせし時に、其の厳餝(かざ)れる処を望みて、弟王(おとみこ)其の呉床に坐すと以為(おも)ひて、都(かつ)て檝を執りて船に立てるを知らずして、即ち其の執檝者(かぢとり)を問ひて曰ひしく、「玆(こ)の山に忿怒(いか)れる大猪(おほゐ)有りと伝へ聞きつ。吾、其の猪を取らむと欲ふ。若し其の猪を獲むや」といひき。爾くして、執檝者が答へて日ひしく、「能はじ」といひき。亦、問ひて日ひしく、「何の由ぞ」といひき。答へて日ひしく、「時々(よりより)、 往々(ところどころ)に、取らむと為れども得ず。是を以て、能はじと白(まを)しつるぞ」といひき。河中に渡り到りし時に、其の船を傾けしめて、水の中に堕(おと)し入れき。爾に、乃ち浮き出でて、水の随(まにま)に流れ下りき。即ち流れて、歌ひて曰はく、
  ちはやぶる 宇治の渡に 棹(さを)取りに 速けむ人し 我が仲間(もこ)に来む(記50)
 是に、河の辺に伏し隠りし兵、彼廂此廂(かなたこなた)、一時共(もろとも)に興りて、矢刺して流れき。故、詞和羅之前(かわらのさき)に到りて沈み入りき。故、鉤(かぎ)を以て其の沈みし処を探れば、其の衣の中の甲(よろひ)に繋(かか)りて、かわらと鳴りき。故、其地(そこ)を号けて訶和羅前と謂ふ。爾くして、其の骨(かばね)を掛け出しし時に、弟王の歌ひて曰はく、
  ちはや人 宇治の渡に 渡り瀬(ぜ)に 立てる 梓弓(あずさゆみ)檀(まゆみ) い伐(き)らむと 心は思(も)へど い取らむと 心は思へど 本方(もとへ)は 君を思ひ出 末方(すゑへ)は 妹を思ひ出 苛(いらな)けく 其処に思ひ出 愛(かな)しけく 此処に思ひ出 い伐らずそ来る 梓弓檀(記51)
 故、其の大山守命の骨(かばね)は、那良山に葬(はぶ)りき。是の大山守命は、土形君(ひぢかたのきみ)・幣岐君(へきのきみ)・榛原君(はりはらのきみ)等が祖(おや)ぞ。(応神記)
 然して後、大山守皇子(おほやまもりのみこ)、毎(つね)に先帝(さきのみかど)の廃(す)てて立てたまはざることを恨みて、重ねて是の怨(うらみ)有り。則ち謀(はかりこと)して曰く、「我、太子(ひつぎのみこ)を殺して、遂に帝位(あまつひつぎ)登(し)らむ」といふ。爰に、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)、預め其の謀を聞こしめて、密に太子(ひつぎのみこ)に告(まを)して、兵(いくさ)を備へて守らしめたまふ。時に太子、兵を設(まう)けて待つ。大山守皇子、其の兵備へたることを知らずして、独(ひとり)数百(ももあまり)の兵士(いくさ)を領(ひき)ゐて、夜半(よなか)に、発ちて行く。会明(あけぼの)に、菟道(うぢ)に詣(いた)りて、将に河を度(わた)らむをす。時に太子、布袍(あさのみそ)を服(き)たまひて檝櫓(かぢ)を取りて、密に度子(わたしもり)に接(まじ)りて、大山守皇子を載(ふねにの)せて済(わた)したまふ。河中に至りて、度子に誂(あと)へて、船を蹈(ほ)みて傾(くつがへ)す。是に、大山守皇子、墮河而没(かはにおち)ぬ。更に浮き流れつつ歌ひて曰く、
  ちはや人 菟道の渡に 棹取りに 速けむ人し 我が対手(もこ)に来む(紀42)
 然るに伏兵(かくれたるつはもの)多(さは)に起りて、岸(ほとり)に著くこと得ず。遂に沈みて死(みう)せぬ。其の屍(かばね)を求めしむるに、考羅済(かわらのわたり)に泛(うきい)でたり。時に太子、其の屍を視(みそなは)して、歌(みうたよみ)して曰はく、
  ちはや人 菟道の渡に 渡手(わたりで)に 立てる 梓弓檀 い伐らむと 心は思へど い取らむと 心は思へど 本辺(もとへ)は 君を思ひ出 末辺は 妹を思ひ出 悲(いらな)けく そこに思ひ 愛しけく ここに思ひ い伐らずそ来る 梓弓檀(紀43)
乃ち那羅山(ならやま)に葬(はぶ)る。(仁徳前紀)

 問題点は多数存在する。記50・紀42番歌謡にある通説に、「仲間・対手(もこ)」としている原文「毛古」(記)・「毛胡」(紀)とは何か。紀43番歌謡にある「梓弓」や「檀」とはどんな弓か、または木か。大山守命は死亡が確認された後なのに記51・紀43番歌謡で、「い伐らずそ来る」とあるのはなぜか。それらの歌に見える「君」や「妹」は誰のことを言っているのか(注2)。なぜ矢をつがえておきながら放って射殺すことをしなかったのか。大山守命(大山守皇子)は反逆者なのに埋葬地が記されているのはなぜか(注3)。これらの点についてこれまでも検討されていて、それぞれに辻褄を合わせるべく研究されてきた。しかし、問題点はさらに存在し、記に、狩りができるかと執檝者に聞いて、どうして狩人でもない執檝者ができないと断言できているのか、執檝者と言っておきながら檝ではなく棹で操っているのはなぜか、といった点も考慮されなければならない。
 大山守命の埋葬地について記述があるのは、その名が、オホヤマモリだからである。大山とは、古墳である。古墳の墓守を思わせる名だから、那良山(那羅山)に葬った。そういう名ナラそういう場所に、そういう形としてのオホヤマにした。それ以上でもそれ以下でもない。場所の比定は、論理の後に来るもの(“meta-logic”)である。
墓作りに活躍する畚(誉田宗廟縁起、誉田八幡宮ブログhttp://www012.upp.so-net.ne.jp/kondagu/fure-houmotu.html)
 「毛古」・「毛胡」について考える。
 本居宣長・古事記伝に、「和賀毛古邇許牟ワガモコニコム吾許所ワガモコむなり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/293)とするが、上代仮名遣いに甲乙の違いが指摘されている。そこで、新撰字鏡の「聟 毛古(もこ)、又加太支(かたき)」を持ちだし意味を適合させようとする説が出されてきた。武田1956.に、「ムコは、夫として迎える男子の義で、モコは、その古語と見られる。本来はなかまの義で、自分を救いに来る人の意に使用しているだろう。」(128頁)、佐佐木2010.に、「(ちはやぶる)宇治の渡し場に、棹を操るのに敏捷な人が私の助っ人として来てくれ。」と訳し、「「もこ」は「婿」「仲間」などの意だというが、ともに疑問。ここは、助っ人・味方の意をもつ別語と見るべきもの。「に」は「…として」の意。「む」はもと推量を表すが、ここはそれが願望に転じたもの。」(72頁)とある。新撰字鏡の語釈では説明しきれないとして、援用しつつも特殊な例として解釈している。山口2005.は、「〈娘婿にするから、舟をうまく操って私を助けてくれ〉と、味方の軍勢に呼びかけた歌とみるべきであろう。」(234頁)としている。しかし、渡し船を操っているのは宇遅能和紀郎子であり、ほかに船はなさそうである。文脈的に見て、宇遅能和紀郎子との間の駆け引きが行われているのだから、それなりの理由づけが必要となろう。
 歌謡と地の文との間につながりがないことが当たり前とされてきた(注4)。そのため、歌謡のなかでのみ論理が完結するように解釈されれば正解と考えられていた。しかし、話として話されているのだから、聞き手は続きものとして聞いている。それで意味が分からなかったら、誰も次の人へ伝えて行こうとはせず、記紀に記されてのこったお話は、書記以前に滅んでいたであろう。きちんと残されているからには、言い回しが異なるだけで、歌も散文も同じフェーズのもとに作られているはずである。オペラでは、台詞の部分と歌謡の部分が同じ劇中で繰りひろげられている。記には、大山守命と執檝者に扮した宇遅能和紀郎子の間で、不思議な問答が行われている。

大山守命:「玆の山に忿怒(いか)れる大猪(おほゐ)有りと伝へ聞きつ。吾、其の猪を取らむと欲ふ。若し其の猪を獲むや」
宇遅能和紀郎子:「能はじ」
大山守命:「何の由ぞ」
宇遅能和紀郎子:「時々(よりより)、 往々(ところどころ)に、取らむと為れども得ず。是を以て、能はじと白しつるぞ」

 この問答の意味するところについて、これまで興味が示されて来なかった。新編全集本古事記に、「狩りに興味があるかのような発言は、……[鎧の上に衣服を着ける]装いと同じく偽装としてなされた。」(271頁頭注)と間抜けな注釈がつけられている。大山守命は、皇位を奪おうとして戦いに臨んでいる。アドレナリンの上昇したイノシシを狩るのだと、わざわざ表現する理由を考えなければならない。イカレルオホヰの多義性に注視したい。
 大山守命は、皇位を奪おうとして反乱を起こしている。そのときに、イカレルオホヰとあるからには、それが玉座のことを示すと考えるのがふつうである。オホヰには、同音に大藺(おほゐ)がある。和名抄に、「莞 唐韻に云はく、莞〈音は完、一音に丸、漢語抄に於保井(おほゐ)と云ふ〉は以て席と為(す)可(べ)き者也といふ。」とある。完成品の円座のことと、その材料のことをいう。同じく円座と言っても、粗末な円座(藁蓋(わろうだ(わらふた)))のような庶民の使う安物ではなく、上等のクッションでとてもいかめしくおごそかなものであったろう(注5)。「重(いか)れる大坐(おほゐ)」を取ろうと考えているが、婉曲的に、狩猟のことと見立てて「忿怒れる大猪」を取ろうと言っている。
畳と円座(慕帰絵(模本)、永井如雲(模)、明治時代、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0068489をトリミング)
 それに対して、宇遅能和紀郎子は「為取不得」と言っている。それは生半可な受け答えではない。言ったことは実際の事柄であることが規準として考えられていた。それが言霊信仰である。言行不一致はしない。彼は執檝者に扮しているのだから、彼が扱うことのできるのは、大きなイノシシを狩るための弓矢や槍刀、罠の圧機(おし)、棍棒ではなく、棹檝である。執檝者が狩猟にチャレンジしたことはなかろうから、大きな猪が取れないと断言することはできない。それなのに、「時々、往々」取ろうとしたが取れなかった、とまともに答えている。なぜ本気で答えられるか。彼が持っていたのは棹である。棹を使ってイカレルオホヰを取ると言えば、撥ね釣瓶で大きな井戸から水を取ることが考えられる。反動を使って水を汲み揚げる。井戸へ沈める桶や甕は、棹の先に結びつけられている。その反対側に重しがついていて、梃子の原理によって楽に汲める。ヰ(井)は、堀り井戸のことばかりでなく、水汲み場一般のことであった。川や池や泉でも、水を汲むところはヰである。
撥ね釣瓶(東大寺二月堂下。釣瓶を吊るす部分が竹製であるが、当該説話では梃子にしている横架材の部分を「棹」に当たると想定していよう。)
撥ね釣瓶(画像石、山東省出土、後漢時代、1~2世紀、東博展示品)
 つまり、イカレルオホヰという言葉は、「激怒している大きな猪」、「湧き起ってる大きなる井」、「重々しい御座所」の意を含んでいる。白川1995.に、「いかる〔怒・忿・慍・瞋〕 四段。「いかり」はその名詞形。心のうちからはげしく腹立てる。「息(いき)」の活用形から生れた語で、はげしい息づかいをいう。腹立ちで力んだ形となる。「嚴(いか)し」「いかづち」と同根の語。」(102頁)、「いかし〔厳(嚴)・重〕 内部のさかんな力が、外にはげしくあらわれることをいう。「いかめし」「いかる」「いかづち」などの「いか」と同根。樹木が繁茂する、またそのように栄えるさまをいう。」(100頁)とある。

 此の山の一つの峡(を)、崩(く)え落ちて、慍(いか)れる湯の泉(いづみ)、処々より出でき。……今、慍湯(いかりゆ)と謂ふは是なり。(豊後風土記・日田郡)
 天皇、大きに怒(いか)りたまひて、刀(たち)を抜きて御者(おほうまそひのひと)大津馬飼を斬りたまふ。(雄略紀二年十月)
 是に天皇、大(おほ)きに忿(いか)りて矢刺し、百官(もものつかさ)の人等(ども)悉(ことごと)矢刺しつ。(雄略記)
 天豊財重日重日、此には伊柯之比(いかしひ)と云ふ。足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)は、……(皇極前紀)
 ……八束穂(やつかほ)の伊加志(いかし)穂に皇神等(すめがみたち)の依さし奉らば……(延喜式・祝詞・祈年祭)

 目の前にしているのは宇治川の渡し場の逆巻く水である。慍れる大井である。その水を汲み取ろうと「時々、往々」にやってみたけれどできなかったと言っている。川船の上にいて、水が汲めないのは不思議に思われるかもしれないが、彼は、「執檝者(かぢとり)」である。持っている檝や棹の先に甕や桶(曲物)はついていない。だから、棹を引き上げてみてもちっとも水は取れないのである。
 禅問答にも似た頓智問答が聞き手を引きつける。そして、大山守命は水に落され溺れていく。溺れかかりながら訴える。「ちはやぶる 宇治の渡に 棹取りに 速けむ人し 我が仲間(対手)(もこ)に来む」。この歌については、古来、見解が定まらない。モコという言葉がよくわからないからである。状況を確認すれば、執檝者が水を汲めない棹を使って船を操っている。水を汲めない理由を皮肉って大山守命は歌っているように感じられる。そんな「毛古(もこ)」といえば、担い棒(天秤棒)に吊り下げる畚(もっこ)のこととわかる。歌っているのは大山守命、土木工事で巨大古墳を作っていた時代に、お墓にまつわる名を負う人物である。
畚(もっこ)(川崎市立日本民家園展示品)
 土砂、岩石を運ぶ時に使うもっこ(畚・蕢)は、モコともいう。モッコという語は、一般に「持つ籠」の転とされている。「持つ」のモは乙類である。けれども、畚という粗末な編み籠は、編み籠としてきちんとあるというよりも、ただ対象を絡めとっているにすぎない感がある。畚にはいろいろな形態があるが、いちばん粗末に見えるとても荒い目の網などは、捩ってある縄の間をくぐらせて編まれている。岩石のような、形のいびつなものを運ぶ場合、縄が交差する部分をみな結んでいってしまうと、力が結び目に集中してかかり破けやすくなり、そこから土砂崩れ的に荷崩れするからゆるく交差させているものかと思われる。つまり、多少の漏れは無視するのである。当麻曼荼羅縁起の絵は、そんな畚の、言葉本来の意味合いをよく描いたものである。
 モッコ←モコ←モル(漏)+コ(籠)である。担い棒に吊り下げて担ぐのだから、手に持つこととは観念的に異なると思われ、「持つ」からモツコ(持籠)であると考えるのは早とちりの俗説といえる。そして、畚という字はフゴとも読む。両者の違いとしては、モッコは担い棒の両端を2人でかつぎ、間に1つの荷が吊るされる。フゴは担い棒の真ん中を1人の人がかつぎ、両端にそれぞれ荷がかけられるものである。人を乗せて運ぶ駕籠はモッコのお化けである。
さつまもち製造のために頭に担い棒を載せてもっこ運びする(三宅島奇観、江戸時代、19世紀、植村家長旧蔵、東洋文庫ミュージアム展示品)
箍のはずれた樽にかかった担い棒と畚2つ(横浜市都筑民家園展示品)
 担い棒のことは、古語にアフゴと言い、もとは清音であった。和名抄・行旅具に、「朸 声韻に云はく、朸〈音力、阿布古(あふこ)〉は杖の名也といふ。」とある。辞書の説明から杖のことではないかと思われるかもしれないが、源順は担い棒が代用する用途に目が行ったものであろう(注6)。「阿富(あふ)山は、朸(あふこ)を以て宍を荷(にな)ふ。故、阿富と号く。」(播磨風土記託賀郡)、「縄七十了、夫五十二人、朸(アフコ)五十二枝。」(延喜式・神祇式・践祚大嘗祭)などと見える。延喜式のは1人でかつぐタイプで、朸の両端にそれぞれ荷をつけるようである(注7)。アフゴに掛ける籠だから、フゴ(畚)である。言葉が洒落をもって理解しやすくなっている。
 朸が登場している。執檝者が担っている役割は、棹を使って船を操り対岸へ渡すことである。紀に、「度子(わたりもり)」とある(注8)。担い棒に見立てられる棹を手にしている。彼は1人で操っていることになっていて、担い方的としてフゴを操っていたと見立てるのが妥当である。けれども、担い棒の先にぶら下がっているのが桶や甕ではなく畚の類だったら、水を汲むことはできない。漏れていくモコである。それを使って溺れている自分のことを担ってくれないか、というのが記50・紀42の言い分である。執檝者に扮した宇遅能和紀郎子が「時々也、往々也、雖取而、」と自らの経験を語っている。「時々也、往々也」はヨリヨリトコロドコロと訓む。ヨリのヨは乙類、トコロのト・コ・ロはみな乙類である。同音のヨリ(撚・搓・縒)、トコロ(野老)の意を勘案すれば、ヤマノイモの蔓を撚って縄とすることが想起される。畚を作ることを自ら先に主張していた。モコは、漏る籠の意と考えて正しい(注9)。朸という棹棒にかけて使うものである。
 では、記50・紀42歌謡は、どのように解釈すればよいのであろうか。
 知波夜夫流 宇遅能和多理邇 佐袁斗理邇 波夜祁牟比登斯 和賀毛古邇許牟(記50)
 知破揶臂苔 于旎能和多利珥 佐烏刀利珥 破揶鶏務臂苔辞 和餓毛胡珥虚務(紀42)
 第四句のハヤケムヒトシのシは、取り立ての助詞である。わざわざ取り立てて取りあげられている。問答で、棹取り人は、「時々也、往々也、雖取而、不得。」と答えていたのを承けて歌っている。棹使いが上手なのに水が汲めないのは、先に付ける容器がよろしくないからだと教えている。そして、あなたが1人でかつごうとしているフゴ(畚)ではなく、私と一緒にモコ(畚)をかつぐのが良いですよと言っている。大山守命は、鎧を衣の中に着て欺こうと隠していた。つまり、第五句のワガモコニコムには、「我が畚(もこ)に籠(こ)む」の義がある。コムのコは乙類である。
鎧(革綴短甲、山梨県甲府市大丸山古墳出土、古墳時代、4世紀、東博展示品)
古代釣瓶の諸形態(南京博物館・呉県文管会「江蘇呉県澄湖古井群的発掘」文物編纂委員会編『文物資料叢刊』第9期(文物出版社、1985年、4頁)による鐘方正樹『井戸の考古学』同成社、2003年、25頁。)
左:籠付土器出土状況(『京都帝国大学文学部考古学研究報告』第十六冊、桑名文星堂、昭和18年、臨川書店、昭和51年復刻、図版第五)右:同復元品(同書、図版第八四)
 封じ込めて包み隠すことが「籠む」である。「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣作る その八重垣を」(紀1)と使われている。大山守命は服の中に鎧を着けている。鎧は、金属の器、鋺(かなまり)として使える。大きなものだから2人でモッコ形式にかついだらたくさんの水が汲めるのではないですか、と口説いている。そこで相談だが、この身を助けてみたらどうかと言っている。この解釈が正しいことは、この歌の次の地の文で、「其の衣の中の甲(よろひ)に繋(かか)りて、かわらと鳴りき。故、其地(そこ)を号けて訶和羅前と謂ふ。」(記)とあって、ことさらに「甲(よろひ)」のことやカワラサキという場所が指定されていることに傍証される。衣の中に甲を着ているから、溺れかけても脱ぐに脱げない。それは、モコ(畚)のなかに金属の器が入っていることに当たる。カワラサキという地名については、崇神紀にも地名譚がある(注10)。ここでわざわざカワラサキという地名を登場させているのは、第一に、甲(鎧)を叩いたときの音を表したいからであるが、第二に、モコ(畚)のなかに甲があるという譬えからである。一般的なモッコ(畚)は、恒常的に利用する籠というよりも、土木工事などにその場限りに使うことが多い。その素材は、手軽に手に入って安価でただ同然のもの、すなわち、藁が用いられる。藁縄を使って作られている。カワラサキとは、カワ(乾)いたワラ(藁)のゆくサキ(先)の利用法であることが偲ばれる言葉である(注11)

 ちはやぶる(ちはや人) 宇治の渡に 棹取りに 速けむ人し 我がもこ(畚/対手)にこ(籠/来)む(記50・紀42)

 (ちはやぶる(ちはや人))宇治の渡り場で渡し守として棹を取るのが速い人だとわざわざ取り立てて謳うような人、そんなふれこみなのですよね、ならば棹使いが上手でないといけないですよ。私の畚に籠められている、つまり、衣服の中に着けている鎧を大きな鋺として、担い棒を前後にして一緒にかついで使いましょうよ。
 モコという語に、新撰字鏡の「聟 毛古(もこ)、又加太支(かたき)」の「対手」の意がかかっている。1本の朸を2人でかつぐから、一緒にかつぐ相手が必要というのである。だから、畚に籠めている鋺を、ペアでかつぐ相手として来て欲しいと言っている。
 イカレルオホヰを取るためには、この大山守命の誘いに乗るのが意味論上適合している。無文字文化の言霊信仰のもとにあっては、逆巻く宇治川の水を汲むことと重々しい皇位に就くこととは同じ言葉だから同じ事柄であると信じられた。この賢しらな謎掛けに対して、宇遅能和紀郎子はなす術を知らなかった。頓智王座決定戦に破れたのである。イカレルオホヰは取れないと、すでに公言してしまっていた。そして、漫然とやり過ごして大山守命を溺れさせることとなる。
 矢をかまえているのに射なかったことについて議論されている(注12)。不毛な議論と言わざるを得ない。第一に、カワラサキに流れ着かせたいからである。第二に、射抜いたらせっかくの鋺に穴が開いてしまい、そうなると、ふつうの畚と同じことになる。鎧(甲)を完形のまま回収するには、放っておくよりほか仕方がなかった。第三に、「渡子」の渡し守が渡さず、イカレルオホヰを取ることもできず、弓に矢を刺しても射ることもない。これらは、言葉の上でパラレルな行為である。その結果、棹取りが歌に呼びかけられても何の対処もできずにいることとなっている。言行に矛盾が生まれてはならないからである。次の歌に長々と歌われている。

 ちはや人 宇治の渡に 渡り瀬(ぜ)に 立てる 梓弓(あずさゆみ)檀(まゆみ) い伐(き)らむと 心は思(も)へど い取らむと 心は思へど 本方(もとへ)は 君を思ひ出 末方(すゑへ)は 妹を思ひ出 苛(いらな)けく 其処に思ひ出 愛(かな)しけく 此処に思ひ出 い伐らずそ来る 梓弓檀(記51)

 朸は担い棒である。天秤棒式に肩に担いで両端に荷を掛けると、荷の重みで前後に撓(しな)い曲がる。撥ね釣瓶に同じである。弓を張っているような状態になる。そこで矢を射るということは、撥ね釣瓶を引き上げることと同じである。つまり、大山守命を引き上げて救助することであるが、それは、矢を射ることに相当してしまう。渡し守が渡さなかったのであるから、撥ね釣瓶に棹で汲み揚げることはなく、大いなる御座所に就くこともなくなり、弓弦が引き伸ばされても発射して力を発揮することもない。それがヤマトコトバの理屈である。結果、「於是、伏-隠河辺之兵、彼廂此廂、一時共興、矢刺而流。」となっている。両軍の伏兵が起きあげって矢をつがえて構えるだけ構えながら射ることはないのである。言葉の論理上、一貫した流れになっている。だから、「矢刺而流」と書いてある。矢を刺すことと川を流れることとは順接の関係にある。それを自己言及的に表わして、「而流」と記されている。流れに棹さすものではない。
 歌に、「梓弓檀(あづさゆみまゆみ)」とある。アヅサユミ、マユミの2種の弓とも、その弓の材料となる木に由来する語とされている。あるいは、アヅサユミを、マユミを導く枕詞とする説もある(注13)。しかるに、マユミと言えば、真+弓のこと、すなわち、片弓ではなく完全に揃った弓という聞こえ方をし、そのようなものを思い浮かべたのであろう。アヅサユミというのも、何かしら揃った形態の弓のことをイメージさせるようである。アヅサという言葉(音)からは、アダ+ウサの約との考えが思い浮かぶ。アダシ(他・餘)という語と、ウサ(設)という語の合体した意である。

 他(あたし)(継体紀元年三月)
 他人(あたしひと)(允恭紀十一年三月)
 他神(あたしかみ)(神代紀第九段一書第二、用明紀二年四月)
 他婦(あたしをみな)(神代紀第十段一書第三)
 他鮮魚(あたしあざらけきいを)(仁徳前紀)
 餘(あたし)(敏達紀六年三月、推古紀三十一年七月)
 餘海(あたしうみ)の塩(武烈前紀)
 餘皇子(あたしみこ)(崇峻前紀)
 餘事(あたしこと)(継体紀八年正月)
 餘人(あたしひと)(敏達紀十四年六月)
 別本(あたしふみ)(雄略紀十年九月)
 人の指甲(なまつめ)を解(ぬ)きて、暑預(いもうさ)を掘らしむ。(武烈紀三年十月、書陵部本訓)
 爾くして、頂髪(たきふさ)の中より設けたる弦〈一の名を宇佐由豆留(うさゆづる)といふ。〉を採り出し、更に張りて追い撃ちき。(仲哀記)
 各(おのおの)儲弦(うさゆづる)を以て髪中(たきふさ)に蔵(をさ)め、且(また)木刀(こだち)を佩け。(神功紀摂政元年三月)
 貴人(うまひと)の 立つる言立(ことだて) 于磋由豆流(うさゆづる) 絶え間継がむに 並べてもかも(紀46)
 儲君(まうけのきみ)(反正紀元年正月、允恭紀二十四年六月、雄略二十三年八月、天武前紀(四年)十月)

 これらの例のなかで、「餘皇子」、「暑預」、「設弦」は注目される。アタシ(アダシ)という語は、別ものであると同時に控えの、スペアのことを指している。「他人(あたしひと)」は当人ではないが「人」であるし、「他神(あたしかみ)」はいつもの「神」さまではないが、余所ではお祀りされている「神」さまである。武烈紀の「暑預」は、単に植物のイモ(芋)のことそのままとするよりも、救荒のための備蓄用食料であることを物語っている。だから、必要もないのに生爪を剥ぎ、熊手にしたことが残虐記事として映えてくる。ウサという傍訓が生まれた所以である(注14)。雄略紀の「別本」をアタシフミと言っていて、正本と別本があって対を成していると知れる。以上のことから、adusa ← ada+usa ← adasi+usa という語と聞こえれば、梓弓なる弓は、ほかに控えがあってセットになって完璧であることを表わしていると知れる(注15)
梓弓(上:第1号、下:第3号本弭、散孔材、黒漆・生漆塗、弭は金銅製、宮内庁正倉院ホームページ、http://shosoin.kunaicho.go.jp/ja-JP/Treasure?id=0000010661)
 梓弓も檀も、完全なる弓を指している。そのことは、言語の論理哲学において、真なることである。なぜなら、弓には、上下に弭(はず)がある。片方だけにあるのではない。必ず両サイドにあって、両方ともになければ役に立たない。両方の弭、本弭(もとはず)・末弭(うらはず)がきちんと整い、そこに弓弦が渡されてはじめて実用に期す。だから、弓と呼ばれるものとして格好の名は、「梓弓」や「檀」であると悟ることができる。いま、そんなふうに両サイドにあるものを話題にして歌を歌っている。状況は宇治の渡りに設定されている。河の渡し場は、こちらの岸とあちらの岸とをつなぐ交通の要衝である。渡し場において渡し守に扮して宇遅能和紀郎子(菟道稚郎子)は振る舞っている。渡す相手は大山守命(大山守皇子)であったが、渡さないで転落させてしまった。本来、渡し場で渡し役を担って、河の両サイドをつなぐ役割なのにである。河の両岸を渡すことができないこととは、弓で言えば、本弭と末弭とを結んで弓弦が掛けられないことに当たる(注16)。船のバランスが悪くて渡ることができなかったが、そればかりか論理のバランスも崩れてしまった。そのため、棹で引き上げることも、矢を射ることも、木を伐ることもできないジレンマに陥っている(注17)
 宇遅能和紀郎子は、いわば循環思考に嵌まってしまった。大山守命の、記50(紀42)歌謡があまりにも知恵豊かな歌だったからである。朸の両サイドで畚をかつぐペアになってくれということは、宇治の渡りを渡すことであり、射ることができるように弓の上下の弭に弓弦をかけることであり、撥ね釣瓶で水を汲み揚げることであった。両サイドを整えることではじめて役に立ち、実用に供する。それに反する行動、言動を、宇遅能和紀郎子は犯してしまったのであった。
 彼は、ウヂノワキイラツコという名を負っている。それは、二重の意味において拘束する。ウヂは、記では「菟道」と表記する。ウサギの通る道という意味である。ヤマトコトバにウが菟、ヂが道である。だから、音声だけでウサギの通る道であると理解された。記でウサギが通った道といえば、稲羽(いなば)の素菟(しろうさぎ)の説話が知られている。「淤岐嶋(おきのしま)」にいたウサギが、「和邇(わに)」を並ばせて対岸の「気多之前(けたのさき)」まで渡った。渡りきる寸前に騙されたな、とつぶやいてしまい、「和邇」に噛まれて毛がむしり取られたことになっている。「和邇」は、当時の人々の観念において、ウサギの通る道のこと、つまり、ウヂ(菟道)のことと同相であると考えられた。そして、同名の渡来人、「和邇」(応神記)、「王仁(わに)」(応神紀十六年二月)が、「論語・千字文」や「諸典籍(もろもろのふみ)」をもたらし、かつ菟道稚郎子の「師(みふみよみ)」、国語の先生になっていて、宇遅能和紀郎子(菟道稚郎子)は、和邇と密接な関係にあることが示されている。稲羽の素菟説話と呼応した記述によって、素菟が通ってきた道、菟道とは「和邇」のことなのだと連想が働く。また、上に畚のことを話していた。モコ、モッコ、フゴといい、朸(あふご)にかけて使った。同種の運搬用具の編み籠にアジカ(簣)がある。アシカ(海驢)のことは、上代にミチと言った。「美知(みち)の皮の畳八重」(記上)とある。確実にミチ(道・路)のことを謂わんとしているとわかる。菟道に水の上を渡ることとは、「和邇」を示すもののことであり、彼、宇遅能和紀郎子(菟道稚郎子)はその意味するところを名に負っているはずであった。
 「和邇」が何を表すかについて、動物の種類にばかり目が向けられてきた(注18)が、「和邇」は激しく口を動かして噛み砕くものであると伝えられていて、それはまさしく、今般伝わってきた唐臼(踏み臼)のことを表すと想念されていた(注19)。踏み臼は、撥ね釣瓶同様、梃子の原理を用いて舂(うすづ)く。紀には、「至于河中、誂度子、蹈船而傾。」とあり、「蹈」んでいる。「蹈」字に「臼」字が隠れており、踏み臼の仕掛けを思い出す契機となっている。白川1996.に、「蹈 ……舀は臼の中のものをとり出す形。〔説文〕二下に「むなり」とあり、足しげくふむことをいう。」(1214頁)とある。足しげく蹈む臼とは、唐臼(踏み臼)に他ならない。
左:唐臼(日本民家園展示品)、右:踏み臼(ミャンマー・パラウン族の脱穀、ストック映像#425-129-991、http://footage.framepool.com/ja/shot/425129991-seesaw-palaung-mortar-tool-pestle)
 この踏み臼において、踏むのと反対側にある横杵の先を欠いてしまうと、もう二度と舂くことはできない。文明の利器とは、どこかが故障するとまったく役に立たず、無用の長物と化すものである。肩にかけて体の前後にフゴ(畚)をかける場合も、一方を落とすと軽くなるのではなくて、担うことができなくなるものである(注20)。撥ね釣瓶でも、反対側の重しがなくなったら反動が効かず、ただただ重いばかりである。
 これは名にし負うウヂノワキイラツコの自己否定に他ならない。「和邇」がワニとしてあるのは、大きく口を動かすからであるのに、死んでしまったことに相当する。猪狩りにこじつけた話に関して弓について当てはめてみると、利器として使い続けることができるのは弓弦が張られているからで、ときおり切れて使えなくなることを承知のうえで控えの儲弦(うさゆづる)を具備している。ところが、イカレルオホヰを求めた大山守命に厳かな大座たる皇位を「譲(ゆづ)る」ことをしなかったことが、同音の「弓弦(ゆづる)」を失うこととなっている。予備の弓弦を持たないから、一度発射して持っている弓に不具合が生じたら、敵はどんどん接近してきて至近距離から弓を射られてしまう。だから、弓という武具は、敵味方が対峙している時には、めったやたらに発射する代物ではなかった(注21)。記51・紀43番歌に、「い伐らずそ来る」、「い取らむそ来る」とある。控えの弓弦がないのだから、弓の材ないし、弓そのものを伐り取ったとしても、もはや弓として機能させることはできない。どうしようもないから嘆いているのである(注22)
腰にさげた鞆(右)と弓袋(左)(埴輪、正装の男子、群馬県太田市四ツ塚古墳出土、古墳時代、6世紀)
馬上の武士の弦巻と雑兵の弦袋(男衾三郎絵詞、鎌倉時代、13~14世紀、東京国立博物館研究情報アーカイブズ、http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0062007をトリミング)
 それは、ウヂの第二の意味においても同様である。ウヂは、普通名詞に「氏」の意がある。氏とは、上層支配層の家集団の名前である。氏の上(かみ)が氏神をまつり、氏子を率いて物事に対処した。族(やから)のうちでも格式ある家柄のことである。名義抄に、「幹 カラ、ハズ、コハシ」とある。ウヂノワキイラツコという名からは、氏素性を弁えていることが求められている。「盟神探湯(くかたち)」(允恭紀四年九月)してまで定めている。特別に嘘をついてはいけないことを提唱している。弓の話になっていて、ハズという言葉とも絡み合う。ハズ(弭・筈・括)という言葉は、そうなって当然の決まりごとのことが原義として通底しているようである(注23)。日葡辞書に、「Fazuno auanu fito.(筈の合はぬ人)自分の引き受けたことを果たさない人,または,その人物について他の人が抱いている観念・見方からすれば,当然しなければならないはずの事をしない人.」(217頁)とある。当然そうでなければならない筈のことはわきまえている人物、それが、論語や千字文を教えられて理解しつつ、工学的な新技術を受け入れることにも賛同していた聖明なる彼のあるべき姿であった。そのように負っている名を持っているのに、渡し守に扮して渡さない失態を演じた。約束が違うことをして自らの名に自己言及して自己矛盾を犯していることに気づき、自害への道を歩んで行ったという“話(咄・噺・譚)”である。
 弓として完全に揃っていることを暗示するマユミやアヅサユミは、歌い手にも聞き手にも弓というものはきちんと揃っていなければ使い物にならないことを思い起こさせる。論理的に当然そうでなければならない筈のことができなくなっている。弓のことであるから、弭が筈どおりでなかったり、弓弦にスペアがないということである。彼は父親の応神天皇から、太子(ひつぎのみこ)に指名されてその地位にあった。太子とは、儲君(まうけのきみ)のことである。予め控えに登録されている。弓弦でいえば、弓袋や弦巻にスペアとされている儲弦(うさゆづる)と同じ立場にある。弓弦は消耗品だから控えがなければならない。矢が残っていても弦が切れて発射できないのは、弾丸があるのにリボルバーが働かないピストルに同じである。弦は切れるのが必定だから、つねに取り替えられるようにしておく。そしてまた、弓弦は弓の両サイドの弭に渡さなければ弓弦としての機能を果たさないから、片方でも欠けてしまえばもはやかけ渡して弓弦を張ることはできない。すなわち、本来であれば、太子であって渡し守なのだから渡さなければならない存在であったのに、彼はそうはしなかった。それは渡し守としての役割を果たさず、弓弦としての機能を持たず、儲弦が日の目を見ることがないことになった。自己矛盾以外のなにものでもない。

 天命(あまつよさし)は以て謙(ゆづ)り拒(ふせ)くべからず。(允恭前紀)
 兄弟(あにおと)相譲(ゆづ)りて、久に起たず。(顕宗前紀)
 箭(や)発(はな)つことを相(こもごも)辞(ゆづ)りて、轡(うまのくち)を並べて馳騁(は)す。(雄略紀四年二月)
 故、人をして廉節(ゆづること)を挙げしめ、(継体紀二十四年二月、前田本別訓)
 禅 上千反、平静也、博也、大山祭也、授也、□止也、志豆加尓(しづかに)、又由豆留(ゆづる)(新撰字鏡)
 即ち弓絃(ゆづる)を絶ちて、欺陽(いつは)りて帰(よ)り服(したが)ひき。(仲哀記)
 弦 説文に云はく、弦〈音与、絃同、由美都流(ゆみつる)〉は弓弩弦也といふ。(和名抄)
 梓弓 末の腹野(はらの)に 鳥狩(とがり)する 君が弓弦(ゆづる)の 絶えむと思へや(万2638)

 弓弦(ゆづる)を渡さなければ弓は役に立たない。皇位継承の地位を「譲(ゆづ)る」ことがなかったことを意味している。宇遅能和紀郎子は太子であった。太子とは儲君である。スペアとして控えている。控えているのに弓弦が譲らないとなると、儲弦に出番はない。もはや、何のための儲君であったのかわからない。ここに、彼、宇遅能和紀郎子の陥穽があった。結果、彼は語用論的パラドクスの罠にはまり、皇位を継承しようとしなくなった。第三の男、仁徳天皇との皇位の譲り合いへと発展していく。もちろん、これは、“話(咄・噺・譚)”の上でのことである。しかし、記紀に書いてあることは、“話(咄・噺・譚)”である。“話(咄・噺・譚)”をそういうものとして聞いていて、それを信じるよりほかにはない。それを信じていたとするに足る十分な根拠は、言葉がいまだ文字を持たない無文字文化の時代であった点にある。言葉がそのまま事柄となると据えてみなければ、すべての秩序が崩壊するから、言=事でなければならない。そう決められた言霊信仰のもとに暮らしていた。
 言葉の論理哲学において、宇遅能和紀郎子は大山守命と騙し合いの計略を競い合ってしまった。大山守命は河に溺れ、宇遅能和紀郎子は策に溺れた。宇遅能和紀郎子が即位するためにとるべきであった行動は、大雀命(大鷦鷯尊 )(おほさざきのみこと)の進言を聞いても、大山守命に対して自分の次に位に就く者、後継者として認定し儲君として定めようと約束すべきであった。“話(咄・噺・譚)”の論理哲学上、一緒に朸をかつげば良かったのである。儲君たる太子の、譲られる立場にある者は、「譲る」を体現することによって名を実とすることができる。この事件でそれを痛感させられた宇遅能和紀郎子は、大雀命との間で天皇の位に就くことを固辞し続け、譲ることに徹した。無文字時代の言霊信仰の下にあった人たちの、アイデンティティの証である。そして譲ることにおいて一歩も譲ることがなくなり、論理的に袋小路に陥ってしまい、自ら命を絶っている(注24)。ユヅルにこだわらずにはいられない名にし負う存在が、ユヅルことができない自己矛盾から必然的な結末を迎えたのである。

(注)
(注1)宇遅能和紀郎子の下準備については、拙稿「応神記、「具餝船檝者」について」参照。
(注2)契沖・厚顔抄に、「君ハ応神天皇ナルヘシ。……妹[ハ]大山守皇子ノ同母妹ニ、大原皇女、澇田皇女アリ、コノ皇女等ヲ労ハリタマフ歟、モシハコノ二人ノ皇女ノ内ヲ、太子ノ妃トシテ妹ヲオモヒ出トハノタマフカ」(新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200001746/viewer/84、漢字の字体は改め、句読点を付した)、相磯1962.に、「「君」は、大山守命であろうか。敵讎ではあるが、肉親の兄である。……「妹」は、……ここでは、前句の「君」の妃である。……」(171頁)といった説が呈されている。ほかに、居駒2003.、西郷2006.などにも説が見られる。
(注3)畠山1982.、馬場2008.、松本2011.などに見られる。
(注4)山路1973.に、「おそらく、本来は別の出自を持つ歌謡が、「ちはやぶるウヂ」という謡い出しと、ウヂのワキイラツコがカヂをとったとある、そのカヂとサヲとの連想から、これと同形の謡い出しを持つ〈51歌〉と共に、ウヂのワキイラツコ物語(大山守命の反乱物語)に結びついたものであろう。」(128頁)、土橋1976.に、「大山守命が滅びたのち、菟道稚郎子の歌の「い伐らずそ来る」が物語と適合しないこと、「君を思ひ出」はともかく「妹を思ひ出」が誰をさすのか、該当者が見出されないことは……この歌の背景をなす物語は、現在の『記紀』とは違ったものであったろうことが考えられる」(163~164頁)とある。対して、山口2005.は、「散文が全体的な文脈を決定し、そこに歌謡が無造作に挿入されているというようなものではない。散文と歌謡とが互いに支え合って、一つの物語を形作っているのである。それは、書くことによって可能になった物語と言うべきである。……散文と歌謡との文脈的関係が、今のところを十分に読み解けていない場合がある」(309~310頁)としている。
(注5)和名抄に、「円座 孫愐曰く、䕆〈徒口反、上声の重、俗に円座と云ふ、一に和良布太(わらふだ)と云ふ。〉は円き草の褥也といふ。」とある。「輸調銭弐拾漆文 円坐弐枚」(正倉院文書、天平七年、山背国隼人計帳)、「藺の円座(わらふだ)一枚〈径三尺〉の料、藺〈一囲を以て八枚に作れ〉。長功は一人、中功は一人半、短功は二人。」(延喜式・掃部寮式)、「六月の神今食(かむいまけ)は、……近衛・兵衛ら各蒋(こも)の円座を用ゐよ。」(同)、「其大納言円座紫文白地錦、中納言青文黄錦、参議者高麗錦縁。」(江家次第・賀茂詣条)、「却き蒲団(ワラフタ)に倚りゐて彌よ励む。」(金剛般若経集記、天理本、平安初期点(850頃))などとある。素材や縁の違いで身分に違いが表されそうなことは、想像に難くない。藺草製の大判に錦の縁でも付いたものが、玉座に用いられるイカレルオホヰに当たると考えたのであろう。
(注6)朸と弓に同じ名所で呼ばれるところがある。担い棒と弓との関わり合いは本逸話に由来して他に影響を及ぼしていると思われる。後考を期す。
(注7) 朸の担い方の歴史については、石村1992.石村2002.に詳しい。
(注8)和名抄に、「渡子 日本紀私記に云はく、渡子〈和太利毛利(わたりもり)、今案ずるに俗に和太之毛利(わたしもり)と云ふ〉といふ。」とある。仁徳前紀の「度子」の前田本右傍訓に、「禾(ワ)タシモリ」、さらに右に「○(ワ)多(タ)リモリ 養老」とある。時代別国語大辞典・上代編に、「上代にワタシモリという語の確例はない。」(820頁)とする。記50・紀42歌謡に、ウヂノワタリニとあるから、少なくともこの個所は「度子(わたりもり)」と訓むことがふさわしいであろう。
(注9)白川1995.に、「もる〔漏・洩〕」について、「もと「まる」のように水気のものをいう語であろう。」(760頁)とするが、その真意はわからない。「放(ま)る」と関連があるとするなら、「屎(くそ)まる」が下痢を表すことになりかねない。西田1989.に、「[平安中期頃までの和歌における「漏る」の]典型例を見るならば「漏る」は「水」が隙間から漏れるのが中心で、その隙間から漏れるという類推より、「光」特に「月の光」についても言えるようになったかと考えられる。機密性の低い当時の家屋の構造等からしても、「音」は自然と聞こえてくるものであり、特別に「漏る」として意識せられるものではなかったであろう。」(39頁)とある。語の展開から遡るに、隙間がないときは「流る」というかと思われる。
(注10)「乃ち甲(よろひ)を脱ぎて逃ぐ。得(え)免(まぬか)るまじきことを知りて、叩頭(の)みて曰く、「我君(あぎ)」といふ。故、時人(ときのひと)、其の甲を脱きし処を号けて、伽和羅(かわら)と曰ふ。」(崇神紀十年九月)とある。
(注11)他の含意については拙稿「カワラサキ(応神記・崇神紀)について」参照。
(注12)本居宣長・古事記伝に、「そもそも早く射殺さむとすべきに、コトサらにユルして流しやれるは、これ宇遅王の御心にて、其由次なる御哥に見えたり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/294)とあり、松本2011.は踏襲し、「大山守命に命を請われて同情する結果となってしまった。」(27頁)とする。山口2005.は、「和紀郎子は大山守命が降伏するのを待っていたのであり、大山守命は降伏を潔しとせず、自ら沈んで命を絶ったのである。」(305頁)とする。
(注13)契沖・厚顔抄に、2種の弓のこととし、本居宣長・古事記伝に、アヅサユミはマユミを導く枕詞であり、「哥の意は、マユミ木なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/295)とする。
(注14)今日まで、「預」に付されたウサという訓は、ヲサやウモの誤りかと目されてきたが、ウサで正しいと考える。その前の文は、「孕(はら)める婦(をみな)の腹を刳(さ)きて、其の胎(このかたち)を観(みそなは)す。」(武烈紀二年九月)とある。そして、「預」という字は、預金というようにいざという時のために予め蓄えておく意味を表す。日々暮していく余裕もないのに預金する愚かさを考えられたい。
(注15)梓弓を扱う者として、口寄せと呼ばれる人がいる。小さな弓を弾いて霊の声を聞く。大きな弓は別にあって、それとセットであることを示唆している。あの世にいる人は大きな弓を使っていて、それと共鳴するように梓弓を弾いて鳴弦の音から何を言ってくれているか聞くとするのである。それが実際に行われていたことである。アヅサユミは梓製の弓かもしれないが、そこに何らかの意味を見出すことは、素朴実在論にさえ立たなければ特に問題ではないであろう。万葉集中では、他の弓ではなく梓弓においてのみ、音の響きと関連する歌が詠まれている。その点については月岡2016.参照。

 …… 玉梓(たまづさ)の 使の言へば 梓弓 声(おと)に聞きて〔一は云はく、音のみ聞きて〕  言はむ術 為むすべ知らに 声のみを 聞きてあり得ねば ……(万207)
 …… 梓弓 音聞く吾も おほに見し 事悔しきを ……(万217)
 梓弓 爪引く夜音(よと)の 遠音(とほと)にも 君が御幸を 聞かくし好しも(万531)
 …… 梓弓 爪引く夜音の 遠音にも 聞けば悲しみ ……(万4214)
梓弓を手にする口寄せ巫女(人倫訓蒙図彙・巻七、国文学研究資料館オープンデータ、http://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200016830/images/200016830_00159.jpgをトリミング)
(注16)河の両サイドを渡さないことと、弓弦を掛けないことが同等なのである。よって、「本方(本辺)」と「末方(末辺)」、「君」と「妹」、「そこ」と「ここ」といった対比が行われている。河の此岸と彼岸とは、本弭と末弭の謂いであり、「君」や「妹」が誰に当たるのかといった問いは、そもそもナンセンスであることがわかる。
(注17)山口2005.に、記51歌謡の「い伐らずそ来る」の「来る」について、アスペクトを考えると、「主体が移動の過程にあることを述べたものではなく、移動の結果、主体が現在或る地点(=訶和羅前の付近)にあって、その状態が継続中であることを述べたものと解され」(308頁)るとしている。伐らないで来ていて、そのうえ再び戻って伐ることもないということになる。伐ろうにも伐れないジレンマが端的に表現されている。
(注18)西宮1993.に、「日本のワニは、海神であり、鋭利なそれに当てるべき漢字がないので、意図的に仮名書きをし、日本書紀他は、本体は異なるけれども、「鰐」の漢字を当てることにしたのだといふやうに考へるのである。」(292頁)とある。比較神話学に、南方系統のワニ神話が伝わってきたとする説も唱えられているものの、逆になぜ「淤岐嶋」や「気多之前」といった場所に限られた話に定められているのか、生成論として説明されることはない。
(注19)拙稿「「稲羽の素菟」論」参照。
(注20)モース1988.に、「一人の男が棒の両端に大きなざるをぶらさげているのを見ることがある。一方の笊には大きな魚を、一方にはそれとバランスをとるために重い石を数個入れていたりする。これは精力の浪費だと思う人もいるだろう。」(194頁)とある。
(注21)崇神紀十年九月条に、武埴安彦(たけはにやすびこ)と彦国葺(ひこくにぶく)とが「各(おのおの)先に射ることを争ふ。」とあり、先に射た方が外し、後で射た方はあてている。
(注22)大山守命の歌に、朸を1人でかつぐのではなく、2人でモコ(畚)にかつごうという誘いは、片方の弦(蔓)が切れても、もうひとつは残っているから担えるという意味合いをも示している。
(注23)相撲の押し技に、はず押しと呼ばれるものがある。相手の脇の下に親指と人差し指の間を開いてあてがうので、大工仕事における渡りあごの仕口のようになって外れずに力がうまくかかることとなる。弓矢や天秤棒、撥ね釣瓶、踏み臼に、梃子の原理が働いて力が働くことに同じである。ウヂノワキなのであるから、両脇ともぴったりと嵌まって力が働いて押し出すことができる。しかし、片方だけで押すとかえって突き落とされる。
(注24)拙稿「記紀の諺「海人なれや、己が物から泣く」について」参照。

(引用・参考文献)
相磯1962. 相磯貞三『記紀歌謡全註釈』有精堂出版、昭和37年。
居駒2003. 居駒永幸『古代の歌と叙事文芸史』笠間書院、2003年。
石村1992. 石村真一「我が国の運搬方法の発展系譜(1)─朸(おうこ)を使用した運搬方法を通して─」日本生活文化史学会編『生活文化史』第21号、1992年3月、雄山閣出版。
石村2002. 石村真一「我が国の運搬方法の発展系譜(2)─朸(おうご)に直接荷物を固定する方法を通して─」日本生活文化史学会編『生活文化史』第41号、2002年3月、雄山閣出版。
西郷2006. 西郷信綱『古事記注釈 第六巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
佐佐木2010. 佐佐木隆『古事記歌謡簡注』おうふう、2010年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
白川1996. 白川静『字通』平凡社、1996年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
武田1956. 武田祐吉『記紀歌謡集全講』明治書院、1956年。
月岡2016. 月岡道晴「梓弓と真弓─久米禅師と石川郎女との問答歌─」『国語と国文学』第93巻第11号(通巻1116号)、平成28年11月。
土橋1976. 土橋寛『古代歌謡全注釈 日本書紀編』角川書店、昭和51年。
西田1989. 西田隆政「和歌解釈と語義展開─動詞「漏る」をめぐって─」『解釈』第35巻第8号(通号413号)、解釈学会、1989年8月。
西宮1993. 西宮一民『古事記の研究』おうふう、平成5年。
日葡辞書  土田忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年。
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馬場2008. 馬場小百合「『古事記』大山守命の反乱物語と宇遅能和紀郎子」東京大学国語国文学会編『国語と国文学』第85巻第10号(1019号)、平成20年10月。
松本2011. 松本弘毅「宇遅能和紀郎子の躊躇─大山守命反乱説話の歌二首─」東京大学国語国文学会編『国語と国文学』第88巻第10号(1055号)、平成23年10月。
モース1988. E・S・モース、小西四郎・田辺悟構成『モースの見た日本─モース・コレクション日本民具編─』小学館、1988年。
山口2005. 山口佳紀『古事記の表現と解釈』風間書房、2005年。
山路1973. 山路平四郎『記紀歌謡評釈』東京堂出版、昭和48年。

(English Summary)
About the rebellion story of Öföyamamorinomikötö in Kojiki.
In this article, I think about the song lyrics “moko”, “adusayumi” bow and “mayumi” bow in Kojiki and Nihonshoki. It has been generally thought that another song was inserted a story body. However, as known from Dr. Yamaguchi's paper 2005., understanding was inadequate. “Moko” has two meanings of a carrying net “畚” and one shouldering bearer of it. “Adusayumi” bow and “mayumi” bow are words related to the carrying stick “朸”. If we think including these conditions, we can understand that this story tells a logical dilemma of Udinöwakiiratuko.

※本稿は、2018年5月稿を2121年11月に改稿したものである。

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