泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

いのちの芽

2025-01-22 19:06:34 | 読書
 ごく個人的「選考委員の方々の作品を読もう」キャンペーンは継続しているのですが、年始一冊目はこの本にしました。
 詩集。私の創作も詩から始まっているから。初心に返りたい気持ちで手が伸びました。
 ただの個人詩集ではなく、ハンセン病の療養所で暮らさざるを得なかった方たちが書かれた詩を集めたものです。この詩集が刊行されたのは1953年のこと。それが70年の歳月を超えて初めて文庫になりました。
 私の住まいの近くにある国立ハンセン病記念館が詩の企画展をしたとき、特別に非売品として配られたものでもありました。私はその会場には行けなかったのですが、読みたいとは思っていました。
 どうしてなのか?
 ハンセン病記念館のある多磨全生園が、私の通学路内にあったからか。
 それもありますが、創作の原形があるように感じていて。
 記念館の多くの展示に接すると、創作活動というものが人間であることの最後の砦になるのだと感じられてきます。どこにも行けず、名前すら消されて、病によって指や目さえも奪われ、家族にも会えず、絶望したり狂ったりするのが普通のような状況に置かれて、なお人間であるために何が必要なのか。
 創作の展示の会場の入り口には、「舌読」されている方の写真が大きく掲げられています。指を失った人は点字を舌で読むのです。舌を酷使すると血が流れたと言います。そこまでして触れたいもの、感じたいもの、確かめたいものが言葉。いや、言葉を通じて暗示されるもう一つの世界なのかもしれません。
 もう一つの世界とは何でしょうか?
 優れた詩は、そのもう一つの世界が確かにあることを示してくれているように思います。
 この詩集で特に印象に残った詩人に志樹逸馬がいます。彼の詩を二つ紹介します。
 一つ目は「芽」。帯に引用された作品でもあります。

  芽

 芽は
 天を指さす 一つの瞳

 腐熟する大地のかなしみを吸って
 明日への希いにもえる

 ひかりにはじけるもの

 芽は
 渇いている 飢えている
 お前はもはや誰れのものでもない
(廻天する地球の風にゆれる
 花のものだ)

 ゆっくりと読んでみてください。
 何度も、何度も。声に出してみても。
 読むたびに、様々な景色が見えてきませんか?
 どんどん深まっていきませんか?
 立ち止まってよくよく見てみれば、草木の芽吹きにもこんなもう一つの世界があったのだと知られてくる。
 かなしみは腐熟するということ。そのたくさんのかなしみを吸って、芽は、明日への希いにもえ、ひかりにはじける。天という目標をはっきりと見つめて。
 飢えていて渇いている芽は、もはや所属を超えている。それこそがもう一つの世界とも言えます。そこで人々は仲間になれます。
 志樹さんは1917年、山形県生まれ。13歳で発病し、多磨全生園に入った後、岡山県の瀬戸内海に面した長島愛生園に移ります。17歳から創作を始めていたそうです。
 愛生園は当時、船でしか渡れなかったそうですが、詩作をともにするため詩人の永瀬清子は通っていました。神谷美恵子の「生きがいについて」(みすず書房)の中に、志樹さんの作品が引用もされているようです。この辺の事情はハンセン病記念館が開催した若松英輔さんによる公演「志樹逸馬の詩と出会う」に詳しいのでリンクを貼っておきます。
 もう一つは「青空」。

 青空

 青空には
 永遠につらなる人間の生命のつぶやきがある

 じっと見ていると
 それはしずかな輝きを増してくる
 ——果てしない深みの中に
 人間の 汗や よろめきや 悶えが
 皆んなここで濾過されて
 澄んだほほえみや涙になってかえってくるような気がする

 多くの人の希いも手と手を握る温味も
 青空は いつも見ていてくれる

 天はまねき 地はささえる
 生きとし 生けるものを
 私の十字架も
 青空の瞳の中に かかっている。

 青空が、どうしてこんなに気持ちいいのか、その理由が書かれていたように感じました。そうか、そこには永遠につらなる人間の生命のつぶやきがあったからか。
 永遠。これもまたもう一つの世界ですね。
 でも確かに、青空はいつも私たちを見てくれている。
 瞳。その中に私も還っていくという信頼感。

 本のカバーの絵は、当時小学校6年生だった愛生園の山村昇さんによるものです。
 瞳の中に映っているのは故郷。思い出の中でしか見ることのない故郷。帰りたくて帰りたくてたまらない故郷の姿。
 隔絶されて、社会との関わりを禁じられて。
 見つめ続けるしかなかったいつもここにある大地や空に、もう一つの世界を見出した志樹逸馬。
 詩はいつも呼びかけています。立ち止まることを。
 この詩集の感想を書こうと思っていたころ、私は思いがけず胃腸炎を患いました。久々に熱が37.4度まで上がり、日曜は仕事を休ませてもらい、月、火となんとか復帰できましたが、まだお腹はゴロゴロ言っております。
 今月は150キロ走るぞ、なんて頑張ってましたが、お腹がついてこれなかったようです。食べ過ぎもあるでしょう。冷えもあった。疲れもあった。今思えば、思い当たることばかりです。「お前はこれくらいしないとわからないからな!」というお腹の声も聞いた気がしています。
 しかしその思うように動けない間、この詩たちとより深く関わることができました。ハンセン病記念館による若松さんの講演もYouTubeで視聴しました。合わせて3時間近くありましたが面白くてあっという間でした。
 目標に向かって頑張っていくこともいい。だけど、じっくりと胃腸を労わる時間があってもいい。病気や怪我をしなければわからないことはたくさんあります。
 詩も、その必要性は普段あまり感じられないかもしれません。だけど、自分の存在が脅かされたり弱ったりしている危機のときほど味方になってくれるものです。「アンパンマンのマーチ」が大震災の直後、たくさん再生されたように。作詞したやさせたかしさんもまた詩人でした。
 情報操作の世の中ですから。言ったもの勝ちみたいでもあり、弱者を前提にした強者たちもいる。SNSはなりすましばかり。ポスト真実の時代なんて言われたりもする。
 でも、本当に強く生きるってどういうことなのでしょうか?
 一つ一つの詩と出会うこと。沈黙を保って受け皿となること。
 悲しみを拒まず、腐熟させるのだと耕すこと。
 来るべきものたちのために。
 文学(本)は、しなやかでたくましく、信頼できると改めて思います。
 まるで芽のように。

 大江満雄 編/岩波文庫/2024


 
 
コメント
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