古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

応神記の三皇子分治について─「愛」と「悒」の訓みを中心に─

2022年04月03日 | 古事記・日本書紀・万葉集
応神記の三皇子分治記事の解釈の現状

 応神記の三皇子分治の記事は、一般には次のように訓まれている。

 是(ここ)に、天皇、大山守命(おほやまもりのみこと)と大雀命(おほさざきのみこと)とを問ひて詔(の)りたまひしく、「汝等(なむちら)は、兄(え)の子と弟(おと)の子と孰(いづ)れか愛(うつく)しぶる」とのりたまひき。天皇の是の問を発(おこ)しし所以(ゆゑ)は、宇遅能和紀郎子(うぢのわきいらつこ)に天の下を治めしめむ心有るぞ。爾くして、大山守命の白(まを)ししく、「兄の子を愛しぶ」とまをしき。次に、大雀命、天皇の問ひ賜たまへる大御情(おほみこころ)を知りて白さく、「兄の子は既に人と成りぬれば、是れ悒(おほつかな)きこと無し。弟の子は未だ人と成らねば、是れ愛(うつく)し」とまをす。爾くして、天皇、詔りたまはく、「佐耶岐(さざき)、あぎの言(こと)、我が思へるが如し」とのりたまふ。即ち詔(の)り別(わ)きたまはく、「大山守命は山海の政(まつりごと)を為(せ)よ。大雀命は食国(をすくに)の政を執りて白し賜へ。宇遅能和紀郎子は天津日継(あまつひつぎ)を知らせ」とのりわきたまふ。故、大雀命は、天皇の命(みこと)に違(たが)ふこと勿(な)し。
 於是天皇、問大山守命与大雀命詔、汝等者、孰-愛兄子与弟子天皇所-以発是問者、宇遅能和紀郎子有天下之心也。爾大山守命白、愛兄子。次大雀命、知天皇所問賜之大御情而白、兄子者既成人、是無悒。弟子者未成人、是愛。爾天皇詔、佐耶岐、阿芸之言佐至芸五字以音。我所_思。即詔別者、大山守命為山海之政。大雀命執食国之政以白賜。宇遅能和紀郎子所天津日継也。故、大雀命者勿天皇之命也。(応神記)

 この話は理解されているようで理解されていない(注1)。応神記の分注として、「天皇所‐以発是問者、宇遅能和紀郎子有天下之心也。」とある。宇遅能和紀郎子天下を治めさせようという気持ちがあったから、大山守命と大雀命とに問いかけをして、一番下に当たる宇遅能和紀郎子を立てるように誘導しようとしたと考えられている(注2)。その実情が本文を読むことで理解されているかと言えば、要領を得ていない。何をもったいぶって、「汝等者、孰愛兄子与弟子。」と言っているのか不明のままに放置されている。応神天皇の言う「我所思」が何か明らかにされなければならない。
 この記事は、応神記のなかで不思議な位置に置かれている。応神記の説話は次のように配列されている。1后妃と御子(皇統譜)、2三皇子の分治、3矢河枝比売、4髪長比売、5吉野の国主の歌、6百済の朝貢、7大山守命の反乱、8天皇位の互譲と宇遅能和紀郎子の死、9天之日矛、10秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫、11応神天皇の子孫と御陵、という順である。皇統譜の次に、次代のことを決めてしまっている。自分の代に子どもに分担統治させた、いわば摂政のようなことと考えられなくはないが、「山海之政」、「食国之政」、「天津日継」といった区分が何を表すのか不明である。また、そのようなことをなにゆえ治世の最初にしているのかわからない。
 応神天皇は、母親の神功皇后と母子一体であったから、すでに“治世”は皇統譜以前に始まるとも考えられなくはない。仲哀記は、1后妃と御子(皇統譜)、2仲哀天皇の崩御と神託、3神功皇后の新羅親征、4鎮懐石と釣魚、5忍熊王の反乱、6気比大神、7酒楽の歌と御陵、の順である。応神天皇は、5忍熊王の反乱の段には生まれており、6気比大神の段では禊のために淡海、若狭、高志を経廻っており、重要な発語もしてはいる。ただ、それが天皇としての治世かと言えば、太子の立場での行いである。応神記において、最初の治績が三皇子の分治であるという話には違和感がある。天皇になって若いうち、最初に行ったのが遺言ということになっている。応神天皇は治世が盤石であった天皇であり、特に病弱であったという記述もない。遺言を治世の最初にして何がおもしろかったのか、行き届いた理解が求められる(注3)。重大な関心事だったから最初に置かれているのであろう(注4)

三貴士分治と三皇子分治

 応神天皇は一連の問答の後、「即詔別」している。それは、古来から伝わる説話のうち、イザナキが三貴子の分治になぞらえた発語である。

 此の時、伊耶那岐命(いざなきのみこと)、大きに歓喜(よろ)こびて詔(のりたま)はく、「吾は子を生み生みて、生みの終(をへ)に三(みはしら)の貴き子を得たり」とのりたまひて、即ち其の御頸珠(みくびたま)の玉の緒をもゆらに取りゆらかして、天照大御神に賜ひて詔ひしく、「汝(な)が命(みこと)は高天原を知らせ」と事依(よ)して賜ひき。故、其の御頸珠の名は御倉板挙之神(みくらたまのかみ)と謂ふ。次に、月読命に詔ひしく、「汝が命は夜之食国(よるのをすくに)を知らせ」と事依しき。次に、建速須佐之男命に詔ひしく、「汝が命は海原(うなはら)を知らせ」と事依しき。(記上)

 この分治と同じことを応神天皇は統治の初めに行おうとしていた。格好をつけようとしているのであるが、宇遅能和紀郎子への偏愛を含みながら「詔」したかった。さすがに大上段にするのはおこがましい。そこで、三人いる有力な後継候補のうち、二人にカマをかけてみたのである。イザナキが禊祓(みそぎ)の後、たくさん神を成らせた後、最後に言い放ったのと同じ言葉を使って話し出したい。そうしなければなぞらえることにならず、言葉に効力を持たせることができないからである。なぜなら、無文字時代の言語にあって頼りにできるもの、担保となるものとは、人々が通念として抱いている言葉に限られるからである。ヤマトコトバに常識となっていることは人々に通じる。対して、新たに依るところなく言い放った場合、それは誰にも理解されることはない。共通認識とならず、妄言、妖言の類に終る。結果として応神記に話として残っていることは、言っても言わなくても同じようなことではなく、そのとき明確に“意味”ある言葉として通用した言葉である。
 イザナキは、「吾者、生-々子而、於生終三貴子。」と言っている。「得」は、「得たり」、「得つ」などと訓まれている。動詞ウ(得)の連用形はエ(ë 、ア行のエ)である。そのエは副詞として用いられ、よく(……する)、うまく(……する)という意味に用いられている。

 面(おも)忘れ だにもえ為(す)やと 手(た)握りて 打てども懲りず 恋ふといふ奴(やつこ)(万2574)

 このエ(ë 、ア行のエ)と同じ音、言葉に、エ(可愛)という言葉は位置づけられている。

 「あなにやし、えをとめを」……「あなにやし、えをとこを」(阿那邇夜志、愛袁登売袁……阿那邇夜志、愛袁登古袁)(記上)
 「妍哉(あなにゑや)、可愛(え)少男(をとこ)を」……「妍哉、可愛(え)少女(をとめ)を」……妍哉、此には阿那而恵夜(あなにゑや)と云ふ。可愛、此には哀(え)と云ふ。(神代紀第四段一書第一)

 そしてまた、タリという助動詞が完了や存続の意として動詞の終止形を承けるばかりか、中古から体言を承ける断定の用法が見られることも留意すべきである。中古の訓点資料、漢文訓読文に見られる。

 無染著陀羅尼と名く、最妙法が門たるをもちて。(名無染著陀羅尼最妙法門)(西大寺本金光明最勝王経・巻七・無染著陀羅尼品第十三)
 現の閻羅の長姉たりと、常に青色の野蚕の衣を着たり。(現為閻羅之長姉 常着青色野蚕衣)(同巻七・大弁才天女品第十五)

 この用法が、奈良時代以前に遡るという保証はない。けれども、エ(可愛)という語が、接頭語としてばかりか状態語として、ないしは体言に準ずるものとして用いられていたとすると、断定の助動詞タリを記に認めるとするならば、ここに「得(え)たり」と「愛(え)たり」との洒落であるとする考え方を定めることができ、とても魅力的である。

 吾はもや 安見児(やすみこ)得たり 皆人の 得難(かて)にすといふ 安見児得たり(万95)
 或(も)し天若日子が命(みこと)を誤たず、悪しき神を射為(た)る矢の至らば、天若日子に中(あた)らざれ。(記上)

 太安万侶は、古事記を書くのに、エというヤマトコトバを「愛」一字で書き表した(注5)。とても親しい気持ちを、エ(愛)と言っている。親しい気持ちが互いに生まれて初めてイザナキとイザナミのようなカップルは成立する。だから、万95番歌に「安見児得たり」と繰り返しているのは、心と体の両方を get しているということであり、エ(愛)であり、エ(得)である状態、エタリなのだという高揚した歌である。
 大山守命は、「兄の子ぞエたり」と言っている。「兄の子ぞ得たり」のつもりであった。三貴子の分治の話と分かっていて、子を得たのはわかっていて、「孰子」かと言われれば、最初の子をいうのであろうというのが筋である。大山守という名は、大きな山のようなところを守ることを名に負っている。すなわち、山陵を守る墓守である。人の兄と弟では年長者の兄が先に亡くなるのが順序として“正しい”から、どちらをエ(得)たかと聞かれれは、「兄」であると答えてしまったのであろう。しかし、天皇の意図はそのようなものではなかった。

「悒」字についての考察

 応神記のなかの「無悒」字については、イブセキコトナシ(本居宣長・訂正古訓古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2578741/71参照)、ユカシキコトナシ(延佳神主校正・鼈頭古事記、国文学資料館新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100181864/viewer/120参照)、ツツムコトナシ(敷田年治注・標注本古事記、早稲田大学図書館古典籍総合データベースhttps://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri05/ri05_01013/ri05_01013_0005/ri05_01013_0005_p0045.jpg参照)、イキドホリナシ(猪熊本、奈良女子大学阪本龍門文庫善本電子画像集http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y05/html/103/s/p108.html参照)、オホツカナキコトナシ(新編全集本古事記259頁)といった訓が行われている(注6)
 イブセシは「憂鬱な気持ちの晴らし所がなく、胸のふさがる思いである、の意。」(古典基礎語辞典146頁、この項、筒井ゆみ子)、イキドホルは「息がつまる意。晴れない思いで胸がつかえる意から、心中に強い不満や恨みを抱きためて立腹する意となった。」(同106頁、この項、依田瑞穂)、オボツカナシは「対象がはっきりとは認識できない状態をいう。つかみどころがなく不確かなさまや、眼前にない対象について、気にかかっているのだが、様子や動向がよくわからないことを表す。」(同264頁、この項、筒井ゆみ子)、同類のオボホシ(オホホシ)は、「ぼんやりとしていて対象がよくとらえられないさまをいう。」(同269頁、この項、白井清子)、また、ウラムは「不当な扱いを受けて、不満や不快感を抱きつつも、それに対してやり返したり、事態を変えたりすることができず、しかもずっとそのことにこだわり続け、こういうことをする相手の本心は何なのだろうとじっと思いつめること。」(同208頁、この項、白井清子)である。以上を概観しても定めきれないから多様な訓が施されてきた。
 「悒」字の訓詁については、記紀万葉の全例をあげてすでに議論されている。応神記のほかに次のような例がある。必ずしもそう訓むべきとは言えないものもあるが、ひとまず旧訓のもとに記す。

 ①命(みこと)を望(ねが)ひつる間に、已に多(あま)たの年を経たり。姿体(かたち)痩せ萎えて、更に恃(たの)むところ無し。然れども、待ちつる情(こころ)を顕すに非ずは悒(いぶせ)きに忍(た)へじ。(雄略記)
 ②是を以て、一たびは以て懼(おそ)り、一たびは以て悲(かなし)ぶ。俯し仰ぎて喉咽(むせ)び、進退(しじま)ひて血泣(いさ)つ。日夜(ひるよる)懐悒(いきどほ)りて、え訴言(まを)すまじ。(垂仁紀五年十月)
 ③長(ひととな)れるは、多(さは)に寒暑(とし)を経て、既に成人(ひと)と為り、更に悒(いきどほり)無し。唯(ただ)少子者(わかき)は、未だ其の成不(ひととなりひととならぬ)を知らず。是を以て、少子(わかき)は甚だ憐(かな)し。(応神紀四十年正月)
 ④遂に窃(ひそか)に通(たは)けぬ。乃ち悒懐(いきどほりおもひ)少しく息(や)みぬ。(允恭紀二十三年三月、書陵部本訓)
 ⑤今更(いまさら)に 妹に逢はめやと 思へかも ここだ吾が胸 いぶせくあるらむ〔欝悒将有〕(万611、大伴家持)
 ⑥隠(こも)りのみ 居ればいぶせみ〔居者欝悒〕 慰むと 出で立ち聞けば 来鳴くひぐらし(万1479、大伴家持)
 ⑦雨隠(ごも)り 心いぶせみ〔情欝悒〕 出で見れば 春日の山は 色づきにけり(万1568、大伴家持)
 ⑧水鳥の 鴨の棲む池の 下樋(したひ)無み いぶせき君を〔欝悒君〕 今日見つるかも(万2720)
 ⑨うたて異(け)に 心いぶせし〔心欝悒〕 事計り よくせ吾が背子 逢へる時だに(万2949)
 ⑩夢にだに 見ずありしものを おほほしく〔欝悒〕 宮出もするか さ桧の隈廻を(万175)
 ⑪朝日照る 島の御門に おほほしく〔欝悒〕 人音もせねば まうら悲しも(万189)
 ⑫…… 玉桙の 道だに知らず おほほしく〔欝悒〕 待ちか恋ふらむ はしき妻らは(万220、柿本人麻呂)
 ⑬…… 虚木綿(うつゆふ)の 隠(こも)りて座(ま)せば 見てしかと いぶせむ時の〔悒憤時之〕 垣ほなす 人の問ふ時 ……(万1809、高橋虫麻呂の歌集中)
 ⑭……数(あまた)の王子(おほきみ)と諸(もろもろ)の臣子(おみのこ)等、春日野に集ひて打毬(うちまり)の楽(たのしび)を作(な)す。其の日、忽(たちまち)に天陰(くも)り雨ふり雷(かみ)なり電(いなびかり)す。此の時に宮の中に侍従と侍衛と無し。勅して刑罰(つみ)に行ひ、皆授刀寮に散(はら)へ禁(いさ)めて妄(みだ)りに道路(みち)に出づることを得ずあらしむ。時に悒憤(いぶせ)みて即ち斯の歌を作れり。……〔……数王子乃諸臣子等集於春日野而作打毬之楽。其日忽天陰雨雷電。此時宮中無侍従及侍衛。勅行刑罰皆散禁於授刀寮而妄不道路。于時悒憤即作斯謌。……〕(万949左注)
 ⑮……木梨軽皇子を太子(ひつぎのみこ)と為(し)たまふ。容姿(かほ)佳麗(きらぎら)しく、見る者自ら感(め)づ。同母妹(いろも)軽太娘皇女、亦艶妙(いみじ)。云々。遂に窃かに通(たは)け、乃ち悒(いぶせ)き懐(こころ)少し息(や)みぬ。……〔……木梨軽皇子為太子。容姿佳麗、見者自感。同母妹軽太娘皇女亦艶妙也。云々。遂窃通、乃悒懐少息。……〕(万90左注)

 先に万葉集の例を見る。万葉集の⑤⑥⑦⑧は形容詞イブセシである(注7)。イブセシと訓む例は有名な戯書ほかに確かめられる。

 たらちねの 母が養(か)ふ蚕(こ)の 繭隠(まよごも)り いぶせくもあるか〔馬聲蜂音石花蜘蟵荒鹿〕 妹に逢はずして(万2991)
 ひさかたの 雨の降る日を ただ独り 山辺(やまへ)に居れば いぶせかりけり〔欝有来〕(万769、大伴家持)
 九月(ながつき)の 時雨(しぐれ)の雨の 山霧の いぶせき吾が胸〔烟寸吾胸〕 誰を見ば息(や)まむ(万2263)

 ⑥⑦はそのミ語法と目される。一字一音の仮名書き表記に次の例がある。

……  あらたまの 年の五年(いつとせ) 敷栲の 手枕(たまくら)まかず 紐解かず 丸寝をすれば いぶせみと〔移夫勢美等〕 心慰(なぐさ)に なでしこを 屋戸に蒔き生(おほ)し  ……(万4113、大伴家持)

 ⑩⑪⑫は形容詞オホホシ(オボホシ、オボボシ)と訓んでいる。イブセシとオホホシとは語義が近く、意味的にはほぼ同じであるが、句の五音、七音に合うようにされている。⑬⑭は動詞であり、イブセムと訓むかとされている。⑤はオボホシカラム、⑭はオボホシクとも訓まれている。⑮は④の允恭紀二十三年三月条を言い換えているところで、名詞扱いにイキドホリオモヒとも訓まれている。
 注意すべき点として、万葉集の用字は、「欝悒」(⑤⑥⑦⑧⑨)、「悒憤」(⑬⑭)、「悒懐」(⑮)でイブセシの系統の形、「欝悒」(⑩⑪⑫)でオホホシの系統に訓んでいる。「悒」一字ではなく、「欝悒」や「悒憤」、「悒懐」といった熟語でイブセシ、オホホシの義は表されている。ヤマトコトバにダイレクトに「悒」で表されるはずの語に対する派生形に当てているようである。
 古辞書においては、新撰字鏡に「悒 於汲反、欝悒而憂也、悁悒也、伊太弥奈介久(いたみなげく)」、名義抄に「悒 音邑、憂、ナゲク、イキドホル、ツツム」とある。①雄略記の例は古訓にウラミと訓みつつも、本居宣長・古事記伝以降、イブセシが優勢である(注8)。ただ、古辞書に見えないイブセシを当てる必然性は認められない。イブセシは、あるいは歌語かとも思われる。
 一方、②③④の日本書紀古訓はイキドホルの系統に訓んでいる。応神記に該当する部分の③「悒」もイキドホリと傍訓がある。イキドホルは息がつまって晴れない意が原義である。大系本日本書紀に、「イキドホルは、息が鼻を強く通るのが語源。嘆息して強く息をもらすこと。イキドホロシは、嘆かわしい意。」(167頁)とある。下にあげる紀30歌謡は、水鳥が水中にもぐることから息のつまること、視界の悪い水中にいることをも思い描いて嘆かわしいと言っている。漢土に噴出、憤慨など、噴は激しさを伴う指標となる。音フンにも、フンと言って怒るような意味合いがある。なぜ鼻から強く息が出るのか。詰まっていた鼻に圧力がかかって突如通るからであろう。前提となる息詰まりを表す言葉のようである。また、万4154番歌は、鷹狩りのための飼われている鷹のことで、狩り以外の時には頭部全体を覆う頭巾を被せられている。隼頭巾とも称され、「頭巾ヅキン 表は甲斐絹、裏は花色木綿とし、其の中間に、生紙を挟み、生渋にて張り、上部に観世縒を三ヶ所つけ中央なるは三寸程長くし、頭巾を取り外す時之れを引くなり。仕込み上りたる隼に用ふるなり。」(『放鷹』373頁、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213512/212、漢字の旧字体は改めた。)と見える。目も見えず息も詰まって気の晴れないことをいい、そこから一気に解放して飛びたたせているためにそう表現されている。

 淡海の海(み) 瀬田の渡りに 潜(かづ)く鳥 目にし見えねば 憤しも〔異枳廼倍呂之茂〕(紀30)
 …… 白塗りの 小鈴もゆらに あはせ遣り 振り放け見つつ いきどほる〔伊伎騰保流〕 心のうちを 思ひ伸べ 嬉しびながら ……(万4154)

 他の例に、「慨然となげき憤(いきどほり)を懐きて……(慨然懐憤……)」(大唐三蔵玄奘法師表啓平安初期点、築島1955.30頁)という例がある。「紀(ついて)无くして、空しく曲成を苻(にな)へり、謬(あやま)ちて緇徒に歯(まじは)りて慙(はぢ)有り、光替なり、(无紀、空苻曲成、謬歯緇徒有、慙光替、)」に続く文章である。「有慙」とあるから憤懣やるかたないと知れる。「汝、悒(いきとほり)遅(おそき)こと莫れ(汝莫悒遅)」(東大寺図書館蔵大般涅槃経平安後期点)の前も、「是(かく)の如きの悪人我が言(ことば)を信ぜず。是等の為の故に我波旬に告ぐ、(如是悪人不信我言。為是等故我告波旬、)」とあっての発言である。

古事記の「悒」はツツム

 ここまで見てきて、名義抄のツツムという訓も射程に入れるべきと考える。
 万葉集で顕著な形容詞のイブセシ─オホホシに対照となる関係は、動詞のイキドホル─ツツムに当たるのではないか。オホホシの状態に置かれると人はイブセシの気持ちになり、ツツム状態に置かれると人は気持ちからしてイキドホル動作となってあらわれる。すなわち、ツツまれると出口なしの袋小路に陥ってイキドホルことになり、それはオホホシくしてイブセき気持ちであるということである。
 万1479番歌で隠っていたり、万1568番歌で雨降りに隠っていたり、万2720番歌で水鳥の鴨が棲息する池に排水溝がなくて閉じ込められたり、万2991番歌で蚕が繭隠り状態になったり、万769番歌のただ独り山居させられていたり、万2263番歌の九月の時雨に山霧が立ち込められるなど、その場に幽閉的にツツミ置かれたら、気持ち的にはイブセシと感じられると表されている。
 雄略記の例、①は次のような箇所である。

 於是、赤猪子以為、望命之間、已経多年。姿体痩萎、更無恃、然、非待情、不於悒。而令百取之机代物、参出貢献。
 是に、赤猪子(あかゐこ)以為(おも)はく、「命(みこと)を望む間に、已に多く年を経ぬ。姿体(かたち)痩せ萎えて、更に恃む所無し。然あれども、待ちつる情(こころ)を顕すこと非ずは、悒(いぶせ)きに忍(た)へず」とおもひて、百取(ももとり)の机代(つくえしろ)の物を持たしめて、参ゐ出でて貢献(たてまつ)りき。(雄略記)

 この個所の「悒」字について、イブセクテ(本居宣長・訂正古訓古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2578742/34参照)、ウラミニ(延佳神主校正・鼈頭古事記、国文学資料館新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100181864/viewer/161参照)、イブセキニ(敷田年治注・標注本古事記、早稲田大学図書館古典籍総合データベースhttps://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri05/ri05_01013/ri05_01013_0007/ri05_01013_0007_p0007.jpg参照)、ウラミ(猪熊本、奈良女子大学阪本龍門文庫善本電子画像集http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y05/html/103/s/p145.html参照)、イブセキ(新編全集本古事記341頁)といった訓が行われている。ただし、この部分、真福寺本に「陁」とある。
 筆者は、ツツムと訓むのが正しいと考える。ツツムという語は、古典基礎語辞典に、「ツツム(包む)は物の全体を、外にこぼれたりあふれたりしないように別のものでくるむ意。ツツム(慎む)は、人に見聞きされ取り沙汰されるのが不都合な自分の気持ちや行為があらわにならないようにする意。また、相手の思惑や周囲の人目・外聞をはばかって、行為をおしとどめる意。」(796頁、この項、依田瑞穂)とある。物に関してツツム(包)と言っていたのを心情表現にも用いて、自分の気持ちや行為があらわれないようにすることをツツム(慎)としている(注9)
 赤猪子は、「然れども、待ちつる情(こころ)を顕すこと非ずに、悒(つつ)むに忍(しの)びず」と言っているのであろう。直接話法である。「悒」をイブセシの意、心がふさぐ気持ちとすると、待ちつづけた気持ちを表にあらわさないでいると気持ちがふさがって耐えられないから献上品を従者に持たせて参内しましたということになり、赤猪子が自分の気持ちのふさがりに耐えかねて、気持ちを晴らすための捌け口として献上、参内していることになる。雄略天皇は驚いて、「汝者、誰老女。何由以参来。」と問うている。対して赤猪子は、事の次第を述べた後、「然、顕ー白己志以参出耳。」と答えている。自分の志だけは表出しようと参内したばかりです、と言っている。この言葉は文字通りであって、慎みを欠いた行動かもしれないが、鬱憤をぶちまけるためではないと理解すべきである。イブセシといった感情は懐いておらず、ウラムやイキドホルといった感情的行為にも及んでいない。
 さて、応神記の例で、天皇の問いに「無悒」と答えているのは大雀命である。サザキという名の人に特有の必然的な発言であろう。そうでないと一回性の口頭伝承は受け継がれはしない。和名抄に、「鷦鷯 文選鷦鷯賦に云はく、鷦鷯〈焦遼の二音、佐々岐(さざき)〉は小鳥なり、蒿萊の間に生れ、藩籬の下に長ぜりといふ。」とある。今日、ミソサザイと呼ばれる鳥で、巣作りが上手であると思われていたと考えられる。巣の形状は多く壺形で、なかにもう一つ丸い内巣を作っている。すなわち、ツツム(包、裹)ことに長けた鳥である。幼い子を露わにならないように中に隠しつつ、クッション性を持たせて大切に守るようにしている。オホサザキノミコは名に負っていたからそのからくりが理解できていて、言葉に表出している。標注本古事記のツツムコトナシが正解である。
ミソサザイの巣(営巣場所:渓流沿いなどの林内の崖の棚や木の根元、建造物などのすき間、巣:多量のコケを使った側面に入口のあるボール形の巣、大きさ:外径約13cm×11cm、厚さ約15cm、入口約3×3cm、深さ約7cm、大阪市立自然史博物館http://www.mus-nh.city.osaka.jp/tokuten/2003torinosu/virtual/exhibition/16/16_01.html)

 白玉を 包みて遣らば あやめ草 花橘に 合へも貫くがね(万4102)
 たらちねの 母にも謂はず 包めりし 心はよしゑ 君がまにまに(万3285)
 
 鳥が成長したら巣立っていって構わないが、雛鳥の時は飛べないから巣に隠れていないと外敵に襲われる。ツツム(包、裹)ことをしているとは、手中に収まっていることであり、得(え)ていて愛(え)の状態にあるのである。よって、当該箇所は次のように訓まれることが求められる。

 是に、天皇、大山守命と大雀命とに問ひて詔(のりたま)はく、「汝等は、兄(え)の子と弟(おと)の子と孰(いづ)れか愛(え)たり」とのたまふ。……爾に、大山守命の白(まを)さく、「兄の子ぞ愛(え)たり」とまをす。次に大雀命は、天皇の問ひ賜へる大御情(おほみこころ)を知りて白さく、「兄の子は既に人と成れば、是(これ)悒(つつ)むこと無し。弟の子は未だ人と成らざれば、是ぞ愛(え)たり」とまをす。

 応神天皇の質問の意図は、エは「可愛」の意味であった。年若く美しい意を褒め、美称とされることがある。歳を取るにつれ、幼いほうの末っ子をかわいがる傾向も生まれる。
 天皇が聞きたかったことは、子を「得(え)」たのだけれど、子のなかで「愛(え)」なのは、自分としては宇遅能和紀郎子だと思っているのだが、イザナキが禊祓の後に得た三貴子を分治させたのとでは順序が違ってしまう、それを指弾されないような何かうまい方策、考え方はないかということであった。無文字時代のヤマトコトバにとって、言(こと)=事(こと)であったから、言葉として上手に頓智が利かせられないかということ、それが問いの本旨であった。そこで大雀命は「弟の子」は「愛(え)たり」という言い方をし、「兄の子」、すなわち、大山守命の慎みのなさについては、ツツムコトナシと評している。
 天皇は、自分の意をくみ取った大雀命の優等生的な回答を褒めている。「佐耶岐、阿芸之言、如我所_思」と言っている。呼びかけの言葉に、「あぎ」と言っている。最初の問いかけの際には、「汝(なむぢ)」(注10)であった。アギという言い方は、ナムヂやイマシなどよりもずっと親密感が強い。そして、言いたかったことは、「え(可愛)」という親密感ある心情である。「可愛(え)少男(をとこ)」、「可愛(え)少女(をとめ)」といったカップルの濃密な仲良し関係においてのみ交わされる言葉である。親愛の情がよくわかるねえということで、大雀命は持ち上げられている。その際にも、「あぎの言(こと)、我が思へるが如(ごと)」と言っている(注11)
 ここに、天皇は「詔別」する条件が整った。三貴士の言い伝えにあったように、子を「得(え)」ていて、しかも、どの子が「愛(え)」なのか、聞く人々にも共通の理解として提示できるほど整ったのである。独断や偏見でないことを、大雀命が上手に表現してくれていた。そこで、三皇子の分治を「詔別」するという大それたことをした。無文字時代に、言葉は事柄と同じことになるように志向された。そうしなければ無秩序に陥るからであり、そこに言霊信仰の基があった。言い放ってしまったということは、それが事実として作用するということになる。だから、その結果、「故、大雀命者、勿天皇之命也。」と結ばれている。天皇の御言(みこと)は天皇の御事(みこと)として布かれ、仁徳記へとつづいている。

(注)
(注1)新編全集本古事記に、「三皇子をめぐる話は、天皇に収斂する「天下」のあり方を表しだす。……臣下の行うべきものとしての「政(まつりごと)」を、天皇が「聞こし看す」ところで成り立つ世界の完成である。」(259頁)と理屈がこねられている。この主張は立証することも反証することもできない。
(注2)西郷2006.に、「細注「天皇是の問を発したまひし所以は、云々」はおそらく後人の挿入であろう。ウヂノワキイラツコ・・・・・・という名がすでに若くていとしい子の意であり、この子を王位につけたいとする以下の話は、いうなればこの名のおのずからなる帰結をかたろうとするものにほかならないからである。」(268頁)という見解の、前半は本居宣長・古事記伝に同じく、後半は「さかしだちたる論ヒ」と評されるようなものである。細注から議論を展開させるのではなく、本文から論理立てて読み、わざとに細注を施して笑い話にしている太安万侶の工夫に思い至らなければならない。
(注3)古事記において、それぞれの天皇代の構成は、皇統譜に始まり、天皇の崩年、御陵の記事に終るのが通例である。応神記においてのみ、応神天皇の子孫の話が追加されてから崩年、御陵の記事を載せている。一説に、継体天皇への系譜を予感させるためとの漸弱な議論があるが、子孫の話を冒頭の皇統譜に一括しなかった点は、三皇子分治記事を優先させたかったためであろう。
(注4)記は、天皇代ごとに並べられて完結するように書かれている。三皇子の分治の話が重要なのは、応神天皇の時代、ならびにその人物像を描くにあたって重要であるということである。
(注5)拙稿「垂仁記の沙本毘売命物語の抜本的読み替え─「愛」字の訓を中心に─」参照。そこでは、ヲ(夫、諾)と言うのとセ(兄、諾)と言うのとでは、どちらがエ(愛)というに値するか、という問いかけをしている。エ(愛)は情態を表す名詞のように用いられている。
(注6)本居宣長・古事記伝に、「無悒は、伊夫世伎許登那伎袁イブセキコトナキヲと訓べし、万葉…などあり、又意富都加那伎許登那伎袁オホツカナキコトナキヲとも訓べし、万葉……などあり、又師は、伊布加志美那志イフカシミナシと訓れたり、此もよし、……万葉……などあり、……又書紀にも、ココの文無悒矣とありて、伊伎杼本理那志イキドホリナシと訓る、ソレもよし、神功巻……万葉……などあり、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/248〜249)とある。みな同じような意だからどれでもかまわないとしているが、同じ意味に複数の言葉を宛がって行っては、言葉の世界は大渋滞を来す。まして無文字時代に言葉の数が増えたら、訳が分からなくなるであろう。要するに定めきれていないのである。
(注7)小野1982.は、⑧の解釈について、「「いぶせし」とは己れの感情であろうから、どのような形であれ「いぶせし」と歌う時、それは作者の心であろう。……「今日見つるかも」……[と]その見たよろこびの対象が「欝悒君」なのだから、[『全註釈』のとおり]言葉は足りない」(130~131頁)としているが、そうとは限らない。下に述べるように、「繭隠り」の状態をイブセシと形容するのであるから、~のように見える(look like)場合も「欝悒君」と言って正しいと考える。
(注8)勝俣2017.は、ここもイブセシと訓むのではないかとし、逆にイブセシの語義のほうを拡張させて捉えようとしている。
(注9)真福寺本の「陁」字は、あながち誤字とは言えない。陁は陀に同じ、玉篇に「陂陀 険阻也」とあり、説文に「陂 阪也、一曰沱也、从𨸏皮声」とある。つまり、「陁」とは土坡、堤防の傾斜の険しいところをいっている。ツツミ(堤、陂)のことをきちんと示している。イブセシの例の⑧に、「水鳥の 鴨の棲む池の 下樋(したひ)無み いぶせき君を 今日見つるかも」(万2720)とあった。「池の下樋」とは溜池の排水溝のことである。イブセシ─オホホシ、イキドホル─ツツムの関係に言葉を捉えた時、池の堤が登場する理由は理解されよう。あふれないようにするのがツツムである。
(注10)新校古事記は、「汝等」をナレタチと訓んでいる。
(注11)「如」はゴトシではなく、簡潔にゴトと訓むのが良いであろう。「言(こと)」と「如(ごと)」がきれいに対応するからである。

(引用・参考文献)
小野1982. 小野寛「「おほほし・いぶせし」考」『論集上代文学 第十二冊』笠間書院、昭和57年。
勝俣2017. 勝俣隆『上代日本の神話・伝説・万葉歌の解釈』おうふう、平成29年。(「「いぶせし」語義考」『長崎大学教育学部人文科学研究報告』第39巻、1989年6月。長崎大学学術研究成果リポジトリhttp://hdl.handle.net/10069/33055)
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
新校古事記 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編『新校古事記』おうふう、2015年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
西郷2006. 西郷信綱『古事記注釈 第六巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
大系本日本書紀 大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
築島1955. 築島裕「知恩院藏大唐三藏玄奘法師表啓古點」『訓点語と訓点資料』第4号、1955年5月。国会図書館デジタルコレクションART0004665789.pdf
『放鷹』 宮内省式部職編『放鷹』吉川弘文館、昭和7年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213512

(English Summary)
In Kojiki, Emperor Ojin asked his sons, Prince Öföyamamori and Prince Öfösazaki, “Which of the child do you think is dearer?” They answered each, Öföyamamori was wrong and Öfösazaki was right. Until now, it has not been understood what the question and answer meant. In this paper, we will recognize well “ë” in ancient Japanese, and examine ancient various examples of the kanji “悒” and verify what it expressed. And we will find out the reason that the right answer to that question was done by Öfösazaki. His name, Sazaki, meant a wren, which was good at nesting. The nest is shaped to wrap around a bag. To wrap was “tutumu” in ancient Japanese, and “tutumu” was also meant to conceal one’s feelings. There Öfösazaki was inspired. In Kojiki, these verbal wordplay stories were told.

※本稿は、2020年8月稿を改稿し、2021年8月稿の誤りを正した2022年4月の新稿である。

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