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旅日記

石見の伝説と歴史の物語−4 (江の川の伝説)

1.3. 江の川の伝説

1.3.1. 猿猴伝説

江の川流域には数多くの伝説があるなか、「猿猴(えんこう)」伝説が江の川流域の各地にある。

この猿猴は河童の一種であって、猿猴の伝説は中国・四国地方にも古くから伝わっている。

猿猴は姿が毛むくじゃらで猿に似ているので、河童とは少し違うらしい。

猿猴は普通、川や池の淵にいるが、海近くの村では、海にもこの怪物が棲むと信じられている。

石見地方や愛媛県岡桑郡で、彼岸花のことをエンコ ウ花というが、エンコウの出そうな土地に咲くからよんでいるのだといわれている。

馬好きのエンコウの話は全国的にみて相当沢山あるが、島根県では大田市静間、川本町三原、邑智町地頭所、羽須美村口羽、瑞穂町鱒淵、市木、石見町井原、桜江町川戸、 八戸、 江津市都治・波積・二宮・跡市、浜田市宇津井、金城町雲城、匹見町、六日市町朝倉、西郷町中村等である。

なお旭町今市、都川、金城町今福では、牛を捕えようとして失敗した話となっている。

話は変わるが、日本人の多くは中国の古典西遊記に出てくる「沙悟浄」は河童の一種と思っていたが、どうやら違うらしい。

河童は日本固有の妖怪であり、このようなキャラクターの妖怪等は中国にはいないらしい。

西遊記が日本に輸入された時に沙悟浄のイメージを河童と結びつけ、挿絵を付け、翻訳したようである。

<西遊記原典の挿絵>

<日本の西遊記翻訳本の挿絵>

 

 

以下に猿猴に関する民話・伝説の一部を記載する。

川戸村 端午のゑんこう祭

昔より五月五日の端午の節句の日に、 ゑんこう祭と云ふものを行ふ。

御輿を船に乗せ神職は楽を奏し、民村多數船に乗りて江川を上り、村界の岩の下に至りて祭をなし、岩上の大松に幣を立てて歸るを例とするのである。

其の由来を聞くに、昔當地の領主が馬を洗ひに江川畔に出でたるに、エンコウが其の馬を取らんと綱を己れが身に巻きつけた。馬は驚いて城内に走り帰つたから、エンコウも引かれて城内に入り、遂に捕へられて殺されるばかりになった。其の夜「此の村の人に害を致しませぬから」と云つた。

城主は「きつと違へぬならば助けてやる。そして又毎年お祭をしてやる」と云つて許してやった。爾来此の祭典を擧する事になった。エンコウは將來村民にも害を與へない證據にとて、前記の岩壁に文字を刻んで行ったのである。字體不明瞭で判然読めない。

 

江津市桜江町 「水神祭」(エンコウ祭)

江の川の伝統行事として、毎年5月5日に行われる桜江町の「水神祭」(エンコウ祭)は、水難防止を願って江の川で行われる舟神事やエンコウ(河童)の伝説とともに500年の伝統があり、江の川に初夏の到来をつげる行事として、今でも多くの人に親しまれている。

この時期の河畔の山々は新緑に包まれ、滔々と流れる川面にその姿を映して美しい風景を醸し出している。

近年では、端午の節句にちなんで、4月下旬から5月上旬の間、約150匹の鯉のぼりが江の川の川幅いっぱいに渡され、祭りに一層の彩りを添えている。

   

   

 

井原村 河童の話

樋口谷に野原(今の野原の方)といふ家あり、下男井原川にて馬を洗ひ連れ帰りたるに、共の尾に河童 (此の地方にて はエンコウといふ)の取付けるあり。

之を主人に告げたるに主人大いに怒り厳しく之を叱責し、家に在りて仕事をなさしめたるに、河童頼りに放免されん事を請ふ。 主人よつて今後井原川にては決して人々に危害を加ふべからざる事を約して放ちやる。 之より本村には河童の害なしと云ふ。

 

口羽村 ゑんこうの傳説

口羽村宗林寺の馬をエンコウが捕らんとして、却って前記玉泉寺同様捕へられた話が傳つて居る。

エンコウは岩上の松を指して「松の木が腐朽して川に落つるまでは、決して此の川で人畜に害を致しませぬ。」 と誓ひ、宗林寺の和尚さんは 「わたしはあの岩に字を刻んでおくから、 この字が磨滅したら人畜を捕へてもよい。」と云つて放った。

其の後エンコウは毎夜出で文字を掻消さんとしたが、字は益々深くなり、又岩上の松は遂に朽ちずして化石した。それ以來永久に此の川筋でエンコウの害を蒙ったものは無いと。



1.3.2. 高野寺の​​名鐘と猿猴話

江川には、昔から有名な難所が数々ある。 その難所の一つに住郷七日淵がある。

この七日淵の地に接する邇摩郡温泉津町井田の山中に真言宗の古刹高野寺がある。 この寺には「名鐘」の故に戦時中供出の難も免がれた有名な梵鐘がある。

現在県の文化財にも指定されている。

「高野寺の釣鐘は七日淵から猿猴が負いあげた」という伝説がある。

内容の違う二つの伝説を取り上げた。

(その一)(桜江町誌より)

この伝説の地一帯は、その昔桜井津と称して江川舟運の要津であった。 この要津を擁して江川上下流を支配していた者は、名に負う土屋一族であった。 彼は江川を根拠地に遠く韓国・中京・呂宋にまで手広く交易した気宇広大な連中であった。

 土屋の初代宗信以下、吉久、宗義、賢宗等の一族が、その財力を惜しみなく、所在の名刹高野寺のために、韓国の名鐘一個を献納しようとした。

 ところが、この名鐘をはじめ、数々の珍器名宝を満載した土屋の韓国交易船が、終着桜井津を目前に、七日淵で難破した。

あらゆる積載物が一瞬にして渦のまにまに四散し、直ちに附近の川人達が召集される。軽量の積荷は手馴れた川人達によって苦もなく引きあげられたが、積載物中最も重量のある梵鐘は淵深く沈んで並々の川人達は寄せ付けない。

この時、日頃から息の長いことで猿猴と綽名されていた一人の若者が、幾度かの失敗のあげく遂に沈鐘の引きあげに成功したという。

(その二) (温泉津町の伝説要約)

井尻の高野寺は、真言宗の古いお寺です。 このお寺は今から 千百五十年前、弘法大師がお建てになりました。 ここにつくり 方や紋章などからみて、朝鮮から伝わって来たのではないかと 思われる大きなつりがねがあります。 今から四百年ぐらい前 (戦国時代) この地方は尼子と毛利がはげしい戦いをくりかえ していましたが、ある夜のこと、このお寺へ一人の男が大きな 荷物を背負って登って来ました。

 お坊さんが出てみると、晴れた夜なのにその男は全身水にぬれているのです。 「私は、谷住郷の七日淵にすむエンコウです。

仏さまのお使いで、このつりがねを持って参りました。 なに もいりません。 水を下さい」 といいました。 お坊さんが水を持ってくると、どうでしょう。 その男は頭から水をかぶって 「これで元気が出ました。 つりがねは門のところにおきましたよ」 というと、 すがたを消してしまいました。

つぎの日、つりがねを六人の力の強い男でやっと持ちあげる ことができました。

<高野寺>

谷住郷の「七日淵」

国道261号線を桜江大橋から約1km江津方面に行くと桜江トンネルがある。このトンネルの入口辺りにある江の川の淵を「七日淵」という。

今、対岸は石の河原となっているが、その昔は江の川の水深も深くこの河原もなく、大量の水を湛えた大河の様相をしていたようである。

<現在の七日淵>

 ​​地元に伝わる七日淵の云われ

①昔は江津まで出るのに、交通の便は、小さい山道を川づたいに山道を通るの以外になかったから、江津へ出したりあるいは江津から帰るのはいかだに頼っていた。 江の川は、そのいかだが下るのに直接まっすぐに下れればいいけれども、舵をあやまるとその入り江に入り込む。それで、その入り江へ入り込んだら七日もかからんと、その入り江で渦が巻いているから、出ることができない。それで七日淵という名前がついた。

②七日淵、昔は大きな淵でした。川越の方から出て、渦ができて鳴門の海みとるようだ。あれに回り込みゃあ七日間出られんけん、七日淵という名前がついとる。

七日も淵から出られないというのは大げさにしても、かつては大きな淵で大きな渦が巻いていたものと思われる。

江の川を運行するにあたっての注意を促すため、民話や伝説によくある教訓的な話に変わっていったようである。

 

<続く>

<前の話>   <次の話>

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