30.3. 元弘の乱
正中3年(1326年)3月20日、皇太子の邦良親王(後二条天皇の第一皇子)が死去する。
後醍醐天皇は自分の子を皇太子にしたかった。
しかし、持明院統は文保の和議に従って後伏見天皇の子の量仁(かずひと)親王を皇太子にすることを主張する。
幕府は持明院統の主張を認め、量仁(かずひと)親王が皇太子となった。
幕府さえなければ、自分の子が天皇を継ぐことができるのに、幕府さえなければ自分で政治が行えるのに、と後醍醐天皇の倒幕願望は更に強くなっていく。
正中の変後であるから、目立った行動はできなかったが、ひそかに倒幕の布石を討っていったという。
30.3.1. 後醍醐天皇の思惑
①南都北嶺への行幸
後醍醐天皇は元徳2年(1330年)2月4日、東大寺・興福寺に行幸した。
久しぶりの行幸で南都の宗徒たちは両手を合わせて喜び、神も仏も光を輝かせ威徳をたたえた。
さらに、3月27日に比叡山に行幸し大講堂で供養を営む。
この御堂というのは後深草天皇の勅願で建てられたものであり、御本尊は大日如来である。永仁6年(1298年)に焼失しその後再建されたが、供養が行われないまま長い年月が経ち、屋根瓦は割れ扉は壊れたままであった。
だが、後醍醐帝のおかげでたちどころに改修され、あっという間に供養の儀式がととのえられたので、比叡山のすべての僧は安堵の表情を浮かべ、延暦寺のすべての僧は感謝の意を表した。
これらの行幸は南都北嶺の僧を味方につけたいという目的があったといわれている。
②祈祷
後醍醐天皇は皇后西園寺 禧子の懐妊の祈祷をさせる。
祈祷をしたのは忠円・文観・円観という三人の僧たちである。
しかしこの祈祷は幕府調伏の祈祷である、という噂がたった。
30.3.2. 吉田定房の密告
吉田定房という、後醍醐天皇の側近がいた。
この吉田定房が、元徳3年(1331年)4月29日に後醍醐天皇が倒幕の密議をしていると、六波羅探題に密告したのである。
吉田定房は文永11年(1274年)生まれで、父は吉田経長(正二位 権大納言)である。
経長、定房と親子で後醍醐天皇の乳父をつとめた。
また定房は後醍醐天皇の尊良親王の乳父もつとめている。
乳父
「乳父」は「乳母の夫」であるということが通説としてあるが、院政期から「乳父」は必ずしも「乳母の夫」ではなくなった。
夫以外の近親者である、父、兄弟、子息などが「乳父」と称されている例がでてくる。
「乳父」が養君より年下の例もあったという。
この「乳父」の役割は養君の「扶持」である。
この「扶持」の内容とは、養君の日常生活の世話、もろもろの出費の援助、儀式の際などにおける課役の調進といったこともあり、「乳父」は後見人的な側面もあった。
また、「乳母」も授乳者であるとは限らず、一人の子供に2,3人の「乳母」がつけられるのが通例であったが、「乳父」は一人であったという。
吉田定房は、1度目の倒幕計画が発覚する以前から、後醍醐天皇の倒幕に反対していた忠臣であったといわれている。
吉田定房は、討幕のための密議を行う後醍醐天皇を諌めた。
元徳2年(1330年)6月21日に後醍醐天皇から諸卿に対して意見を求められた際に定房は徳政の推進と倒幕を諌める10カ条の意見書を奉呈して討幕の不可を論じている。
醍醐寺三宝院に所蔵されていた文書の1つがその意見書(「吉田定房奏状」)の写しであると言われている。
この中で、圧政、暴政の例として、殷の紂王による暴虐と淫楽、周の文王の受難、武王による紂王の放伐など、中国における殷から周への王朝交替にまつわる故事を例にとり述べている。
続いて
「桀紂のごとき暴戻苛酷な政治が続けば、やがて天もこれを革(あらた)めるはずで、そうすれば幕府滅亡の兆しがあらわれ万民の愁訴が巷に満ちるにちがいない。
しかし、今のところそのような状況にはいたっていない」
として、討幕を時期尚早と諫止しているのである。
吉田は蟄居を命じられる。
中原章房
中原章房は明法家(法学)である。
中原章房も定房と同じように、後醍醐から討幕計画を打ち明けられた。
そして章房は、鎌倉幕府の強大な勢威を説きつつ、衷心より諫言した。
章房は秘密を漏らすような人柄ではなかったが、計画に賛同しなかったことを深く恐れた後醍醐天皇は、側近の平成輔に命じて、しかるべき処置を命じる。
そこで、平成輔は瀬尾兵衛太郎に殺害を命じた。
中原章房は清水寺参詣の際に瀬尾兵衛太郎暗殺された。
吉田と中原に対する後醍醐天皇の信頼度の差があった。
吉田定房は、なおも早急な討幕は不可能であると判断し、挙兵の準備をすすめる天皇をしばしば諫める。
しかし天皇はこれを容れなかったため、ついに定房は元徳3年(1331年)、日野俊基を主謀者とする討幕計画が存在することを幕府に密告した。
俊基を犠牲にして、天皇と朝廷とを守ろうとしたのである。
後醍醐天皇も、このことは理解していたようで、後の鎌倉幕府滅亡後の建武の新政において、吉田を重用している。
ともあれ、この吉田の密告によって鎌倉幕府は行動する。
30.3.3. 三人の僧への尋問
幕府はまず、幕府調伏の祈祷をしたという3人の僧侶を召し捕って、子細を尋ねよと、二階堂下野判官と長井遠江守の二人を上洛させる。
6月8日幕府の使者、二階堂と長井は3人の僧を連れて鎌倉に下向する。
二人の使者は帰参して、僧たちが祈った本尊と護摩壇の様子を絵図に描いて報告する。
俗人の見て分かるものではないので、佐々目の賴禅僧正を招いて、この意味を聞くと、「間違いない調伏の法だ」と賴禅僧正が答えた、という。
「それならばこの僧たちを拷問せよ」ということで、3人の僧は拷問されることになった。
拷問は、水火の責めを加えた。
文観は、しばらくの間は、どんなに問われても白状されなかったが、水責めが重なったので、身も疲れ心も弱くなったのであろうか、「帝の命によって調伏の法を行ったことは、相違ない」と白状した。
その後、忠円を拷問しようとする。
しかしこの僧正は、生まれつき臆病な人だったのか、まだ責めないうちに、帝が叡山と相談したことや、大塔宮の行い、俊基の陰謀など、あることないことすっかり白状して一巻に書いたという。
この上は、何の疑いもないことだけれども、同罪の人なので、そのままにするべきではなく、円観上人も、明日尋問するべきだと話し合った。
その夜、北条高時は比叡山の東の坂本から猿が二、三千匹群がり来て、この円観上人を守る夢を見た。
また、灯火を掲げて静かに坐禅をしている円観の影が襖に映って、不動明王の顔に見えた、という報告を受けた。
北条高時は、これはただ人ではないと思い、喚問を止めになったという。
幕府の判決は次の通りであった。
忠円:越後国へ流罪
文観:薩摩の硫黄島へ島流し
円観:陸奥の結城入道へ終身預け
日野俊基
二人の白状によって、陰謀の企てはもっぱらこの人にあったと書かれていたので、7月11日に、再び六波羅に召し捕らえられて、関東へ送られた。
鎌倉の化粧坂の葛原ヶ岡で処刑された。
日野資朝
先の倒幕計画(正中の変)では、有罪とも言えないが、無罪とも言えないとして、佐渡ヶ島に粒剤となっていた。
しかし、今回の倒幕計画が露見したことにより、流罪先の佐渡ヶ島で処刑された。
<続く>