42.足利直冬(2)
42.3.足利直冬の上洛
42.3.6.足利直冬その後
42.3.6.3.江津合戦
石見国内で直冬軍が再び勢力を盛り返すことを恐れた幕府は、永和2年/天授2年(1376年)改めて荒川三河守詮頼を、専任の石見守護として派遣した。
7月、石見守護荒川詮頼は、益田氏、周布氏、小笠原氏ら、吉川氏、出羽氏、福光氏らを率いて高畑城の足利直冬を攻めた。
いわゆる、江津合戦である。
南朝方は三隅氏、福屋氏、都野氏らが援護した。
戦いは直冬の降伏をもってけりがけりがついた。
石州に於いて忠節の条、もっとも以て神妙、いよいよ戦功を掴んずべき状、仰せによって執達、件の如し。
永和二年七月二十五日 武蔵守(細川頼之)
益田越中守兼顕代
石州江津に於いての戦功の由 注進状披見してんぬ。 もっとも神妙なり。 いよいよ忠節を致すべきの状仰せによって執達、件の 如し。
永和二年閏七月二十九日 武蔵守(細川頼之)
角井駿河二郎殿(周布の一族)
遂に降参した直冬を幕府では特別に情状をもって許した。
直冬は那賀郡都治(江津市都治)に所領を与えられ、高畑山の慈恩寺に入って剃髪し、 玉溪道昭と称し信仰の生活に入った。
応永7年(1400年)3月7日、都治高畑城中において死去した。
法名は生前の慈恩寺玉溪道昭と諡し、高畑城 の東北に面する堂床という山腹に葬られた。
享年74であっ た。
「後太平記」は天授元年後円融天皇が践祚後四ヶ月経ってやっと即位式を挙げたことを述べて、その次に「足利直冬降参之事」を載せている。
これによると直冬は追いつめられた心情を訴えている。
「私は足利の本家そのものへ恨みを抱いたわけではなく、高師直兄弟の事実無根のつげロ から、捕え殺されることを恐れて、南朝に降って身の安全を図ったが、商来三十年を経過、 現将軍に対しては何のこだわりも持っていない。
たとえ仇敵となっても、元来同一血縁の親しい間柄なのだから、肉親の慈悲をもってお許し願いたい」
と述べている。
直冬は、もとより高い理想や強い信念から南朝に降伏したのではなく、勢力争いを優位に進めるためであった。
そういうことから考えると、「後太平記」に記述されていることは直冬の心情の一面であったかもしれない。
また、幕府としても、足利氏の直系につながる者が、南朝方として石見宮方の中核になっていることが心配の種なのであるから、改心してくれれば別に文句はない。
ことに直冬もすでに50歳の老境に入り、わずか数百騎の武将の器ではないことも分かっていた。
そこで、「忽ち罪科を宥められ、結句一歩の地をぞ宛はれける」ということになったのである。
<後太平記>
後太平記の著者は多々良氏南宗庵一龍という。
「応安元年(1368年)より天正年間に至る200余歳の戦跡を叙して、太平記に続くもの」とある。
武将の心の内
この江津合戦は事実上石見における南北両朝対立抗争の終焉を意味する。
江津合戦の伝承・記録が極めて不鮮明で、直冬も逃げもせず降参している。
しかもこの合戦で死傷した氏族の記録もない。
これは、次のような状況であったのではないかと想像する。
延元元年(1363年)以来南北両朝の攻防もすでに40年が経過し、何となしに飽々した気持もあったろうし、奔走の疲れも出ていたであろう。
領地の確保拡大が確実に約束されない以上兵を動かす積極的気持ちにはなれなかったであろうことは十分理解できる。
従って、自身で他領奪取の意欲があれば積極的行動に出ることもあるが、現状維持に満足しておれば強いて危ない橋を渡ろうとはしない。
守護から強制されれば出陣も致方ないが、その場合でも極力一族与党を傷つけまいとする。
このように徹底的に勝敗をつけるような決戦を避け、適当な時に切り上げて次の機会を待ったのではないか。
石見守護職
江津作戦は荒川詮頼を石見守護に専任し直冬を攻略させることによって石見での南北両朝の抗争に抜本的決着をつけたのである。
しかし、事実上石見守護職を罷免された大内弘世にとっては許せないことであった。
その不満から南朝に降るかも知れぬという風聞がおこり、管領細川頼之をあわてさせた。
そこで、細川頼之は 石見討伐戦の終了とともに、この年の11月には大内弘世を石見守護職にもどしている。
42.4.直冬余話
42.4.1.直冬の卒年について
直冬卒年については多少の異同がある。
「後鑑」には嘉慶元年(1387年)七月の小條に
二日(庚申) 於石見國左兵衛佐直冬朝臣卒、
とあり、「足利系圖」(群書類従本)にも、
直冬、尊氏次男、 宮内大輔、從四位下左兵衛督、母越前局、號慈恩寺殿、法名玉溪道昭、石見居住、嘉慶元年七月二日卒、
とある。
「鎌倉大日記」は直冬の卒年を嘉慶二年(1388年)としている。
また「南山巡狩録」では、
元中四年七月小二日足利直冬石見に卒す、慈恩寺玉溪道昭と號す、
とある。
「大日本史」や「石見年表」では
足利直冬應永七年石見卒法名慈恩寺、
としている。
諸史料で直冬は石見に卒せる由を伝えているが、その卒年については嘉慶元年或は二年又は應永七年の数設あるが、これを断定する史料はない。
42.4.2.慈恩寺について
慈恩寺は、正嘉2年(1258年)に開創。
足利尊氏の「一国一寺一塔」の政策により延文3年/正平12年(1358年)に中興開基された。
慈恩寺は、高畑城の東北面山腹の堂床に建立されていたが、文亀3年(1503年)の火災により現在の場所(江津市都治町)に移ったとされている。
従って直冬は、慈恩寺移転まえの場所である堂床に葬られた、ということになる
42.4.3.天下墓
邑南町久喜と、安芸高田市のちょうど境に「天下墓」と言われる古墓がある。
これは足利義昭の墓と伝えられ、案内板には次のように説明されている。
重要伝説地
智教寺天下墓
この墳丘は室町幕府第15代将軍足利義昭の墓所と伝えられる。
天政元年将軍義昭、織田信長と争い京都を追放され室町幕府滅亡、
毛利氏を頼り備後鞆の津にきたり数年滞在の後、
毛利氏とも不和を生じ出雲の尼子氏を頼って山陰に向かう途中この地に病み山陰行きを断念、
智教寺を建立して住すること数年、ここにて逝去、この地の住民火葬地に墓を建て天下墓と称す。
(文政二年国郡志書出帳生田村に拠る)
平成二年十月 美土里町観光協会
足利義昭が備後国の鞆に御所を構えたのは史実である。
だが、尼子氏を訪ねる途中で死去したというのは何かの間違いであろう。
足利義昭について
天正16年(1588年)1月13日、義昭は関白・豊臣秀吉とともに参内して、将軍の地位を朝廷に返上するまで征夷大将軍であったと『公卿補任』に記録がある。
晩年の義昭は秀吉から厚遇された。義昭は前将軍ということもあって、徳川家康や毛利輝元、上杉景勝といった大大名よりも上位の席次を与えられた。
足利義昭は慶長2年(1597年)8月、病床に伏し、病から回復できぬまま、28日に大坂で死去した。享年61(満59歳没)。とされている。
死因は腫物であったとされ、病臥して数日で没したが、老齢で肥前まで出陣したのが身にこたえたのではないかとされている。
但し『細川家記』は没地を備後の鞆としており、久野雅司は「慶長の役で名護屋城に出陣し、帰洛する途中に鞆にて病没した」としている。
以上の事から、「天下墓」の話は足利義昭とは無関係である。
ただ、この「天下墓」は足利直冬の墓であるという、別の伝説もある。
だが、直冬は都治高畑城中で死去した、とされており「天下墓」が直冬の墓だというのも眉唾ものである。
ただ考えられるのは、文和5年/正平11年(1356年)2月5日に直冬は安芸国に入り、ここから石見に向かう途中に、この場所を通りこのあたりの住民と何らかの関係が生まれたことである。
将軍の子供に逢うということは非常に名誉なことだったのかもしれない。
直冬の死を嘆いた、住民が直冬の弔いのためにこの墓を建てたのではないかと妄想してみた。
<続く>