戦後の混乱期、水産庁が日本各地の漁業史関連の古文書を集め、資料館を設立しようというプロジェクトが始まった。そこに関わったのが歴史学者の網野善彦さんだ。
職員が全国各地に散らばり、古文書を収集し、それを整理して、筆写するというものだ。そして借りた古文書は持ち主に返却するというはずだった。
しかしこのプロジェクトは中断してしまう。そのとき、主体となっていた日本常民文化研究所に集められた古文書は、およそ百万点。資料館の設立自体がご破算になってしまったから、その貴重な資料はリンゴ箱に入れられたまま放置されてしまう。
網野さんはそれに対して心痛め、少しずつ返却することを決意する。いくらかの寄贈はあったものの、百万点の資料である。
網野さんはこの作業に40年の歳月をかけて取り組んでいく。その模様がこの本に記述されている。
返却は苦難の旅になると覚悟した網野さんだが、古文書を持って恐々と低姿勢で現地に向かい、相手に説明すると、「これは美挙です。快挙です。今まで文書を持っていって返しにこられたのはあなたがはじめてです」という言葉を返される。読んでいて感動してしまう。
霞ヶ浦、瀬戸内海の二神島、能登半島、若狭、対馬と旅が続く。そこで網野さんは、その古文書を借りた当時のことを思い出す。
何十年かの時が流れて、借りた当時の風景、漁業、現地の暮らしが大きく変貌していることに気づく。豊かな自然が失われ、利便性という名の一種の破壊行為が遂行され、文化が消滅していることに網野さんは悄然とする。
だが、返却するために訪ねた先で、また新たな古文書が見つかる。網野さんはそこからまた始まるものがあると実感する。終わったと思ったところから始まった新たな旅である。
網野さんという方は、こつこつと誠実に動き回った人物なのだろう。文章からその人柄がうかがい知れる。苦渋や悔恨もあるはずなのに、それらは一切浮かび上がってこない。
良い本である。昭和の日本の澄んだ青空が見えてくる気がした。