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旅日記

望洋−42(根本博元陸軍中将)

24.根本博元陸軍中将

終戦4年後の昭和24年(1949年)6月に九州宮崎から台湾に密航した男たちがいた。

彼らはわずか26トンのポンポン船で、およそ1400Kmを幾多の危機を乗り越えて台湾に到着した。

彼らは元陸軍中将の根本博達だった。

根本博は台湾に退却した蒋介石を援助するため漁船で九州宮崎から台湾の基隆まで密航したのである。

そして、根本は中国名「林保源」として台湾国府軍を指揮して金門島で、中国人民解放軍と戦闘し同島を死守した。

これにより、中共政府は台湾奪取による統一を断念せざるを得なくなったのである。

 

台湾へ漂着した、海上挺進戦隊員の話を書いている時に、ふと、命を掛けて台湾へ密航した根本博元陸軍中将のことを思いだした。

ついでながら、その台湾密航の話をしてみたい。

(中華民国陸軍軍服姿の根本博)

 

24.1.中国居留邦人の引き揚げ

昭和20年(1945年)8月15日正午ラジオから玉音放送が流れた。

同夜(16日零時30分)、支那派遣軍の司令部に次の大命が到着した。

大陸命第千三百八十一号(8月15日)
一、大本営ノ企図スル所ハ八月十四日詔書ノ主旨ヲ完遂スル二在り
二、各軍ハ別二命令スル迄各々現任務ヲ続行スヘシ 但シ積極進攻作戦ヲ中止スヘシ 又軍紀ヲ振粛シ団結ヲ鞏固ニシテー途ノ行動二出テ且内地、朝鮮、樺太及台湾二在リテハ治安ノ動揺防止二努ムヘシ

これを受け、支那派遣軍の岡村寧次総司令官は直ちに(16日(2時00分))、麾下全軍に対し「積極的進攻作戦を中止するとともに、一兵に至るまで光輝ある派遣軍の矜持と不抜の信念とを堅持して沈毅自重せしむべきこと」を命令した。

続いて16日夕刻(19時07分)、次の大命が到達した。
大陸命第千三百八十二号(8月16日)
一、第一総軍司令官、第二総軍司令官、関東軍総司令官、支那派遣軍総司令官、南方軍総司令官、航空総軍司令官、第五方面軍司令官、第八方面軍司令官、第十方面軍司令官、第三十一軍司令官、小笠原兵団長及参謀総長ハ即時戦闘行動ヲ停止スヘシ
但シ停戦交渉成立二至ル間ノ来攻二方リテハ止ムラ得サル自衛ノ為ノ戦開行動ハ之ヲ妨ケス
諸部隊ハ宿営給養等ノ便ヲ考慮シ適宜ノ地域二集結シ爾後ノ行動ヲ準備スルコトヲ得

二、前項各軍司令官ハ戦闘行動ヲ停止セハ其ノ日時ヲ速二報告スヘシ

三、細項二関シテハ参謀総長ヲシテ指示セシム

この大命には「止むを得ざる自衛の為の戦闘行動は」認められていた。

しかし、18日「別に示す時機以降は一切の武力行使を停止」するよう示され大命が下された。

即ち、自衛の為の戦闘行為の時期が限定されたのである。

大陸命第千三百八十五号(八月十八日付)
命令
一、別二示ス時機以降第一総軍司令官、第二総軍司令官、関東軍総司令官、支那派遣軍総司令官、南方軍総司令官、航空総軍司令官、第五方面軍司令官、第八方面軍司令官、第十方面軍司令官、第三十一軍司令官、小笠原兵団長及参謀総長二与へタル作戦任務ヲ解ク
二、前項各司令官ハ同時機以降一切ノ武力行使ヲ停止スヘシ
三、詔書渙発以後敵軍ノ勢力下二入リタル帝国陸軍軍人軍属ヲ俘虜ト認メス
速二隷下末端二至ル迄軽挙ヲ戒メ皇国将来ノ興隆ヲ念シ隠忍自重スヘキ旨ヲ徹底スヘシ

<張家口>

駐蒙軍

駐蒙軍は北支那方面軍(支那派遣軍隷下)隷下で内蒙古での警備や蒙古聯合自治政府の政務指導に当たった陸軍の軍で、中国河北省張家口に位置し当時の司令官は根本博中将だった。

日本が降伏する6日前の8月9日、ソ連は日本に宣戦布告をした。

ソ連が対日宜戦を布告するや、駐蒙軍は直ちに隷下の独立混成第二旅団(張家口地区)および第四独立警備隊(大同地区)に「既設陣地において敵を拒止(こばみとどめること)」すべきを命じた。

しかし、8月15日、旅団は終戦を知り、即日、張北(張家口北部)の中隊を撤収した。

爾後、駐蒙軍が戦闘行動を停止していたにもかかわらず、ソ連軍は17日、18日の両日、少数機をもって張家口を爆撃し、さらに、地上においても戦闘行動を続行し、18日夜から日本軍既設陣地を攻撃し始めた。

19日、現地においては、ソ連軍は、日本軍が派遣した軍使に不法にも射撃を加えて負傷させ、依然として攻撃を続行した。

岡村寧次総司令官は13時30分、次の命令を下した。

北支那方面軍司令官ハ、ソ連軍ノ承徳地区及蒙彊方面二突進スルニ方リテハ戦闘行動ヲ停止シ適宜局地停戦及武器引渡等ヲ実地スヘシ 尚戦況之ヲ許セハ予メ軍官民ヲ京津地区に撤収スルニ務ムヘシ

戦闘行動を停止し武器引き渡しを行え、と命令した。

総司令官は、停戦交渉の機が失われる事を恐れたのだった。

現地の旅団長は19日、軍の指示に基づき、更に軍使を出して停戦を申し込んだが、ソ連軍は日本軍白旗に対し射撃を行い、これを拒んだ。

さらに第三回〜第五回と日本から軍使遣わしたが、ソ連軍はこれを抑留した。

また日本軍から2日間の攻撃猶予を懇請しても、ソ連軍はこれを許諾しなかった。

20日、ソ連軍は依然、日本軍に攻撃を続けてきた。

日本軍は、色々交渉をしようとしたが、全て拒絶され事態は悪化するばかりであった。

今や、駐蒙軍は自衛のため張家口(廣義)付近において一戦を交えなければならない破目に追い込まれた。

駐蒙軍の司令官根本博中将はこの決意を上司に報告するとともに、敵軍の戦闘行為を停止させることについて上司の配慮を要請した。

岡村寧次総司令官(在南京)は、下村定北支那方面軍司令官(在北京)が終始停戦の意図の下に指導している事実を知り、20日13時ころ、北支那方面軍(北京)と駐蒙軍(張家口)に次のとおり電報した。

蒙彊方面二於ケル「ソ」軍ノ不法行為二対シ貴軍ノ苦衷察スルニ余リアリ然レトモ詔勅ヲ体シ大命ヲ奉シ真二堪へ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍フノ秋(大切なとき)タルヲ以テ本職ハ大命二基キ血涙ヲ呑ンテ総作命第十二号ノ如ク有ユル手段ヲ講シ速カニ我ヨリ戦闘ヲ停止シ局地停戦交渉及武器引渡等ヲ実施スヘキヲ厳命ス

又速力二隷下末端二至ル迄軽挙ヲ戒メ皇国将来ノ興隆ヲ念シ隠忍自重屈辱ニ堪へ忍フヘキ旨ヲ徹底セシムへシ

尚詔書換発以後敵軍ノ勢力下入リタル帝国軍人軍属ヲ俘虜ト認メサル旨ノ大命ヲ拝ス

一方下村方面司令官も、この総司令官の命令に基づき21日、駐蒙軍に次のように電報した。

貴軍の苦衷諒察二余リアルモ如何ナル場合二於テモ総参一電第十七号及ヒ・・(中略)・・二基キ戦闘行動開始ハ厳二之ヲ避ケラレ度

 

このような状態であったが、下村定大将は東久邇内閣(昭和20年8月17日〜10月9日まで続いた)の陸軍大臣に任命されたため、現地を21日に出発することとなった。

その後任は駐蒙軍司令官根本博中将だった。

新方面軍司令官根本中将は焦眉の事態に身をもって処するため、引き続き張家口において駐蒙軍に対し指導に任じた。

一方、この間、根本軍司令官以下の自重により20日11時半に至って、ようやく抑留された軍使を取り戻したが、その際のソ軍の態度はきわめて傲慢で、かつ、その時のソ連側の意向も次のとおりであった。

15時半迄に陣地守備隊の、また、17時迄に在張家口の各部隊の完全武装解除を要求した。

そして、20日午後には、ソ連軍は日本陣内に侵入し始めたのである。

当時駐蒙軍は20日の朝から、同方面居住の邦人約四万人の京津地区(​​北京、天津、さらに河北省の石家庄、廊坊、保定、唐山、秦皇島、滄州、張家口、承徳の8つの都市から成る地区)へ輸送を開始したばかりで、輸送が順調に進んでも最後の梯団は22日の夜までかかると考えられた。

この状況下、駐蒙軍は20日夜、上司に次のように電報した。

少クモニ〜三日 為シ得レハー週間ノ余裕ヲ得ル目的ヲ以テ更二交渉続行二努ムルモ、彼ニシテ応セサル場合最小限ノ時日ノ余裕ヲ得ル目的ヲ以テ隷指揮下ノ総兵力ヲ結集シ断乎外長城線要域二於テ敵ノ進出ラ抑止スル為最後迄戦フ如ク決心シタリ

(張家口に居留の邦人約4万人を無事脱出させるには、少なくとも、2,3日、できれば1週間の余裕が欲しく、ソ連軍と交渉している。
しかし、もしそうならないならば、総力を挙げて長城以南の敵進出を抑止するため最後まで戦う)

この時期、駐蒙軍は「当面のソ連は延安軍(中共軍)と呼応して傅作義軍(国民党軍)の進出に先だち張家口を占領することを企図しているもの」と判断していた。

同夜(20日夜)続けて次のように電報した。

大東亜省ノ指示ハ本職ト反対ニテ居留民ノ引揚ヲ延セシメタルヲ以テ只今張家口二ハ二万余ノ日本人アリ
外蒙「ソ」軍ハ延安ト気脈ヲ通シ重慶軍(国民党軍)二先立ツテ張家ロニ集結シ其ノ地歩ヲ確立センカタメ相当ノ恐怖政策ヲ実施セントシアルカ如シ 
撤退二関シテハ重慶側ノ傅作義ハ張家ロノ接収ヲ提議シ来リ 
日本人ノ生命財産ヲ保護スヘキモ若シ延安軍又ハ外蒙「ソ」軍等二渡スナラハ其ノ約束ハ守ル能ハスト申シアリ 
本職ハ傅作義ノ申込二応シ八路軍及外蒙「ソ」軍侵入ハ敢然之ヲ阻止スル決心ナルモ若シ共ノ決心カ国家ノ大方針二反スルナラハ直チニ本職免職セラレ度
支急何分ノ御指示ヲ待ツ

(大東亜省の指示は本職(根本方北支那面軍司令官)と反対で居留民の引き揚げを延ばし、今張家口には2万人余りの日本人がいる。
ソ連軍は延安の中共軍と気脈を通じており、重慶軍(国民党軍)より先に張家口に集結し、優位に立とうと相当の恐怖政策を行っているようである。
日本人の撤退に関しては重慶側の傅作義将軍が張家口の接収に関してその意向を伝えてきた。
それによると、国民党軍は日本人の生命財産を保護するつもりであるが、若し延安軍又はソ連軍等に張家口を渡すならば、その約束を守ることができない、とのことであった。
本職は傅作義の申し入れに応じ八路軍(中共軍)とソ連軍の侵入を敢然と阻止する決心である。
若し、この決心が国家の大方針に反するならば、直ちに本職を免職されたし
至急、何らかの指示を待つ。) 

上記両電に対し、岡村総司令官は「決心は二十日発の電報のとおりである」旨を電報した。

一方、北支那方面軍司令部においては方面軍参謀長高橋坦少将が「張家口にあって直接事態の処理に挺身中の根本博中将」に対し次のとおり電報を発した。

戦局上如何ナル犠牲ヲ払フモ即時「ソ」軍トノ停戦ヲ命セラレ度  
総軍命令ヨリスルモ又関東軍停戦ノ実情ヨリスルモ本処置ヲ絶対二必要トス

ここにおいて駐蒙軍は居留民の即刻の後退を指導しつつ21日2時20分、次のように電報した。

一、ソ軍ノ攻勢ハ依然継続シアリ我万難ヲ排し停戦二関シ交渉中ナリ
二、軍ハ交渉間ヲ利用シ二十日中二居留民ヲ徒歩、自動車及列車二依リ北京地区二前進セシム(所要ノ掩護ヲ附ス)
三、軍及居留民ノ前進完了ヲ確認ノ上 明21日中二京津地区二向ヒ前進セントス

 

独立混成第二旅団は前記のように20日午後から陣内に敵の侵入を受けていたが、21日にこれを撃退した。

旅団は21日正午、「二十日夜中張家口のわが官民は撤退した」ことを知った。

旅団は21日夕から全線から同時に撤退を開始し、敵の追跡を受けることなく26日、北京南口に到着した。

旅団の損害は戦死60、戦傷50、行方不明7名であった。

 

24.2.根本の決意

終戦直後、根本博は「武装解除」という絶対命令と「邦人保護」という軍隊の絶対使命の狭間で悩み抜いていた。

結局、根本は武装解除に対する「命令拒否」を選択する。

終戦直後の根本博の最大の課題は、内蒙古(当時は蒙古聯合自治政府)に駐屯していた駐蒙軍司令官として、終戦後もなお進攻を続けるソビエト軍と抗戦し、蒙古連合自治政府内の張家口付近に滞在していた在留邦人約4万人を脱出させることであった。

根本はソ連軍、中国共産党軍の本質や危険性を知悉しており、ソ連軍の蛮行も根本の耳に届いていた。

そのため支那派遣軍総司令部の「武装解除、武器引き渡し」の命令に逆らって、侵攻してくるソ連軍と戦った。

根本は

理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。

 これに対する責任は一切司令官である自分が負う

と、日本軍守備隊に対して命令を下したのである。

さらに国民党軍の蒋介石と交渉し、帰国船が出航するまでは武装解除しないこと、その後に武器弾薬・食料を国民党軍に引き渡す約束を取りまとめた。

張家口の在留邦人は、守備隊に守られ張家口から北京、天津へと列車に乗って脱出した。

北京から列車にのり、大連から帰国船に乗った在留邦人たちは、三度の食事が与えられた「大名旅行」だったとの証言もある。

ソ連軍との死闘の結果、ついにソ連軍の侵入を許さず、在留邦人の命を守ったのであった。

終戦時、中国大陸には日本の軍人・軍属と一般市民が合わせて600万人いたが、蔣介石は日本軍の引き揚げに協力的で、本来ならば自国の軍隊の輸送を最優先させねばならない鉄道路線を可能な限り日本軍及び日本人居留民の輸送に割り当てていた。

南方や満州、朝鮮からの引揚者が裸同然だったのに対して中国本土からの引揚者はそのようなことがなく、手荷物を持っていた、という。

 

満州、朝鮮北部、樺太からの引き揚げ

満州、朝鮮北部、樺太などからの引揚者は関東軍が武装解除し、撤退したため、ソ連兵や中国共産党軍、朝鮮人民義勇軍、朝鮮保安隊及び暴徒化した現地在住の満州人、漢人、朝鮮人による暴行、強姦、殺傷、略奪、拉致などの暴虐行為があった。

また、民間人の一部もソ連軍によってシベリアに抑留され、強制労働に従事させられた。

なお、中国から日本へ帰国出来ずに中国大陸に残留した日本人もおり、中国残留日本人と呼ばれた。

 

後年(昭和24年)、根本が命を掛けて、台湾に密航までして蒋介石軍を援助する。

これは、この引き揚げ時の蒋介石の好意に対する感謝と、「ポツダム宣言」で、蒋介石が日本を擁護する発言をしたことへの恩義だったという。

次回は、根本が台湾に密航した下りを述べる。

 

<続く>

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