田園都市の風景から

筑後地方を中心とした情報や、昭和時代の生活の記憶、その時々に思うことなどを綴っていきます。

吉野ヶ里遺跡の石棺墓発掘現場へ

2023年10月22日 | 吉野ヶ里

 先週の日曜日に吉野ヶ里へ行きました。野歩きにはちょうどよい爽やかな日でした。入口では水鳥が出迎えてくれます。日本や中国の遺跡からは、水鳥の線刻がある土器や埴輪が出土しています。

 ここは一般人が住んでいたと推定される南のムラです。支配者層が住むエリアと違って集落を囲む内壕がありません。祭りに使う土器がたくさん見つかった人工の小丘があり、祭壇と考えられています。

 白い蕎麦の花が満開でした。弥生の頃にも蕎麦はあったのでしょうか。コロナ禍以前は小学生の収穫体験会が行われていました。

 蕎麦畑に来ていたツマグロヒョウモン

 アオスジアゲハもいました。

 南のムラを少し歩きます。

 オミナエシのある風景。

 

 吉野ヶ里は紀元前から3世紀まで長い歴史がありますが、復元建物は他の遺跡や出土品、中国の例などを参考に、弥生時代後期を想定してつくられているそうです。遺構を破壊しないように、建物や環壕は数十センチの土盛りをしてその上に復元されています。

 環壕の向こう、遺跡の外に出ます。丘陵を下っていくと平坦地が広がっています。

 弥生式の田圃では収穫が終わっていました。吉野ヶ里で水田跡は見つかっていませんが、この辺りで鋤、鍬などの木製農具が出土しています。

 バスが来ました。15分間隔で環壕の外を巡回しています。

 この先に石棺の発掘現場があります。

 今回の発掘現場です。以前、神社があったので手付かずでした

 話題となった石棺墓。丘陵の一番上に位置しています。現場で調査員が説明してくれました。この上に分厚い3枚の石蓋がありました。蓋には線刻があり、石棺内部には赤色顔料が塗られていました。他の墓はみな甕棺であり、位置からしても葬られていたのは身分の高い人だったようです。

 石棺には土が入り込んでいて、人骨は分解していました。やはり副葬品が出なかったのは残念だったようです。石棺の内径は長さが180cm、幅が36cm。幅がずいぶん狭いと言っていました。確かに大人を横たえるのには狭い気がします。

 ここはもう調査は終わったのでしょう。発掘体験会があっていました。ただし、何か出て来ても持ち帰ることは出来ません。

 遺跡エリアに戻りました。向こうのこんもりとした丘は王族の墓である北墳丘墓です。

 吉野ヶ里遺跡の中枢部である北内郭に来ました。入口は鍵形に曲がっていて、二重の壕と柵があります。

 久し振りに吉野ヶ里の最大の建築物である主祭殿に上がりました。ここは第2層。

 第3層です。

 この日はゆっくりと2時間以上滞在しました。もっと近くて入園が無料なら毎日、ウォーキングに来てもいいですね。

 

 

 

 

 

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