「最終合議の結果、二対一で私の意見は敗れ、判決書作成も命ざられ」とある。何度読み返してもその衝撃は心の安定を揺さぶる。2024年10月1日朝日新聞に載っていた、元裁判官の告白である。時は1968年とある。今から56年前の地裁での真実である。
10月9日に出された検事総長談話は、「多くの問題を含む承服できないもので、強い不満を抱かざるを得ず、控訴すべき内容だ」と述べたとある。これほど人間が組織に縛られて、愚かな浅学の智慧で人を捌く(裁くではない)のかと仰天すると共に、ガザやウクライナの人間による惨(ムゴ)たらしい動物にも劣る行為は、腐った組織に従順な人間の愚かさによるものではないかという想いにかられる。
何故批判するのかといえば、疑わしきは罰せずと言う原理原則が踏み外した、(三人一致に至らず🟰疑わしい)とんでもない裁判だったからである。
あの福島原発事故も組織によって過ちが重ねられて、人類の人類への警鐘となって原子爆弾を落とされた国に災禍となって現れたものである。だが、今や舌の根も乾かない内に再稼働する状況である。個々人ではなく組織が再稼働に舵を切ったのだろう。
人の哀れは個孤には生きられない性にある。組織を隠れ蓑にして人の口から碌でもない言葉を発して、さも天の声の如く人が人を見下すのである。あの56年前に反旗を翻した裁判官は、判決の半年後に退官したと記事にあった。