小学校のとき、文章を書くことでたいへん難儀した。詩も作文も、できれば自分とは無関係であってくれと願い、それでも文集を出したりすることがあり、最後まで”入稿”が遅れた。
今でも明確に憶えているのは小学校の卒業文集を作っている時で、最後までぼくはここに載せる詩が書けずにいた。授業が終わると担任の守口先生から早く書くように促されていたが、遂に〆切日が迫ってきたのだろう、ぼくは捕まってしまった。そして放課後の教室で原稿用紙一枚の詩を書くように迫られた。さしずめ今でいう”缶詰め”である。だが、書けない。”詩にするほどのことが自分にはないのだ……”そんな言い訳を持っていて、聞かれたらそう答えようと考えた。だが教師は「どうして書けないの?」という質問を投げかけず、「君は、動物なら何が好き?」「花なら?」「乗り物は好き?」という、別の場所から「?マーク」を投げかけて来るのだった。ぼくはすぐにこの「遠近法攻撃」に幻惑され、「サイが好きです」とか「チューリップです」「長距離列車」と、すらすらと答えてしまっていた。先方の作戦勝ちである。結局、自然に関する詩を書いた憶えがあるが、小学校卒業するまで、とにかく”ものを書く”ことが嫌いだった。
だが、人の心は変わっていくのである。
小学校卒業と同時に引っ越しをした。それまで住んでいたところも大概の田舎だったが、次に移り住むところは造成されたニュータウンではあったけれど、地元はさらに田舎の濃厚さを持っているような土地であり、山は深く、道は埃っぽく、川はワイルドで、そこに暮らす同年代の少年達は、これまで知っていた少年達とは違い、ずっと緑色だった。少女達は柿やアケビのような印象だった。中学入学までの退屈な春休みの夕方、立ち寄った初めての近所の書店で、「中原中也詩集 大岡昇平編」を開き、その一行目を読んだときに謎が解けた。「春の日の夕暮」と題されたその詩は
「トタンがセンベイ食べて/春の日の夕暮は穏かです/アンダースローされた灰が蒼ざめて/春の日の夕暮は静かです」
まさに春の日の夕暮れにこの詩を立ち読みしたのだ。しかも「トタンがセンベイを食べる」ってどういうことなのか、まったく説明されていない。350円を支払って、初めて詩集というものを買った。
その後、中学校の図書館でもっと分厚い中也の詩集を手にして、
「月夜の晩に、ボタンが一つ波打ち際に、落ちてゐた。」
「幾時代かがありまして 茶色い戦争ありました」
といった文字を眺め、さらに図書館の詩の棚にあった、さほど多くもない詩集のページを開き、
「雑草が/あたり構はず/延び放題に延びてゐる。」(北川冬彦)
「鹿は/森のはずれの/夕日の中に/じっと立っていた」(村野四郎)
「雨の中に、/馬がたつてゐる」
「約束はみんな壊れたね。/海には雲が、ね、/雲には地球が、映つてゐるね。 」(三好達治)
といった、国語の教科書にも載っていた詩を見つけ、別のページに書かれた詩篇を見て、同じ詩人にもいろいろな詩があるものだと感心した。
高校になると背伸びしたい、自分はもう大人だと思い込み、
「あてどない夢の過剰が、ひとつの愛から夢をうばった。おごる心の片隅に、少女の額の傷のような目がある。突堤の下に投げ捨てられたまぐろの首から噴いている血煙のように、気遠くそしてなまなましく、悲しみがそこから噴きでる。」(大岡信)
「わたしの屍体を地に寝かすな/おまえたちの死は/地に休むことができない/わたしの屍体は/立棺のなかにおさめて/直立させよ」(田村隆一)
こうした、ラグビー部のくせに同人誌を発行している、今思えば実に鬱陶しい奴は、大岡や田村のように劇的な言葉を並べる詩人に入れ込んだ。だが教科書に載っていた次のような詩にも心が動いていたのも確かで、
「どうしてこんな解りきったことが、/いままで思いつかなかったろう。/敗戦の祖国へ君にはほかにどんな帰り方もなかったのだ。/---海峡の底を歩いて帰る以外。」(井上靖)
この詩と、高校3年の国語の教科書に載っていた大岡昇平の『俘虜記』によって、戦争記録文学の存在を知った。そしてこれは大学入学後も続いた。
大学生になると、さまざまな詩が目の前に登場した。
「全然黙っているっていうのも悪くないね/つまり管弦楽のシンバルみたいな人さ/一度だけかそれともせいぜい二度/精一杯わめいてあとは座ってる/座ってる間何をするかというと/蜂を飼うのもいいな/とするとわめく主題も蜂についてだ」
「真夜中のなまぬるいビールの一カンと/奇跡的にしけっていないクラッカーの一箱が/ぼくらの失望と希望そのものさ」(共に谷川俊太郎)
「もっと強く願っていいのだ/わたしたちは明石の鯛がたべたいと/もっと強く願っていいのだ/わたしたちは幾種類ものジャムが/いつも食卓にあるようにと/もっと強く願っていいのだ/わたしたちは朝日の射すあかるい台所がほしいと」(茨木のり子)
「写真機のファインダーからのぞくと/そこには べつの遠い秋/理髪店の壁の煉瓦は 柿色に涼しく/その窓に大きく浮かぶ猫の目は/赤青白のねじりん棒のかたわらで/雲間でも 視つめたように澄んでいる。」(清岡卓行)
といった詩群……ふとした一節を憶えているだけで、すべてを記憶しているわけではない。だが、なんとなく諳んじている詩篇もある。三好豊一郎の「トランペット」という詩で、これは芝居のなかで使ったから、いわば耳で憶えてしまった。
「身勝手なことばのかずかずは血の中で腐ってる/青春は去った とうの昔にわしの青春は去った/わしの努力は人知れず麦畑の上で乾いてる/虱の血でよごれた敷布にくるまって わしはひたっすらわしの臍緒をさがしてる」
ここからまだまだ長く続くのだが、詩が朗読することによって活字を追うのとはまったく別の生命体になることを知ったはじまりだった。その後、長谷川龍生の「恐山」などを知り、鴨川の河原で大声だして読んだりしていた。同じく、粟津則雄訳のランボオや、ボードレールなども身近になった。そしてさらに、寺山修司や塚本邦雄の短歌に遭遇する。
「新しき仏壇買ひに行きしまま行くえ不明のおとうとと鳥」
「村境の春や錆びたる捨て車輪ふるさとまとめて花いちもんめ」(寺山修司)
「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」(塚本邦雄)
こんなふうにして詩歌に出会ってきたが、ぼくは一冊の詩集も出してはいない。詩を書いているけれど、それは自己満足のためだ。それにどこか、いずれ書く戯曲の下書きだと考えているところがある。詩の朗読を引き延ばした形が、ぼくの描く演劇の形であり、どこか独りよがりなところがある、という指摘はなんどもあった。だが、ダイアローグの芝居や群衆劇などがある一方、詩劇のようなものがあってもいいと思う。
今の時期、ふと思い出して引っ張り出してきた短歌がある。塚本邦雄さんの作品だ。
「さみだれにみだるるみどり原子力発電所は首都の中心に置け」