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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−73(後醍醐天皇−1 正中の変)

30.  後醍醐天皇

後醍醐天皇は朝廷政治を行った最後の天皇である。

「朝廷」の「朝」は政治を、「廷」は庭を意味し、漢字文化圏で君主制の政府や政権を表わす言葉として使われてきた。

古代の君主が早朝から臣下を集めて政務を開始していたことに由来し、日本では天皇を中心に政治を行う場所や組織のことを朝廷と呼ぶようになった。

 

30.1. 後醍醐天皇即位


文保の和議

文保元年(1317年)伏見上皇が崩御した時に、鎌倉幕府は両統迭立の約束事を提案する。

その内容は次のとおりである。

①天皇の在位は十年として両統交替する。

②文保2年(1318年)には第95代花園天皇は在位10年を迎えるので、皇太子尊治親王(後醍醐天皇)に譲位する。

この時、大覚寺統は条件を付けた。

それは、

第94代後二条天皇(大覚寺統)は天皇在位中に病死したため、在位期間は8年間である。

そのため、花園天皇の後は大覚寺統の後醍醐天皇と邦良親王(後二条天皇の皇子)で12年間在位する。

その後、十年交替とする。

ということであった。

第96代天皇

文保2年(1318年)後醍醐天皇が31歳で第96代天皇に即位する。

皇太子は、兄の後二条天皇の子の邦良親王とした。

即位後3年間は、父の後宇多院が院政を行った。

元亨元年(1321年)、後宇多法皇は院政を停止して、後醍醐天皇の親政が開始される。

後醍醐天皇は前述したように「一代の主」であった。

つまり、大覚寺統の本流は後宇多天皇、後二条天皇、邦良親王という流れで、後醍醐天皇は繫の天皇であり、自分の子孫に皇位を継がせることが出来ない立場であった。

後宇多院は皇太子の邦良親王を大覚寺統の嫡流として、後醍醐天皇には一刻も早く譲位を行うように命じていた。

また邦良親王も後醍醐天皇に譲位をせまっており、大覚寺統の貴族たちも、これを支持していた。

しかし後醍醐天皇は、自分の子孫に皇位を継がせたかった。

 

30.2. 正中の変

 

事件発生時の元号は「元亨」であるが、この年の12月9日に改元があって正中元年となった。そのため、「正中」の元号を付けて呼ばれている。

元亨4年(1324年)、倒幕計画を緻密に練っていた後醍醐天皇に思いがけない事態が起こる。

倒幕を計画していた仲間の妻から、この情報が六波羅探題に伝わった。

9月19日六波羅探題は兵をつかわして、土岐頼兼、多治見国長らを京都で殺害し、日野資朝、日野俊基を捕えた。

幕府から工藤高景らが派遣され、10月4日資朝、俊基を鎌倉へ護送した。

後醍醐天皇は幕府に釈明して事なきを得たが、翌正中2 年8月、日野資朝は事件の首謀者として佐渡へ配流され、日野俊基は許されて京都へ帰った。

この討幕計画は不発に終ったが、やがて元弘の乱が起ることになる。

 


30.2.1. 無礼講

元亨元年(1321年)、後醍醐天皇は「無礼講」と称する宴会を盛んに開いた。

「無礼講」とは、男が烏帽子を脱ぎ、僧侶は衣を着ず、若い女性に酌をさせることである。ここで後醍醐天皇はただ酒を飲んでいたのではなく、その裏で倒幕の話をしていたという。

また、宴会ばかりだと逆に怪しまれるということで、宋学の勉強会と称して人を集めることもあったという。

京都の二条加茂川べりの水鳥亭、ここはむかし某大臣の別宅とか、ここが風流に興ずる公卿や武人の集会所とされていた。 

ここへ集まる顔ぶれは日野資朝、聖護院ノ法印玄基、洞院ノ実世、尹ノ師賢、平成輔、伊達遊雅、日野俊基達。

そして武人では多治見国長、土岐頼兼、土岐頼員、足助次郎重成といったような、いずれも北条幕府へ不信を抱く者ばかり 二十数人であった。

それが月に一度ずつ自作の詩・歌などを持ち寄って興じ合ったり、 六条堀川あたりの遊女とか白拍子を招き入れ、夜を徹して飲むわ唄うのどんちゃん騒ぎをやらかすという、なんと変った風 流会だった。

この有様をいつも見かける町廻りの六波羅役人も、

『呑気な公卿づれょ―――』

と、気にもかけなかったのだ。

しかし、この集まりで倒幕の謀議がされていた。

 

30.2.2. 日野俊基

文保2年(1318年)に即位した後醍醐天皇の親政に参加し、蔵人となる。

後醍醐の朱子学(宋学)志向に影響を受け、鎌倉幕府討幕のための謀議に加わる。

この日野俊基は諸国を巡り反幕府勢力を募っていた。

日野俊基は、東国、西国等を巡って久しぶりに京都に帰って無礼講に参加した。

無礼講の参加者は早速旅から帰ってきた俊基の報告を聞く。

「諸国、どこへ行っても、いたるところで幕府への不平不満が膿のように膨らんで来ている様相であります。

これは一見しただけでは、見落とすが、やがてこの疼きが表面に出てくることは、まちがいはない。

一旦、鎌倉に変が起こるか、あるいは朝廷の令でも仰げば、郷をあげて、北条の治下のきずなから離れんとしている輩は、地方には沢山いるものと観て来ました」

「また、承久の乱で宮方に与して懲罰を受けた武士の子孫どもは、その時に受けた不遇と不平をいつしか事あれば解消しようと望んでいます」

俊基の報告は聞くものに希望を与え、興奮を煽った。

挙兵は北野天満宮で行われる祭礼の日と決まった。

この日は祭りの準備で六波羅探題が手薄になると考えたからである。

 

30.2.3. 事変の発覚と結末

この倒幕計画の一員に土岐頼員(船木頼春)という男がいた。

土岐頼員の妻は六波羅奉行の一人である斎藤利行の娘であった。

土岐頼員は倒幕の計画を妻に打ち明けた。

妻は戦になれば、倒幕が成功すれば父が死に、失敗すれば夫が死んでしまうと恐れ悩んだ。

そして、父に密告し夫の命を助けてもらうこととした。

元亨4年(1324年)6月19日の朝のことである。

 

斎藤利行は六波羅探題の北条範貞(常磐範貞)に倒幕計画があることを報告した。

範貞は直ちに軍勢を整え土岐頼兼と多治見国長の宿舎を襲わせた。

この戦で、土岐頼兼、多治見国長は自刃する。

六波羅は同日午後、後醍醐派の公家である日野資朝、日野俊基に出頭を要請して調査を進め、両人はこれに応じて拘禁された。

だが足助次郎重成は逃げ失せる。

後日この足助重成は元弘の乱の笠置山の戦いで、後醍醐天皇の元へ最初に馳せ参じ、奮戦する。

しかし、笠置山の陥落後に捕縛され、翌年5月3日、京都六条河原で処刑された。

 

当初、六波羅探題は、後醍醐天皇の謀反であると考え、取り調べを行った。

この幕府の調査に対し、

9月23日、後醍醐天皇は、釈明のために万里小路宣房を鎌倉へ向かわせた。

後醍醐勅使の万里小路宣房は10月5日に鎌倉に到着し(『武家年代記』同日条)、安達時顕と長崎円喜(高綱)から厳しい取り調べを受けた。

この結果、幕府は後醍醐への処分は「無為」という裁定をした。

後醍醐天皇の無罪判決の後も、日野資朝・日野俊基への取り調べは続いた。

宣房が帰京したその22日、資朝と俊基は、祐雅法師という人物と共に鎌倉へ送られ鎌倉で事情聴取されることになった。

資朝らが開催していた無礼講という宴会の参加者名簿の落書(匿名の風刺文)が六波羅探題に投じられており、その名簿には「高貴の人」(=後醍醐天皇か)の名まで載っていたという。

その落書を書いたのは、資朝・俊基と共に鎌倉に送られた祐雅であるという噂が立っていた。

 

太平記の日付の間違い

正中の変における日付は太平記と史実(花園天皇日記)に相違がある。

太平記では、

この事変は、正中元年(1324年)ではなく元徳元年(1329年)9月19日に「頼員回忠の事」として記述している。

なお、「回忠」とは、いったん背いた者が、再び忠義を尽くすことである。

土岐頼員は幕府に背いて倒幕計画に参加したが、反省し密告することにより再び幕府に忠義を尽くすことになった、ことを言っている。

そして、日野資朝・日野俊基が捕縛されたのは、翌年の元徳2年(1330年)5月10日のことであるとしている。

また、後醍醐天皇が鎌倉に勅使を出したのは同年7月7日のことと記している。

恐らく「太平記」の作者の記憶違いか、あるいは他の事情で書き間違ったのではないかと思われる。

 

正中2年(1325年)閏1月7日、花園上皇は幕府の仮決定を知った。

このことが「花園天皇日記」に記されている。

「花園天皇日記」によると

1. 資朝・俊基の討幕計画は完全な冤罪である

2. 資朝は(討幕計画に関しては冤罪だが)佐渡国に配流する

3. 俊基は無罪

4. 祐雅は追放

という内容だったという。

正中2年の5月に、日野資朝は佐渡へ遠流の身となった。

 

<続く>

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