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古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

顕宗記の猪甘の老人の話

2022年04月06日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 顕宗記に猪甘の老人の話が載る。古事記のうち、説話の体裁をとった地名譚の最後のものである。

 初め天皇のわざはひに逢ひて逃げし時に、其の御粮みかりてを奪ひし猪甘ゐかひ老人おきなを求めき。是を求むること得て、し上げて、飛鳥あすかがは河原かはらに斬り、皆其のうがらひざすぢを断ちき。是を以て、今に至るまで、其の子孫あなすゑやまとに上る日には、必ずおのづかあしなへぐぞ。かれ、能く其のおきなの在りし所を見しめき。故、其地そこ志米須しめすと謂ふ。〔初天皇逢難逃時求奪其御粮猪甘老人是得求喚上而斬於飛鳥河之河原皆断其族之膝筋是以至于今其子孫上於倭之日必自跛也故能見志米岐其老所在字以音 志米岐三故其地謂志米須也〕(顕宗記)

 「初天皇逢難逃時」の次第は安康記に記されている。雄略天皇(大長谷王子おほはつせのみこ)によって後継と目される天皇家の皇子たちが掃討されていくなか、後に顕宗・仁賢天皇となる市辺王いちのへのみこの皇子たちは難を逃れて落ち延びていく。

 是に、市辺王いちのへのみこ王子みこたち意祁王おけのみこ袁祁王をけのみこ二柱、此のみだれを聞きて、逃げ去りき。故、山代やましろかり羽井はゐに到りて、御粮をむ時に、面黥おもてさける老人来て、其の粮を奪ひき。爾くして、其の二はしらの王の言ひしく、「粮は惜しまず。然れども、なむち誰人たれぞ」といひき。答へて日ひしく、「我は山代の猪甘ぞ」といひき。故、玖須婆之くすばのかはを逃げ渡りて、針間国はりまのくにに至り、其の国人くにひと、名は志自牟しじむが家に入りて身を隠し、馬甘うまかひ牛甘うしかひえだちき。〔於是市辺王之王子等意祁王袁祁王二柱聞此乱而逃去故到山代苅羽井食御粮之時面黥老人来奪其粮爾其二王言不惜粮然汝者誰人答曰我者山代之猪甘也故逃渡玖須婆之河至針間国入其国人名志自牟之家隠身伇於馬甘牛甘也〕(安康記)(注1)

 市辺王は、大長谷王子に狩りへ行こうと誘い出されて無残に殺された。市辺王の遺児二人は恐れて逃げるが、途中で猪甘の老人に携行食を奪われる事件があった。位に就いてからその猪甘の老人を逮捕し、一族も処罰した。その結果、その子孫にはトラウマが生じて足が利かなくなったり、猪甘の在所の地名が名づけられている。
 この話について、一語一語にまで突っ込んで議論されたことはない(注2)
 文中には、訓みの定まらない言葉がある。「粮」の訓に、カリテ(糧)とカレヒ(乾飯)の二説がある。乱を免れて逃げ去るにつけて、途中、山代国の苅羽井に到って食事をしている。食べ物は出立するときに用意して持って来ていたが、水筒は携行していなかった。正確に言えば、食事用の水は持っていなかった。それは一般的な旅支度であったようで、井戸のあるところに着いたら食事をしている(注3)。合理的で簡にして要を得た表現である。すなわち、ここはミカレヒと訓むべきである。乾パンが喉につかえるように、「御粮みかれひ」を食べるのに水が必要であった。乾飯かれひは水につけてふやかして食べる。
 場所は、「山代苅羽井」に設定されている。カリハヰという地名があったからそれに基づいて創られている話である。なぜカリハヰが選ばれているのか。山代なのだから、山に相当するところにそれはあり、水脈から考えて深井戸である。長い釣瓶の縄を引き上げるのは大変である。そこで便利なのは撥ね釣瓶である。撥ねるクレーンを使う。片方を下げればもう片方は上がる仕組みである。すると、カリハとは、ハが下がり、カリが上がることを示そうとする謎かけと推察できる。その反対の動きをすれば、カリハはハカリとなる。古代において、ハカリ(秤)は天びん秤であった。そんな仕掛けの井戸こそ撥ね釣瓶である。二王子はそこで食事をしようとした。
左:天秤で量る(江戸職人歌合、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533750/55をトリミング)、右:撥ね釣瓶の井戸(一遍聖絵(写)、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591575/25をトリミング)
 ところが、「面黥老人」が現われて粮は奪われた。その時の二王子の応答に、「不粮」とある。別に乾飯を奪われてもかまわない、と言っている。もっと欲しいものがあったからだろう。それは水に違いあるまい。たくさんある水を少しばかり分けてくれまいか。残りの乾飯は差し上げるから。そう言っているのに「面黥老人」は水を分け与えようとはせず、乾飯を没収するばかりであった。胸につかえて苦しいから、「汝者誰人」と言っている。その声はタレである。名をれとは言っていない。撥ね釣瓶からタレ(垂)ている水が欲しかった。垂れて無駄になるものを分けてくれれば良さそうなものを、いじわるして一滴も与えない。あまりにひどいではないか、と訴えている。
 「面黥おもてさ」ける老人は、その意を汲まず、タレを Who are you? ばかりの義に捉え、「我者、山代之猪甘也。」と答えている。強調して、「我者、……也。」と言っている。容貌どおり表の意を避けるように話をずらし、まるで話の通じない異人のように断言している。そして、そういう言い方をすればそれが当然の主張であることまで言い含めたものとなって、尊大な気分が表れている。「山代之猪甘」とは、山の代わりになるところで猪を飼っている者である(注4)。山の代用品とは自然の山ではなく人工の山、古墳のようなところが想像され、古墳には埴輪がめぐらされるばかりで土を盛っているだけである。木が生い茂りドングリがとれるわけではない。猪の食べ物に事欠いている。ヰノシシのために苅羽井は整備されている。ヰ(井)はヰ(猪)専用なのである。そうでなくて古墳のような山代に井戸を開鑿することはないであろう。いずれ思考実験の産物であって、ヤマトコトバの語義にそういうこととして捉えられる。山代の苅羽井では水も食べ物も猪が優先されて然るべきである、と主張して譲らない。
 つづく文章に、「故、逃-渡玖須婆之河、」とある。「故」は前文を承けて、だから、それゆえ、後文ということになる、を示している。だから、クスバノカハを逃げ渡ったとしている。「我者、山代之猪甘也。」が原因、理由となって、クスバノカハが登場している。
 猪がいるということは、彼らが好む泥んこがあるということであろう。猪は、泥んこをかきまわしてミミズをほじり、喜んで食べている。泥は汚くて屎のようである。そんな肥溜めのようなところからは逃げ出したいと思うのが人情であろう。クスバは崇神記に「久須婆くすば」とある。

 故、其の[建波邇安王たけはにやすのみこノ]いくさ、悉に破れて逃げあらけぬ。爾に、其の逃ぐる軍を追ひ迫めて久須婆くすばわたりに到りし時に、皆迫めたしなめらえて、くそ出ではかまに懸りき。故、其地そこを号けて屎褌くそばかまと謂ふ。今は久須婆くすばと謂ふ。(崇神記)

 二王子が逃げ延びるのと同じ逃亡譚である。渡り切れば川で禊ができたことになって生き延びられるが、崇神記でタケハニヤスは渡り切れずに敗死した。二王子の場合は渡り切って針間国に入っている。播磨を「針間」と記している理由は、国作りにおいて古来名高い出雲と朝廷の中心地、大和とを縫い付けたものと捉えられていたからであろう。針を使ったのである(注5)。安康記の二王子が「針間国」へ向かったと設定されているのは、縫い針が布地の下へと進んで表から見えないところに相当するから、潜伏の場所としてふさわしい。隠れるのに絶好の地であり、身を縮こまらせていた。だから、「志自牟しじむ」という名の人の家に入っている。シジムは、縮、蹙と書くチヂムの古形である。名義抄に、「戚 音◆(慼の小の部分が中)、シタシ、チカシ、ウレヘ、イタム、シジム、又慽」とある。
 子どもが自らを雇ってもらおうとしている。小僧さんとして「馬甘・牛甘」、すなわち、馬飼、牛飼以外にも仕事はあったであろう。「志自牟」は農家であったと考えられ、農耕馬、農耕牛を育てている。それら家畜は農耕の革命的発展に寄与した。機械生産する農耕の駆動機に当たる。国家の支配者である天皇が百姓おほみたからを支配するのは、農民が家畜を飼うのと同じ構図である。動物にとって家畜になることは、野生に暮らすときに得られる野放しの自由がなくなることである。とはいえ、家畜となれば、耕作に駆り出されることはあっても、身の危険は格段に減り、より快適な環境で食べ物に不自由することなく一生を過ごすことができた。人が国家の支配下に入り、人民として暮らした方が幸福であると感じるのと同じことである。一定の約束事を守って労役、課役を果たすなら、安全、安心、安定して暮らして行ける。甘い水が与えられるからそこに集まり、その代わりに労力を提供する。その意味をヤマトコトバにアマナフ(注6)といい、「馬・牛」と記されてわかりやすい。ヤマト朝廷において天皇は人々を結集させるという点で社会に革命的発展をもたらす存在だったから、王家の子は生き物を飼うことにも通暁していたであろうとの筆致である。対して、猪甘の猪(豚)は労役を果たさない(注7)。「志自牟しじむ」の家に養豚場があったとしても、二王子が猪甘になることはなかったであろう。
 新編全集本古事記は、「伇於馬甘・牛甘也。」の「伇」字をエダツと訓んでいる。「エダツは、公役にあたるの意。二人の王が、王の身分でありながら、人民のレベルに身を置き、その務めを果たしたことを表す。通説では、この「役」を私役として、志自牟が二王を私的に使ったこととみるが、その理解は、『記』における「役」の用字に合わない。」(336頁)とする。この解釈は合理的でない。記載は安康記であり、次の雄略天皇による専制政治の始まりを表している。雄略天皇の治世下にある限り、二王子は隠れていたい。当然、天皇の支配の及ぶ仕事に就くことはできない。公の仕事では身元がばれてしまう。エダツという訓み方は、「是以百姓之栄、不伇使。」(仁徳記)にある「伇使」のエダチに同じである。公より強制されて兵役や労役に当たることをいう。立場的には天皇が人民を労役に就かせることだから、せめてエダテラユの形がよいが、いずれ誤りであることが知れる。
 二王子は「公」から逃れるために、「入其国人、名志自牟之家身」ことをしている。志自牟はヤマト朝廷の直接の支配下にはなかった人物だったからビザを検めるようなことはしなかった。「伇」は志自牟に仕えて使われるという意から、「つかはえましき」、「つかはえたまふ」という通訓がふさわしい(注8)。それは、そうなる途上、落ち延びる際にすでに示唆されている。山代の苅羽井で御粮を食べようとして水を欲っしたのは、カレヒ(乾飯)が喉につかえていたからである(注9)。ツカフという語の連想話として成っている。
 話はここから顕宗記へ続いている。顕宗記では、「初天皇逢難逃時、其求其御粮猪甘老人。」で始まっている。「不粮、然、汝者誰人。」は上に解釈したように、粮が強奪されたことによりも、水を貰えなかったことへの恨みである。場所は「山代苅羽井」という撥ね釣瓶井戸であった。対抗的に示すには、同じ水場がふさわしい。そこで、「飛ぶ鳥の」と枕詞に導かれる「飛鳥河の河辺」に猪甘の老人を引っ立てている。水が豊富にあるから「志米須しめす」という地名にしていてしっくりくる。「湿しめす(メは乙類)」の場所にして、「標洲しめす(メは乙類)」の場所である。
 水場として「山代の苅羽井」と「飛鳥河の河辺」とが交代している。俎上にあげられているのはかひであり、ヰ(井)+カヒ(交・替)している。ヰの話として猪と井とがパラレルに語られているものと思われる。そして猪甘の老人は「斬」られている。新編全集本古事記に、シメスは「本来は「標州す しめ」で、禁漁区となっている中州の意か。」(365頁)としているが、江戸時代のお白洲に同じである。裁判、処刑が執り行なわれた。連座制も適用され、一族も皆、膝の筋を断たれている。それによって「子孫あなすゑ」のことに謂い及んでいる。アナ(穴・孔)+スヱ(末、据)と聞けば、「山代苅羽井」という井戸を廃棄させたことも物語ることができる。井戸の穴に詰め物を据えて塞いでいる(注10)
 膝の筋を断つことをしているのは、釣瓶井戸に用いられていたヒサコ(瓢箪)を弦縄から切り取ることを意味している。廃棄井戸からの出土品にヒョウタンが見られる。それは、ヤマトコトバの概念展開に従うものであったろう。ヒサコ(瓢箪)はもともと蔓性植物の実である。それを弦性(吊性)機構に用いていた。ヒサコとは、ヒサ(膝)+コ(子)のことでもあり、筋を切断して使いようがないようにしてしまったと洒落ている。ヒトの膝蓋骨が器形は器形をしており、ヤマトコトバのネットワークにかなうものである。
廃棄された井戸(香芝市教育委員会・香芝市二上山博物館編「奈良県香芝市下田束遺跡─五位堂駅前北第二土地区画整理事業の施工に伴う平成17・18年度発掘調査の成果─」2007年。奈良文化財研究所・全国遺跡総覧https://sitereports.nabunken.go.jp/1035、13頁をトリミング。「井戸は検出面から底まで深さ約5mで、方形組立型の井戸枠を用い地表面近くでは枠の外周を漆喰で固めていました。このような型式の井戸枠は古代から中世に盛行しました。遺物は黒色土器や飛鳥時代(7世紀第Ⅱ四半期)の軒丸瓦片、そのほか櫛、斎串、瓢箪などが出土しています。」(同頁))
 この処置は、猪の飼育について何がしかを伝えるものであったかもしれない。動物考古学の議論では、動きのはやい猪の膝の筋を断っておいて山に放牧したことを表しているとも提起されている。また、山代の山間部においてはイノシシが飼育されていたが、都の付近ではブタが飼育されていたこと、つまり、イノシシ牧場と養豚場の違いを表しているものかもしれない。黒っぽい毛をしたイノシシの猪突猛進ぶりと、肉をとるばかりに肥大化させて毛が薄く色が白っぽくなったブタの鈍足ぶりとを比べてみれば、「皆断其族之膝筋」にある「族」とは、飼われていた動物のことを言っているように受け取れる(注11)
 そして、「是以、至于今、其子孫、上於倭之日、必自跛也。」ことになっている。思想大系本古事記に、「山城から猪飼部の民が大和に上る日には、(かつて先祖が天皇の御粮を奪った罪の償いとして乞食のように)国堺で跛者のまねをさせられる儀礼があったらしい。」(291頁)、新編全集本古事記に、「この一文は、撰録時代に存した猪甘部のもつ風習の由来を説くもの。猪甘部が大和に上る日には、自然に歩行困難な状態になるといった仕種をしたらしい。」(365頁)とある。しかし、律令や延喜式、また他の史料にもそのような次第の記載はない。誤った憶測であり(注12)志米須しめすで終わっている顕宗記の地名譚の意味するところに迫れていない。今日までの解釈では、「能見-志-米-岐其老所_在」とある場所について、「其老」がかつて「所在」していた山代の地であるかとさえ誤認されることもある(注13)
 古事記はハナシとして話されている。そうである以上、顕宗記を遡ること清寧記、雄略記を越えて安康記のことを思い出すようにすべての聞き手に迫ることはできない。そうではなく、「其老所在」とは、「斬」殺された「飛鳥河之河原」の地点を言っているものと考えられる。その子孫が倭に上京しようとする日には、どういうわけか必ずひとりでに歩行困難に陥ることについて、どうしてなのだろうと猪甘の人たちは不思議があるのであるが、そのとき、それは昔、ここで、斬り殺されたり膝の筋が断たれることがあったからだと、故事を教えながら飛鳥河の河原を見せて示したものだというのである。「上於倭之日」以外の日には「跛」ぐことなどない。「其老所在」が山代の在所のはずはないのである。
 では、飛鳥河の河原で猪甘の子孫たちは何を「見しめき」、つまり、見させられたか(注14)。それは、なぜ見させられたかということと直接通ずることである。飛鳥河の河原で猪甘の老人は斬られたことになっている。その場面は少し不思議な言い方で述べられている。「是得求喚上而斬於飛鳥河之河原」。積年の恨みの相手の猪甘の老人は、安康記時点ですでに「面黥老人」として現れている。雄略・清寧朝を経ており、「老人」はふつう亡くなっていておかしくないところ、見つかったから「是求」としているのであろう。しかし、罪人扱いして連行するのであれば、「喚上而」とは別の言い方になるように思われる。どうやら、犯罪者を召喚することを装いながら、貢物を献上させることを言っているようである。すなわち、「斬於飛鳥河之河原」とは、猪甘老人を斬ったことを言いつつ、猪(豚)を屠殺することに言い及んでいる。
豚の下顎と占いに使った肩甲骨(唐古・鍵遺跡、弥生時代、『田原本の遺跡1 唐古・鍵遺跡Vol.1 概説編』田原本町教育委員会、1999年11月1日、3次改訂https://sitereports.nabunken.go.jp/1613、2022年3月11日閲覧)
左:豚の屠殺場面(山東省諸城前凉台画像石)、右:農民が豚を屠殺する風景(ピーテル・ブリューゲル画、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/マタンサ、I, Sailko様撮影)
 猪甘は家畜として猪(豚)を飼っている。肥えてきたら殺して食肉を得るほか、皮革、毛、脂(ラード)も供された。作業上、豊富な水で洗うために猪(豚)は河原で屠殺された。すなわち、猪甘の人たちは、後に河原者と称される人につながる(注15)。そのときたくさんの血が流れた(注16)。河全体が赤く染まることも起こった。そこへ猪甘の老人の子孫たちを臨場させている。アスカガハ(飛鳥河)である。アスカとは、アカ(赤)い血に覆われたなかにス(洲)が見えているところという意と解することができる。猪甘の老人を喚し上げた時、猪を貢物に持って来させてともどもに斬ったことが話されていると確かめられる。お白洲は血に赤く染まったのである。だから、そのアスカガハを見せて、結果、そこを「志米須」と呼んでいる。屠殺場とされて動物の血で汚れれば黴菌が多くなり、禁漁区にしておかしくないのである(注17)
 彼らが歩行困難になる理由も、その場所を見ればわかる。なぜ「あしなへ(注18)になるのか。解体された肉は脚のついた鍋に入れられて、神饌や饗膳のために煮込み料理にされていた。アシナベ(脚鍋)だからアシナヘ(跛)になっているのだと悟ることができた。ヤマトコトバの理解、納得を兼ねるように話(咄・噺・譚)が創られている。
 脚のついた鍋とは鼎(かなへ)のことである。カナ(金)+ヘ(瓮)の意とされている。
鼎(青銅器、中国、春秋~前漢時代(B.C.7~A.D.1世紀)、奈良国立博物館展示品)
 身長みたき一丈ひとつゑ、力能くかなへぐ。(景行紀二年三月)
 又、大炊省おほひのつかさに八つの鼎有りて鳴る。(天智紀十年十二月)
 鼎 説文に云はく、鼎〈都梃反、頂と同じ、阿之加奈倍あしかなへ〉は三足に両耳あり、五味を和ふる宝器なりといふ。(和名抄)

 中国では龍山文化時代からある炊事用具で、肉などを煮るために使われた。祭祀における神への捧げものや宴会のご馳走のために、鼎を使って羹(あつもの、肉類のスープないしシチュー)を調理し、そのまま卓に出されて供されたり、漆器製の鼎に移しかえて供えられた。古代中国では、鼎の数や調理する肉の種類も位によって規定があったことが記され、猪(豕)の肉も多用されている(注19)。上京した猪甘の人たちは、貢物に猪を持参しているに決まっていて、それを調理している。猪甘が上京するとはすなわち、猪を献上することを表している。その事を言(こと)にするのにもっとも簡潔にして端的な言い表し方は、その状況で彼らがアシナヘ(跛)になってアシナヘ(脚鍋)に猪を煮ることである。
 そして、鍋で肉を煮込むには蓋(ふた)が必要である。蓋なしに火にかけていては水分が蒸発して煮込み料理に仕上がらない。蓋が必須なのは、彼らが持ってきている貢物が豚(ぶた)(注20)だからである。よく来たよく来たということを言葉で表し、事柄で表す最適解は、猪甘がアシナヘになることなのであった。
 ハナシ(話・咄・噺・譚)は、循環論法でめぐりめぐりながら完結していく。循環しながら言葉を定義する方法こそ、何かほかに頼るもの、例えば文字や記号があるわけではないヤマトコトバにおいては、“合理的”な語義言説である。言葉を言葉で解説しながら言葉を紡いでゆくことによって、語族としての同一性をあまなく獲得していくことが目指されていた。意識的にそうしていたのかどうかは不明である。言語を使うということは、そのこと自体で必然的にその言語を唯一、優位なものとして追認することだからである。ヤマト朝廷が支配拡大に「こと和平やはす」手法をとっていたとされるのも、言語によるナショナリズムの確立そのものだったからである。記紀の説話が語られることは、そこで用いられる言葉が広まることである。その言葉を日常的に用いる人々は、ヤマトコトバ人としてまとめあげられた。そういうベクトルとして記紀の説話は機能した(注21)のであり、その際には、ヤマトコトバがそれを用いるすべての人に納得されるものでなければならず、使う言葉をその時その場で定義していくことでしか確かならしめられない状況下にあった。彼らは無文字時代に暮らしていたからである。したがって、古事記の最後の説話である猪甘の老人の話も、古代の話の本来の姿、自己言及的に語られた含蓄ある地名譚なのであり、それが原初的にも最終的にもこの説話の眼目、題目なのであった。
 
(注)
(注1)通説的な訓みを示した。別訓として、「かりて」をカレヒ(カレイヒ)、「求む」をマグ、「ひざ」をアハタ(コ)、「子孫あなすゑ」をウミノコ、コドモ、「在りし所」をアリカ、「えだつ」をツカフ、「必ずおのづから」の「自」は読み添えとしてカナラズとも訓まれている。
(注2)国文学に成果があれば、一般の理解も変わるものであるが、文章の表面をなぞった以上のものは得られていない。そのため、例えば基峰2017.には、「命を守るために逃げ隠れする者から,食べ物を強奪するといった,「山代の猪甘」の浅ましい行動が読み取れる。」、「「山代の猪甘」の浅ましい行動に対して,顕宗天皇の容赦のない怒りを読み取ることができる。」(96頁)などとされている。
(注3)景行記に、倭建命の伊服岐能山(いふきのやま)での遭難事件がある。居寤清水(ゐさめのしみづ)で覚醒している。
(注4)「是の月に、淡海国言さく、「坂田郡の人、小竹田史身しのだのふびとむ猪槽ゐかふふねの水の中に、忽然たちまちに稲れり。……」(天智紀三年十二月是月)とある。猪甘(猪飼)の実態について詳細は知られておらず、面黥の風習があったかどうかもわからない。
 ヰノコ(猪子、豕)は、猪の子のことも豚のことも指す。ウリボウを捕まえてきて家畜として育てれば、家畜化して品種改良した豚と同じことになる。考古学的に発掘された骨の状態からどのようなものかはわかっても、生産形態までは掌握しきれない。ただし、ヤマトコトバに重要なことは教えてくれる。猪の子をウリボウと呼ぶのは、その毛色などから瓜坊の意でありつつ、売り棒のことを掛けて言っている点である。天びん棒のことである。猪甘の地として「苅羽井」が舞台とされている根拠が明らかとなっている。
(注5)国は縫い合わされて作られたという発想があったと考えられる。拙稿「神武天皇はハツクニシラススメラミコトか?」参照。
(注6)拙稿「鳥「甘」とは何か」、「十七条憲法の「和」の訓みについて」参照。
(注7)上代に行われていたと思われる養猪(養豚)は、中古にすぐ廃れてしまう。役畜となる牛馬の飼育が継続したのと対照的である。
(注8)「伇」の傍訓には、ナル(猪熊本)(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438707/26)ともある。
(注9)ツカフ(支、痞、閊)という語に古い文献例は見えないが、口語的印象の強い言葉である。
(注10)井戸を廃棄する際に祭祀が行われていたとされている。出土物から確かであろう。ただし、それが水に関する祭祀であったかどうかは不明である。井戸を埋めて廃棄する必要があったのは、第一に落ちると危ないからであり、また、水質の悪いものを口にしないためであったろう。井戸を廃するに「馬樎うまふね」を使った点については、拙稿「忍歯王暗殺事件について」参照。ここで山代苅羽井を利用していた猪甘が処刑されている。管理人がいなくなっている。残されて野生化した猪が使うと泥が混じり、水質は悪化する。説話は直接語らずとも含蓄があるもので、人が利用できないように井戸は廃棄されたと理解される。
(注11)イノシシの家畜化において、直線的にイノシシ→ブタへと飼育が推移したとは考えにくく、多様な形態を行きつ戻りつしながら食肉を得ていたであろうと考えられている。出土する骨格から弥生時代にはブタの存在が確かめられ、稲作農耕と一緒に、飼育法や利用法まで揃えたパッケージとして移入されているとされつつ、かといって野猪を狩ったり猪の子から馴化させて飼ったこともあったであろうとされている。また、池谷2015.は、「ブタが供犠において利用される地域は、中国を中心とした「舎飼い文化圏」とほぼ一致している傾向にある。」(107頁)と指摘しており、古代日本でも贄扱いされていたことを裏付けている。
 平林2007.によれば、文献資料に痕跡として手掛かりが見つかるという。古語拾遺に、「御歳神みとしのかみたたりを為す。白猪・白馬・白鶏しろかけを献りて、其の怒りを解くべし。」と託宣があったとする記述、欽明紀の「白猪屯倉しらゐのみやけ」関連記事、天智紀三年十二月是月の前掲条(注4)の報告記事、山城風土記逸文の、「……馬は鈴を係け、人はししかしらかがふりて、駈馳せて、祭祀まつりを為して、能くぎ祀らしめたまひき。因りて五穀たなつもの成就みのり、天の下豊平ゆたかなりき。」という賀茂乗馬の起源譚があげられている。また、「猪甘津ゐかひのつ」(仁徳紀十四年十一月)は大陸の養豚技術の受容の関係地、「猪飼野ゐかひの」(播磨風土記・賀茂郡)や「猪飼の岡(山)」(万203・1561)は放牧地と目されている。
(注12)これらの憶測は発想、着眼に誤りがある。記紀の伝承にそのように記されているものがあったということから、後の儀式にそのような風習が取り入れられたということはあり得ることである。言い継がれているのだからそういうふうに再現したというものである。それを逆に、撰録時代に行われていた儀礼から、ハナシ(話・咄・噺・譚)に採り入れた、ないし、変更していったということは、ハナシのレベルで同一性が認められる場合、わずかに付加されることはあったとしても、それ以外には考えにくい。言い伝えられてきたハナシを改変、毀損すれば訳が分からなくなる。古きを尋ねて新しきを知ることはあっても、新しきをもって古きを変える姿勢は“知恵”とは無縁である。
 記紀を写本する過程で書き間違えたり、書き改めたりすることは、賢しらな人が書くほどに生じやすい。古事記の場合、真福寺本に信憑性が高いのは、その本が古いばかりでなく、ただひたすら書き写していると見て取れるからである。日本書紀でも傍訓にズレがあったりするほどわからないままにただ書き写している証拠がある。元の姿を伝えている蓋然性が高まり、比例して信憑性も高いことになっている。
 今日の文化財修復の精神に、現状の姿を尊重して修復するのか、制作の当初の姿に戻すのか、という議論はあっても、“美しくしたい”という意向により、受け継がれてきたものにかつてなかった改変は行われない。違うものになってしまうからである。頭でっかちなことはしない方が好ましいのである。ここには人間の精神の傾向について、大いに議題されるべき課題が横たわっている。
 フォースター2010.に次のようにある。「プトレマイオス作成の世界地図をご覧頂きたい。一見したところ、エラトステネスの地図よりも数段すぐれ、カスピ海の誤りは訂正され、新しい国々(たとえば中国)が加えられ、さらには原語による名称も多く書きこまれている。しかし、ひとつの重大な誤りがある。アフリカを想像上の大陸へと延長し、さらには中国とつなげてしまった。これはたんなる彼の空想の産物であり、ごていねいにもその空想の大陸に、町や河の名前まで書きこんでいる。この重大な誤りは誰にも訂正されぬまま、以後数百年にわたって、インド洋は陸に囲まれているものと信じられることとなった。すなわち、すでに探求の時代が終わり、権威の時代が始まっていたのであり、アレクサンドリアにおける科学精神の衰退期が、キリスト教の勃興期とぴったり符合するというのはまことに興味深い。」(81頁)
上:プトレマイオスの地図、下:エラトステネスの地図(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/プトレマイオス図)
 記紀の説話にしても、撰録時点で受け継がれてきた話の内容がわからないことがあったとしても、先人には当たり前で自分がわからないだけであり、知恵深い他の人にはわかるであろうからと、自らが手を加えて変えることは差し控えようとする精神があったと考える。すなわち、“探求の時代”であった。現代人にとって、とてつもなく意味不明で荒唐無稽な説話が古事記や日本書紀には数多く残されている。そのうえ、同時代の斉明天皇の公共事業に対して、「時人謗曰、狂心渠。」(斉明紀元年是歳)などと書いたままにして憚られていない。“権威の時代”ではなかったのである。
(注13)本居宣長・古事記伝に、「さてココは、 ノシメたる者を、 レとも、如何イカなる人ともアゲずして、如此カク云るは、穏ならず聞ゆるを、……たすけて ハば、其人は誰とも伝はらざれども、誰にまれ、  ノ老人のいかでアラハされじと深く隠れ居たりけむを、よくもシメたること、ホメたるにやあらむ、〇カレコヲ、……こはイヅレノ国とも記さざれば、今何処イヅクとも考へがたし、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/490)、思想大系本古事記に、「志米須 ……その所在は山城の苅羽井の付近か、飛鳥河の処刑の地か未詳。」(291頁)とある。
 また、松本2011.は、「膝の筋を断ち切ったのは、「今」老人の子孫が倭にやって来るときに「跛」くことの起源にもなっているが、直接には足の筋を断ち動けなくすることで彼らの居場所を固定させ、その場所でずっと「老」の「所在」を「見志米」る(見させる)ための措置であろう。」(226頁)とする説を唱える。移動の自由を束縛し、ある場所に隷属させたとの考えであろうが、農民はじめほとんどの民は土地に縛られて暮らしている。猪甘部のような家畜を飼う職掌民も、馬甘・牛甘がずっと牧場にいるのと同じで西アジアの遊牧民ではない。放浪遊民のような珍しい人を基準にするはずはなく、膝の筋を断つことと彼らが移動しないことを関係づけることはできない。(注11)参照。
(注14)「見しめき」のシメには、動詞「占む」の義とする説と助動詞「む」の義とする説がある。動詞「占む」とする例に、次のようなものがある。

 庚辰に、浄広肆広瀬王・小錦中大伴連安麻呂、及び判官・録事・陰陽師・工匠等を畿内うちつくにに遣して、都つくるべきところめしむ。(天武紀十三年二月)

 先行研究には両説ある。本居宣長・古事記伝に、「志米シメは、しめゆふなど云しめと同言にて、処を求めて、此処ココサダむる意なり」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/490)、中村2009.に、「本文「見志米岐」。『古事記』は使役の助動詞には「令」を用いるからここは異なる。よく見えるように標識を立てた。」(234頁)、西郷2006.に、「辞書によるとセンセンなりでやはり視る意であるから、……市辺王の骨を埋めた処を「見置」いた老女を「置目」と号けたとあるのに応じて「見しき」と持っていったのではないかと思う。……そしてそれはむろん下の「志米須」の地名起源譚にもかかわっている。が、誰に何のためにこの老人のありかをとくと見しめたのかはよくわからぬ。」(157~158頁)、新編全集本古事記に、「「見しめき」の「しめ」は、使役の助動詞で、見せた、の意。……猪甘の老人の子孫に、その老人のかつていた所をよく見せた、ということ。」(365頁)とある。
(注15)河原者とは、屠畜や皮革加工を生業とし、河原やその周辺に居住していたため室町時代にはそう呼ばれた。それ以前にも彼らが河原に住んでいたことは、左経記・長和五年(1016年)正月二日の「伊豆前司陳隆語云、或人元正料宛牛一頭令労飼之間、昨慮外斃之、河原人等来向、剥取件牛之間、腹綿中有黒玉、即河原人等取之去之者、余聞件事、即令尋召件河原人、有相惜気、依加勘責出件玉見之、已牛黃也、感悦尤深々、即取出自懐中令見余、大如卵子、其色黒、此事古語有風聞、令見之希有人希有也、仍記之、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917934/10、漢字の旧字体は改めた)から知られている。動物の解体や皮剥ぎなどを河原で行うことは、水で洗い流す必要があるから当然のことである。都市化によって人間の考えがゆがみ、それを宗教的ドグマが支えた時、そこに暮らし生業とする人を被差別民として扱うようになったとされている。飛鳥時代にそのようなことがなかったのは、アスカの地を都として嫌がることも恥じることもしていないことから窺える。本説話の検証と中世以降のそれら職能民の差別問題は別問題である。
(注16)血も食用とする習慣は、中国でもヨーロッパでも見られ、屠殺にあたって頸動脈にナイフを突き刺すようにして血を抜き取る処置が行われていた。血をとり貯めることが行われていたことは、画像石やブリューゲルの絵画からも知れる。今日でも臓物などに混ぜてソーセージにして食べている。残念ながら、古代日本の屠殺の実態は不明である。崇峻天皇の発言に「いづれの時にか此の猪の頸をるが如く、ねたしとおもへる人を断らむ」(崇峻紀五年十月)とあって、頸を「断」るのは首を落とすような切り方と思われ、そうなるとあたりに血は撒き散らされるばかりということになる。山城風土記逸文の賀茂乗馬の起源譚にある「猪頭」(注11前掲)を、屠殺されたばかりの猪頭を用いたと捉えるか、笹川2008.のように「猪頭」は「猪影」の誤りであるとするか、未確定事項のようである。
(注17)「是以、至于今、其子孫、上於倭之日、必自跛也。」と、「今に至るまで」そういう事情が継続しているという言い方をしている。「斬於飛鳥河之河原、皆断其族之膝筋。」の現場は河内の飛鳥川であるが、都がその河内の近つ飛鳥から大和(倭)の遠つ飛鳥へ遷った「今」でも、と言いたいゆえの語り口である。西宮1986.参照。つまり、近つ飛鳥と(遠つ)飛鳥とにまたがる地名譚として語られている。人々の関心は地にあるからそれを述べているのであって、地理地誌的な興味については頓着していない。翻って考えれば、古事記に語られていることとは、すべて“言葉”上のことであり、見聞録のような場所へのこだわりは乏しい。前提条件なしに話し手と聞き手とが確実に共有しうるものとは、その場に漂っては消えていく声以外にない。ヤマト朝廷の版図下にある人々の間で、言葉(音)ばかりを伝えることによって最大公約数的共通理解を得ようとした活動こそ、記紀に書き残されることとなった上古の言い伝えであった。
(注18)「あしなへぐ」とは、びっこを引くことである。

 即ち、曙立王・菟上王の二はしらの王を、其の御子に副へて遣はしし時、那良戸よりはあしなへめしひ遇はむ。大坂戸よりも跛・盲遇はむ。唯木戸のみ掖月の吉き戸ぞと卜へて出で行く時に、到り坐す地ごとに、品遅部を定めたまひき。(垂仁記)
 蹇 説文に云はく、蹇〈音は犬、訓は阿之奈閉あしなへ、此の間に那閉久なへぐと云ふ。〉は行くこと正しからざるなりといふ。(和名抄)

(注19)儀礼・特牲饋食礼に、「羹のえたるを鼎にたし、門外に陳ぶること初めの如し。(羹飪実鼎、陳於門外如初。)」とみえる。なお、古代日本に青銅器製の鼎を実用としていたとは認められない。鼎形の土器も出土例はないことはないが、脚部分が折れて完形として残るものは稀であり、どこまで実用的であったかも不明である。脚が折れるところは、アシカナヘの“跛”性を表しているものとも受け取れる。鎌倉時代になると鼎形になっている土器は多く見られるようになるが、羽釜になっている点などから古代のそれとリンクするものとは言えないようである。
三足羽釜(瓦質土器、鎌倉時代前期、平安京左京九条二坊十六町跡出土、京都市考古資料館展示品)
(注20)ブタという語の初見は室町時代とされている。古代において、イノシシ(野猪)とブタ(家猪)を言葉の上で区別することはなかった。筆者は、俗称としてブタという語は早く生まれていたのではないかと推測している。その後、飼育は途絶え言葉も影をひそめ、室町時代に復活したかにみえるのではないかと考えている。他の語源説は、瀧川1971.にまとめられている。
(注21)現在主流の“古事記学”での議論のように、外構的に天皇制支配の正統性を主張するものではない。記紀の説話を虚心坦懐に聞けば、それが虚妄であることは明らかであろう。

(引用・参考文献)
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池谷2015. 池谷和信「人類による動物利用の諸相─モンスーンアジアのブタ・人関係の事例─」 松井章編『野生から家畜へ』ドメス出版2015年。
基峰2017. 基峰修「猪甘と角笛─考古資料による比較検討を中心として─」『人間社会環境研究』第33号、金沢大学、2017年3月。金沢大学学術情報リポジトリhttp://hdl.handle.net/2297/47304
西郷2006. 西郷信綱『古事記注釈 第八巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
笹川2008. 笹川尚紀「「大猪甘人面」に関する覚書」『京都大学構内遺跡調査研究年報』2003、2008年3月。京都大学学術情報リポジトリhttp://hdl.handle.net/2433/226582
思想大系本古事記 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・西宮一民・毛利正守・直木孝次郎・蔵中進校注『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』小学館、1998年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(五)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
高橋・内藤・西念・五百藏・三舟2017. 高橋由香莉・内藤千尋・西念幸江・五百藏良・三舟隆之「古代における猪肉の加工と保存法」『東京医療保健大学紀要』第12巻第1号、2017年12月。東京医療保健大学http://www.thcu.ac.jp/research/bulletin.html
高橋・内藤・西念・五百藏・三舟2021. 高橋由香莉・内藤千尋・西念幸江・五百藏良・三舟隆之「古代における猪肉の加工と保存法」三舟隆之・馬場基編『古代の食を再現する─みえてきた食事と生活習慣病─』吉川弘文館、2021年。
瀧川1971. 瀧川政次郎「猪甘部考(上)」・「同(下)」『日本歴史』第272・273号、吉川弘文館、1971年1・2月。
中野2009. 中野謙一「顕宗記の物語」『古事記年報』51号、平成21年1月。
中村2009. 中村啓信訳注『新版 古事記 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
西宮1986. 西宮一民「記紀の近飛鳥・遠飛鳥と大坂越え・龍田越え」『皇学館大学紀要』第24輯、昭和61年1月。
西本2008. 西本豊弘「ブタと日本人」西本豊弘編『人と動物の日本史1 動物の考古学』吉川弘文館、2008年。
馬場2015. 馬場基「古代日本の動物利用」松井章編『野生から家畜へ』ドメス出版、2015年。
林1975. 林巳奈夫「漢代の飲食」『東方学報』第48冊、京都大学人文科学研究所、昭和50年12月。
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平林2007. 平林章仁『神々と肉食の古代史』吉川弘文館、2007年。
フォースター2010. E.M.フォースター、中野康司訳『アレクサンドリア』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2010年。
松井2005. 松井章「狩猟と家畜」『列島の古代史─ひと・もの・こと─2 暮らしと生業』岩波書店、2005年。
松本2011. 松本弘毅『古事記と歴史叙述』新典社、平成23年。

※本稿は、2020年6月稿の誤りを2022年4月に正し、大幅に改稿したものである。

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