43.太平記(2)
前回の後醍醐天皇、足利尊氏の死去の話に続き第2代室町将軍足利義詮の死去の様子をみていく。
43.3.足利義詮薨去
「太平記」巻第四十 将軍薨逝事
斯る処に、同(貞治6年/正平22年(1367年))九月下旬の比より、征夷将軍義詮身心例ならずして、寝食不快しかば、和気・丹波の両流は不及申、医療に其名を被知程の者共を召して、様々の治術に及しか共、彼大聖釈尊、双林の必滅に、耆婆が霊薬も其験無りしは、寔に浮世の無常を、予め示し置れし事也。
何の薬か定業の病をば愈すべき。
是明らけき有待転変の理なれば、同十二月七日子刻に、御年三十八にて忽に薨逝し給にけり。
天下久く武将の掌に入て、戴恩慕徳者幾千万と云事を不知。
歎き悲みけれ共、其甲斐更に無りけり。
さて非可有とて、泣々薨礼の儀式を取営て、衣笠山の麓等持院に奉遷。
同十二日午刻に、荼毘の規則を調て、仏事の次第厳重也。鎖龕は東福寺長老信義堂、起龕は建仁寺沢竜湫、奠湯万寿寺桂岩、奠茶真如寺清■西堂、念誦天竜寺春屋、下火は南禅寺定山和尚にてぞをはしける。
文々に悲涙の玉詞を瑩き、句々に真理の法義を被宣しかば、尊儀速に出三界苦輪、直到四徳楽邦給けんと哀なりし事共也。
去程に今年は何なる年なれば、京都と鎌倉と相同く、柳営の連枝忽に同根空く枯給ひぬれば、誰か武将に備り、四海の乱をも可治と、危き中に愁有て、世上今はさてとぞ見へたりける。
巻第四十 細河右馬頭自西国上洛事
爰に細河右馬頭頼之、其比西国の成敗を司て、敵を亡し人をなつけ、諸事の沙汰の途轍、少し先代貞永・貞応の旧規に相似たりと聞へける間、則天下の管領職に令居、御幼稚の若君を可奉輔佐と、群議同赴に定りしかば、右馬頭頼之を武蔵守に補任して、執事職を司る。
外相内徳げにも人の云に不違しかば、氏族も是を重んじ、外様も彼命を不背して、中夏無為の代に成て、目出かりし事共也。
このような中、その年(貞治6年/正平22年(1367年))の九月下旬の頃から、征夷将軍義詮は心身ともに具合が悪くなり、寝食が優れなくなった。
和気と丹波の医家両家は言うに及ばず、医療にその名を知られたような者たちを呼んで様々の治療をした。
しかし、あの大聖釈尊が沙羅の木の下で亡くなる時に耆婆(ギバ:仏弟子で古代インドの名医)の霊薬もその効き目がなかったのは、本当に浮世の無常をあらかじめ、人々に示し置かれたことである。
どんな薬も前世から定まっている病を癒すことはできない。
これは明らかに生身の人間の摂理なので、その年の12月7日の深夜に三十八歳で亡くなった。
天下は永く武家の支配の元になっていて、恩を頂き徳を慕う者は幾千万と数知れない。
嘆き悲しむけれども、その甲斐は全くないのだった。
悲しんでばかりいるわけにはいかないので、泣きながら葬礼の儀式を営み、衣笠山の麓、等持院に遺体を移した。
同じく12日の正午に、荼毘の儀式を調えて、仏事が型どおり行われる。
棺の蓋は東福寺の長老信義堂、棺を送り出すのは建仁寺沢龍湫、葛湯を供えるのは万寿寺の桂岩、茶を供えるのは真如寺の清誾西堂、念誦は天龍寺の春屋、火を点けるのは南禅寺の定山和尚であった。
それぞれの文章には涙を誘う言葉を整え、それぞれの句には真理の法義を述べられたので、霊はすみやかに三界の苦の世界を離れて、真っ直ぐに安楽の世界に行かれたであろうと感じ入るのであった。
ところで、今年は一体どういう年なんだろうか?
京都と鎌倉で同じように、幕府の兄弟が短い間に亡くなったので、誰が将軍になり、天下の乱れを治めるだろうかと、危うさの中に不安があって、世の中は今こそこれまでかと思われたのだった。
そんな時、細川右馬頭頼之が、その頃西国の統治に当たっていて、敵を滅ぼし人を心服させ、諸事の取り仕切りのやり方が、いくらか先代の貞永、貞応の昔のやり方に似ていると噂されていた。
そのため、ただちに細川右馬頭頼之を管領職に据えて幼い若君を補佐するようにと、協議の意見が一致した。
そこで、細川右馬頭頼之を武蔵守に任じて、執事職(管領職)に就任させた。
振る舞いや人徳がまことに人の噂に違わなかったので、一族の者も彼を重んじ、外様の者もその命に背かず、日本は自ずと治まった世となって、めでたいことである。
<宝鏡寺 足利義詮の墓>
43.4.室町幕府碑
42.4.1.室町幕府発祥の地
室町幕府発祥の地とされている場所が、京都市中京区高倉にある。
この場所は現在、京都市保健事業協同組合のビルが建っているが、その入口前に顕彰碑と解説板が建っている。
42.4.2.足利将軍室町第跡碑
室町将軍の居場所とされた室町第(むろまちてい)の跡地の碑が京都市上京区今出川町にある。
今出川通と室町通の交差点の北東側のビルの足元にひっそりと建っている。
気をつけて見なければ通過してしまうほどである。
42.4.3.室町殿石敷遺構
足利将軍室町第跡碑から、約200m北の上立売東町(烏丸通から約15m西入)に室町殿石敷遺構がある。
2002年の同志社大学寒梅館の建設に伴う発掘調査で、寒梅館敷地内の上立売通に面した烏丸通から入ってすぐのところに『花の御所』の石敷き跡が発見された。
保存された石敷き遺構はガラス越しに覗くことができ、壁面には説明板もある。
<続く>