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旅日記

故郷の風景(30) 柿本人麻呂所縁の地−3(益田市)

人麻呂没後まもなく神亀年間(724〜729)に、聖武天皇の勅命によって鴨島(益田沖)に人麿を祀る小社が立てられましたが、万寿3年(1026年)5月23日の地震と津波により、島と共には海底に埋没しました。

しかし御神体が松の枝にひっかかったままで、松崎の海岸に漂着しました。

人々はそれを大切に祀って松崎の地に新しい神社を再建しました。

この後、延宝9年(1681年)津和野藩主亀井茲親が、この地の水害を心配して高津の山に移転しました。

この神社が高津柿本神社です。

この神社には、初めて実測による日本地図を完成させた伊能忠敬も文化8年(1808年)に参拝しています。

 

柿本人麻呂の終焉の地については大和・近江・石見の諸説があります。

石見地方でも美郷町湯抱・江津・浜田・益田の各地に諸説があります。

昭和48年に哲学者の梅原猛氏が、「柿本人麻呂は当時の権力者である藤原不比等から反感を買ったため、益田川の河口沖にあった鴨島(万寿3年(1026年)5月23日の地震と津波により海底に埋没したといわれている)で水死刑にあった」との解釈を示しました。

人麻呂が、死に臨んで作った歌「鴨山の 石根し枕ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ」があります。

この歌の鴨山を鴨島とみたのです。

なお不比等から反感を買ったのは、一説によると、天武天皇の後継者として不比等が推していた皇子とは違う皇子を褒め称える歌を人麻呂が詠んだことにあるということです。

 

1.高津柿本神社

 

 

益田には、他に戸田柿本神社がありますが、時間の関係で行けませんでした。

改めて訪れたいとおもいます。

 

さて、人麻呂さんとは関係ありませんが、万寿の大津波に関係ある寺があります。

高津川と益田川によって作られた平野に、万寿年間には五福寺といって、「福」のつく寺が五つありました。

それは妙福寺、蔵福寺、専福寺、安福寺、福王寺の5寺です。

これらのお寺は万寿3年の大津波で流され、礎石は砂の中に埋没してしまいました。

後に、安福寺は場所を変えて萬福寺として再建され、福王寺現地に再建されましたが、残りの三寺は復旧されませんでした。

再建された二寺に万寿の大津波に因んだ物があります。

 

2.萬福寺(時宗道場 清瀧山)

応安7年(1374年)益田七尾城11代城主益田兼見公によって創建されました。

 

萬福寺には、安福寺時代の仏像(流体仏)が展示されています。

萬福寺の庭は文明11年(1479年)に雪舟によって作られた石庭です。

また慶応2年の第2次長州征伐・益田口戦争の際、この寺は幕府軍の陣営になったそうです。

本堂の柱にその時の弾痕がありました。

拝観料は500円でした。

第2次長州征伐・益田口戦争の際の弾痕

 

万寿の大津波で流されたが回収された、流れ三仏(千手観音菩薩、持国天、多聞天)

 

萬福寺の近くに医光寺があり、ここにも雪舟庭があり訪れました。

3.医光寺(臨済宗東福寺派 滝蔵山)

創建は貞治2年(1363年)です。

雪舟庭園は文明10年(1478年)ごろ造園されたそうですから、萬福寺の庭園の1年前です。

拝観料は500円でした。

 

<完>

 故郷の風景 目次 

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