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旅日記

石見の伝説と歴史の物語−212(小笠原長雄と長旌)

64.毛利の中国統一

毛利元就の石見統一は、出雲富田城に尼子義久を降服させた水祿10年(1567年)をもって完了した。 

これで毛利元就は出雲を手中にし、ついに毛利による中国制覇を成し遂げた。

その後の石見は毛利の領国として、元就の次男吉川元春の管轄となり、生き残った吉見・益田・周布・小笠原・出羽・佐波らの豪族も、すべて毛利の家臣団に組み込まれた。

その上毛利一党の諸族が次第に石見各地に移封されて来住したため、生き残った豪族たちは、まとまった領地を持つことがなくなり、全くその独立性を失ってしまった。


日本列島はこの時代、各地域で勢力を拡大した、いわゆる戦国大名が最後の覇権争いに、向かっていた。

九州の島津・大友、中国の毛利、四国の長曾我部、北陸の上杉謙信、甲信の武田信玄、陸奥の伊達正宗、東海の今川義元・織田信長・徳川家康らがそれである。

毛利の次の対手は彼らとなっていった。

しかし、体調を崩していた元就はその野望を果たせぬまま死去し、その夢は子孫が引き継ぐこととなった。

 

64.1.毛利元就の最後

永禄6年(1563)頃より、元就はたびたび体調を崩しており、永禄9年(1566年)2月には長期の出雲出陣の疲労からか大病を患った。

名医を呼ぶなどの懸命な治療が施された。

その効果もあって翌月には全快した。

また永禄10年(1567年)1月には最後の息子である才菊丸(後の小早川秀包:小早川隆景の養子)が誕生している。

永禄12年(1569年)4月、吉田郡山城において病にかかったが、永禄9年の時ほど重くはなかったため、やや快方に向かうのを待って、九州大友氏との戦いで長府に出陣した。

元就は立花城の戦いにおける毛利軍を督戦したが、これが元就の生涯で最後の出陣となった。

永禄13年(元亀元年、1570年)1月、尼子勝久への攻撃を行うために元就に代わって輝元が総大将となり、元春と隆景も出陣した。

元就は吉田郡山城に残って、大友氏や浦上氏の来襲に備えたが、同年9月に重病にかかった。

元亀2年(1571年)3月16日、元就は花見の会を催し、その席上で「友をえて 猶ぞうれしき 桜花 昨日にかはる けふの色香は」と詠んだ。

同年5月になると元就の病状が再び重くなったため、隆景は出雲出陣中の元春とも協議して、安国寺恵瓊を使者として京から医師を招聘することを決定し、5月13日に東福寺の塔頭・勝林庵にその斡旋を依頼した。

将軍・足利義昭の命によって毛利氏と大友氏の和睦斡旋のために安芸国に訪れていた聖護院道増も元就のために病気快癒を祈願したが、元就の病状は次第に進行していった。

6月13日、元就は吉田郡山城で激しい腹痛を起こして危篤に陥り、翌6月14日の巳の刻(午前10時頃)に死去した。

死因は老衰とも、食道癌とも言われる。

享年75(満74歳没)。

家督そのものはすでに嫡孫の輝元が継承済みであった。

輝元は毛利両川体制を中心とした重臣の補佐を受けて親政を開始した。


 65.小笠原長雄と長旌

小笠原長雄(ながかつ)は石見小笠原氏の第14代当主で、妻は安芸国国人・吉川氏13代当主吉川元経の娘である。

また、小笠原長旌(ながはた)は長雄の子で第15代当主であり、妻は三原局(小早川隆景の娘(養女))である。


<毛利・吉川・小早川・小笠原家婚姻関係図>

 


65.1.小笠原長雄の無念

長雄は石見守護の大内方であったが、大内氏が滅亡すると、周辺豪族との争いの影響もあって、尼子方に鞍替えした。

こうした中、石見進出に進出した毛利は小笠原氏の居城である川本(邑智郡)の温湯城を包囲し攻めた。

永禄2年(1559年)8月25日小笠原方も良く防戦したが、足掛け2年に及ぶ攻防戦の結果和議を結んだ。

毛利元就は江の川以北の地に所領替えを命じたため、小笠原長雄はやむなく温湯城を明け渡した。

毛利はこの後ひとまず、長勝を甘南備寺(江津市桜江町)に閉居させた。

永禄3年、永禄4年と小笠原軍は毛利の先鋒となり銀山山吹城を攻撃している。

その後、毛利は小笠原氏を自陣の戦力として用いるようになる。

この頃、有名な戦いが行われている。
①永禄3年5月19日、織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦い
②永禄4年9月9日から9日間、武田信玄・上杉謙信の合戦の中で、最大の激戦であった第4次川中島の合戦

永禄5年2月、毛利方として福屋隆兼の居城河上松山城(江津市松川町)を攻撃し、この功績として領地加増の上閉居を解かれ、湯谷の地に移った。

同年7月毛利に従い尼子攻撃に参陣。

永禄11年小早川隆景に従い、伊予、北九州にて戦う。

永禄12年12月9日、小笠原長雄死去。享年51。


「石見小笠原氏と伝承」(川本町歴史研究会 平成13年5月10日発行)より抜粋

その後毛利に従い銀山山吹城(大田市大森町)の攻撃や福屋氏の松山城(江津市松川)の攻撃に目覚ましい働きをした。
その功によって加増され、永禄5年(1562年)3月に湯谷(川本町)彌山土居に入った。
しかし、長雄は毛利氏に遠慮したためか山城としての城郭は構えず、殿畑という地名が残っている場所に土居を築いた。
そのほか湯谷地域を囲む周辺の山陵に防御施設を配置した。

長雄は永録十二年(一五六九) 湯谷の地でなくなったが、小笠原氏の根拠地は湯谷から北佐木、南佐木、三原、田窪(川本町)へ拡大していくとともに一族の土居屋敷がこれらの地域に集中し、やがて丸山築城となっていくのである。

長雄が領主として湯谷の地に住んでいた館跡(殿畑)・奥御殿跡(三味線田)・家中屋敷跡(二ツ町)・馬場跡(後馬場)弓・鉄砲練習場跡(射勝原)などの地名が残り、成就庵古墳の歌(旧三谷村村歌)とともに往時のことが語りつがれている。

  

    

長雄は無念にも、居城であった温湯城を明け渡し、甘南備寺閉居後、湯谷に居を構え、ここを拠点にして、毛利方として山吹城、松山城攻撃、また尼子攻めに参陣した。

しかし、長雄はいつの日か再び温湯城に戻ることを願っていた。

かつての石見小笠原氏の居城は、村ノ郷(邑南町)の山南城であった。

石見小笠原氏第3代の長胤時代の領地拡大に伴い、その領地支配の中心拠点であること、及び三原(邑智郡川本町)と村之郷という二大穀倉地帯の中間点であることから、川本(邑智郡)の会下谷に城を築いたのが温湯城である。

温湯城は、南北朝時代の正慶3年/延元元年(1336年)に築城に着手し、第4代長氏の時の観応元年/正平3年(1350年)に完成し、村ノ郷(邑南町)の山南城から移った。

以来、永禄2年(1559年)までの凡そ200年間、温湯城は石見小笠原氏の居城として続いた。

その間、多くの神社仏閣の創建、寄進、造営を行っており、地域住民から信頼も厚かった。

主なものは次のとおりである。

川本の弓ヶ峯八幡宮の社殿造営、三島大明神の勧請、三原武明八幡宮への寄進、甘南備寺への寄進、湯谷八幡宮の勧請、荘厳寺(川本町)への寄進、笹畑(川本町)正安寺の開創、長江寺(湯谷)の開基、竜源寺(川本町)の創建、清太寺の本堂再建。 

  


65.2.長旌の願い

永禄12年(1569年)12月9日に長雄が死去し、その跡を長旌が継いだ。

長旌26歳の時である。

だが、長旌には後継男子がまだいなかった。

そこで、毛利一族である吉川元春の子を養子として迎え、その子を当主として温湯城復帰を目論んだ。

しかし、この計画は毛利の当主輝元が拒絶したため、温湯城返還の望みは絶たれた。

これにより、長旌や小笠原家臣の気持ちは、新城の築城に向かっていくのである。

養子話の顛末

長旌は、病弱で後継男子がまだいなかった。

そこで、小笠原家臣団、つまり長旌の弟(長秀・元枝・長住)と重臣たちはこの問題を協議する。

その結果、毛利一族との結束の強化と温湯城返還の狙いを持って、長旌の養子として吉川元春(毛利元就の次男)の三男吉川経言(後の広家)を養子に迎えようとすることになった。

経言を温湯城の城主とし、事実上の返還を目論んだのである。

天正8年(1580年)8月、小笠原長秀ら小笠原氏の年寄が連署で吉川氏に誓文を納れ、また9月市川経好に書を寄せて、吉川元春父子へ取成しを依頼した。

当初は、吉川経言の弟松寿丸を申受け小笠原長旌の家督たらしめんとしたが、松寿丸が夭折し、その計画は挫折する。

しかし、小笠原氏方はその代りにと経言を所望し、市川経好を使節として、織田軍との戦いのため備中飯山に陣している、吉川元春に申入れたが、元春は是非を決せざるまま伯耆に出陣した。

小笠原家から再び元春に請うと、 小笠原家中同族の申請ならば考慮すべき旨を答えた。

そこで小笠原氏方では、養子の条件として元の家城たりし 温湯城及び本領の返付を希望し、長旌は父と号して懇意に致し、家人各相違あるべからざる旨を誓った。

元春は9月3日伯耆の津波陣から、疎心の儀あるにあらざるも、毛利輝元の意見を聞いた上で許否を決すべき旨申送った。

しかし小笠原氏はもともと尼子氏と結び、毛利氏に敵性を発揮して来たので、元就はこれを討伐しその本領及び家城を奪い、温湯城は吉川元春が領有するようになった来歴がある。

そこで毛利輝元はこの縁談に不同意を唱え、ついに縁談は破棄された 。

吉川元春は、経言小笠原家養子入りについてはさほど不同意では、なかったようだが、小早川隆景が強く反対した。

輝元の父隆元が死亡してから隆景は輝元の教育係りとして厳しく指導していた、この隆景の影響を受けたのである。

隆景は小笠原の勢力が強力になり、毛利、吉川、小早川の体制にひびが入ることを懸念していたのだった。

養子縁組が破談になったことは、温湯城の返還の望みが消えたことを意味した。

この時から温湯城に代わる新城を築城すべきとの声が沸き上がってくるようになるのである。

 

<続く>

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