風と光と大地の詩

気まぐれ日記と日々のつぶやき

万葉集覚書9

2019年11月03日 | 万葉集覚書
万葉仮名はどうして時代が降る中で読めなくなってしまったのだろうか。それもわずか百数十年という短い間に。この断絶はいかにも不可解である。和歌を読む歴史が途絶えたわけではない。漢字漢文は連綿として伝えられている。和歌を読み記録するのに必須であった万葉仮名が、ある広がりを持って普及していたであろうにもかかわらず、何故歴史のある時点で途絶えてしまったのだろうか。(木簡の出土などを考えると、万葉仮名が大伴家持を始めとした一部の宮廷貴族などある特定の小集団でしか通用していなかったとは考えにくい。柿本人麿歌集や山上憶良の類聚歌林など万葉集に先行する歌集も万葉仮名で書かれていたのではないだろうか)
万葉仮名を使わないとすると、和歌を詠む者はどうやって記録していたのだろうか。ある時点で誰かの発案又は朝廷の命令で、現行の(今に続く)仮名が一斉に施行されたわけではないだろう。これは大いなる謎というべきだ。
10世紀半ば、源順ら梨壺の五人が古今集に次ぐ勅撰集を編纂するかたわら、万葉仮名で書かれ当時すでに読めなくなっていた万葉集の読解を始めたということだが、古今集には万葉集にもある持統天皇の歌も(句が若干異なっているが)載せられている。誰も万葉仮名を読めなくなって口で伝承されていたから句の違いが生じたのかもしれない。万葉仮名のテキストがそもそも古今集の編者の手元にあったのかもわからない。
万葉仮名の断絶はこれ自体一つの「事件」と言って良いのではないだろうか。何らかの人為的なもの、作為がそこに働いていたと見られないだろうか。
大伴家持が天平宝字3年(759)正月、因幡国庁での新春を寿ぎする作歌を最後に忽然と和歌の歴史から消えてしまったことと、このことは何か関係があるのだろうか。この後さらに数十年、家持は生きながらえているのに、あれほど日常的に歌を詠んでいた家持の歌が一首も残されていないのも不思議だ。おそらく家持の手元にあったであろう万葉集が後世に残ったのも不思議ではあるが。









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