16日、17日の2日間、岩手県陸前高田、避難所での演奏に行ってまいりました。
被災地での支援催しを企画されている有志の皆様、そして現地の方々で実際に被災されなからもボランティア活動に勢力を注いでいらっしゃる皆様、それぞれが様々な形で繋がっていました。今回お声がけをいただき私も参画してまいりました。
はじめに。。。
2日間を終え帰ってきてみると自分の中に残ったものが何か違う?
以前に行った柏崎の避難所演奏、1週間がむしゃらに演奏しまくった時とも違う。
今回まさに被災された陸前高田という町に伺っていた2日間ですが、思えばその時間の中の多くを現地の佐々木さんと仰る方に「愛する街」をご案内いただいたからかもしれません。
行くまでは勝手に思っていました、「一時でも忘れてもらえるように、演奏で楽しんでもらえたら、癒えてもらえたら」と。
途中で気がつきました。。。「一瞬でも忘れるどころか悲惨な出来事をもっともっと知ってもらいたい、多くの人に伝えたい」。
何時間にも渡って、街の各所で何度も何度も車を停めては涙しながらエピソードを聞かせてくださる佐々木さんと過ごしながら、自分なりの解釈をし「伝えることの大切さ」を実感しました。
なので、ブログはいつもでしたら時経列に沿って書いていますが今回は順不同で書きます。
佐々木さんご自身、奥様を震災で亡くされ、お子様たちもお仕事や勉強もあります。現在お一人で仮設住宅にお住まいだそうです。大勢の中で大変陽気に振舞われ、ムードを作ってくださる大変優しい方です。
陸前高田の中心で海に面した大きな建物「キャピタルホテル」の営業にお勤めだったそうです。
このホテルは地下深くの岩盤まで柱を入れてあり今回の津波でも流されませんでした。
津波はこの建物の4階までの高さに上がったそうです。ホテルなので1フロアが大きいですので、通常であれば6階相当ではないでしょうか。佐々木さんは建物の中でお勤め中でしたがバスで避難されたそうです。
周辺の建物は全て流されてしまいました。
高台にある建物の屋上から街の全景が見えます。
右手奥にキャピタルホテルが見えます。
中央の大きながれきの山・・・行き場を失ったがれきが大きな山を形成しています。
線路だったそうです
堤防はこのようにあちらこちらが破壊されています。
「緊急避難所になっていたから70名近くの人が逃げ込んだのに、流されちまったんだもんな」と涙される体育館です。
体育館の中、写真手前が海側、奥が山側。津波は天井近くまで充満し。。。
海水は山側の壁を破り、このような大きな口を開けて。。。
3名の方が奇跡的に生還されたそうです。佐々木さんはこの崩落を「悪魔の口」と呼んでいました。
どうなればこんな風に??・・・体育館の中に車が流れ込んでいます。
体育館前の3メートルぐらいある大きな大きな石碑です。
よく見ると文字が逆さです。裏返されてしまったほどの力・・・
消防署です。屋根のアンテナにしがみついて12名の方が生還されたそうです。
出来たばかりでオープン間近だった野球場だそうです
湾の対岸から流されてきたのではないか、という民家。ゆらゆらと浮かんだ状態のままです。
2日目の午前に一同で隣町の気仙沼に。
初めて行ったわけですから、「元の街並み」を知りません。陸前高田は住居が多かったためか、「何もかも流されてしまっている」ので写真でしか前の街並みを知ることができません・・・ですが気仙沼は建物が多いらしく「壊されてしまった町並み」が多少わかることができました。よそから来た我々には’まだ想像できる’ことでせめての現実感や辛さがこみ上げてくるのですが、「街ごと消えてしまった」という意味での陸前高田は想像の域ではないと思いました。
火災になってしまった船です。
パイプ状の鉄柱跡でしょうか、引きちぎられ、断面には錆が出ています。壮絶なパワーです。
陸前高田に戻り
後述しますが、この広田地区の小学校で催しものをおこないました。
地図上で南側の半島です。
中央のくびれのような地形には東西の両側から津波が押し寄せ中央でぶつかったそうです。
引き波の後もがれきが残り、何日にも渡り孤立化してしまったそうです。
くびれが海になってしまった時の写真も見せてくださいました。
まさしく言葉を失ってしまいました。
街を車でご案内いただいていて特に思ったのは「海が高い」ことです。
どこを走っていてもお風呂から水が溢れてくるような気持ちになる水面の高さです。
「これは標高が下がってしまったせいですか?」
「そうです。。。でも、こんな目にあっても海を憎めないんだよなぁ・・・いっぱいいっぱい育ててもらったんだもん」という佐々木さんの言葉、忘れられないです。
2日間で本当に多くの場所を見せていただき、たくさんのエピソードを聞かせていただきました。
峠の道を走っている時に佐々木さんがまた涙しながら仰いました。
「この辺はりんごや果物も名産で最高なんですよ。季節が来ると見渡すかぎり桃源郷なんだなぁ・・・」
58歳、お聞きしたところ、産まれも育ちもずっと陸前高田だそうです。
あちらこちらと移り、現在も色々な地域から人々が集まっている都会に住んでいると「逆の立場になった時に佐々木さんのように思い、人に語れるのか?」と自問自答すると同時に、地元が大好きで、愛する理由がいっぱいあって、そこに住み続けている方々の思いと、それが全て流されてしまった痛みの計り知れなさを感じざるを得ません。住んでいる家が、生活が・・・という範疇を越えた大きな痛みを地元の方々は心の奥に持つと同時に一生懸命に上を向いておられます。
被災地での支援催しを企画されている有志の皆様、そして現地の方々で実際に被災されなからもボランティア活動に勢力を注いでいらっしゃる皆様、それぞれが様々な形で繋がっていました。今回お声がけをいただき私も参画してまいりました。
はじめに。。。
2日間を終え帰ってきてみると自分の中に残ったものが何か違う?
以前に行った柏崎の避難所演奏、1週間がむしゃらに演奏しまくった時とも違う。
今回まさに被災された陸前高田という町に伺っていた2日間ですが、思えばその時間の中の多くを現地の佐々木さんと仰る方に「愛する街」をご案内いただいたからかもしれません。
行くまでは勝手に思っていました、「一時でも忘れてもらえるように、演奏で楽しんでもらえたら、癒えてもらえたら」と。
途中で気がつきました。。。「一瞬でも忘れるどころか悲惨な出来事をもっともっと知ってもらいたい、多くの人に伝えたい」。
何時間にも渡って、街の各所で何度も何度も車を停めては涙しながらエピソードを聞かせてくださる佐々木さんと過ごしながら、自分なりの解釈をし「伝えることの大切さ」を実感しました。
なので、ブログはいつもでしたら時経列に沿って書いていますが今回は順不同で書きます。
佐々木さんご自身、奥様を震災で亡くされ、お子様たちもお仕事や勉強もあります。現在お一人で仮設住宅にお住まいだそうです。大勢の中で大変陽気に振舞われ、ムードを作ってくださる大変優しい方です。
陸前高田の中心で海に面した大きな建物「キャピタルホテル」の営業にお勤めだったそうです。
このホテルは地下深くの岩盤まで柱を入れてあり今回の津波でも流されませんでした。
津波はこの建物の4階までの高さに上がったそうです。ホテルなので1フロアが大きいですので、通常であれば6階相当ではないでしょうか。佐々木さんは建物の中でお勤め中でしたがバスで避難されたそうです。
周辺の建物は全て流されてしまいました。
高台にある建物の屋上から街の全景が見えます。
右手奥にキャピタルホテルが見えます。
中央の大きながれきの山・・・行き場を失ったがれきが大きな山を形成しています。
線路だったそうです
堤防はこのようにあちらこちらが破壊されています。
「緊急避難所になっていたから70名近くの人が逃げ込んだのに、流されちまったんだもんな」と涙される体育館です。
体育館の中、写真手前が海側、奥が山側。津波は天井近くまで充満し。。。
海水は山側の壁を破り、このような大きな口を開けて。。。
3名の方が奇跡的に生還されたそうです。佐々木さんはこの崩落を「悪魔の口」と呼んでいました。
どうなればこんな風に??・・・体育館の中に車が流れ込んでいます。
体育館前の3メートルぐらいある大きな大きな石碑です。
よく見ると文字が逆さです。裏返されてしまったほどの力・・・
消防署です。屋根のアンテナにしがみついて12名の方が生還されたそうです。
出来たばかりでオープン間近だった野球場だそうです
湾の対岸から流されてきたのではないか、という民家。ゆらゆらと浮かんだ状態のままです。
2日目の午前に一同で隣町の気仙沼に。
初めて行ったわけですから、「元の街並み」を知りません。陸前高田は住居が多かったためか、「何もかも流されてしまっている」ので写真でしか前の街並みを知ることができません・・・ですが気仙沼は建物が多いらしく「壊されてしまった町並み」が多少わかることができました。よそから来た我々には’まだ想像できる’ことでせめての現実感や辛さがこみ上げてくるのですが、「街ごと消えてしまった」という意味での陸前高田は想像の域ではないと思いました。
火災になってしまった船です。
パイプ状の鉄柱跡でしょうか、引きちぎられ、断面には錆が出ています。壮絶なパワーです。
陸前高田に戻り
後述しますが、この広田地区の小学校で催しものをおこないました。
地図上で南側の半島です。
中央のくびれのような地形には東西の両側から津波が押し寄せ中央でぶつかったそうです。
引き波の後もがれきが残り、何日にも渡り孤立化してしまったそうです。
くびれが海になってしまった時の写真も見せてくださいました。
まさしく言葉を失ってしまいました。
街を車でご案内いただいていて特に思ったのは「海が高い」ことです。
どこを走っていてもお風呂から水が溢れてくるような気持ちになる水面の高さです。
「これは標高が下がってしまったせいですか?」
「そうです。。。でも、こんな目にあっても海を憎めないんだよなぁ・・・いっぱいいっぱい育ててもらったんだもん」という佐々木さんの言葉、忘れられないです。
2日間で本当に多くの場所を見せていただき、たくさんのエピソードを聞かせていただきました。
峠の道を走っている時に佐々木さんがまた涙しながら仰いました。
「この辺はりんごや果物も名産で最高なんですよ。季節が来ると見渡すかぎり桃源郷なんだなぁ・・・」
58歳、お聞きしたところ、産まれも育ちもずっと陸前高田だそうです。
あちらこちらと移り、現在も色々な地域から人々が集まっている都会に住んでいると「逆の立場になった時に佐々木さんのように思い、人に語れるのか?」と自問自答すると同時に、地元が大好きで、愛する理由がいっぱいあって、そこに住み続けている方々の思いと、それが全て流されてしまった痛みの計り知れなさを感じざるを得ません。住んでいる家が、生活が・・・という範疇を越えた大きな痛みを地元の方々は心の奥に持つと同時に一生懸命に上を向いておられます。