古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

垂仁記の諺「地(ところ)得ぬ玉作(たまつくり)」について

2023年04月15日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 垂仁記に、皇后の兄、沙本毘古王さほびこのみこの反乱譚が載る。皇后を拉致して天皇に反旗を翻した。天皇方は皇后の沙本毘売命さほびめのみことを奪取しようと力士ちからびとを使ったが、髪の毛や衣服、たまきがみなすべり抜けてしまい失敗に終わった。それで天皇は地団駄を踏み、やり場のない怒りを玉作りに向け、玉作りの「ところ」をすべて奪ったという。だから、諺に、「ところ得ぬ玉作たまつくり」というのであると話が締めくくられている。話(咄・噺・譚)のオチになっていると考えられる。稲城のなかの皇后を奪おうとしたが奪えなかったから、玉作の「ところ」を奪ったと言っている。なぜ、皇后を奪えなかったか。表面がぬるぬるしていたからだと軍士は報告している。それを受けてすべてを玉作りひとりのせいにしている。不思議なことである。

 是を以て、軍士いくさの中に力士ちからびと軽捷はやきを選り聚めてらく、「其の御子を取らむ時に、乃ち其の母王ははみこをもかそひ取れ。しは髪にもあれ或しは手にもあれ、取り獲むまにまに掬みて控き出すべし」とのる。爾に、其の后、予め其のこころを知りて、ことごとくに其の髪を剃り、髪を以て其のかしらを覆ひ、亦、玉の緒をくたして、三重みへに手に纏き、また、酒を以て御衣みけしを腐し、全ききぬの如くせり。如此かく設け備へて、其の御子をむだきて、に刺し出しき。爾に、其の力士ども、其の御子を取りて、即ち其の御祖みおやを握る。爾に、其の御髪みかみを握れば、御髪、おのづから落ち、其の御手みてを握れば、玉の緒、且絶え、其の御衣を握れば、御衣、便ち破れぬ。是を以て、其の御子をば取り獲て、其の御祖を得ず。故、其の軍士いくさびとども、還り来て奏言まをししく、「御髪、自から落ち、御衣やすく破れ、亦、御手にける玉の緖、便ち絶えぬ。故、御祖を獲らずて、御子を取り得たり」とまをしき。爾に天皇、悔ひ恨みて、玉を作りし人等ひとどもにくみて、其のところを皆うばひ取りき。故、諺に曰く、「ところ得ぬ玉作たまつくり」といふ。(垂仁記)

 玉作を磔・獄門にしたとか、島流しにしたとかといったことではなく、「ところ」を取り上げたと言っている。だから、諺では「不地玉作也。」ということになっていると言っている。玉作部が土地所有を禁止されていたのか、玉作部が漂泊の民であったのか不明である。仮に土地を没収されたとして、それがなにゆえ諺になるのか。すなわち、上代の人たちに、コト(言・事)+ワザ(技・業)に当たっていると面白がることができているのか、検討が必要である。
 「ところ(ト・コ・ロはみな乙類)」には同音に、ヤマノイモのことをいう「ところ(ト・コ・ロはみな乙類)」がある。蔓性植物で、トコロヅラとも呼ばれる。

 薢 崔禹食経に云はく、薢〈音は解、度古侶ところ、俗に〓〔艹冠に宅〕の字を用ゐる。漢語抄に野老の二字を用ゐる。今案ふるに並びに未だ詳かならず〉、味は苦、少甘、毒無し、焼き蒸し粮に充つといふ。兼名苑注に云はく、黄薢は其の根、黄白くして味は苦き者なりといふ。(和名抄)
 なづき田の 稲幹いながらに 稲幹に 這ひもとほろふ 冬薯蕷葛ところづら〔登許呂豆良〕(記34)
 皇祖神すめろきの 神の宮人 冬薯蕷葛ところづら〔冬薯䕘葛〕 さねかつら いやとこしくに 吾返り見む(万1133)
 …… 懸け佩きの 小太刀取り佩き 冬薯蕷葛ところづら〔冬▲(蔚の寸の代わりに刄)蕷都良〕 め行きければ 親族うがらどち ……(万1809)

 和名抄にはまた、「薯蕷 本草に云はく、薯蕷は一名に山芋といふ〈夜万乃伊毛やまのいも〉。兼名苑に藷藇〈音は暑預と同じなり〉と云ふ。」とあって、「芋(いへのいも)」=サトイモと類別されている。出雲風土記・飯石郡条に、「萆薢・……・薯蕷・……」とあって、前者を「ところ」、後者を「やまついも」と訓まれている。異種であると考えられるが、同じくヤマノイモ科の植物でよく似ている。現在、トコロと呼ばれる植物は、オニドコロ、ヒメドコロ、タチドコロがあり、ヤマノイモ同様根の肥ったところを食べ注1。和名抄にあるとおり、オニドコロやタチドコロは苦みがあるが、あく抜きして食べたり、薬用にしたこともあった。似ているから混用されることもあったろう。
 なぜ、ヤマノイモ類をトコロというかと言えば、ヤマノイモは山の芋で、基本的に採集作物である。夏場は蔓が伸びて行ってハート形の葉によってそれがヤマノイモであるとわかるが、採集するのは晩秋から冬期である。葉が落ちていると、どこにヤマノイモの肥った根があるかわからない。記憶を頼りに、ある一点を掘っていくと、ヤマノイモを収穫することができる。だいたいこのあたりであったという程度では土を掘り返すのが大変でとても採る気にならない。ここ、この場所と一点を決めることが肝心である。そのためには、まだ黄葉の残っているときに蔓をたどって掘るか、その場合も蔓が途中で切れていたらもうわからないし、蔓の根元にあらかじめ何か印をしておいていずれ掘りに来るということをした。麦の種を播いておき、冬場に青々としていることで識別することも行われたといわれている。つまり、ヤマノイモを得るには、場所の特定が欠かせないのであ注2。したがって、トコロ、トコロヅラと呼ばれたものと考えられる。
 ヤマノイモは食べる時に擂りおろす。卸し金を使っても構わないが、擂鉢ですりおろし、手に持っていたイモが形を留めなくなってからも、さらに山椒などの堅い棒を擂粉木としてとことんこね回したほうが粘りが出て美味である。古代の土器の擂鉢には櫛目がない。今想定するなら、乳鉢の大きなもので、その鉢形の正しいものと思うと近いであろう。調理具でありつつ食膳具でもある。土器のざらざらの器面に当てて擂れば、ヤマノイモのような柔らかいものは簡単に擂りおろせ、ぐるぐる回しているうちに粘りがどんどん出て、終いに鉢を逆さにしても落ちないほどになったことであろ注3

擂鉢注4・5(左:病草紙模本、高屋肖哲模、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0046475(Retrieved March 25, 2023)をトリミング、右:慕帰絵々詞模本、慈俊模写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590849/13(Retrieved March 25, 2023)をトリミング)
 垂仁記の話で、皇后を奪還できなかった理由は、髪も服も玉も皆ぬるぬるしていたからであった。ヤマノイモ状態である。玉作りは勾玉を作るのだが、勾玉はヤマノイモが蔓茎の葉の腋に作る零余子むかごによく似ている。この零余子は今日でも食べられ、秋にはスーパーでも売られてい注6。種は花が咲いてできるが、この零余子もヤマノイモの繁殖に大いに与っている。イモ類だから、ヤマノイモ自体を切って植えておいても芽が出、葉を挿しても芽が出ると研究されている。自然界における繁殖には、零余子の役割は見逃せない。種よりも大きいから育つのが早い。だから、零余子は食べられるからといってどんどん食べてしまえば、肝心のいちばんおいしく大きなヤマノイモの収穫量は減ることになる。零余子を食べようとすると、多くの場合、伸びている蔓を引っぱって全部採ろうとするから蔓を切ってしまうことにもなる。冬になってから、もはやどこにヤマノイモの肥った根があるのかわからない。トコロが特定できない。零余子=勾玉ばかり取っていると、ところが得られない。「ところ得ぬ玉作」である。皇后奪取をはばんだぬるぬるについての咎はすべて玉作にあると思われ、「ところ得ぬ玉作」とされた。

左:むかご(左:10月初旬、右:11月下旬)、中:勾玉(硬玉勾玉、大阪府八尾市郡川西塚古墳出土、古墳時代、5~6世紀、桑野與治郎氏寄贈、東博展示品)、右:玉砥石(古墳時代、国学院博物館展示品)
 玉作部のことは、タマスリベとも呼ばれ注7。勾玉を擂るからである。ヒスイなどの鉱物の形を整えるのに砥石を使って磨った。ヤマノイモ同様、スル(擂・摺)対照なのである。スルことが得意な玉作は、天皇に胡麻を擂るのが上手だったと考えられていたのであろう注8。ところが、ヤマノイモを擂るのが上手らしい沙本毘古王さほびこのみこ側にしてやられたのである。皇后と御子をともに掠め取る、すなわち、ろうとしていたのにできなかった。同じスルことの失敗の責任は、スルことの専門職、玉作りにある。だから、垂仁記のこの箇所で、「諺」のコト+ワザとなっている。言葉が無文字であった時代の人の頭の働かせ方であっ注9

(注)
注1 木下2010.403~407頁。種の比定に厳しく、万1133番歌の「冬薯蕷葛〔冬薯䕘葛〕」の「冬」字に疑問を呈している。「そもそもヤマノイモの仲間は冬に落葉し蔓も枯れるから、冬季に認識すべき部位は地上になく、また冬に限って掘り採ることもしないから、まったく的外れであるのはいうまでもない。」(404頁)とし、本草経集注の読み間違いから生じたのではないかと指摘する。けれども、豪雪地帯を除けば、目印をつけておいて掘りに行くことは必ずや行われていたことであろう。食べ物で、しかも、美味しいものに関して、採集者は知恵を働かせたに違いない。枯れた蔓が干乾びて木にまとわりついていて零余子がぶら下がっていたなら、その根元のトコロには、トコロがある。自然薯の旬は11月中旬から1月である。零余子は、その少し前、10月から11月中旬である。
注2 現在は畑で栽培されており、野生のものを自然薯じねんじょと呼ぶ。ヤマイモは後に中国から入ってきた近種である。また、交雑もあるという。
注3 中村2006.に、「内面に条痕がみられないのですり鉢とするよりも練り鉢とすべきかもしれない。口縁部に注口がもうけられている」(84頁)と注釈がある。台座をひと回り大きくして安定させている点や、現在の金属製やプラスチック製のボールとは形状が異なって側面が直線的である点から、ハンバーグを捏ねるような内容物どうしを〝練る〟作業もさることながら、内容物を容器に当てて〝擂る〟ことのほうに眼目があったと思われるがどうであろうか。内容物とは、すなわち、ヤマノイモである。ヤマノイモを美味しいとろろ芋に仕上げるためには、擂り、練り、捏ねる、の作業がすべて求められる。あてがい回すことに長けている容器に思われる。
 なお、擂鉢の利用について、染料を採取する際にも用いられていた。植物の花弁や実、樹皮、鉱物をすり潰すのに必要とされた。鉱物の場合、擂鉢に対して擂粉木では当たらないから、乳鉢に乳棒を使うように石製の擂棒を使ったのであろう。土佐光起・本朝画法大伝(元禄3年(1690)成立)に、「緑青。製法ハ先鉢に入、タクを入、石乳木スリキにて軽く少研スリて……」(国文学資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100269795/viewer/28(Retrieved March 25, 2023)、句読点を施した)などとある。
注4 スリバチ(擂鉢)という言葉自体は新しいものらしい。中古にも見られない。櫛目を入れる技法が確立してから別してそう呼ばれるようになったのかもしれない。陶器技術が発達しておらず櫛目が入れられなかったのではなく、そもそも素焼きで作れば表面がざらざらしていて不要だったからであろう。
注5 須恵器擂鉢と称される「調理具」は、小田2013.に、特殊な使い方を想定する説がある。鉢形容器を逆さに伏せて底部の刺突孔・線刻をおろし金の突起と同様の役目を担うとする考えである。一方、森川2019.は、これを陶臼と認め、蒜(ニンニク)を搗くものであると考えている。
 森川氏の検討は説得力がある。東アジアでこのような「陶臼」がどれほど広がりを見せていたのか、底面のギザギザ文は何のためのものか、また、櫛目を入れる以前の擂鉢とはどのようなものであったかなど、さらなる研究を期待したい。
左:「須恵器臼」、中:使用イメージ、右:ミャンマー、中国、韓国の香辛料用搗き臼(平城京資料館 令和3年度冬季企画展「発掘された平城2020~2021」展示品)
注6 オニドコロやタチドコロは零余子をつけない。「地得ぬ玉作」という諺が言葉として成り立っていることから出発するなら、ヤマノイモとオニドコロなどとの識別ができていて、あくのない自然薯を得られないオニドコロなどだから、玉作は勾玉を作ってムカゴ(珠芽)と見立てて葉の腋に添えたのだという話なのかもしれない。けれども、その場合、トコロ(地=薢)という本義の面白味を失うことになる。言葉がコト+ワザとして示されているのだから、本文に述べたような解釈が行われていたと考えるのが妥当であろう。なお、零余子の味は地中の芋と同じであるとされているが、筆者には劣るように感じられる。
注7 寺村1980.は、「「不ㇾ得ㇾ地玉作」の語が、特に「諺曰」とあるように、また『古事記』ではここにのみ「玉作」の語が使用されており、他に「玉作」の語がみられないことなどから、本来は別の話であったものが、後に「垂仁記」に挿入されたという疑いが出てくる。とすれば、[古墳時代の]第二期玉作遺跡の消滅という実体が、この伝承に投影されているように思われてならない。」(529頁)としている。記紀のお話に当時の現実がどのように投影されているのか、科学的に検証することはできない。むしろ記紀に載るお話は、〝科学〟を当て嵌めようとする近代的なものの見方に真っ向から反対しているように思われる。寺村1980.は、「地得ぬ玉作」という変てこな言い回しがどうして「諺」なのかについて説明するものではない。
注8 今日、胡麻を擂るという言い方で、上司にこびへつらう意味に用いられる。この言い方がいつから行われるようになったか定かではないが、用例としては近世後期のものしか確認されていない。胡麻を擂っていると油がにじみ出てきてべたべたくっつくことに由来するとする説や、お寺で小坊主が上手に胡麻を擂ると和尚の機嫌が良くなることに由来するとする説がある。胡麻自体は、本邦では縄文時代の遺跡から炭化物が出土している。養老令・賦役令に、「胡麻油七夕」とあり、つづけて、「麻子油七夕、荏油一合、曼椒(ほそぎ)油一合、猪脂三合」などと油脂類が列挙されている。和名抄に、「胡麻 陶隠居に曰はく、胡麻〈此の間に音は五末、訛りて宇古万うごまと云ふ〉はもと、大宛に出づ、故に以て之れを名くといふ。」、また、「油〈擣押付〉 四声字苑に云はく、油〈以周反、阿布良あぶら〉は麻を()めて脂を取るなり、迮〈側陌反、字は窄と通ふ〉は迫なり、狭なりといふ。内典に云はく、胡麻熟れ已り子を収めば熬りて擣き押す〈俗語に之路無しろむと云ふ〉、然る後、乃ち油の出づるを得といふ〈涅槃経の文なり〉。」とある。関根1969.によれば、正倉院文書には、胡麻は、同じ容量の米の1.5ないし2.5倍の値段であったという。上代の油の大方は胡麻油であったらしい。食用ばかりでなく、燈用にも用いられたことが知られている。
 胡麻の主用途が油であるとして、それが圧搾によってしぼられたものであったとすると、上代においては、スル(擂)という動詞とは結びついていなかったと考えられる。現在目にする櫛目の付いた擂鉢が中世に開発されたものであることを考え合わせても、鉢でスル(擂)という行為は、胡麻ではなく、とろろ芋を生み出すヤマノイモのぬるぬる感と密接に結びついているものと考えられる。新撰字鏡には、「挏 大公反、平、磨也、止支須留とぎする也」とある。トグ(研・砥・磨)こととスル(擂・摺・擦・摩・磨)こととの親近性をにおわせる。勾玉、ヤマノイモ、硯に墨、ならびに財布が、スル対象の代表と言えそうである。これまで論じられていないことであるが、スルことは、必ず、対象との間のあてがう角度を気にする。角度を一定にするのではなく、手首を回しながら回すのがうまいスリ方である。掏摸すりの技法については、池波2000.を参照されたい。
注9 このことは、言葉の使い方が今日の文字時代の人のそれとは様相を異にすることを表す。上代文学研究は本来この地点を出発点として始められなければならないのだが、未踏のままになっている。

(引用・参考文献)
池波2000. 池波正太郎「女掏摸めんびきお富」『鬼平犯科帳2』文芸春秋(文春文庫)、2000年。
大田区立郷土博物館編『ものづくりの考古学─原始・古代の人々の知恵と工夫─』東京美術、平成13年。
小田2013. 小田和利「須恵器擂鉢について」『九州歴史資料館 研究論集』第38号、2013年。
木下2010. 木下武司『万葉植物文化誌』八坂書房、2010年。
関根1969. 関根真隆『奈良朝食生活の研究』吉川弘文館、昭和44年。
寺村1980. 寺村光晴『古代玉作形成史の研究』吉川弘文館、昭和55年。
中村2006. 中村浩『泉北丘陵に広がる須恵器窯─陶邑遺跡群─』新泉社、2006年。
森川2019. 森川実「古代の陶臼」『古代文化』第71巻第3号、2019年12月。
※本稿は、2016年11月、2017年11月稿を、2020年9月に改稿し、2022年3月、2023年4月に加筆したものである。

(English Summary)
In this paper, we will examine in Emperor Suinin Period in Kojiki, the proverb "The makers of magatama that is comma-shaped beads cannot get a place (Tökörö enu tamatukuri)." In ancient Japanese, Yamatokotoba, the word of "proverb (kötöwaza)" means that the sentence splendidly describes itself. This proverb is due to a clever use of the word of "Tökörö" that is meant a place and also Japanese yam, and of the fact that its propagule is very similar to magatama.

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