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旅日記

望洋−89(三国同盟(昭和天皇独白録))

52.三国同盟(昭和天皇独白録)

東京裁判からひとまず離れて、日本が対米開戦を決断した一つの理由とされる三国同盟が締結されるまでの、日本を取り巻く情勢を述べておく。

この三国同盟に関しては、「昭和天皇独白録」にも記述があるので、それも載せておく。

  <昭和天皇独白録> 

 

<昭和天皇独白録 (一部)>
ノモハン事件(昭和十四年)
ノモンハン方面のソ満国境〔正しくは満蒙国境〕は明瞭でないから不法侵入は双方から云ひが>りが付く訳である。当時関東軍司令官山田乙三〔植田謙吉の間違い。山田は終戦時の関東軍司令官〕には満洲国境を厳守せよとの大命が下してあつたから、関東軍が侵入ソ聯兵と交戦したのは理由のある事で又日満協同防衛協定の立場から満洲国軍が之に参加した事も正当な事である。
この事件に鑑み、その后命令を変更して国境の不明瞭なる地方及遠の地方の国境は厳守するに及ばずといふ事にした。

 

 

52.1.昭和12年当時の情勢

昭和11年11月、広田内閣のとき、共産主義の破壊に対する防衛のため、秘密裡に、いわゆる「日独防共協定」が締結された。

これは当時の在ドイツ陸軍武官大島浩とナチス党の外交顧問リッベントロップとの話し合いに端を発した。

この協定をさらに、中国の権益をめぐって対立の色をこくしてきた英米を対象とする「軍事同盟」にまで発展させようとする陸軍の強い意向から、近衛第一次、平沼内閣と激論が日本の上層部でくり返された。

蔣介石の国民政府敵視の立場を固めつつあった軍部は、昭和12年になると中国大陸における動きを活発化させた。

4月から5月にかけて、その陸軍の動きにたいし絶好の口実を与えるいくつかの事件が発生した。

在留邦人に対する暴行、放火事件などが頻発したのである。

この他中国各地で反日行為がしきりに発生している。

この時期、昭和天皇は陸相と参謀総長を呼び、蔣介石との妥協を説いている。

日中戦争で莫大な戦費を費やしていた日本は、中華民国を支援するイギリスとアメリカと鋭く対立していた。

そこで日本政府は日独伊防共協定を強化してドイツと手を結び、イギリスとアメリカを牽制することで、日中戦争を有利に処理しようとした。

昭和14年8月22日独ソ不可侵条約が突如として締結され、「親独反ソ」という近衛政権以来の外交の既定路線が根本から覆された。

翌23日、平沼首相は、独ソ不可侵条約の成立は、日本外交が捨て身を喰らったようなもので、これは、陸軍の無理から来た失敗である。

こうなっては、陸軍に反省を求めるためにも陛下に対するお詫びのためにも総辞職したい、との意向を示し、後継に阿部信行陸軍大将が選任されたのちの8月28日に内閣総辞職した。

これにより三国同盟論も一時頓挫する。

平沼内閣を継いだのは阿部信行内閣であった。

しかし阿部内閣発足の2日後、9月1日には第二次世界大戦が勃発した。

阿部は、ドイツとの軍事同盟締結は米英との対立激化を招くとし、大戦への不介入方針を掲げた。

しかし陸軍の反対もあり、不信任案を突きつけられ、翌昭和15年(1940年)1月15日に内閣総理大臣を辞した。

阿部信行の後任は米内光政であった。

この米内内閣は三国軍事同盟を締結すれば対英米開戦が必至になるとして反対の立場をとり続けた。

しかし、6月フランスがドイツに敗北すると三国同盟の締結論が再び盛り上がってきた。

7月4日、陸軍首脳部は「陸軍の総意」として参謀総長の閑院宮載仁親王を通じて畑俊六に陸相辞職を勧告、これを受けて畑俊六は16日に帷幄上奏を行い単独で辞表を奉呈した。

米内は後任の陸相を求めたが陸軍三長官会議はこれを拒絶、これで米内内閣は総辞職に追い込まれた。

米内内閣の後は第2次近衛内閣となった。

第2次近衛内閣は、組閣直後の昭和15年(1940年)7月26日、「大東亜新秩序建設」(大東亜共栄圏)を国是とし、国防国家の完成を目指すことなどを決めた「基本国策要綱」を閣議決定する。

同年9月27日にベルリンの総統官邸で「日本国、独逸国及伊太利国間三国条約」に調印した。

翌昭和16年(1941年)4月13日には日ソ中立条約を締結した。

<三国同盟調印式 日本から特命全権大使の来栖三郎が条約に調印した>

 


52.2.昭和天皇白録

「昭和天皇独白録」は昭和二十一年の三月から四月にかけて、松平慶民宮内大臣、松平康昌宗秩寮総裁、木下道雄侍従次長、稲田周一内記部長、寺崎英成御用掛の五人の側近が、張作霖爆死事件から終戦に至るまでの経緯を四日間計五回にわたって昭和天皇から直々に聞き、まとめたものである。

この記録は平成2年(1990年)に発掘、発表されて大反響を呼んだ。

 

<昭和天独白録より>

 

1、支那事変と三国同盟(昭和十二年)〔三国同盟は昭和十五年〕

昭和天皇は「支那事変」に関する前途の見通しが全く立たないため、国内人心転換策として「日独伊三国同盟」を締結し国民の敵慨心を英米に振り向け、支那の方は有耶無耶にしてしまおう、という空気が陸軍内に起こった、と述べられている。

<独白文>

・・・(略)・・・

かくなつては近衛の不拡大方針も、前途の見透も愈々難しくなつて来たので、近衛は陸軍部内の強硬論を抑へさせる意味を以て第五師団長の板垣〔征四郎〕を陸軍大臣に起用した。

近衛の肚では板垣が来たならば、陸軍部内は和平論が勝つだらうと思つたのであつたが、事実来て見ると案に相違して板垣は完全に軍の「ロボット」となつて終つたのみならず、陸軍省の態度は却て強硬となり支那事変は遂にのつ引きならぬ泥田に足を突込んで仕舞つた。

かくしては支那事変処理に関する前途の見透しは全く立たぬ、国内与論はそろそろ倦怠の兆を示して来た、そこで国内人心転換策として新に日独伊三国同盟を締結し国民の敵慨心を英米に振り向け、支那の方はうやむやにして終はうといふ面白からぬ空気が陸軍部内に起つた。

同盟の対象が近衛、平沼〔騏一郎〕の肛ではソ聯であつた事は確かだが、陸軍省軍務局あたりになると、ソ聯と同時に英米を含めて対象としてゐた。近衛第一次内閣の外相宇垣〔一成〕は陸軍と調子を合はせる為「対象は主としてソ聯なり」と云ふ言葉を使つた。

・・・(略)・・・

宇垣が来てソ満国境張鼓峯のことを報告し陸軍がこゝを急襲する計書があるが、内閣は之に反対である旨を話した。然るにその翌日閑院参謀総長〔宮〕が来て、急襲を実施する旨を告げて帰つた。

后刻板垣陸軍大臣がやって来て、この急襲案は宇垣外務大臣も賛成したものであるといふ事を話した。

これに依ると守垣は私にははつきり反対の旨を言明しながら板垣に対しては賛成とも解し得らるゝ例の「聞き置く」の手を使つたので、板垣は之を賛成少くも異議なしと解釈したものらしい。

張鼓峯の急襲は之で沙汰止みとなつたが、その后、ソ聯の方から射撃して来たので一戦に及んだ様である。

それから之はこの場限りにし度いが、三国同盟に付て私は秩父宮と喧嘩をして終つた。秩父宮はあの頃一週三回位私の処に来て同盟の締結を勧めた。

終には私はこの問題に付ては、直接宮には答へぬと云って突放ねて仕舞った。

又この問題に付ては私は陸軍大臣とも衝突した。私は板垣に、同盟論は撤回せよと云つた処、彼はそれでは辞表を出すと云ふ、彼がるなくなると益と陸軍の統制がとれなくなるので遂にその儘となつた。

当時私の味方として頼みにしてゐたのは前には〔第一次近衛内閣にあっては、の意〕米内〔光政・海相〕、池田〔成形・蔵相〕の二人、後では〔平沼内閣では〕有田〔八郎・外相〕、石渡〔荘太郎・蔵相〕、米内〔海相〕の三人であつた。

平沼は同盟に賛成らしかつた。又白鳥、大島の両大使を推挙した事に付ては宇垣が関係してゐる。

 

2、三国同盟(昭和十五年)

三国同盟を結んだことに対して、昭和天皇は当時を思い出し次のように述べられている。

日独同盟を結んでも、米国は立たないと松岡外相は言っていた。

これに三国同盟に賛成した吉田善吾海軍大臣は松岡に騙されたと言っていたという。

そして米国が軍備に着手すると、吉田は驚き、心配の余り強度の神経衰弱にかかり、自殺を企てたが止められて果さず、その後辞職した。

日米戦争は油で始まり油で終つた様なものであるが、開戦前の日米交渉時代に若し日独同盟がなかったら米国は安心して日本に油を呉れたかも知れない。

同盟がある為に日本に送った油をドイツに廻送されはせぬかと云ふ疑惑の為に交渉がまとまらなかったとも云へるのではないか。

<独白文>

ソ聯を相手として構想された日独同盟論は独ソ不可侵条約突発の為、平沼内閣の倒壊と同時に一時その姿を潜めたが、この頃に至り、欧洲に於る独乙勢力の拡大と東亜に於る日米争覇の趨勢は、以前とは異つた全く別の構想の下に再び日独同盟論の拾頭を促した。

同盟論者の趣旨は、ソ聯を抱きこんで、日独伊ソの同盟を以て英米に対抗し以て日本の対米発言権を有力ならしめんとするにあるが、一方独乙の方からはすれば、以て米国の対独参戦を牽制防止せんとするにあつたのである。

吉田善吾〔海相〕が松岡〔洋右・外相〕の日独同盟論に賛成したのはだまされたと云つては語弊があるが、まあだまされたのである。

日独同盟を結んでも米国は立たぬと云ふのが松岡の肚である。松岡は米国には国民の半数に及ぶ独乙種がゐるから之が時に応じて起つと言んじて居た、吉田は之を真に受けたのだ。

近衛第二次内閣の政策要綱は大変おかしな話だが、近衛、松岡、東条〔英機・陸相〕、吉田の四人で組閣の機に己に定めて終わった。

吉田は海軍を代表して同盟論に賛成したのだが、内閣が発足すると間もなく、米国は軍備に着手し出した、之は内閣の予想に反した事で吉田は驚いた、そして心配の余り強度の神経衰弱にかかり、自殺を企てたが止められて果さず後辞職した。

後任の及川〔古志郎〕が同盟論に賛成したのは前任の吉田が賛成した以上、賛成せざるを得なかった訳で当時の海軍省の空気中に在つてはかくせざるを得なかったと思ふ。

近衛の手記中に於て、近衛は及川を責めてゐるが、之はむしろ近衛の責任のがれの感がある。

<注:半藤一利氏による注釈、以下同様>

昭和天皇の語る「以前とは異つた全く別箇の構想の下」の三国同盟論とは、松岡洋右外相の構想になるものであった。

前年に結ばれた独ソ不可侵条約とこんど結ぶ三国同盟を結合することで、日独伊ソの四国協商が可能となり、それは中国を支援する米英と対決する日本の立場を飛躍的に強めることができるであろう、というものなのでる。

首相近衛をはじめ陸海軍中央は、すっかりこの案に惚れこんだ。

しかし、昭和天皇は三国同盟には反対であった。それだけに近衛第一次および平沼内閣当時の米内光政・山本五十六・井上成美が陣頭に立って反対していた海軍に、おおいなる期待をかけていた。

海相吉田善吾にたいする天皇の回想は、だから大きな意味をもつ。海相交代(吉田から及川へ)に関する当時の発表は吉田が「激務の疲労もあり回復捗がしからず、かつ数日前より狭心症の発作あり」であった。

この内閣で松岡外務大臣が外務大臣となつたが近衛東条松岡の三人の組み合はせは組閣前から己に定つてゐた。

近衛の新体制運動に付てははつきりした記憶はない。

日独同盟に付ては結局私は賛成したが、決して満足して賛成した訳ではない。松岡は米国は参戦せぬといふ事を信んじて居た。

私は在米独系が松岡の云ふ通りに独乙側に起つとは確信出来なかった。

然し松岡の言がまさか嘘とは思へぬし半信半疑で同意したが、ソ聯の問題に付ては独ソの関係を更に深く確かめる方が良いと近衛に注意を与へた。

若し「スターマー」が来なかったら日独同盟はもつと締結の時期を遅らせ得たと思ふ。

三国同盟は十五年九月に成立したが、その后十六年十二月、日米開戦后出来た三国単独不講和確約は結果から見れば終始日本に害をなしたと思ふ。

<注>

ドイツからの特使スターマーが来日したのは九月七日、同盟締結が閣議で決定されたのが、わずか九日後の九月十六日である。たしかにあまりに急速な締結であった。この間にも天皇は、いくつも同盟反対の意向を示している。

たとえば、時の首相近衛に天皇はいっている。

「この条約のため、アメリカは日本にたいして、すぐにも石油やくず鉄の輸出を停止してくるかもしれない。

そうなったら日本はどうなるか。この後長年月にわたって、大変な苦境と暗黒のうちにおかれるかもしれない」あるいはまた、こうもいった。

「ドイツやイタリアのごとき国家と、このような緊密な同盟を結ばねばならぬことで、この国の前途はやはり心配である。私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる。本当に大丈夫なのか」また駐日アメリカ大使グルーの日記に興味深い記事がある。

「天皇と近衛公は、二人とも三国同盟に絶対反対だった。しかし天皇が拒絶した場合、皇室が危うくなるかもしれぬと告げるものがあり、天皇は、近衛公に死なばもろともだね”と話されたという。

この話は皇族の一人から間接に伝わってきたものだ」

確約当時政府の見透では日米戦争は勝負は五分五分、うまく行つて日本が勝つても二分の勝で完勝は到底見込が立たぬ、之に反して独乙は完勝するであらうと云ふ事であつた。

それで若し左様な状態となつた際、日本が見捨てられては困るといふ訳で、単独不購〔講〕和を確約した訳である。実際、開戦の初期日本は予想に反して真珠湾で奇勝を博し又マライビルマは予期以上の短期間に攻略する事が出来た、若しこの確約なくば日本が有利な地歩を占めた機会に和平の機運を握〔摑)む事が出来たかも知れぬ。

つまり日本は自力を過小評価し独乙の国力を過大評価した為にこの確約をするに至つたので、これには大島大使の責任が大きい。

尚この際附言するが日米戦争は油で始まり油で終つた様なものであるが、開戦前の日米交渉時代に若し日独同盟がなかつたら米国は安心して日本に油を呉れたかも知れぬが、同盟がある為に日本に送った油が独乙に廻送されはせぬかと云ふ悪念の為に交渉がまとまらなかつたとも云へるのではないかと思ふ。

<注>

対米英戦共同遂行、単独不講和、および新秩序建設にかんする日独伊三国協定が結ばれたのは、開戦直後の十二月十一日である。また、戦争の見通しについて大本営政府連絡会議は、十一月十五日に一つの結論をうみだしている。

①初期作戦が成功し自給の途を確保し、長期戦に耐えることができたとき。
②敏速積極的な行動で重慶の蔣介石が屈服したとき。
③独ソ戦がドイツの勝利で終ったとき。  
④ドイツのイギリス上陸が成功し、イギリスが和を乞うたとき。  

そのときには、アメリカは戦意を失うであろう、栄光ある講和にもちこむ機会がある、というのがその骨子である。

とくに、③と④はかならず到来するものと信じ、勝算ありと見積ったのである。  

また、天皇は昭和十七年二月に、木戸内大臣を通じて東条首相へ戦争早期終結への努力を要望している。

『木戸日記』には「人類平和の為にもいたずらに戦争の長びきて惨害の拡大し行くは好ましからず」という天皇の言葉が記されている。なぜ直接に東条にその旨をいわなかったか、という疑問はこの天皇発言で一応は解けたといえる。憲法遵守、条約違反は一切許さず、という万事にきちんとした昭和天皇の人柄がそのままでている。ドイツと単独不講和を確約した以上、それを守るばかりである。

 

<続く>

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