作家の石牟礼道子さんと写真家の藤原新也さんの対談。
対談されたのは2011年6月13日からの3日間。熊本市の石牟礼さんの自宅で。
この本が刊行されたのは2012年3月。東日本大震災から1年を待っていたかのように。
昨年、熊本城マラソンに参加しましたが、泊まったホテルのすぐ近くにあった古書店・舒文堂(じょぶんどう)河島書店で入手しました。
私もまた1年寝かせていました。
再び3・11が巡ってきて「読もう!」と思い立ちました。
読み進めていくうちに、閉塞感が募っていきます。
歴史は繰り返す。水俣で起きたことが、そっくり福島でも繰り返されて。
どのようにして水俣病を発生させた会社「チッソ」が水俣に入ったのか、石牟礼さんの語りによって解き明かされていきます。
まずは「電気」だったそうです。
それは会社のための電気(チッソははじめ水力発電の会社でした)ですが、付近の住民宅にも電気はやってきた。
石牟礼宅では、豆電球の下で、正座してその瞬間を待ち侘びたとか。
明かりが灯った瞬間の喜び。これでもう田舎じゃない、という思い。容易に「会社」への敬意が生まれるのを想像できます。
次には「製品」を輸送するための港づくり。それに道。
石牟礼さんの祖父は石工で、会社の港を作るために水俣の対岸にある天草からやってきた。
石山をいくつも持ち、丁寧に石を積み重ねて道も作った。
これからは道が大事だと、石牟礼さんは「道子」になった。
会社が次に何を作ったかというと、化学肥料です。
それまでは肥溜めから畑まで発酵した人の糞尿という肥料を運ばなければならなかった。しかも急な坂道を上って。腰を痛めてしまう人たちが多かった。
そこにぱらぱらと撒くだけでいいものが出てきた。これもまた容易に脱人糞に傾くのは想像できます。
会社が毒(メチル水銀)を吐き始めたのはその次の製品(アセトアルデヒド・酢酸や塩化ビニールの原料)の廃棄物として。工場内で爆発もあり、会社員たちも命懸けで、実際水俣病に罹った人たちもいた(当然隠されました)。
会社は、害が出るのはわかっていた。事前に承諾書を地元の漁師たちに認めさせてもいた。
わかっていて、1932年から1968年まで、実に34年間も公害の原因を垂れ流し続けていました。
そのことで、健康を損なった人たちは8万人以上(国は調べていません)と言われていますが、「水俣病患者」と認められた人たちは2283人(水俣病センター相思社のホームページによります)に留まります。
差別も発生しており、自ら申し出ることを控える人たちもいるでしょう。
訴訟は今でも続いています。先日も、熊本地裁で、原告(被害者側)の訴えが退けられています。
現実は、とても複雑です。
石牟礼さんの「苦海浄土」は代表作ですが、水俣では売れないと言います。会社の恩を裏切ることのできない人たちもいます。
会社出身の人が、水俣市の市長を務めていたこともある。
石牟礼さんに学ぶべきは、当事者の思いをできるだけそのままに言語化し、伝え続けたこと。頭にある言葉だけでなくて、五感を使って。
石牟礼さんがいたから、私にまで水俣の人たちは見えてきた。
人にとって便利なものを開発する会社。ある一部を特化することで製品は生まれる。だけど、切り離されるものも必ず生まれる。人にとって都合の悪いものが。
電気のない今これからは考えられない。
一方で、クリーンな電気なんて本当に存在するのか、思うことも捨てない。
対等な人同士として対話する。
どうしてそれがそんなに難しくなってしまったのか、と思います。
コンクリートで固めること。それが「近代化」であり「脱田舎」であり「進歩」であった時代。
コンクリートには波が当たると「ざばーんざばーん」とただうるさいだけ、と石牟礼さんは言います。
渚や浜、自然を生かす手作りの石垣というものがある。隙間があって、そこには生き物が住める。
水俣と福島は未来だと思います。
人が超えていかなければならない課題を提出した場所として。
対話しかない。と私は思っています。
複雑であればあるほど。もう一部の政治家(とその一味)が決めて、一方的に「説明」する時代なんかじゃない。
白か黒かじゃない。
複雑さを単純化するところに嘘が発生します。そしてその嘘は隠される。毒と同じで。
花というのは、人間の中にある生命としての強さのようなものでしょうか。
水俣病に侵されても、その人が紡いで物語る中に、花は垣間見えて、希望が光るようでした。
当然、話に花が咲くためには、語りを聴く人がそばにいます。分断ではなく、舫(もや)い。
舫うとは、船と船をつないだり、船を岸につなぐこと。
「知らないことは罪」そうおっしゃった方がいました。杉本栄子さん。石牟礼さんが紹介しています。
近代は罪に満ちています。私もはっとしましたのでここに記しておきます。(134ページ15行-135ページ10行)
「道子さん、私は全部許すことにしました。チッソも許す。私たちを散々卑しめた人たちも許す。恨んでばっかりおれば苦しゅうてならん。毎日うなじのあたりにキリで差し込むような痛みのあっとばい。痙攣も来るとばい。毎日そういう体で人を恨んでばかりおれば、苦しさは募るばっかり。親からも、人を恨むなといわれて、全部許すことにした。親子代々この病ばわずろうて、助かる道はなかごたるばってん、許すことで心が軽うなった。
病まん人の分まで、わたし共が、うち背負うてゆく。全部背負うてゆく。
知らんちゅうことがいちばんの罪ばい。人を憎めば憎んだぶんだけ苦しかもんなあ。許すち思うたら気の軽うなった。人ば憎めばわが身もきつかろうが、自分が変わらんことには人は変わらんと父にいわれよったがやっとわかってきた。うちは家族全部、水俣病にかかっとる。漁師じゃもんで」
こうおっしゃったのは杉本栄子さんという方ですが、亡くなってしまわれました。彼女が最後におっしゃったひとことは、「ほんとうをいえば、わたしはまだ、生きとろうごたる」というお言葉でした。
石牟礼道子・藤原新也 著/河出書房新社/2012
対談されたのは2011年6月13日からの3日間。熊本市の石牟礼さんの自宅で。
この本が刊行されたのは2012年3月。東日本大震災から1年を待っていたかのように。
昨年、熊本城マラソンに参加しましたが、泊まったホテルのすぐ近くにあった古書店・舒文堂(じょぶんどう)河島書店で入手しました。
私もまた1年寝かせていました。
再び3・11が巡ってきて「読もう!」と思い立ちました。
読み進めていくうちに、閉塞感が募っていきます。
歴史は繰り返す。水俣で起きたことが、そっくり福島でも繰り返されて。
どのようにして水俣病を発生させた会社「チッソ」が水俣に入ったのか、石牟礼さんの語りによって解き明かされていきます。
まずは「電気」だったそうです。
それは会社のための電気(チッソははじめ水力発電の会社でした)ですが、付近の住民宅にも電気はやってきた。
石牟礼宅では、豆電球の下で、正座してその瞬間を待ち侘びたとか。
明かりが灯った瞬間の喜び。これでもう田舎じゃない、という思い。容易に「会社」への敬意が生まれるのを想像できます。
次には「製品」を輸送するための港づくり。それに道。
石牟礼さんの祖父は石工で、会社の港を作るために水俣の対岸にある天草からやってきた。
石山をいくつも持ち、丁寧に石を積み重ねて道も作った。
これからは道が大事だと、石牟礼さんは「道子」になった。
会社が次に何を作ったかというと、化学肥料です。
それまでは肥溜めから畑まで発酵した人の糞尿という肥料を運ばなければならなかった。しかも急な坂道を上って。腰を痛めてしまう人たちが多かった。
そこにぱらぱらと撒くだけでいいものが出てきた。これもまた容易に脱人糞に傾くのは想像できます。
会社が毒(メチル水銀)を吐き始めたのはその次の製品(アセトアルデヒド・酢酸や塩化ビニールの原料)の廃棄物として。工場内で爆発もあり、会社員たちも命懸けで、実際水俣病に罹った人たちもいた(当然隠されました)。
会社は、害が出るのはわかっていた。事前に承諾書を地元の漁師たちに認めさせてもいた。
わかっていて、1932年から1968年まで、実に34年間も公害の原因を垂れ流し続けていました。
そのことで、健康を損なった人たちは8万人以上(国は調べていません)と言われていますが、「水俣病患者」と認められた人たちは2283人(水俣病センター相思社のホームページによります)に留まります。
差別も発生しており、自ら申し出ることを控える人たちもいるでしょう。
訴訟は今でも続いています。先日も、熊本地裁で、原告(被害者側)の訴えが退けられています。
現実は、とても複雑です。
石牟礼さんの「苦海浄土」は代表作ですが、水俣では売れないと言います。会社の恩を裏切ることのできない人たちもいます。
会社出身の人が、水俣市の市長を務めていたこともある。
石牟礼さんに学ぶべきは、当事者の思いをできるだけそのままに言語化し、伝え続けたこと。頭にある言葉だけでなくて、五感を使って。
石牟礼さんがいたから、私にまで水俣の人たちは見えてきた。
人にとって便利なものを開発する会社。ある一部を特化することで製品は生まれる。だけど、切り離されるものも必ず生まれる。人にとって都合の悪いものが。
電気のない今これからは考えられない。
一方で、クリーンな電気なんて本当に存在するのか、思うことも捨てない。
対等な人同士として対話する。
どうしてそれがそんなに難しくなってしまったのか、と思います。
コンクリートで固めること。それが「近代化」であり「脱田舎」であり「進歩」であった時代。
コンクリートには波が当たると「ざばーんざばーん」とただうるさいだけ、と石牟礼さんは言います。
渚や浜、自然を生かす手作りの石垣というものがある。隙間があって、そこには生き物が住める。
水俣と福島は未来だと思います。
人が超えていかなければならない課題を提出した場所として。
対話しかない。と私は思っています。
複雑であればあるほど。もう一部の政治家(とその一味)が決めて、一方的に「説明」する時代なんかじゃない。
白か黒かじゃない。
複雑さを単純化するところに嘘が発生します。そしてその嘘は隠される。毒と同じで。
花というのは、人間の中にある生命としての強さのようなものでしょうか。
水俣病に侵されても、その人が紡いで物語る中に、花は垣間見えて、希望が光るようでした。
当然、話に花が咲くためには、語りを聴く人がそばにいます。分断ではなく、舫(もや)い。
舫うとは、船と船をつないだり、船を岸につなぐこと。
「知らないことは罪」そうおっしゃった方がいました。杉本栄子さん。石牟礼さんが紹介しています。
近代は罪に満ちています。私もはっとしましたのでここに記しておきます。(134ページ15行-135ページ10行)
「道子さん、私は全部許すことにしました。チッソも許す。私たちを散々卑しめた人たちも許す。恨んでばっかりおれば苦しゅうてならん。毎日うなじのあたりにキリで差し込むような痛みのあっとばい。痙攣も来るとばい。毎日そういう体で人を恨んでばかりおれば、苦しさは募るばっかり。親からも、人を恨むなといわれて、全部許すことにした。親子代々この病ばわずろうて、助かる道はなかごたるばってん、許すことで心が軽うなった。
病まん人の分まで、わたし共が、うち背負うてゆく。全部背負うてゆく。
知らんちゅうことがいちばんの罪ばい。人を憎めば憎んだぶんだけ苦しかもんなあ。許すち思うたら気の軽うなった。人ば憎めばわが身もきつかろうが、自分が変わらんことには人は変わらんと父にいわれよったがやっとわかってきた。うちは家族全部、水俣病にかかっとる。漁師じゃもんで」
こうおっしゃったのは杉本栄子さんという方ですが、亡くなってしまわれました。彼女が最後におっしゃったひとことは、「ほんとうをいえば、わたしはまだ、生きとろうごたる」というお言葉でした。
石牟礼道子・藤原新也 著/河出書房新社/2012
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