23.台湾漂着(続き)
23.2.第3中隊第2群門岡隊員の手記(続き)
23.2.2.敗戦
戦争中、しかも兵隊生活というのに、どちらかと云えば比較的恵まれた生活を続けていたが、8月中旬頃どこともなく何か日本に重大な事が起きたらしい、という噂が立ちはじめていた。
このような状況下で赤塚中隊長より全員集合がかかった。
どうもソ連が日本に宣戦布告をしたらしいということで、中隊長は「日ソ戦わば」と題して約2時間にわたり、関東軍の配置、戦力など専門的な立場で滔々と喋りまくった。
その結論は、日本軍は必ず勝つということで胸を撫で下ろしたものだった。
ところが後から聞いた話では、この時期関東軍は、もぬけの殻で、その精鋭はすでに南方から台湾・沖縄方面に配置されていたので、ひとたまりもなく蹂躙されたらしい、とのことだった。
当時日本とソ連は不可侵条約を結んでいたが約束など何のその、日本も勿論甘かったが、 ここにソ連の実態を見た思いがした。
日ソ開戦は事実だが、この時点では戦争は既に終わっていたらしい。
それから3日程過ぎて日本の全面降伏が知らされた。
我々が抱いていた負けない日本の神話・偶像が音をたて、崩れ去っていった。
神国日本は絶対に負けない、最後には天佑神助あり必ず勝と信じて疑わず、大陸に、南の島に散った先輩、同僚達の死は果たしてなんであったであろうか。
しかも、我々も特攻隊として死と常に向かい合っていた、そして死がそれ程恐ろしいと思ったことはなかった。
それは国を守るのは若者の務めと覚悟していたからにほかならない。
これは偏に教育に依るもので、教育とは実に恐ろしい。
白を黒にすることもできる、それは君達の頭が低度で単純だからと云えばそれまでだが、しかし大方の人はそう信じていたのではないだろうか。
事実が分かるとショックを通り越して放心状態となり2〜3日位蒲団にもぐり込んであれを考えこれを思い悶々とする日を過ごした。
戦は終った、これからどうなるのか、日本に帰ることができるのか、無条件降伏でどのような扱いを受けるのか、など考えても考えてまるきり見当がつかなかった。
途方に暮れるとは、正にこのようなことかと思った。
しかし、敗戦という事実はそんなに悠長に待ってはくれない。
忽ち食べることに事欠くことになる、ということで3年間の目標で自活せねばならなくなった。
(部隊の内地帰還は昭和23年頃の予定といわれていた、ため)
我々の隊は 第21戦隊に合流して台湾の東海岸を南下した。
海上挺身第21戦隊(戦隊長は林大尉)
当初の設営地は高雄州潮州郡枋山庄獅子頭。
昭和20年5月に台北州七星郡汐止に移った。
蘇奥までは汽車で行き、ここから花蓮港までは3日間歩いた。
前述の東洋一と言われる吊り橋を渡り野営しながら、花蓮港に着いて見ると、ここから汽車があるはずであったが、おり悪しく台風に襲われて線路はずたずたに分断されていた。
このため、汽車に乗ったり歩いたりしながら一路南下した。
台東(台湾東海岸南部)を過ぎて一日位歩いたように思うがここに(池上郷)留まることになった。
<池上郷>
23.2.3.高砂部族
ここは少し高い丘陵地で近くに高砂族の部落があった。
ここで高砂族について若干ふれて見たい。
日本が台湾を占領した頃一番最後まで頑強に抵抗したのが高砂族で本来高地民族で山を地盤としている。
早く帰化した部族は殆んど顔の入れ墨は見られないが、遅くまで抵抗した部族は顔に入れ墨をした(女の人が主)人が多く日暮れに出会うとギクッとする程凄まじい。
<高砂族分布図:国立台湾博物館(台北)展示>
だが、そういった部族程純真で日本人に好意的であった。
いずれ、3年間経ったら、日本に帰れるであろうが、3年間は自活をせねばならないと思った。
まず食糧の確保を何より優先した。
ここで3年間暮らすことになったが、ちょうど秋の取り入れが始まっていたので、農林出身者は稲刈りに動員された。
その報酬は現物の米である。
ここで、台湾米と蓬莱米に一寸ふれておく。
蓬莱米はその種が日本から入ったもので、われわれの日常食べる米である。一方台湾米は細長く炊いて食べるとスカスカして味は悪い。
だが台湾人は米を粉にして食するので、蓬莱米より台湾米を好む。
台湾米と蓬莱米を交換してくれといえば、喜んで交換してくれたものである。
これから、開墾して植え付けても秋まではこのようにして食い繋ぐ必要があった。
腰を据える準備をしているうちに年末が迫って来た。
正月位餅をということで、手持ちの蚊帳と餅米と交換してもらい、近くの小川で米を研いでいたら本部よりすぐ来いと呼び出された。
本部に行くと、ひょっとしたら正月までに帰れるかも知れないと言われた。
そして、これから蘇奥までの要所に設営隊を置いて、次々に帰路に着く各隊の世話をする先発隊を作るので、君はそこの下士官の責任者となって設営に当たれと言われた。
そのため、洗った餅米に未練を残しながらも花蓮港から2日目に宿営する所(蘇奥に一番近い場所)まで自動車で飛ばした。
設営隊といっても、食糧は各自持参するし、水と若干野菜と薪の準備位のもので、水牛車で海岸に漂着している流木を拾って集めるのが主な仕事であった。
私の所属は第21戦隊(海上挺進隊)であった。
責任者は21戦隊から出すということらしく、私は伍長であるが責任者となり、他の隊の軍曹も私の指揮下に入った。
戦争に負けるとみじめなもので、今まで小さくなっていた台湾人(福建省から来た人が多い)が途端に威張り出して、日本人が乱暴される事件があちこちで起きたらしい。
ここでも一人の警察官が袋叩きされたことがあったらしい。
ところが慕っていた高砂族の連中が腹を立てて、腰に蛮刀をさし、 鹿皮の陣羽織(よくにている) を着て、槍をもって仇討ちをするということで数人連れ立っていくのに出合った。
昔からの因縁で台湾人と高砂族はしっくりいっていないが、高砂族に日本人は慕われていたらしい。
我々の宿舎の直ぐ近くに高砂族の集落があり、そこの青年から「今日は、首祭りだから来い」ということで招待されて出掛けた。
行って見ると「今日は、首祭りで昔は他部族の首をとって、 祭壇に供えて、一晩中飲み、踊り明かしたものだ 」ということで、どぶ酒(きび・あわで作った白い酒)をふるまってくれた。
ここで、 高砂族の乾杯を紹介しょう。
竹の湯呑みに酒をなみなみと注ぎ、両者が頬を寄せ合って酒を溢さぬように同じペースで一気に呑み干す、これが彼らの乾杯で、次から次へと呑まされて少々参った。
「あなた方は、日本に帰っても住む家があるかどうか? 職はあるのか?日本に帰るのを止めて、高砂族の中に入れ、日本人は頭が良いから酋長の娘と結婚すれば必ず酋長になれる」といって本気で進めてくれたこともあった。
また実際に残った人も何人かはいたらしい。
言葉一つとっても、濁音、半濁音が実にキチット発音が出来て、殆んど日本人と変わらない、台湾人、韓国人、より日本人の発音に最も近い、案外日本人のルーツはこの当りにあるのではなからうか?
最後の部隊を送り出して任務を解かれ、世話になった人 (主に高砂族)に別れを告げて、ここを後にして蘇奥にいる本隊と合流した。
我々は、特幹隊・特攻隊とで2年余りの兵隊生活で不当(よく新兵時に味わう)な取扱いを受けたこともなく特に食べ物について不自由をした事はなかった。
しかし、ここで武装解除され約1ヶ月にわたる使役についた時はまったく惨憺たるもので、風呂はドラム缶(これは止むを得ないとして)食事は飯合の中子一杯のオカユが半分位、おかずは塩味による野菜が少々、兵隊生活の中で一番情けない空腹の思いをしたのはここ以外にはなかった。
ようやく使役が済むと今度は在留邦人の帰国の為に保護に残れということで、我々次男坊以下は全員残ることになった。
これまでの反動で政情は極度に不安定で同胞の安全は脅かされてこれ亦止むを得ないことであった。
場所を台北の小学校に移して、ここに全台湾の在留邦人を集めて乗船名簿を作り2〜3日のうちに基隆港に送り出す仕事で、月給700円が支給された。
当時我々伍長の給料は12円50銭であったので、少し驚いた。
さすがに、台湾人も兵隊に対しては遠慮したのか、特に現地人との間に特別のトラブルも起こらず順調に邦人を送り出すことが出来た。
23.2.4.帰国
邦人を送り出したら今度は我々の帰る番となった。
時は、昭和21年4月中旬、約4ヶ月の任務を終え、基隆港より米国のリバティ7000屯級の船に乗った。
三つあるハッチを幾段にも仕切って、まるで牛か豚を積み込むように大勢の人を乗せて出航した。
それでも日本に帰れるんだという喜びは普段より大きく、この船内で、兵役について初めて味あう麦飯もそれ程まずいとも思わなかった。
九州が見え始めるとようやく帰れたという実感が湧いた。
船は大竹港(広島県大竹市)に着いたものの、伝染病が発生したので当分上陸 はできないということで、目の前に本土を見ながら上陸できないとはなんとも無念であった。
病が真性でなかったのか1日位で上陸が許されD.D. Tの粉を頭からかけられながら待望の大竹に上陸した。
すし詰めの列車に押し込められて一路東へ向かった。
台湾で聞いた広島に新型爆弾が投下されて壊滅状態にあると知らされていたが、車上から見ても全く呆然とした。
約2年前休暇で帰った時に駅から電車で宇品まで行った時の光景とあまりに無惨な変わりように敗戦の実感が身にしみた。
家は殆んどなく川沿いに焼け残った柳がななめに傾いているだけで見るかげはない。
これでは福山市も爆撃されて全市全滅と聞かされていたので、あまり遠くないわが家も危ないなと非常に不安であった。
尾道駅に降りて巡航船に乗り尾道水道を抜けてわが村にたどり着いたが、昔と変わらぬ姿で静かに迎えてくれた時に本当に安堵した。
やれやれようやく帰ることが出来た。
父も母も、祖父も先に帰っていた弟(予科練)とも無事を祝いあった。
唯兄が南方にいるのか気がかりであるが。 (それから6ヶ月後に無事帰還した)
以上が私の戦争体験である。
戦争という人間にとって最も不幸な出来事に遭遇して、本当に貴重な体験をしたが、 この体験をこれからの人生に生かさなければならないと深く心に誓った。
ともすれば50年も経つと忘れがちであるが、この戦争で子や夫を失った人達にとっては、 決して風化できない切実な問題である。
この悲しみや苦しみを戦争を知らない世代に味あわせてはならない。
今世界はベレストロイカで世界の超大国が平和を求めていろんな模索を続けているが、そこへまた、イラクのようにかつての日本のようにごり押しを続けている国もある。
この世に人がいる限り争いはなくならないかも知れない。
人間とはまことにやっかいな存在である。
しかし、我々生き残ったものが歴史の証人として平和の意義を後世に伝える義務がある、 それが今我々に課せられた唯一の使命だと思っている。
<余聞>
かつて、大日本帝国政府が沖縄県の住民等を日本統治下の台湾に疎開させた政策がある。
合計1万4,044人の疎開者のうち1万1,448人が頼るべき親類縁者のない無縁故疎開であり、終戦後の食糧事情の悪化やマラリアなどによって1割弱にあたる1,162人が命を落とした。
台湾疎開
昭和19年(1944年)沖縄県民のうち女性と子供、高齢者を対象に8万人を本土へ、2万人を台湾へ疎開させることが決定された。
輸送は全額を国庫負担して行われ、海軍艦艇を含む各種船舶が投入された。
台湾への疎開者に対しては、台湾総督府より、住居の提供や1人あたり1日に50銭の公的支援が実施された。
強い勧奨はあったものの自由疎開であったため、海上移動中の遭難へのおそれもあって当初は疎開希望者が少なかった。
しかし、昭和19年10月の十・十空襲をきっかけに住民の危機意識が高まったことから疎開は進展し、相当数が疎開した。
昭和20年4月に沖縄本島へ連合軍が上陸して沖縄戦が開始された後も、石垣島からの台湾疎開は継続された。
この間、疎開船が空襲を受けて50〜70人が死亡した尖閣諸島戦時遭難事件のような事例も発生している。
終戦後、台湾は中華民国、沖縄は琉球列島米国軍政府の統治下として分断されたため、多くの台湾疎開者が帰国不能となって生活に苦しんだ。
『(台湾漂着)の節終わり』
<続く>