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旅日記

望洋−79(憲法審議)

44.日本国憲法(続き3)

44.4.極東委員会

極東委員会( Far Eastern Commission)
昭和20年(1945年)12月、日本占領管理機構としてワシントンに極東委員会が、東京には対日理事会が設置されることとなった。

極東委員会は日本占領管理に関する連合国の最高政策決定機関となり、GHQもその決定に従うことになった。

とくに憲法改正問題に関して米国政府は、極東委員会の合意なくしてGHQに対する指令を発することができなくなった。

昭和21年(1946年)2月26日にワシントンで第1回会議を開き、その活動を開始した。

44.4.1.マッカーサーとの対立

3月6日の「憲法改正草案要綱」発表とこれに対するマッカーサーの支持声明は、米国政府にとって寝耳に水であった。

同要綱は、「日本政府案」として発表されたものだが、GHQが深く関与したことが明白であったため、日本の憲法改正に関する権限を有する極東委員会を強く刺激することとなった。

マッカーサーと極東委員会の板挟みとなった国務省は、憲法はその施行前に極東委員会に提出されると弁明せざるをえなかった。

極東委員会はマッカーサーに対し、「日本国民が憲法草案について考える時間がほとんどない」という理由で、4月10日に予定された総選挙の延期を求め、さらに憲法改正問題について協議するためGHQから係官を派遣するよう要請した。

しかしマッカーサーはこれらの要求を拒否し、極東委員会の介入を極力排除しようとした。

44.4.2.極東委員会の関与

新憲法採択の諸原則の決定

3月6日に日本政府が行った「憲法改正草案要綱」の突然の発表とマッカーサーの支持声明に対し、同委員会では、マッカーサーが権限を逸脱したとの批判が巻き起こった。

そこで同委員会は3月20日付け文書を発し、憲法案が可決される前にこれを審査する機会が同委員会に与えられるべきであると主張した。

4月10日には、憲法改正問題に関する協議のためGHQ係官の派遣をマッカーサーに求めると決定したが、マッカーサーはこれを拒否した。

東京では、対日理事会が4月5日に初会議を行ったが、その席上マッカーサーは、憲法草案は日本国民が広範かつ自由に議論しており、連合国の政策に一致するものになるだろうと主張した。

しかし極東委員会では、米国代表であるマッコイ議長も憲法問題に関してマッカーサーを支持していなかった。

このことは、GHQ憲法問題担当政治顧問として来日した政治学者のケネス・コールグローヴからホイットニー民政局長に伝えられた(4月24日付けホイットニー文書)。

コートニー・ホイットニー(GHQ民政局長)
憲法草案制定会議の責任者として、日本国憲法草案作成を指揮した。

マッコイ議長自身もマッカーサーに対する4月25日付け打電で、新憲法成立以前に極東委員会が審査すべきことを訴えている。

しかし日本で多くの知識人と接触し、憲法草案が広く支持されていることを知ったコールグローヴは、マッコイに対し、極東委員会での審査は時間の浪費になると伝え、GHQの立場を擁護した(4月26日付け書簡)。

極東委員会は、4月10日に予定された衆議院総選挙に対しても、国民が憲法問題を考える時間がほとんどないとして、その延期を求めていた。

しかし総選挙は予定どおり実施され、きたるべき第90回帝国議会において「帝国憲法改正案」が審議されることは既定路線となっていった。

極東委員会は、帝国議会の召集が間近に迫る5月13日、「審議のための充分な時間と機会」、「明治憲法との法的持続性」および「国民の自由意思の表明」が必要であるとする「新憲法採択の諸原則」を決定した。

 

日本の新憲法についての基本原則の決定

衆議院における「帝国憲法改正案」の審議開始にあたりマッカーサーは、6月21日、「審議のための充分な時間と機会」、「明治憲法との法的持続性」および「国民の自由意思の表明」が必要であると声明した。

これら議会における憲法改正審議の3原則は、極東委員会が5月13日に決定した「新憲法採択の諸原則」と同一のものであった。

このことは、マッカーサーが極東委員会の要求をある程度受け入れたことを意味した。

次いで、衆議院で委員会審議が始まったばかりの7月2日、極東委員会は、新しい憲法が従うべき基準として、「日本の新憲法についての基本原則」を決定した。

その内容は、先に米国政府が作成した「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)を基礎とするものであった。

その後GHQは、極東委員会の意向に沿う形で改正案の修正を日本政府に働きかけ、その結果、主権在民、普通選挙制度、文民条項などが明文化されるに至った。

日本の新憲法についての基本原則

一 日本国憲法は、主権が国民に存することを認めなければならない。それは次のようなものを規定するように作成されなければならない。(以下略)

ニ 日本における政治の最終の形態は、日本国民の自由に表明された意思によつて決定されねばならないけれども、天皇制を現在の憲法上の形態において保持することは、前記の一般的な諸目的に合致するものとは考えられない。従って、日本国民に対し、天皇制を廃止するか、またはそれをいつそう民主的な線にそって改革するよう勧奨しなければならない。

三 もし日本国民が、天皇制は保持すべきものではないと決定すれば、その制度が弊害を及ぼさないための憲法上の保証は、明らかに必要ではないが、憲法は、第一項の要求するところに一致しなければならず、また次の事項を規定するものとする。

b 内閣総理大臣および国務大臣は、すべてが文民であり、内閣総理大臣を含めてその過半数は、国会のうちから選ばれ、立法部に対して連帯して責任を負う内閣を組織する。もし、執行部の長が国民によつて選挙されるという政治制度が採用されるとすれば、内閣員の過半数が立法部のうちから選ばれるという規定は、必ずしも適用されない。

(その他略)

四 もし日本国民が、天皇制を保持することを決定するならば、第一項、第三項に列挙されたものに加えて、次のような保証が必要となるであろう。(以下略)

五 枢密院および貴族院を、その現在の形態で、かつ現在の権能をもつものとして保持することは、前記の一般的な諸目的に合致するものとは考えられない。

 

 

44.5.帝国議会における審議

昭和21年(1946年)4月10日、女性の選挙権を認めた新選挙法のもとで衆議院総選挙が実施された。

昭和21年4月17日、「憲法改正草案」は、枢密院に諮詢された。

しかし、4月22日に幣原内閣が総辞職し、5月16日、第90回帝国議会が召集され、5月22日に吉田内閣が成立した。

このため、先例にしたがって草案はいったん撤回され、5月27日にそれまでの審査結果に基づく修正を加えて再び諮詢されることとなった。

開会日の前日には、金森徳次郎が憲法担当の国務大臣に任命された。

6月20日、「帝国憲法改正案」は、明治憲法第73条の規定により勅書をもって議会に提出された。

6月8日、「憲法改正草案」は、枢密院本会議において美濃部達吉顧問官をのぞく賛成多数で可決された。

42.5.1.総選挙と衆議院における審議

6月20日、「帝国憲法改正案」は、明治憲法第73条の規定により勅書をもって議会に提出された。

6月25日、衆議院本会議に上程、6月28日、芦田均を委員長とする帝国憲法改正案委員会に付託された。

委員会での審議は7月1日から開始され、7月23日には修正案作成のため小委員会が設けられた。

小委員会は、7月25日から8月20日まで非公開のもと懇談会形式で進められた。

8月20日、小委員会は各派共同により、第9条第2項冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を追加する、いわゆる「芦田修正」などを含む修正案を作成した。

翌21日、共同修正案は委員会に報告され、修正案どおり可決された。

8月24日には、衆議院本会議において賛成421票、反対8票という圧倒的多数で可決され、同日貴族院に送られた。

 

44.5.3.貴族院における審議と憲法の公布

「帝国憲法改正案」は、8月26日の貴族院本会議に上程され、8月30日に安倍能成を委員長とする帝国憲法改正案特別委員会に付託された。

特別委員会は9月2日から審議に入り、9月28日には修正のための小委員会を設置することを決定した。

小委員会は、いわゆる「文民条項」 の挿入などGHQ側からの要請に基づく修正を含む4項目を修正した。

10月3日、修正案は特別委員会に報告され、小委員会の修正どおり可決された。

修正された「帝国憲法改正案」は、10月6日、貴族院本会議において賛成多数で可決された。

改正案は同日衆議院に回付され、翌7日、衆議院本会議において圧倒的多数で可決された。

文民条項

極東委員会が1946(昭和21)年7月2日に採択した「日本の新憲法についての基本原則」には、国務大臣は文民(civilian)、すなわち非軍人でなければならないとする原則が盛り込まれており、8月19日にはマッカーサーもこのことについて吉田首相に申し入れた。

しかし日本側は、第9条第2項が軍隊保持を禁じている以上、軍人の存在を前提とした規定を置くのは無意味であると主張し、文民条項は置かないことでGHQ側の了解を得た。

ところが、いわゆる「芦田修正」により、第9条第2項に「前項の目的を達するため」という語句が加えられていたことに極東委員会が注目したため、文民条項問題は再浮上することとなった。

すなわち9月21日の会議で、中国代表が、日本が「前項の目的」以外、たとえば「自衛という口実」で、実質的に軍隊をもつ可能性があると指摘した。

そのため、検討の結果、同委員会は文民条項の規定を改めて要求することになった(同月25日決定)。

同委員会の意向は、ホイットニー民政局長から吉田首相に伝えられ、貴族院における修正により、憲法第66条第2項として文民条項が追加された。

なお、「文民」とは、このとき貴族院小委員会でcivilianの訳語として考案された造語である。

衆議院と貴族院での審議を経て、政府案にいくつかの修正が加えられた。

国民主権の原則を明確にしたこと、戦力の不保持を定めた第9条第2項に「前項の目的を達するため」という文言を挿入したこと、生存権の規定を追加したこと、国民の要件、納税の義務、国家賠償、刑事補償について新しい条文を追加したこと、内閣総理大臣を国会議員の中から選び、国務大臣の過半数は国会議員とすると規定したこと、すべての皇室財産は国に属すると規定したことなどが衆議院での主な修正点であった。

貴族院での主な修正点は、公務員の選挙において普通選挙を保障したこと、内閣総理大臣とその他の国務大臣はすべて文民でなければならないと規定したことであった。

<帝国憲法改正案(一部)>

その後「帝国憲法改正案」は、10月12日に枢密院に再諮詢され、2回の審査のあと、10月29日に2名の欠席者をのぞき全会一致で可決された。「帝国憲法改正案」は天皇の裁可を経て、11月3日に「日本国憲法」として公布された。

 

 

<続く>

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