6.船舶特幹生の訓練(続き)
6.2.豊浜での教練の日々
4月29日は天長節(天皇誕生日にあたる祝日)であった。
船舶特幹生の教育隊の嘱託をしている野村という指導員の精神訓話があった。
訓話の内容は楠公の忠義についてであった。
日本の歴史上屈指の忠臣として名高い楠木正成公は、後醍醐天皇に従って負け戦覚悟で「湊川の戦い」で足利尊氏と戦った。
そして「七生滅賊」、何度生まれ変わっても、天皇のために国賊を倒すことを誓って自害た。
楠は忠臣の鑑とされる程の忠義者であり、比類なき軍略家でもあった。
という。
中村はこの話を、ときめきながら聞いていた。
訓示が終わったとき、隊員たちの顔は熱い想いに漲っているような表情をしていた。
翌日は観音寺まで行軍した。
観音寺
観音寺は兵舎から約6Km北方にある寺で、大宝3年(703年)創建された。
七宝山観音寺と云い、西国第69番札所である。
同一境内に第68番の神恵院がある。
初めての行軍で、皆んな嬉しそうに元気よく行軍した。
途中、タンポポや紫雲英(れんげ)が美しく咲いて中を行軍した。
だが、それらを首を曲げて見る事はできず、顔はまっすぐにして目を忙しく動かして風景を堪能した。
まるで故郷の田舎道を歩いているような気がして気持ちが明るくなった。
やはり、遠く離れるとなぜか故郷を懐かしく思い出すものである。
日頃の緊張感がほぐれた感じであった。
隊員達は、この故郷を守る、という使命を感動しながら思った。
5月になって、他の中隊に伝染病が発生し、全員予防注射を打った。
中村は翌日発熱したが、教練にでた。
しかし、中村は教練中に眩暈を起こし営庭で倒れた。
気がついた時はベッドの上だった。
さいわい、熱は1日で下がり翌る日から通常の教練に戻った。
中村は、酷く怒られるかと覚悟していたが、意外な言葉をかけられた。
「健康あってのものである、十分注意して今後も励むよう」
実弾射撃
5月8日実弾射撃演習が行われた。
演習場は雲辺寺ヶ原(観音寺市大野原町)の射撃場である。
教育班長から「射撃の経験が有るものはいるか?」と問われ、手を挙げたものがいた。
藤岡敏彦という候補生だった。
藤岡は中学校時代に「射撃部」に属していた、といった。
藤岡は、対外試合にも出場したこともあり、幾分自信もあった。
本番は試射することなく、5発連続撃ち込みであった。
その結果はなんと「全弾弾痕不明」。
即ち標的板にさえ当たらなかったということで、惨々な結果であった。
班長は「てめえウソをついたナ」と、嫌味を言った。
藤岡にも言い分があった。
射撃部では選手ひとりひとりに専用の銃があてがわれ、 銃のクセをよく知っており、また試射により一発毎にどこにあたったのかを知らされるので修正して撃てる。
いきなり銃を渡されての射撃では当たる筈もなかったのである。
演習が終わってから候補生の一人が薬莢をひとつ紛失した事が分かった。
この不始末は、連帯責任であると、いうことで全員班長から叱責・説教をうけることになった。
5月12日にまた野村嘱託の精神訓話があった。
この野村嘱託という人が、どういう立場の人か、隊員たちは最後まで分からずに出兵する。
野村嘱託の訓話は「団体の精華について」であった。
組織や集団が同じ目標の下で規律正しく行動することの意味や重要さを聞かされた。
中村は、もともと自由人であったが、この日本の状況を考えると団体で行動することの意味や重要さを感じた。
浜までは海女も蓑着る時雨かな
16日には久々に中隊長の精神訓話があった。
内容は忠節と死生観に関するものだった。
その内容の多くは忘れてしまったが、
「浜までは海女も蓑着る時雨かな」という言葉が妙に印象深く残った。
この句は、江戸中期の俳人の、滝瓢水(たき・ひょうすい)の俳句である。
瓢水の詠む句は味わい深い上に人生哲学とでも呼ぶべき事柄を主題にしているものも多く、ある時1人の旅の僧がそのような評判を耳にして瓢水を訪ねたことがあった。
僧は瓢水に会うと、その見識について問おうとしたのだが、あいにく瓢水は風邪を引いており、
「今からちょっと風邪の薬を買ってくるから、ちょっと待っててもらえないか」
と言われてしまう。
これを聞いた旅の僧は、
「風邪くらいで一々薬を求めるなど、何を弱気なことを言っているんだ。
人の生き方を説く素晴らしい見識の持ち主だと聞いて来たのに、とんだ嘘であった。
そんなに命が惜しいのか、情けない」
と、腹を立てて瓢水の帰りを待つことなく去ってしまった。
瓢水が風邪薬を買って帰ってくると、待てと言ったはずの僧はもういない。
はて? どうしたのかと思っていると、傍にいた人が事の一部始終を教えてくれた。
なるほど、怒って帰ってしまったのか。
それならと、瓢水は一句紙にしたためて、
「申し訳ないのだが、先ほどの僧にこの句を渡してあげてほしい。まだ追いかければ間に合うかもしれないから」
と頭を下げた。
頼まれた者は急いで僧の後を追った。
そして何とか追いつき、瓢水の句が書かれた紙を渡した。
僧が受け取った紙を見ると、そこにはこう書かれていた。
「浜までは海女も蓑着る時雨かな」
この一句で、旅の僧は瓢水の評判が本物であることを知ったのだった。
海女さんは海に潜るのが仕事なのだから、必ず水に濡れることになる。
しかしそんな海女さんでも、雨が降っている日であれば、浜までは蓑を着て体をいたわるものだという。
どうせ濡れるのだからと、時雨で体を冷やすようなことはしない。
自分の体をないがしろにせず、大切に扱うのである。
ぎりぎりの最後の最後まで、わが身をいとい、美しく、明るく生きるようにつとめよう。
ということである。
水泳練習
豊浜にも港があるが、どういう理由か不明であるが、観音寺港まで航行し、港の浮桟橋大発を接岸する演習を利用しての水泳練習をした。
ただし水泳演習といっても泳げないものが主な対象であった。
泳げない候補生を桟橋から海へほうり込み、おぼれそうになるところへもやい綱(船をつなぎとめるのに用いる綱)を投げてやる。
こういったことを繰り返して何とかすこしでも泳げるようにするということであった。
町民の見ている前でやるので泳げない候補生も一生懸命であった。
6.3.小豆島へ移転
兵舎の移転(その1)
豊浜兵舎にいた船舶幹部候補生隊は、小豆島に移転することになった。
これは昭和19年5月中旬に船舶幹部候補生隊(甲種10期、11期)が香川県豊浜兵舎(旧富士紡績㈱豐濱工場)に移動してきたため、兵舎や練兵場、繁船場が狭隘となったためである。
このため、船舶特幹隊は昭和19年6月末から7月初めにかけて、小豆島の淵崎村(現土庄町)の東洋紡績㈱渕崎工場を改造した兵舎に移転した。
7月4日に豊浜から小豆島への移転が行われた。
<暁南丸>
大半の候補生は輸送船”暁南丸”で移動するが、大発に乗込み運転をしながら移動する組もあった。
中村は、暁南丸で朝8時に小豆島に向かって出航した。
移転の日の朝、暁南丸は豊浜漁港近くの沖合に停泊していた。
傾斜した二本マストと、傾いた単煙突クリッパー型船首の船形から、日本で建造された船でないことは明らかであった。
これは、香港かシンガポールにて拿捕されたイギリスの大型ヨットであるという。
船内はとても暑かった。
中村はこの時班長を指名されたため、班の誘導や整列指導、他班との調整、区隊長への報告などひどく苦労した。
中村は思った、将来部下をもったときもこんな苦労をするのだろうか、と。
甲板に出てみると、漁師の人たちが手を振ってくれていた。
「お国の為に、がんばれよっ」という声が数多く聞こえた。
渕崎の港に着いたのは、午後1時過ぎだった。
上陸地点から兵舎まで、軍の演習をしながら行進した。
軍歌は行軍用につくられているから、調子が取りやすい。
また、軍歌はリズムだけ合わせれば、少々音程がズレていてもよく聞こえる。
少年たちは、威勢よく行進した。
島の人達は笑顔で、その行進を見守り「ガンバレ」という声援があちこちで聞こえた。
多くの人々から期待されていることを肌で感じ「ヨッシ、あの人達の期待に答えんなければ」と、
誇らしくまた興奮しながら思う、16〜18歳の少年兵たちであった。
<続く>