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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−53(治承・寿永の乱に関する逸話ー池月)

23.2. 名馬池月

池月(生食、生唼、生月、生喰とも云う)は平安末期に軍馬として活躍した名馬である。
源頼朝に献上された名馬であるが、後に頼朝は佐々木高綱にこれを与えた。
宇治川の戦いでは池月を駆る佐々木高綱が、同じく名馬の磨墨(するすみ)を与えられた梶原景季と先陣争いを演じ、栄誉を勝ち取っている。

  

 


東北から九州まで、日本の各地に、この名馬池月の産地とする伝承がある。

東北地方

宮城県大崎市の荒雄川(現在の江合川)上流、小黒ヶ崎山の麓には、かつて池月沼という三日月湖があり、ここで池月(生食)が生まれたという伝承がある

下総

平安末期に八幡神の使いと信じられるほどの名馬が下総国葛飾郡内の牧(現・柏市市内)で生まれ、「生食」と呼ばれて信仰を集めていた。これが源頼朝に献上されたものである。
現在においても白井市・柏市等の地域には生食に由来する神社が複数存在している。

東京・大田区

東京都大田区の千束八幡神社には池月発祥伝説が伝わる。源頼朝が再起の折、鎌倉へ向かう途中に、この地に陣を張っていたところ、どこからか現れた野馬がおり、これを郎党が捕らえ頼朝に献上した。身体に浮かぶ白い斑点が池に映る月影のようだったことから「池月」と名付け、自らの乗馬としたという。

徳島県美馬市

美馬市の市名は、郡の名前「美馬(みま)」にちなんでいるが、一説には、この地は古くから馬の産地として知られ、この郡名が付けられたともいわれている。
名馬「池月」も、この地で生まれ育ったと伝えられている。

<美馬市観光サイトより>

鳥取

山陰地方(いまの鳥取県や島根県)はかつて日本の代表的な馬産地の一つであり、各地に生食(池月)の生産地とする伝承がある。

鳥取市と岩美町の境にあたる駟馳山(しちやま)もその一つで、山裾にはその石碑がある。ここでの伝承によると、幼いころに母馬を失い、母を探して山野を駆けまわったことで鍛えられた池月が頼朝に献上されたというものである。


23.2.1. 名馬池月の伝説

島根県各地の池月の伝説(島根県口碑伝説集より)

邇摩郡馬路村

宇治川の先陣に佐々木高綱の乗ったと云ふ名馬池月は邇摩郡馬路村で生れたと云ふ傅説がある。 馬路村は神代では「美地」(うまし)中世では「馬」の字を用ひ、今の馬路村となったと云ふが、その一部落に畷に沿ふて一つの池がある。

池に臨んで「厩」と云ふ屋号の家がある。これが池月の生れた厩の跡だと云ふ。駒の時から非常な俊敏であった。 馬喰か買て自分の家へ牽いて帰ろうとする途中、誤って之を逸した。

馬は月下池を渡り途に其影を失った。(池月の名此に出づ)
馬喰はあはてて後を捜して天河内の境に至り、馬の跡を発見した(現地名に馬の跡と云ふがある)是に依つて逃走せる方向を知り、大國を経て大森に出でた。

此時亦足跡を認めた。(現今大森町に駒足の幅がある)
愈よ進みて三久須に至り馬の姿を認め、「駄々」と声をかけた、馬は漸くに止まったと。 今旧道に「駄々」と云ふのはそれであると。

それより馬喰は馬牽いて邑智郡阿須那市に行き、某寺の境内なる榧の木に繋いだ。暁天一声の嘶き人をして驚嘆せしめた。「阿須那通れば見上げて通れ名馬つないだ榧もある」の俗謡 は今日迄傳はつて居る。

 

邑智郡阿須那

治承年間は、阿須那牛馬市は、最も盛賑なりし時代であった。 諸國の馬喰が入込むと共に、見世物興行なんど、盛んに行はれ頗る賑った。

其當時、出雲國飯石郡松笠村の瀧頭ヶ瀧の附近に於て、名馬池月は生れ幼駒の時母馬を失った。慕はしさの余り、此瀧壷の下を歩むうち、自己の姿の滝壷に映るを見て、母馬と誤信し、身を躍らして瀧壺に飛入り、 母馬を尋ねた。

もとより幻影に過ぎないから仔駒は尋ねあぐんでまた水辺に上り、また瀧壷を見ると馬の姿ある、また母馬と信じ飛入る。斯くすること殆んど毎日で、 全く水泳の技に長じ、駿馬の名を高くした。

治承三年此馬は牛馬商人に率ゐられて、頓原村を過ぎ、 都賀本郷まで来た。

恰も江川は雪消の水量いや増して、渡るべくもなかった。然るに都賀西にては、當市に来るべき牛馬列を爲して来るので、池月何ぞ止まるべき激浪逆巻く江川のただ中へざんぶとばかり飛入りて真一文字に打渡り、 一聲高く嘶いて、 都賀西より宇都井に出で、阿須那市場へ飛んで来た。 人々は驚き恐れた。

其中に一人の心利きたる男があつて、 やつと栢の木に繋ぎとめた。

程経て雲州より来た持主は、右の馬を賣らんとすれど、買手がない。巳むなく馬を曳いて口羽村字長田に至ると、買手があつた。

手博労で六本を示す、賣人は六百文と思ひ賣買の手を打つ、愈よ代金を引渡すに當り、買手は六百両を出して渡す。
賣人は驚き喜んで其故を問ふと、名馬の相あり六百両も尚安いと云つた。

然るに此名馬は馬喰の鑑識に違はず、鎌倉に引出して、頼朝將軍に買上げられたのであつた。

右の栢の木は、文政十一年八月九日夜の大暴風雨にて、下枝を折り、朝五つ下りより、 一丈二三尺上りてポキリと折れてしまったので、 其上に蓋を為し後世に残した。

今阿須那町鳥居の上境内に古色を帯び、木皮剝落し骨幹白くなつて残って居る。

阿須那町には、銘酒池月、池月饅頭、池月羊羹を発賣して居る。

 

邑智郡美郷町の都賀では「池月が江の川を渡った地点は現在の都賀大橋の下流約300mの御陵川付近である」と伝わっている。

  <都賀大橋>

  

阿須那の賀茂神社の近くにこの名馬に因んだ池月酒造があり、清酒を醸造販売している。

            

 

<余談だが>

上記の伝説で栢(かしわ)の木に繋ぎとめたとある場所は、邑智郡邑南町阿須那の賀茂神社の境内である。
現在、同神社の境内に二つの大きな柏木の切り株が並んで立っている。

この二つの切り株のうち、一つは伝説にあるように文政11年(1828年)8月9日の夜に暴風雨で折れたものである。もう一つの切り株は平成21年(2009年)に倒木の危険があることで、伐採されたということである。

阿須那の賀茂神社について

阿須那賀茂神社の由緒に、現在の地名である出羽と口羽の名前がつけられた謂われも記載されている。

<邑智郡誌より>

舊記(旧記)に
『往昔年號不詳。社人四多原の川邊に出で、清き流を詠め居る所に矢筈に白き鴨の尾羽を加へ柏の葉にのり川上より流れ来て岩根にかゝる、 社人不思議に思ひ其の儘取上見るに新なる矢也、此矢私に置くべきにあらずとて山の丘崎に有ける榊のもとに立て置き歸る。

其夜神の御告あり「汝あやしみ思ふ柏の葉は則ち國津神也。白羽の矢は應化の百王を守る神なり。此の山の底津岩根に齋ひ奉りて八箇の氏神となせよ」と。

明る日右の榊のもとに行きて見るにその矢柏の葉なし。 社人思ふに國津神とは志津の岩屋に坐す。 大巳貴命・少名彦命なり。 

又白羽の矢の應化の百王を守る神は山城國愛宕郡に鎮座の上賀茂神なりと。是によりて社人遂に京都に願ひ上賀茂神則・賀茂別雷命を祀る。

又その四多原の御丘崎に御崎大明神として大巳貴命・少名彦命を祀り四多原を改めて羽尾山と號す。 

賀茂神社これより八箇の氏神となる。 川上を名づけて出羽といひ、川下を口羽といへるは此の時よりぞ始る

とある。 

思ふにこれは一つの神話であるか ら、果してそうであるかは不明であるが、あながちに捨てるべきものでもない。何となれば、もと阿須那には阿須波の神があり、延喜の頃からは大原神社があり、此上に何を好んで氏神を改めようか。

即ちこれを改めて、大原神社を此の神の相殿に齋き奉つてこれを祀ったのである。

尚記に延文二年卯月吉日賀茂神社再建と記し傍に阿須那庄及び足利尊氏將軍とある。
又神職齋藤家に次の 書類を存して居る。・・・以下略・・・

 

 

飯石郡松笠村

宇治川の先陣に佐々木高綱の乗馬として、人口に膾炙する名馬池月は、飯石郡松笠村龍頭瀧の附近で生れた傳へられて居る。

この名馬は仔馬の時、母馬に死なれた。母馬を喪った仔馬は、母を慕ふの情に堪へず、瀧壷に映る自分の姿を見ては母馬と思ひ、籠壷に展飛んで母を求めた。然れども水鏡に映る姿は直ちに消えた、彼れは斯くして自然に水泳を自覚し、非常の逸物となったのである。

名馬は遂に空しく槽櫪(馬小屋のこと)に伏するもので無かつた。遂に頼朝の愛馬となって、其名を馳するに至ったのである。 

 

隠岐島後

宇治川の先陣に佐々木高綱を乗せた名馬生唼(池月のこと)は、隠岐島後津井の池附近で生れたと云ふ傳説がある。

その母馬が誤って津井の池に墜落して死んだので、 生唼はその池に映る己れの姿を見て母と思ひ、度々その池に飛込んで自然に水泳を自得した。

生接は成育した後、島後より海を泳ぎ、島前知夫郡黒木村宇賀の海岸に達した。

人々は之を捕へんが爲めに倉の谷と、大宇賀の中間の海岸に攻め込んだけれども、生唼は遂に逃れて知夫里島に泳ぎ渡り、更に波濤を凌いで内地へ泳ぎ渡った。

此生唼を込めた地を後世馬込いるに至つた。尚同地には生唼の馬蹄の跡と云ふものが残って居る。

 

<続く>

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