44.日本国憲法(続き4)
44.6.憲法の施行
44.6.1.日本国憲法の施行と第1回国会の開会
昭和22年(1947年)5月3日、「日本国憲法」が施行された。当日は皇居前広場で記念式典が開かれ、各地で記念講演会等が催された。
また、新たに憲法を施行するに際して必要な法律の制定、改正が行われた。
たとえば、新しい皇室典範が法律として制定され、国会法、内閣法、裁判所法、地方自治法などが新たに制定され、刑法、民法などの規定も憲法の内容に合わせて改正された。
一方、「日本国憲法」下における初の国会を組織するため、4月25日に第23回衆議院総選挙が行われた(第1回参議院通常選挙は4月20日実施)。
その結果、いずれの政党も過半数の議席を得ることができず、5月20日、第1回国会(特別会)の召集日をむかえた。
5月24日、吉田内閣にかわり社会党委員長片山哲を首班とする内閣が成立。
6月23日に、参議院議場において第1回国会の開会式が行われた。
44.6.32.憲法普及会の活動
なお、「日本国憲法」が公布されて、約1か月後の昭和21年(1946年)12月1日、国民に対して新憲法の精神を普及することを目的として、「憲法普及会」が組織されている。
会長には芦田均が就任し、衆議院、貴族院両院議員のほかに、著名な学者、ジャーナリスト、評論家等が理事として加わった。
また同会には、中央組織の下に各都道府県に支部がつくられたが、大半の支部長には都道府県知事が就任し、事務所も都道府県庁内におかれるなど、半官半民の組織であった。
「憲法普及会」は、GHQの指導のもと様々なかたちで啓蒙普及活動を展開した。
具体的には、法学者らを講師にした中央・地方の中堅公務員に対する研修や、全国各地の住民を対象とした講演会の開催、憲法の解説書の刊行や懸賞論文の募集、また憲法の成立過程をあつかった映画の製作や「憲法音頭」等の歌を通じた啓蒙活動などである。
とりわけ全国民への憲法の普及を目的として、1947年に刊行された『新しい憲法 明るい生活』と題する小冊子は、2千万部が全国の各世帯に配布された。
<新憲法講和>
<新しい憲法明るい生活>
新しい日本のために――発刊のことば
古い日本は影をひそめて、新しい日本が誕生した。
生れかわつた日本には新しい国の歩み方と明るい幸福な生活の標準とがなくてはならない。
これを定めたものが新憲法である。
日本国民がお互いに人格を尊重すること。
民主主義を正しく実行すること。
平和を愛する精神をもって世界の諸国と交りをあつくすること。
新憲法にもられたこれらのことは、すべて新日本の生きる道であり、また人間として生きがいのある生活をいとなむための根本精神でもある。
まことに新憲法は、日本人の進むべき大道をさし示したものであつて、われわれの日常生活の指針であり、日本国民の理想と抱負とをおりこんだ立派な法典である。
わが国が生れかわつてよい国となるには、ぜひとも新憲法がわれわれの血となり、肉となるように、その精神をいかしてゆかなければならない。実行がともなわない憲法は死んだ文章にすぎないのである。
新憲法が大たん率直に「われわれはもう戦争をしない」と宣言したことは、人類の高い理想をいいあらわしたものであつて、平和世界の建設こそ日本が再生する唯一の途である。
今後われわれは平和の旗をかかげて、民主主義のいしずえの上に、文化の香り高い祖国を築きあげてゆかなければならない。
新憲法の施行に際し、本会がこの冊子を刊行したのもこの主旨からである。
昭和二十二年五月三日 憲法普及会会長 芦田 均
<児童・青少年向けの新憲法解説>
44.7.日本国憲法の再検討
憲法改正をめぐってマッカーサーと対立した極東委員会は、帝国議会における「日本国憲法」審議の進展という既成事実を前にして、これを承認せざるを得なかった。
しかしその承認の条件には、施行後に憲法を再検討するという了解があった。
昭和21年(1946年)10月17日の極東委員会第30回会議において「新憲法の再検討に関する規定」(FEC-031/41)が全会一致で承認された。
この会議では、極東委員会の政策として、「憲法発効後、1年を経て2年以内に」、国会と極東委員会が新憲法を再検討することを決定した。
日本の新憲法の再検討に関する規定
一 公布の後相当の期間をへて、極東委員会の検討と政策決定の結果、加えられた変更又は加えられるかもしれない変更とともに、現行の憲法の法的な継承者となる新憲法は、次項にかかげるところによつて、国会と極東委員会とによる再審査をうけるものとする。
二 日本国民が、新憲法の施行の後、その運用の経験にてらして、それを再検討する機会をもつために、かつ、極東委員会が、この憲法はポツダム宣言その他の管理に関する文書の条項を充たしていることを確認するために、本委員会は、政策事項として、憲法施行後一年以上二年以内に、新憲法に関する事態が国会によつて再審査されねばならないことを決定する。極東委員会もまた、この同じ期間内に憲法の再審査を行う。
ただし、このことは、委員会が常に継続して権限をもつことを損うものではない。
極東委員会は、日本国憲法が日本国民の自由な意思を表明するものであるかどうかを決定するにあたって、国民投票、または憲法に関する日本人の意見を確かめるための他の適当な手続きをとることを要求できる。
議事録抜粋には、「憲法再検討」決定について、日本国民への公表の時期と方法をめぐる意見交換がみられる。
その結果、憲法公布より早い時期には決定を公表すべきでないとの見解を持っていた米国代表の主張が通り、実際に極東委員会の決定が公表されたのは、翌年3月20日のことであった。
マッカーサーは、昭和22年(1947年)年1月3日付け吉田首相宛書簡で、連合国は、必要であれば憲法の改正も含め、憲法を国会と日本国民の再検討に委ねる決定をした旨通知している。
これに対する吉田の返信(同月6日付)は、「手紙拝受、内容を心に留めました」というだけの短いものであった。
吉田首相の憲法改正に関する考え
吉田茂は回想録『回想十年』において、憲法第9条について、「今日直ちにこれを改正しなければならないという必要は認めがたい」と述べている。
そして、憲法改正については、「憲法改正のごとき重大事は、仮にそのことありとするも、一内閣や一政党の問題ではない」「国民の総意がどうしても憲法改正に乗り出すべきである、換言すれば、相当な年月をかけて、十分国民の総意を聴取し、広く検討審議を重ね、しかもあくまで民主的手続きを踏んで改正に至るべきである」と語っている。
これは「憲法改正は今すぐする必要はない」と言っているのである。
翌年、政府や国会内で憲法再検討の動きが見られたが、これに対する国内の反応は、一部の識者を除いて総じて鈍く、結局、憲法の再検討は行われないまま、現在に至っている。
また、極東委員会も昭和24年(1949年)5月憲法改正の要求を断念した。
自衛隊の発足とその「戦力」論争
昭和25年(1950年)6月に朝鮮戦争が始まると、在日米軍の主力が国連軍として朝鮮半島に展開する事態となった。
このため、日本国内の治安維持に不安を生じたことから、政府は、同年8月警察予備隊を創設した。
昭和26年には、対日講和条約と日米安保条約が調印され、翌27年4月28日、日本は主権を回復し、独立国家として国際社会に復帰した。
しかし、自国の防衛については、日米安保条約により米国軍隊の駐留を認め、直接侵略に対する防衛は米軍に依存することとした。
昭和29年3月、MSA協定(相互安全保障法)が調印された。
MSA協定(相互安全保障法)
アメリカが1951年10月に成立させた法律で、経済・軍事援助を一本化して、援助受入国に自国や自由世界の防衛のための努力を義務づけたもの
同年7月、防衛庁と自衛隊が設立され、戦後初めてわが国に対する武力攻撃に対し、外国と戦うことを任務とする組織が誕生した。
この国防組織が憲法第9条第2項で保持を禁じられる「戦力」に該当するか議論がなされている。
これに対し政府は「(憲法第9条)第2項は「戦力」の保持を禁止しているが、このことは、自衛のための必要最小限度の実力を保持することまで禁止する趣旨のものではなく、これを超える実力を保持することを禁止するものであり、自衛隊は、我が国を防衛するための必要最小限度の実力組織であるから憲法に違反するものではない」との旨を繰り返している。
アメリカも軍隊を日本に進駐したままにしておき、完全に独立させるつもりがなかった。
国防省、CIAらの機関の画策である。
ところが、戦後80年経って、「何故80年も米軍が日本に駐留する必要があるのか?何故世界有数の国力を持っている日本が自力で防衛できないのか、兵器でも自由に造れる能力も財力もあるのに?」と主張する米大統領が現れた。
第45代米国大統領トランプである。
その彼が再び第47代大統領として再登場してきた。
大統領と国防省・CIAとの間で壮絶な戦いが始まることが想像できる。
または、大統領はビジネスとして、金銭で日本防衛を請け負うのか?
それは日本に大きく影響を与え気がする。
44.8.諸外国における戦後の憲法改正
昭和20年(1945年)の第二次世界大戦終結から平成28年(2016年)12月に至るまでの60年間に諸外国で憲法改正が行われた回数は次のとおりである。
なお、各国の憲法改正の手続きは、それぞれ異なっている。
アメリカ:6回
カナダ:867年憲法法が17回、1982年憲法法が2回
(憲法は1867年にイギリス議会が制定した憲法と、1982年に制定された憲法の2つの成分憲法で構成されている)
フランス:27回(新憲法制定を含む。)
ドイツ:60回
イタリア:15回
オーストラリア:5回
中国:9 回(新憲法制定を含む。
韓国:9回(新憲法制定を含む。)
ちなみに、イギリスでは単一の憲法典としては成典化されていないため、不文憲法または不成典憲法(uncodified constitution)であると言われる。
それは憲法典としての単一の成典を持たないという意味であり、法文化された憲法的法規は存在している。
44.9.大日本帝国憲法
序で大日本国憲法(俗称「明治憲法」)について少し触れておく。
大日本帝国憲法は、調査開始から約7年かかって制定されている。
「明治14年の政変」の際に発せられた「國會開設の詔書」によって、政府は明治 23 年(1890年)を期して国会を開設することを公約したことになった。
明治14年の政変
国会開設や憲法制定をめぐる政府内部の対立から、漸進派の伊藤博文らが急進派の参議大隈重信らを追放した事件
これ以後、明治政府は、自由民権運動など在野の動きを意識しながら「大日本帝国憲法」の制定に向けた作業を開始することとなる。
明治15年(1882)3月、政府は、参議・伊藤博文に対して勅命を発し、伊藤を特派理事に任じて欧州各国に派遣し、諸国の制度の実際を調査させることとなった。
明治18年(1885年)12月第一次伊藤内閣発足した。
明治19年11月、憲法起草の方針が決まる。
明治20年の6月から8月にかけて、伊藤博文、伊東巳代治、金子堅太郎らによって憲法草案が作成されたが、これは伊藤の別荘のある神奈川県夏島で審議されたため、今日「夏島草案」と呼ばれている。
明治21年(1888)5月8日、天皇臨席の下、枢密院の開院式が挙行された。
枢密院
枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の諮詢機関。
憲法および憲法付属の法令、緊急勅令、条約等について天皇の諮問に応ずる機関でその性質上「憲法の番人」とも呼ばれた。
憲法草案の審議は、6月18日から7月13日まで、計10日間行われたが、これをもって議了せしめるには至らず、翌22年(1889年)1月16 日に再び、さらに、1月29日から31日までの3日間の会議を経ることとなった。
枢密院による3回の審議を経て、各基本法典の草案起草者による最終的な点検が行われた後、明治22年(1889年)2月5日、枢密院の最終調整会議が行われ、憲法以下の各基本法典が確定し、天皇に上奏された。
こうして2月11日、大日本帝国憲法が発布され、また、議院法、衆議院議員選挙法、会計法及び貴族院令が公布(官報掲載)された。
<大日本帝国憲法 (一部)>
憲法に基づき、明治23年(1890年)帝国議会(衆議院と貴族院で構成)が設置された。
<続く>