窯元日記復活

筒井家の菩提寺  伝香寺参拝

昼から美術団体の会議で奈良に出かけたので、近くの伝香寺に参拝。大河ドラマ「麒麟がくる」で筒井順慶がこれほどまでに登場した作品はありませんね。筒井家の菩提寺です。









(いざがわ幼稚園のHPから)www.isagawa.ed.jp/denkoji/index.html
伝香寺は、戦国時代の大名 筒井順慶(じゅんけい)法印「天文十八(1549)~天正十二(1584)」の香華院(菩提所)として建立されました。
諸記録によると、この地は奈良時代に唐より来朝され、唐招提寺を創建された、鑑真大和上の高弟 思詫(したく)律師が、天平宝亀年間(770~780)に、故国を偲んで唐風の庵を結んだ処で、実円寺と称されていました。爾来八百有余年の星霜を経た天正十三年(1585)、順慶法印の母芳秀(ほうしゅん)尼は、若くして没した息子の菩提を弔うため、香花の絶やさざる寺院の建立を発願、正親町(おおぎまち)天皇の勅許を賜り、唐招提寺泉奘(せんじょう)長老を請じて、実円寺を再興「表門(県文)、本堂(重文)が現存」、古額を改め、伝香寺と号しました。
伝香寺開創の願主となった芳秀尼が、堂前に供えた椿が存続(三代目)しています。
この椿は色まだ盛んなとき、桜の花びらの如く散る椿で、その潔さが若くして没した順慶法印になぞらえ「武士(もののふ)椿」の名を得たといわれています。江戸時代末期に、唐招提寺長老と伝香寺住職を兼ねた宝静(ほうじょう)長老は椿の愛好家で、奈良三名椿(伝香寺散り椿、東大寺糊こぼし椿、百豪寺五色椿)を好んだと云われています。

仏像では、伝香寺本尊釈迦如来坐像の光背柄に仏師宗貞の名と、酉年(1585)の記述が有りますので、秀吉が発願した京都方広寺大仏の試みの仏と云われています。又当寺の裸形地蔵菩薩(重文)は客仏で、通称(はだか地蔵尊)として、親しまれています。近年体内納入品が発見され、安貞二年(1228)の発願年記が願文に有り、春日四所明神の本地仏として造立されたことが判りました。
他に島左近が筒井家に奉納した南無仏太子像(嘉元二年1334 県文)、祭祀用に制作された筒井順慶画像(市文)、市守長者持念の弁財天像を当寺の鎮守神として祭るなど、筒井家に由来する宝物を今に伝へています。

昭和五八年、筒井順慶法印四百年遠諱に際して、全国二百十余名の大和筒井家の子孫により、全国筒井氏同族会が結成され、筒井順慶座像と御堂が造立されました。以後全国の子孫により筒井家の追善供養が続けられています。




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