窯元日記復活

奈良博三昧『行基墓誌断片 』

奈良博三昧『行基墓誌断片 』
重要美術品 ぼしだんぺん(ならけんぎょうきぼしゅつど)墓誌断片(奈良県行基墓出土)
1個
銅製 鋳造 鍍金
11.2x6.7
考古
奈良時代 8世紀
天平21 749




奈良博データベースから「行基墓所は奈良県生駒市有里の竹林寺境内にある。文暦二年(一二三五)、竹林寺の僧寂滅は行基本人から託宣を受け、その墓所発掘をし八角形の石筒を発見している。「僧寂滅注進状」(唐招提寺所蔵、『大日本仏教全書』寺誌叢書3所収)によれば、その中には鑰をかけた銅筒があり、さらに金銅製の容器、そして銀製の水瓶形舎利容器が収められていたという。本品はこの銀製舎利容器を収納した一重めの金銅製舎利容器の破片である。当初は円筒形であったと思われるが、現存するのは逆三角形の残片で、火をうけたために若干の変形と黒色化を遂げている。鋳銅製で、表面は滑らかに整えられ、蛍光X線分析によって鍍金の痕が額人されている。銘文は、幅二.一センチの間隔で引かれた罫線の中に、一文字約二センチ大の漢字が力強く鏨彫りされている。文字は十二文字と残画が九文字分、計二十一文字が四行にわたって確認できる。この全銘文を書き写した「大僧上舎利瓶気」には、全部で三百八文字が認められ、本品にみえる文字配置を参考に、一行二十字、十七行にわたる配列が復元されている。本品は墓誌銘の後半部分に相当し、天平十七年に大僧正の位を得たこと(一行目)、僧網が整いその頂点に居たこと(二行目)、天平二十一年二月二日に右京菅原寺で八十二歳の生涯を閉じたこと(三.四行目)など、行基の後半世の重要な部分を含んでいる。日本古代の墓誌はわずか数行の簡易な記録が一般的であるが、多くの崇敬を集めていた行基のものだけに中国風の本格的な内容を備えており、『続日本紀』の示寂伝と併せて高い史料的価値をもつ。長文の墓誌としては、景雲四年(七〇七)銘の国宝威奈大村骨蔵器(いなのおおむらこつぞうき)に並ぶ貴重な実例である。ところで、この舎利瓶発見の知らせは広く耳目を集めたようで、翌年の嘉禎二年(一二三六)に京都で開帳され、弘長三年(一二六三)には東大寺で舎利供養が行われている(『百錬抄』)。その模作とされる室町時代の舎利瓶塔が唐招提寺に現存するが、現物は竹林寺の伽藍が兵火に遭った際に焼失したと思われ、本品はその唯一の遺品である。ちなみに、重源はこの舎利瓶発見の約三十年前に亡くなっており、直接まみえることはできなかった。

(吉澤悟)
御遠忌八百年記年大勧進 重源―東大寺の鎌倉復興と新たな美の創出―, 2006, p.235-236 
奈良時代の高僧、行基の火葬墓から出土した銅鋳製の墓誌断片で、残画を含め4行21字が残る。奈良・唐招提寺に伝わる『竹林寺略記』によると、行基墓は文暦2年(1235)に発掘され、八角石筒の中に銅筒を納め、その中に「行基菩薩遺身舎利之瓶」の銀札を付した銀製舎利瓶が奉安されていたという。銀筒には20文字詰17行、309字からなる「大僧正舎利瓶記」が刻まれていた。それによると、行基は天平21年(749)に右京の菅原寺(喜光寺)で亡くなり、生駒山東麓で火葬され、竹林寺(生駒市有里)の境内に葬られるが、この墓誌の残欠はその一部と認められる。形式の整った中国風の墓誌銘の遺例として貴重である。  なお、行基墓は文暦2年に発掘されたのち、埋め戻されているので、現在の遺品はその後に再び掘り出されたものである。

(井口喜晴)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.282, no.19.
伝 来銘 文
奈良県生駒市有里町出土
表面線刻「年別□/備特居其上雖□〔然〕/□一年二月□〔丁〕/□□〔於〕右京」

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「美術館博物館ぶらぶら」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事