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古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

十七条憲法の「和」の訓みについて(1/2)

2022年04月21日 | 古事記・日本書紀・万葉集


 聖徳太子の憲法十七条(注1)は、十七条の憲法とも呼ばれて人口に膾炙している。特にその第一条はよく知られ、多くの人にワヲモッテトウトシトス(以和為貴)などと諳んじられている。そこに出てくる「和」とは何かと聞かれれば、平和、和合、協和、柔和、温和、同和、和楽、講和、和解と、熟語をならべてそれなりの解釈が行われている。背景に儒教や仏教などの思想を概観したり、出典となっていると考えられる漢籍を探ったり、世界中の「憲法」的精神と比較することも行われている。そして今日の学界では、聖徳太子は後の時代にどのように受け止められたかという後史の方に関心が移っている。信仰の歴史に多大な影響を与えたからであるが、太子自身の思想については語り尽くされた感があるからでもある。
 しかるに、翻って考えたとき、「和」を何と読むのかという根本的な問題については突き詰められていない。「和」はワと読むものだと思われている(注2)。万葉仮名では呉音にしたがって「和」はワに当て、「をもって貴しとす」と慣用的に読んでいる。そして、推古紀十二年四月条の漢字の並びを読んでいって、聖徳太子の思想は考えるにこうであるという議論をし、我田引水的に「和」の概念を述べ立てている。
 飛鳥時代の推古十二年(604)に、役所の人間を相手にして“訓示”したものが憲法十七条である(注3)。そのとき、「和」をワと読んだとは考えにくい。飛鳥時代に音読みをして役人に通じたとは思われないのである。飛鳥時代前期やそれ以前の文字資料としては、稲荷山古墳出土鉄剣銘や江田船山古墳出土鉄剣銘、天寿国繍帳銘、法隆寺に伝わった金銅仏の像造銘ぐらいしか見つかっていない。役人の間で文字が理解され普及していたなら木簡が出土してよいのだが、飛鳥京跡や山田寺址、難波宮跡から出土するだけで珍しがられている。憲法十七条はその半世紀も前のことである(注4)。おそらく、ほとんどの人は文字の読み書きをしなかったであろう。必要のないことはしないものである。
 「和」をワと音読みし、日本語の文として抽象的な概念を表した記録は、はやくて14世紀後半のものである。「……と和を請給ふに、項王悦て其約を堅し給ふ。」(太平記・巻第二十八)とある。和親の意味である。憲法十七条を下ること700年以上後のことである。経典に「和」はあるから、思想上既存で上代前期からワと言われていた可能性もなくはない。しかし、お経のなかの文言が寺院以外に広まっていたとして、他にどのような語があったのだろうか。仏(佛)はブツとは言わずにホトケというヤマトコトバを作り、用いている。
 一般に、抽象的な概念操作ができるためには、文字文化に浸からなければならない。文字という記号をあやつることができてはじめてワ(和)なる概念を“言葉”で表すことができる。無文字時代にヤマトコトバを使う人には、ワと言えば輪のことである。三輪山伝説では、「三勾みわ」(three-ring)残ったからミワという地名であると示されている。言葉づかいがきわめて具体的である。抽象的な概念の入り込む余地はない(注5)
 憲法十七条の第一条、「以和為貴無忤為宗」は、日本書紀の写本に残された古い訓点によって訓読も行われている。「やはらぐを以てたふとしとし、さかふることきをむねとせよ。」(大系本日本書紀96頁)などと訓まれている(注6)。日本書紀の憲法十七条記事は、次の文から始まる。

 夏四月の丙寅の朔の戊辰に、皇太子ひつぎのみこみづかはじめて憲法十七条いつくしきのりとをあまりななをち作りたまふ。ひとつに曰く、……(夏四月丙寅朔戊辰皇太子親肇作憲法十七条一曰……)

 皇太子である聖徳太子(廐戸皇子)が、ご自身ではじめて憲法十七条をお作りになられた。第一にうところでは、……、という流れである。「一曰」とある。「曰」とあるから声に出して喋ったものである。「作」字についても書いたことではない可能性さえあるものの、推古紀の前後の文章となじまない文字づかいのため、やはり書かれてあったとするのが穏当であろう。下書きに書いたものを読みあげて「曰」ったものと考えられる(注7)。口に出して言っているから「曰」なのである。そうなると、「和」を音読みした蓋然性はますます低くなる。「和」をワと聞いた人は、輪のことを思い浮かべて何を言っているのか理解できない。話された事柄が聞いた人にわかりづらければ説明なり言い訳なりをするはずだが、紀にそのような記述はない。ぶっきらぼうである。



 推古朝の飛鳥時代に「皇太子」は何と「曰」っていたか。その代表が、「和」を何と訓めばよいかという問いである。これは、いわゆる訓読の問題ではない。事柄を“日本語”で考えている。日本書紀、ないし、その前身の国記は、話されている言葉を書きとめたものである。書記するにあたって、漢籍として伝えられた漢文を例文のアンチョコとして利用した。基本的に無文字文化下にあった。話し言葉としてヤマトコトバがあって、充実、充足していた。対して書き言葉は持たなかったから、倭習とも呼ばれる和風漢文で書いている。表記法として新たに試みられたのである。別の試みに万葉集のような書き表し方もあった。仮に助字や否定詞の使い方が、中国語の正格な漢文からすれば間違っているように見えても、中国語を書いているわけではない。漢字ばかりであり、四六駢儷体の流麗な文字面をしているが、すべて“日本語”が書いてある。今日の人が日本語を母語とし、あとから英語を学んで英作文をする際、日本語で文章を考えてからそれを訳して英語で表記する。たまたま漢字が表意文字だったため、訓読の習慣を経た我々にとって、当時の日本語書きが中国語に映るのである。日本語のローマ字書きが英語調にならないのとは異なるわけである。「以和為貴……」なる字面はその成果である。
 「以和為貴」の、「以○為△」という漢文的表記は、なかなかに厄介である。漢文訓読にいたずらに国語が混ぜっ返されている。山田1935.に次のようにある。

 抑も「もつて」といふ語は「もつ」といふ動詞が複語尾「て」につづけるものにして、国語本来の用法よりいへば、それを「用ゐて云々す」といふより他に意義あるべからざるなり。然るに、現代の普通文に用ゐらるる「以て」といふ語の状態を見るに、「用ゐて」の義なるもの、もとより多少存すといへども、……他の大部分は「以てす」「以てなり」といふ如くに用言的に用ゐらるるものあり、単に「て」といひてよしと思はるる所に「以て」を加ふるあり、単に「を」といひてよき所に「を以て」といふあり、「によりて」といふ如き場合に「を以て」といふあり、材料方便等をあらはすに「を以て」といふあり、或は又「以て見るべし」とか「亦以て」とかいふ如き国語としては何種の語類とすべきか、当惑するが如きもあり。而して、これらは古来純粋なる国文と認めらるるもののうちにはかつて見ざる所なり。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1173586/143、漢字の旧字体は改めた。)

 ○をモッテ△とす、なる言い方は、飛鳥時代当時、真新しいものであったろう。○は△である、とほとんど同じ意味である。少し違うとすれば、今から○を△としよう、といった意志や、○をとりあげたら△である、といった確定の表明が垣間見られる点である。提題と評価をともに行うための構文である。ふだんは特段気にかけていないことであるが、「和」ということは「貴」であると認めようではないか、という講評が行われている。「貴」いんだよ、「和」っていうのは、わかるかね! という強調を、「以」字によって倒置せずに表している。文法用語では、「以」は処置文をつくり、「為」は意動用法を示しているという(注8)
 大系本日本書紀に、「憲法十七条を通覧すると、各条は必ず命令の意を含み、…セヨ、…スベシのような命令形を持つ。……意味は、「…を貴しとせよ。……」の意である。」(97頁)とある。この意味を理解するのは存外にむずかしい。例えば、第六条には、「あしきことこらほまれを勧むるは、いにしへの良きのりなり。(懲悪勧善古之良典)」とある。「懲悪勧善」をそのまま言うのではなく、それは「古之良典」であると述べている。とうが立ってしまった大の大人に、「勧善懲悪」とそのまま説いても心に響かない。聞き飽きている。そういう大人たちに向かって、「親肇作憲法十七条」に至っている。大人を相手に説教することは、される方も嫌ならする方も嫌である(注9)。どうしても持って回った言い方になる。憲法の第一条も同様である。
 梅原1989.に、次のようにある。

 [第一条から第三条まで]の三条は、いずれも最初にひとつの命法をだしている。そしてその次には、命法の説明の文章がある。第一条の命法の部分は「和をもって貴しとし、さからうことなきをむねとせよ」という部分であり、第二条では「あつく三宝を敬え」という部分であり、第三条では「みことのりを承りては必ずつつしめ」という部分であり、各条の以下の文章はその命法の説明であると考えられる。(652頁)

 ここで、梅原氏の訓みを問題にしない。文章構成が、命法とその説明であるという捉え方は正しいと考える(注10)



 では、第一条の命法部分、「以和為貴無忤為宗」をどう訓んだら正しいのだろうか。
 「以和為貴」の出典として、礼記・儒行の「礼之以和為貴」、論語・学而の「礼之用和為貴」が取り沙汰されている。「れいもったっとしとす」である。しかし、第一条は、儒教にいう儀式の「礼」の話ではないとされている。中村1998.は、「『論語』のその箇所では、主題が礼であり、和ではない。ところが聖徳太子の場合には、人間の行動の原理としての和を唱えている。つまり太子が、礼とは無関係に、真っ先に和を原理として掲げている。これは実は、仏教の慈悲の立場の実践的展開を表しているものだといえる。」(91頁)とする。「礼」の話でないことは同意できるが、だからといって仏教の話かどうかはわからない。ここでは思想的背景については等閑視し、「和」と書いてあって何と訓むのか、すなわち、文の意味を究める一点に関心を寄せる。中村1998.の訳では、「おたがいの心が和らいで協力することが貴いのであって、むやみに反抗することのないようにせよ。それが根本的態度でなければならない。」(183頁)となっている。いつもニコニコして人に逆らわないでいるようにすれば世の中やっていけるという処世術の話ではないであろう。
 聖徳太子はイツクシキノリ(「憲法」)の話をしている。端的に言えば、官吏の、ふだんからの心構えについて語っている。いきなり人民に対する対処法なのである。面喰うが、そう考えるとわかることがある。ヤハラギを以て……、アマナヒを以て……、という言い方は、飛鳥時代にはしなかったであろうということである。「以」字は多く名詞(体言)を承ける。しかし、動詞の連用形、ヤハラギやアマナヒという名詞形は上代に用例が乏しい。ふだん聞き慣れない言葉を冒頭から登場させられては、聞いている人は頭に入って来ない。ただでさえ、○を以て△とよ、などと漢文訓読調でかしこまっている。そこへ知らない言葉をぶちこまれたら訳がわからなくなる。「以」字(あるいは助詞のヲ)は、活用語の連体形を承けることもあるから、ヤハラグを以て……、アマナフを以て……、という訓み方のほうがましである。そして、ヤハラグという語は、状態語のヤハラ(柔)=ヤハ(擬態語)+ラ(接尾語)によって構成された語を動詞化したものである。岩崎本の古訓の合わせ技、「ヤハラカナル」という形容動詞への捏ねくり回しは、当初の訓、太子の発語としてありそうにない。
 「和」字の古訓としては、アフ、コタフ、ナゴヤカ、ニコシなども散見される(注11)。憲法第一条で意味が合いそうなのは、付されたことのあるヤハラグ、アマナフの2例のほか、ニキブが考えられる。「親肇作憲法十七条」は、作った太子が話した(「曰」)らしいが、日本書紀のもととなった国記に書いたのは誰かほかの人である。筆者の推測に過ぎないが、太子自身が草案する際に書き留めておいたものを、皆の前でのプレゼンに使い、それをそのまま書記官に渡して国記のようなフミに写され、さらに日本書紀へと引き継がれたのではないか。すなわち、原本は太子の個人的な“祝詞”であった。新しく作ったもので長くて暗記できないから、メモしておいて発表している。役所での訓示において大切なのは、書き方ではなく話しっぷりである。棒読みしたのではなく、いろいろ逸話を加えて膨らませ、聞く人を引きつけたに違いない。速記ではなく、後で渡されたレジュメであったと考えられる。
 原案の姿が残っているということになる。書き付けを手控えにして講演するなら、言葉(音)で間違える可能性は少なくなるように記す傾向があるだろう。憲法十七条の字面には、多くの漢籍が出典として存在していることが研究からわかっている。礼記、論語、周礼、孝経、尚書、管子、易経、春秋左氏伝、漢書、千字文などたくさんある。漢籍は“拡散”していくもので、似た文言がいろいろなところに出てくる。憲法十七条の字面と似ているというだけで引用の“出典”として採りあげるのは的を射たことにならない。第一条も、「礼」の話ではなく字面を借用しただけである。結果、何の話をしているか曖昧になっている。この文章が一般論を物語るもの、官吏に対する訓戒であることの証左となっている。十七条もあるが、一言でいえば、官吏たちよ、つつしみはげめ、である。
 漢籍の字面を借りている。むろん、経典の意味するところは理解した上でのことである。一つの字に対してそれぞれの文脈ごとにいろいろな読み方をすることは、ないとはいえないが、全体として逓減させる傾向にあったと考えられる。カンペとしての機能に堪えなくなる。逆に、同じ言葉(音)でも重みが違うという意味合いを思い出すために違う字で表すことはあったかもしれない。第十五条の「恨」と「憾」はともにウラムと訓んでよいのであろう。



 憲法十七条に用いられている「和」字4字について、文意に応じて読み分けることをしたのか検討する。例えば、「與」という字も4字用いられている。「與公」(第十二条)、「與衆」(第十七条)とある個所は助詞でト、「與聞」(第十三条)は動詞でアヅカリと訓んでいる。同じ字でも前後を見渡して読み分けられている。だから、同じ「和」とあっても、違うヤマトコトバで訓んでかまわないことではある。4字のそれぞれの箇所を岩崎本日本書紀巻二十二(推古紀)からあげて古訓を示す。

 以和為貴(第一条①、104行目)
 上和下睦(第一条②、106行目)
 然得知之日和如曽識(第十三条、143行目)
 故初章云上下和諧其亦是情歟(第十五条、151行目)
岩崎本日本書紀写
 いちばん古いとされるのは平安中期の朱書である。第一条①の右側にヤハラク、第十三条にアマナフ、第十五条にアマナヒとある。墨書で院政期11世紀のものとして、第一条①に(ヤハラ)カナル、第十三条にアマナフコト、第十五条にアマナヒとある。室町時代の一条兼良点に至って、第一条①にアマナヒ、第一条②にヤ(ハラキ)とある(注12)。なお、他の伝本の書陵部本でも、第一条の「和」はともにヤハラキ、第十三・十五条はアマナフ・アマナヒとある。
 ここで手がかりとなるのは第十五条の文章である。

 かれ、初めのくだりに云へらく、「上下和諧」、其れ亦、是のこころ(注13)。(故初章云上下和諧其亦是情歟)

 第一条②の、「上和下睦」を思い出して、ああ、まったくその通りのことをここでまた言っているのだろうよ、と言っている。助詞カは、一般に疑問、詠嘆の意を表す。ただ、それは、「表現者自身の内心の疑問を自分自身に投げかける意が原義と思われる。」(岩波古語辞典1459頁)と注されるものである(注14)。初章の第一条で言っていた「上下和諧」ということは、第十五条で言っていることの謂わんとしていることであろうか、と自問しているのである。
 太子自身が作った憲法なのに、それを太子が話しているのに、文意が同じであると推論したことを披歴している。自分で言ったことを振り返ってみている。なぜかそんなことが記されている。これは「憲法」ではなかったのか。憲法のなかに、前の条文を思い出し、それと同じ趣旨であると言って自分で納得している文章が紛れ込んでいる。
 「憲法」草案のような箇条書き形式の文章で、同じことをくり返すケースは稀である。それ以外の場合ではそれほど不思議なことではない。小説なら、心象風景を綴るためによく見られる。難解な論文でも、「先に述べたとおり」などとあるのは、だいぶ前に論述された事柄を振り返るときに示される。とはいえ、先述したことについて趣旨は同じであると言うことはあっても、趣旨は同じことなのであろうかなあと、発表しながら感慨にふけることはあまりない。そのため、第十五条の表現は珍しいと思われている(注15)。そうなった理由は、第一条の「上和下睦」という文言が千字文の一句からとられていることによる。
 千字文は、文字の練習用に利用された4字ずつの句のつながりである(注16)。とりとめがない千字文が全体にどのような構想から成ったものか不明であるが、句として見て、何となく意味が通じている(注17)。字の練習用として手習いに使われた。太子は、官吏のなかに見て知っている人がいるだろうと想定しているのであろう。その千字文の一句の意味合いが、今まさによくわかると慨嘆しているのである。
 第一条②の「上和下睦」と第十五条の「上下和諧」は、字に転倒や異同があるとはいえ、口頭で伝える場合には句ごとに、また、指し示しながらであれば字ごとに、同じように読まないと相手に意味が通じない。ここにこうあるのは、初めの章にあのようにあったのと同じことではないか、と黒板に書いてある字を指し棒で示して言っているとするなら、異なる訓み方をしていてはわかってはもらえないだろう。講演者と受講者がともにわかることが、第十五条の最後に記される「歟」字にあらわれている。「初章」の千字文の文句を振り返って、さあ、皆さん、思い出してください、ほらこの個所、皆さんもご存知の千字文の「上和下睦」という言葉は、こういう意味だったのではないですか、と太子は語りかけている(注18)。聞いている役人たちの気を引くために、こういう句を差しはさんでいる。そして、自らまで納得するかのように振る舞っている。それが「歟」という言い回しに現れている(注19)



 従来の訓み方は次のようなものであった。

 第一条:「上和下睦」……かみやはらぎてしもむつぶ。
 第十五条:「上下和諧」……かみしもあまなととのほる。

 上に立つ者がやわらかい態度で接すれば下の者は親しみをおぼえて仲良しになれるということと、上の者と下の者が和合していて万事整うということとは意味が少し違う。第一条の文の前半を条件節にとることになり、第十五条と文意が異なっている。言葉(音)としても合わず、「初章」への振り返りにも適合せず、「初章云……歟」で自問的陶酔を表明するに至らないであろう。
 岩崎本には、第一条②の個所には一条兼良による加点で「ヤ」とあるばかりである。「以和為貴」(第一条①)の朱書のヤハラクを踏襲してヤと付されている。この「上和下睦」部分の「和」はヤハラギとしか訓まれて来ていないわけだが、第十五条の付言、付帯事項がこの個所を指すとするならヤハラギと訓むことはできない。「諧」字への連なりについて検討が必要である。

 第一条:然上和下睦諧於論事則事理自通何事不成
 第十五条:故初章云上下和諧其亦是情歟

 従来、「諧」字は、第一条でカナフ、第十五条でトトノホルと訓まれている。これほどまで似ている句に、同じ字の訓みを違え、口上して説明するのに理解されにくくするとは思われない。
 第一条では、「事」という字が3字登場している。「論事」は問題事の意である。「事理」は「事理ことわり灼然いやちこなり」(允恭紀元年十二月)、「言理ことわり灼然いやちこなり」(崇神紀十年九月)とあるように常套句であった。物事の理由の意で、事を割るが原義である。岩や木を割りたい時、決まった筋目(木目)にあらかじめくさびを打ち込んでおいて割る。別の方向へは割れずに必ず筋目に沿って割れる。イヤチコなるところで割れる。物事の道理はそれと同じであると考えられている。道理を枉げることはできないし、硬いものでも筋目があるところに楔を入れて補助すれば容易に割れる。それを「事理」と言っている。「何事」はどんな事でもの意である。
 通訓の「事をあげつらふにかなふときは、事理ことおのづからかよふ。何事か成らざらむ。」という訓み方は、少しまどろっこしく感じられる。「上和下睦」の場合、必ず「諧於論事」になり、かなわないことなどあり得ない。「憲法」の命法の講釈だから理屈っぽく書いてある。人はみな党派に偏り道理を弁えた者は少なく、父に順わないで近隣紛争ばかりしている。「然れども」とつづくのが「上和下睦……」の文章である。第一条で「憲法」として掲げたい主眼は、「以和為貴無忤為宗」という命法である。「以和為貴無忤為宗」は良いことだよ、という趣旨が「然」以下に説明されている。



 通説では、「則」の字について、その時には、の意の接続詞に解されている。「則」には、ほかに副詞として、とりもなおさず、つまり、もうそれだけですなわち、の意もある(注20)

 弟子入則孝、出則弟、……弟子ていし入りては則ちかう、出でては則ちてい、(論語・学而)
 父母之年、不知也。一則以喜、一以則懼。……父母の年は、知らざる可からざるなり。一は則ち以て喜び、一は則ち以て懼る。(論語・里仁)
 由是観之、則君子之所養可知己矣。……是に由りて之を観れば、則ち君子の養ふ所知るべきのみ。(孟子・滕文公)
 旱既太甚、則不推。……旱既に太甚はなはだし、則ちしりぞくるべからず。(詩経・大雅・蕩之什・雲漢)
 乱之所生也、則言語以為階。……乱の生ずる所には、則ち言語もってきざはしを為す。(易経・繫辞上)
 其長兵則弓矢、短兵則刀鋋。……長兵は則ち弓矢、短兵は則ち刀鋋(たうせん)なり。(史記・匈奴伝)
 吾則是国王也。……吾は是の国のきみなり。(垂仁紀二年是歳)
 君則天之、臣則地之。……君をばあめとし、やつこらまをばつちとす。(推古紀十二年四月、第三条)
 是以貧民、則不所由。……是を以て貧しきおほみたからは、所由せむすべを知らず。(同、第五条)
 
 諸橋漢和大辞典の説明では、「「は」の意。対待の関係を表はす。」(267頁、漢字の旧字体は改めた)、学研漢和大字典の説明では、「A(主語)=B(述語)という説明を強調することば。」(148頁)とある。上の例では、命題A=命題Bということに当たる。条件節ではない。太子は今、「憲法いつくしきのり」の話をし始めたところである。ノリの話においてノリトル(則)なのだから、これすなわち、の意である。語っている言葉を枠組として外側から規定してかかる同語反復的な言い回しである。自己言及的な言い方こそ、上代の無文字文化下での言葉づかいに適合している。相手にわからないと言われたとき、言葉自身がそう語っているじゃないかと説明することができる。言葉が言葉を自ら説明できるように予めこしらえておき、誤謬をなくす仕掛けになっている。したがって、「諧於論事」=「事理自通」→「何事不成」の構成と考えられる。
 したがって、ここの「則」字は、スナハチ、または、…ハ、…テ、と訓めば良いのであろう。試訓すれば、「事をあげつらふにととのほりて、事理ことわりおのづからにかよふ。何事か成らざらむ。」となる。「諧」字はカナヒと訓んでも悪くはないが、「以和為貴無忤為宗」という大命題を果たせば適わないときはないから、トトノホリと訓んだほうがより適切である。トトノホリは、他動詞トトノフ(斉・調・整)の自動詞形で、すっかり備わる、整ってしまう、という意味である。「整頓ととのほり」(神代紀第十段本文)とある。トトノホリと訓めば、第一条を承けている第十五条の「諧」字の訓と同じになる。言葉が整ってくる。



 第一条の「上和下睦」も、第十五条にある訓法を採用するのがふさわしい。「かみあまなしもむつぶ。」である。それは、社会の上位層が勝手に「和」の精神を発揮するのではなく、「下」との間で「和」の関係になるようにすることである。かつまた、社会の下位層が勝手に「睦」まじい状態になるのではなくて、「上」との間で「睦」の関係になるようにするということである。「上」と「下」とが単独に「和」や「睦」という行いをするのではなく、互いの関係性のなかでの行為を示すと捉えれば、「上和下睦」と「上下和諧」とが同じ意味となり、第十五条に「故初章云上下和諧其亦是情」と記す意味が納得される。
 ムツブ(睦)という語は、形容詞化してムツマシとなる。古典基礎語辞典に、「ムツブは、血縁者や親族として、また、そうした関係にあると同じように、身近で親しくする意。ムツマシは、血縁や夫婦の関係にある者どうしのうちとけた親密な気持ちを表す。また、身内同然ととらえられる主従のあいだで使われることも多い。」(1179頁、この項、依田瑞穂)とある。「上和下睦」とあるのは、下位層どうしでむつみあうことではない。後につづく「人皆有党、亦少達者」は、世の中がうまくいかない条件とされている。つまり、下位者は上位者と「睦」であることを勧めている。日頃から挨拶を交わす間柄になっておくことと考えればよいであろう。そのためにも、上位者は偉ぶったり威張ったり怒っていては駄目である。上位者が下位者と「和」することが必要とされている。その「和」とは何か。物腰やわらかく接するということや、無礼講で何でも話してかまわないということであろうか。和辻2011.に、次のようにある。

 君臣上下の和、民衆の和、相互関係における和などは、さまざまの異なった形でくり返して説かれている。が、特にここに注意すべきことは、ここに説かれているのが「和」であって、単なる従順ではないということである。事を論ぜずにただついて来いというのではなく、事を論じて事理を通ぜしめるためには、議論そのものが諧和の気分のなかで行なわれなくてはならない、というのである。従って盛んに事を論じて事理を通ぜしめることこそ、最も望ましいことなのである。(172頁)

 この考え方は、本末の転倒した、誤った読み方である。憲法の“条項”は、命法とその説明の形で示されている。いわば、法華経とその義疏の関係である。義疏から法華経を作り物にしてはならない。盛んに事を論じること、議論のための議論を促しても仕方がない。“憲法”の主張は、「上和下睦」にするとどういうことになるかというと、「諧於論事」状態になり、それは「事理自通」と同じことであり、「何事不成」こととなるというものである。前から順に読んでゆく。訓示で「曰」われた言葉は空中を飛び交っている。無文字時代の言語活動は、それ自体の要件として、プレイバックせずに理解が浸透するものであった。
 「和」をヤハラグと仮定すると、上位者と下位者の関係性のすべて、「上」→「上」、「上」→「下」、「下」→「上」、「下」→「下」に通用されてしまう誤謬が生じる。上下には別があるから上下と断っている。上代の言霊信仰のもとにある人は言葉をとても大切にし、適語を選んで使っているように思われる。



 「和」の訓の他の候補、アマナフ、ニキブを考えてみる。
 ニキブという訓は、岩崎本にあるわけではない。欽明紀の古訓、万葉集に次のようにある。

 昔我が先祖とほつおや速古王・貴首王と、もとの旱岐等と、始めて和親にきびむつぶることむすびて、このかみおととる。是に、我は汝を以て子ともいろどともし、汝は我を以てかぞともいろねともす。(欽明紀二年七月)
 天皇おほきみの 御命みことかしこみ にきびにし 家をおき ……(万79)
 …… 白妙の 手本たもとを別れ 柔びにし 家ゆも出でて ……(万481)
 …… らくの 奥処おくかも知らず にきびにし わが家すらを ……(万3272)

 ニキブはニキ(柔)の動詞化したもので、馴れ親しむ、うちとける、の意である。対義語はアラブ(荒)である。欽明紀では、安羅・加羅・卓淳の旱岐等が子弟、百済の速古王・貴首王が父兄に当たる間柄である。「和親にきびむつぶる」間柄は対等の関係ではないから、不平等条約ともなり得る要素を有している。万葉集では「家(いへ)」という語と一緒に用いられている。緊張から解放されたアットホームな感じを表している。他に、和稲にきしね和魂にきたま和幣にきて柔膚にきはだ和海藻にきめなどとある。アラ(荒・粗)の対としてニキ(柔・和)がある。上下の関係においていう言葉ではないようである(注21)
 他方、アマナフという語は「甘」字でも記される。仲良くすることであるが、甘受するの義を含んでいる。その「甘」字は、カフ(飼・養)という個所にも用いられる。記紀に、「鷹甘」、「鳥甘」、「馬甘」、「牛甘」、「猪甘」などとある(注22)。つまり、アマナフことはカフことの本質を表している。野生動物は本来、自分の力で食べ物を見つけて獲得しなければならない。それを甘やかして餌を与え、なつかせて馴れさせる。そのうえで人のいうことをきかせて、鷹狩や乗馬や耕牛などに利用する。使役しているのであるが、その代わり食べ物には不自由させず、健康面でも気をつかって厩舎や鳥小屋を建てて大切にする。彼らが働くとき、人間が行う以上のことをしてくれるからである。鷹狩用に調教された鷹は、万能の網や弓矢に当たる。鵜飼用の鵜は、釣針やうけ何個に相当するのであろうか。時期と場所を問わないやなのようでもある。馬の牽引する力、馬力は、4人力に相当するほど強力である。牛は泥田へ入り、代掻きという嫌な仕事をしてくれる。皆すごくて有り難い存在である。そこで、互いに甘い関係になろうとした。人が家畜をアマナフことをした。
 第一条に「上和下睦」とあるのは、上位者が下位者をアマナフことである。下位者である百姓に対して、それぞれの持ち分で農耕やその他の生業、職能を生かすように励んでもらうように手なずけている。税を搾り取るばかりにしてはならない。置かれた身分においてハッピーに暮らしていけるようにし、仕事から逃げずにやり続けてもらうよう仕向けるのである。人民を国家の家畜として大切に扱うようにと諭している。「百姓おほみたから」と呼んだ理由は明らかである。資本主義の今日に置き換えてみれば、ブルジョアはプロレタリアートをアマナフことに巧みである。すなわち、「上和下睦」という千字文の句は、「上和下」+「下睦上」を圧縮した言い方であるとわかる。だから、第十五条に「上下和諧」という形へと言い換えても、まったく同じことを言っていると理解されるのである。聞いていてよくわかることを話している。



 冒頭の「和」には、岩崎本の一条兼良の傍訓にアマナヒとあった。犬を飼うとき、“待て”、“お座り”など、飼い主の命令を忠実に聞くことができたら、よしよしと撫でてあげてご褒美の食餌を与える。それをくり返すと犬はなついて忠犬となる。古代の場合は主に猟犬として育成されたであろう。この飼う間柄に聖徳太子は何かを見ていたのではないか。「あまなふを以て貴しとよ」、よしよしとする甘えの関係ができていれば、人々の間もうまくいく(注23)。「上あまなひて下睦べば、事をあげつらふにととのほりて、事理ことわり自づからにかよふ。何事か成らざらむ」。上の者がきちんと世話をするようにし、下の者は親しみをもって振る舞えば、問題が生じて論ずる際にも、すでに心が同じ方向を向いているから、事理が自然と通ずるものである、もはや不可能ということはない。

 一に曰く、あまなふことを以てたふとしとさかふることきをむねよ。人皆たむろ有り。またさとひとすくなし。是を以て、或いはきみかぞしたがはず。また隣里さととなりたがふ。しかれどもかみあまなしもむつべば、事をあげつらふにととのほりて、事理ことわりおのづからにかよふ。何事なにごとらざらむ。
(訳)安定して飼い飼われる関係になるのは互いにとって貴重なことで、飼い犬が手を噛もうなどという気を起させないようにするのがなによりである。人は群れを作って生きる動物だけれど、そのことを冷静に俯瞰してみて翻弄されないようにできる人は少ない。だから、主君や父親に従わなかったり、近隣どうしでいがみあったりする。でも、上に立つ者が上手に飼って下々の者が安心して仲良くできるようになれば、何か事を議論するにしても認識にずれはなく、道理は自然と通ずるものであり、成し遂げられないことなどなくなるだろう。
 十三に曰く、もろもろつかささす者、同じく職掌つかさことを知れ。或いはやまひし或いは使つかひとして、事をおこたること有り。然れども知ること得る日には、あまなふこといむかしよりれる如くにせよ。其れあづかり聞かずといふを以て、おほやけまつりごとをなさまたげそ。
(訳)官吏にはいろいろな仕事柄があるが、みな互いの仕事内容を知っておきなさい。病欠したり、出張したりしてすると、その部署の仕事に遅延が生じる。でも、みなが互いにそれぞれの仕事を心得ておき、代わりになって人民との間でうまくいっている飼い飼われる関係を従来通りに行いなさい。自分とは関係ないと言って組織全体の仕事の遂行を滞らせることなどないように。
 十五に曰く、わたくしを背きておほやけくは、これやつこらまが道なり。すべて人に私有るときは、必ずうらみ有り。うらみ有りて、必ずととのほらず。同らざりて、私を以て公をさまたぐ。憾起りてことわりたがのりやぶる。かれはじめくだりに云へらく、かみしもあまなととのほれ、といへるは、其れ亦是のこころなる
(訳)自分のことはひとまず置いておいて公のことを志向するのが、臣下たる者のあるべき姿だ。誰だって私の心がまされば必ず他人に対して怨恨の感情が起こる。すると必ずひねくれる。結果、一人がために全体がうまく回らなくなる。恨みつらみが根にあると、制度に違反して法律さえ枉げてしまうことになる。だから最初の章、第一条でも言っていた、上に立つ者は下の者をうまく飼って協調できる関係になれと。それはまた、本条の趣旨を述べたものなのだなあ。

 以上の考察により、聖徳太子の憲法十七条の「和」はすべてアマナフと訓むことが正しいと理解された。憲法は、官吏の心構えを説いた訓示である。訓示の道徳性は、官吏の立場にある人においてのみ適用される。今日、役人のことを今でもオカミ(「上」)と言い、自分たち庶民のことをシモジモ(「下」)の者と卑称するほどに根づいている。オカミたる役人の、シモジモの者との間の関係構築において、「あまなふ」のがもっとも良い方策であると太子は述べている。この「あまなふ」の精神をもって進めてゆけば、多くの事柄はすでに解決しているも同然である、と言っている。シモジモの者は、「あまな」われてこそ世の中で実力を発揮することができ、充実した人生を送ることができる(注24)。太子は、役人に、人民を上手に飼えよ、と訓戒していたのであった。
(つづく)

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