実は先日、所用があり、札幌へ出かけて参りました。
上は、札幌駅の南口の画像です。
30年ほど前、初めて一人暮らしを始めた地。
10年近く住んで、その間に結婚して、しっぽなにとっては、馴染みの地です。
けれど、久しぶりにこの地に立つと、懐かしいという感覚さえ無くなっていることに気付きました。
別れた夫の両親が住んでいるから、本州に移り住んでからも何度も訪れています。
それでも、やはり、ここは私にとって、親しみを感じる土地ではありません。
東京に比べたら可愛いものだけれど、しっぽな地方からみると、恐ろしい程の人の数、大都会です。
観光で出かけたわけではないので、ゆっくりじっくり撮影などする暇はありませんでした。
それでも、せっかく来たのだからと、レンズをむけてみましたが・・・。
あまり思い入れも無く、疲れていたせいもあり、なんだか冴えない写真ばかり撮って来ました。
札幌大通公園のテレビ塔です。雪まつりの準備も忙しそうです。
本当に、せっかく、札幌に行ったのに・・・。
北海道で一番の有名な都市なのに・・・。
気持ちが無いとよい写真は撮れない、と実感した旅でした。
大雪山を撮る時。
何も無い雪景色にレンズを向けた時。
心が風景に奪われてシャッターを切った写真は、人に見せる程では無くても、自分の中で大切な「切り取り」作業で、自分だけの画像として大切に保存されている。
でも、「せっかく来たのだから、撮っておくか。」という気持ちで撮った写真は、どれも、残しておきたい画像では無い。
ススキノに何故か観覧車が・・・。
どうでもよい「記録」のような写真。
札幌の風景に心が奪われない。
懐かしい土地のはずなのに・・・。
一番輝いていた、青春を過ごした土地なのに・・・。
2月の雪まつりが終わるまで、観光客のため街中はイルミネーションで彩られています。
札幌。
若く未熟で、情けない時間を思い出し、消し去りたい思いばかりが浮かんでくる。
本当に、札幌で過ごしていた頃の私は情けなかった。
幼稚だった、未熟だった、逃げていた!
私は、心と体、人生の時間、それらのバランスがとっても悪い。
本当にやりたかったこと。それに気付いたのは40歳を過ぎてから。
若い時、そこに進む機会はあったのだ。選択肢の中に入っていた。
けれど、それは無理なこと、と勝手に決めて、すぐに放棄してしまった。
全然無理ではなかった。勇気があれば、そこに進めた。
意志が弱かったのだ。
その時は、ただの思いつきのように考えて、実際の進路として扱うことをしなかった。
あぁ、札幌はやはり私の心を惑わせる。
今更こんなことを考えても、せんない事!
今はもう、自分の置かれている状況にその都度対応して、切りぬけて行くしかない。
「若さ」は、もういらない。
若く美しい姿など欲しくはない。
けれど、若いエネルギーを携えて、この身を世界に投じる人生。
そんな人間になれたなら、どんなによかったことだろう、と思いを馳せる。
私にはその気力も能力もなかった。
その程度の人間だ。
それを情けなく思いながら、平和なこの小さな世界に生きていることに、安堵と平和を感じている。
結局、凡人なのだ。
夢や希望を高く望みながら、それを眺めるだけで、安寧な場所でこじんまりと生きている。
もしも、もしも、次の人生があるとしたら・・・。
次は、何かを求め、何かに捧げ、この身を焼き尽くすような人生を送ろう。
ただ、なんとなく、時の流れを待つのではなく、自分から手を伸ばし、自分から身を投じる。
そんな人生を送ってみせよう!
今の人生でその理想の欠片を実現してくれるもの。
それが、竹取庵。
自分から手を伸ばし、求めるものがそこにある。
待っていて!
必ず行くから。
みかんの丘。
竹取庵。
かぐや姫の優美な姿!
しっぽなのこの目のレンズで見る。
しっぽなの網膜に、衰えゆく脳に、その姿をとらえる。
その画像を頭に浮かべながらこの世を去るとしたら、死など全く怖くない。
みかんの丘に思いを馳せながらこの世を去る自分が愛おしく、その時が早く来ればいいのに、と思ってしまう程だ。
終わりの時を自分で決めることは難しい。
ならば、神様が決めるその時まで、「切り取り」作業を進めよう。
私が見てるその瞬間は、確かにこの世に存在している。
誰も気に留めなければ、存在さえ証明出来ないその一瞬。
それを捉えて、切り取って行こう。
誰に見せる事も無くても、私の脳にはその映像が写されて、脳細胞が朽ち果てても、その想いは宇宙の一部として、その片隅に残るだろう。
すべては宇宙の欠片。
ほんのささいな、けれど、愛しい欠片。
命は大切。
意識は、貴重。
思いのすべては、尊い宝。
どうか、ないがしろにしないで欲しい。
この世に存在するすべてに、かけがえのない輝く命が宿っていることを、みんな、忘れないでいて欲しい!