(第1章 大東亜戦争)
2.日米開戦
大東亜戦争
大東亜戦争は、昭和16年(1941年)12月8日から昭和20年(1945年)8月15日にかけて行われた、日本(大日本帝国)と中華民国・アメリカ合衆国・イギリス・フランス・オランダなどの連合国との全ての戦線の戦争をいう。
この名称は昭和16年(1941年)12月12日に東条内閣が閣議で大東亜戦争と決定し、支那事変も含めるとされた。
支那事変は昭和12年(1937年)7月7日の盧溝橋事件を発端として大日本帝国と中華民国の間で起こった争いである。
太平洋戦争(英: Pacific War)とは第二次世界大戦の局面の一つで、大日本帝国やドイツ国など枢軸国と、連合国(主にイギリス帝国、アメリカ合衆国、オランダなど)の戦争における日対米局面を連合国側から見た呼称である。
2.1.対英米蘭への宣戦布告
この対英米蘭戦争は、昭和16年(1941年)12月8日早朝、日本軍が当時イギリス領だったマレー半島(現在のマレーシア)へ上陸し、その直後ハワイ・真珠湾(パールハーバー)を奇襲攻撃して始まった。
次の写真は、昭和16年12月9日(火)の東京日日新聞(現 毎日新聞)の夕刊の一面である。
帝国、米英に宣戦を布告
畏(かしこ)し・大詔渙発(たいしょうかんぱつ:天皇が広く国民に告げる重大なみことのり)さる。
情報局発表(8日午前11時40分)唯今アメリカ及びイギリスに対し宣戦布告の大詔がくだされました。
詔 書
天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝󠄁國天皇ハ昭ニ忠誠勇󠄁武ナル汝有衆ニ示ス
朕󠄂茲ニ米國及󠄁英國ニ對シテ戰ヲ宣ス朕󠄂カ陸海將兵ハ全󠄁力ヲ奮テ交󠄁戰ニ從事シ朕󠄂カ百僚有司ハ勵精職務ヲ奉行シ朕󠄂カ衆庶ハ各〻其ノ本分󠄁ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的󠄁ヲ逹成スルニ遺󠄁算ナカラムコトヲ期セヨ
(以下略)
詔 書
天佑(天の加護)を保有し万世一系の皇祚を践(ふ)める大日本帝国天皇は昭に忠誠勇武なる汝有衆(有衆:君主から人民を呼ぶときの語)に示す
朕茲に米国及英国に対して戦を宣す朕が陸海将兵は全力を奮て交戦に従事し朕が百僚有司(多くの官吏・役人)は励精職務を奉行し朕が衆庶は各々其の本分を尽し億兆一心国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺算(いさん:てちがい)なからんことを期せよ。
陸軍マレー半島の英領コタバル上陸と海軍のハワイ真珠湾攻撃
海軍の真珠湾攻撃と陸軍のマレー半島上陸は当初は同時に行う予定だった。
しかし、海軍の真珠湾攻撃よりも1時間5分早く、陸軍がマレー半島の英領コタ・バルに上陸し、英軍と戦っている。
海軍の真珠湾攻撃は、米軍が一番油断する日曜の夜明け時に設定されていた。
しかし、それでは航空母艦から戦闘機が飛び立ってから暗闇の中で編隊を組まなくてはならず、技術不足の戦隊があったために危険だということになり、飛び立つ時間が夜明けごろに変更になった。
それで真珠湾攻撃の時間は1時間半繰り下げることになったが、海軍がいまさら陸軍には連絡できない、借りを作れないと、そのままにしたために時間差が起きたのである。
2.2.開戦に至るまで
2.2.1.戦争に対する主な国際条約
ハーグ陸戦条約
明治32年(1899年)にオランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議において採択された多国間条約で「戦闘員・非戦闘員の区別」「使用してはならない戦術・兵器」「宣戦布告・降伏・休戦」など、戦争における義務と権利が具体的に規定されている。
日本は明治44年(1911年)に批准した。
国際連盟
第一次世界大戦後の1920年(大正9年)に、当時のアメリカ合衆国大統領のウッドロウ・ウィルソンの提唱によって国際連盟が結成された。
しかし、モンロー主義によって議会から否決された為にアメリカ合衆国は参加しなかった。
国際連盟規約12条
国際連盟国間に国交断絶に至る虞がある紛争が発生するときには、当該事件を仲裁裁判もしくは司法的解決または連盟理事会の審査に付す義務があると規定し、これらの平和的紛争解決手続に当該紛争を付託する以前に戦争に訴えることを禁止した。
また、仲裁裁判または司法的解決の判決、もしくは連盟理事会の報告後三ヶ月を経過する以前に戦争に訴えることを禁止している。
不戦条約(パリ不戦条約)
さらに、1928年(昭和3年)アメリカを含む15カ国が参加して、不戦条約が調印し成立した。
これは、「国際紛争解決のため、および国策遂行の手段としての戦争を放棄すること」を誓ったものであった。
しかし、アメリカは条約締結に当たり、重大な条件を付帯させた。
それは、この条約は
「いかなる点においても自衛権の制限もしくは毀損を意味してはいない。
この権利は、各主権国家に固有のものであり、あらゆる条約に事実上含まれている。」
と表明し、自衛のための戦争は可能であるという道を残したのである。
また不戦条約には「侵略」をどこが認定するのか規定が無く、「違反に対する制裁」についても触れられていなかったため、理念的規範にすぎないと考えられた。
この「侵略」、「自衛権」に対する規定がないことが、後の災の火種となる。
また、このような国際条約を、自国が不利になっても真剣に守ろうとする国があることを、寡聞にして知らない。
2.2.2.支那事変
昭和12年(1937年)7月7日に北京西南の盧溝橋で日本軍と中華民国の国民革命軍とが衝突した。
世に言う盧溝橋事件である。
これが支那事変の発端となった。
しかし、以後本格的な戦闘が行われても、日中両国は宣戦布告を行ってない。
国際連盟規約、パリ不戦条約に拘束されるため、これらの戦闘を「事変」というしかなかったのである。
当初日本軍首脳は、この戦闘は短期で決着がつくと想定していた。
しかし、目論見に反して長期化、泥沼化していくのである。
この支那事変はやはり日本軍部が図に乗って走った(暴走した)ものと思わざるを得ない。
結局、宣戦布告したのは、4年後のことである。
昭和16年(1941年)12月、英米蘭は日本の攻撃を受けて宣戦布告した。
すると蔣介石の重慶政府は呼応するかのように日本に宣戦布告した。
これを受け、東条内閣は、大東亜戦争は支那事変も含めると、決定したのである。
支那事変国庫債券
政府は、日中戦争(支那事変)の戦費調達のために国債を発行している。
国債は昭和15年(1940年)に発行され、額面は300円から30円まであった。
国民は購入を奨励され、購入後は売却を控えるよう求められた。
敗戦でこの債権は紙くず同然になったという。
<戦前や戦中に発行された国債は払い戻しに関して、財務省は次のように回答している>
国債の元本と利子の支払いについては、消滅時効の制度があるため、戦前や戦中に発行された国債をお持ちの場合、その国債についての消滅時効が完成しており、元本や利子の支払いは受けることができません。
2.2.3.支那事変への欧米の関与
英仏米ソはそれぞれの思惑で、日本と紛争中の蒋介石の政権(南京国民政府)を支援していた。
英仏の懸念
英仏は中国に有する英仏の権益が侵されることを懸念していた。
また蒋介石政権が倒れて中国に親日政権が樹立されるとなると、日本軍は中国内に自由に軍事拠点を設けられるようになる。
そして、英仏がアジアにもつ植民地に軍事拠点を持った日本軍がいつでも攻め込める状況になることを恐れたのだった。
アメリカの狙い
アメリカが蒋政権を支援したのは、中国との貿易のためである。
アジアでの植民地競争に出遅れたアメリカは、他の列強のように中国内に権益を確保できなかった。
そこでアメリカは門戸開放を訴え、中国との自由な対中貿易が促進されるように計っていた。
明治32年(1899年)に中国における商業上の機会均等を、翌年にはこれに加えて中国の領土的・行政的保全を求める通牒を関係各国に送付し、了承を求めている。
アメリカは門戸開放政策を提唱することで、当時中国の分割を進めていたヨーロッパ諸国や日本とは一線を画し、自らを中国の独立と統一を擁護する国家という自己イメージをもつことができた。
そこへ起きたのが満州事変であり、その後に続く支那事変である。
アメリカから見れば支那事変は、門戸開放する中国へ日本が攻め込み、その権益を独り占めしようとしているように思えたのである。
また、アメリカには中国が民主国家であり、日本に一方的に侵略されているとの世論が生まれるようになっていた。
これは中国が力を入れていた宣伝活動が功を奏したものである。
ソ連の思惑
大正13年(1924年)ソ連は外モンゴルにモンゴル人民共和国を成立させ、モンゴルを勢力圏に置いた。
このような状況を背景にして、日本では軍部を中心に満洲を極東に押し寄せる共産主義からの防衛線とすべきであるという考えが芽生えていた。
世界の共産化を目指すソ連にとっては、国境を接する満州にいる日本軍は邪魔な存在だった。
いずれは日本との戦争が起きる可能性を考えると、日中間の戦争が泥沼化することで日本軍の力が疲弊することはソ連の望むところだった。
また日本軍が日中戦争に兵を向けている限りは、満州から自国に侵攻される心配をしなくても済む、ことも好都合であった。
上記の理由により、米英仏ソなどによる軍事経済援助が、蒋政権を支えていた。
一方、欧州ではドイツ侵攻によりオランダ・フランスがドイツに降伏し、イギリスも危機に瀕していた。
日本は、こうした欧州の状況を好機と捉え、東南アジア(英仏蘭の植民地)への進出によって、日中戦争の泥沼からの脱出を目論むのである。
<続く>