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旅日記

石見の伝説と歴史の物語−75(後醍醐天皇−3 笠置山の戦い)

30.3.元弘の乱

 

30.3.4. 笠置山の戦い

日野俊基が捕縛されたという知らせを聞いた後醍醐天皇は、自分の身にも危機が迫っていることを感じた。

後醍醐天皇は8月9日疫病を理由として「元徳」から「元弘」へと改元して鎌倉幕府にも詔書を下した。

しかし、すでに後醍醐の倒幕計画を知っていた鎌倉幕府はこれを認めず「元徳」を使い続けた。

後醍醐天皇がこのような緊迫している時期に改元している。

これは、疫病による「災異改元」の目的もあるが、それに加えて今は後醍醐天皇の御代であることを幕府に知らしめよう、と思ったのかもしれない。

8月22日、関東から三千余騎を率いて、使者二人が上洛するという噂がたった。

これを聞いた後醍醐天皇は、8月24日ひそかに皇居を抜け出して南都を目指した。

また幕府側の追跡をかわすために花山院師賢が天皇に変装して比叡山へ向かった。

後醍醐天皇は、安全な場所を求め、奈良東大寺、​​鷲峰山金胎寺を経て8月27日に笠置山に入った。

その日後醍醐天皇は

うかりける 身を秋風にさそわれて 思わぬ山の もみぢをぞ見る

と詠む。

笠置山は大和・山城・伊賀の三国にまたがる峻険な山である。

標高は288mとそんなに高くはないが、山頂からは四方を見渡せる。

この山頂への道は急峻な坂道が一つあるだけであった。

後醍醐天皇はここの笠置寺を行在所とし、畿内五国に檄をとばして義兵を募った。

<行在所跡>

 

後醍醐天皇、楠木正成に会う

「・・・戦の習にて候へば、一旦の勝負をば必しも不可被御覧。
正成一人未だ生て有と被聞召候はゞ、聖運遂に可被開と被思食候へ。」
と、頼しげに申て、正成は河内へ帰にけり。

 

太平記によると

夢の中で、童が出てきて「帝のために樹の陰の南に向いた座を用意したので、しばらくはそこに座ってください」と言って天上にさっていった。

後醍醐天皇は、この夢は何かを告げることだと、思った。

「木の南と書けば楠という字になる」と思い当たった。

夜が明けると、笠置寺の律師を呼び尋ねた。

「このあたりに、楠と呼ばれる武士はいないか」と。

律師は答える。

「ここらあたりには、そういう名前のものはいませんが、河内国金剛山の西に​​楠多聞兵衛正成という弓矢で名高い者がいると、聞いています」と答えた。

後醍醐天皇は、はたと膝を打ち、これぞ夢のお告げだと思った。

そして、「すぐに楠木正成を呼べ」と言った。


綸旨に応じ、河内国の楠木正成が馳せ参じた。

正成は「思うところを申し上げよ」と言われ答える。

「天下統一の成功は、武略と知謀の二つに依るものである。

武略だけで戦うならば、東国幕府に打ち勝つことは困難である。

もし謀を持って戦うならば、東国の輩の武力などは、恐れるに足らない。

また、合戦は本来、一度の勝負だけではない。

正成一人がまだ生きていれば、帝のご運は、結局は開けるものである」

などと答えて、後醍醐天皇を頼もしがらせた。

楠木正成は、大軍相手にこの山頂の狭い城だけでは不利として、河内に戻り赤坂城に立て籠もった。

 

増鏡(南北朝時代の歴史物語、著者は二条良基説が有力)

増鏡には、後醍醐天皇と楠木正成は、これ以前に既に面識があったという記述がある。

「十八 むら時雨」に次のような記載があり、乱の前から知遇・信任を得ていたことを思わせる。

「笠置殿には大和、河内、伊賀、伊勢などより兵ども参り集ふ中に、事の初より頼み思されたりし、楠木兵衛正成といふものあり。

心猛くすくよかなる者にて、河内国に、おのが館のあたりを、いかめしくしたゝめて、このおはします所、もし危からむ折は、行幸をもなし聞えむなど用意しけり」

 

9月になると幕府軍には、関東からの援軍が次々に到着する。

幕府側の兵は75,000まで膨れ上がった。

これに対して、天皇側の兵は3,000余と戦力の面では圧倒的に不利な状況ではあった。

幕府側は笠置山を包囲してこれを攻撃する。

だが笠置山は天然の要害であり、そう簡単には攻めきれない状態であった。

笠置山寺籠城から1ヵ月ほどたった頃の9月28日夜暴風の中、幕府軍の兵が笠置山の断崖をよじのぼり、寺に火を放って総攻撃を開始した。

暗闇の中、断崖をよじ登って寺に火をつけたのは、備中の武将・陶山藤三義高の一族郎党50余人だった。

陶山藤三義高は一族郎党を集めて言う。

「日本の武士たちが集まって、数日攻めても落とないせぬこの城を、我らの軍勢だけで攻め落とせば、名は古今並びなく、忠は万人に抜きん出るであろう。

どうだ、今夜の雨風の紛れに、城中へ忍び入り、一夜討ちして天下の人を驚かしてやろうではないか」と。

「そうだ、そのとおりだ」と皆賛同した。

五十余人の者たちは太刀を背中に負い、小刀を腰の後ろに差して、城の北側に当たる石壁の数百mもあろうかと思われる鳥でさえも飛び越えがたいような所を登っていった。

4時間後に塀の際まで辿り着き、城内の様子を伺った。

陶山は城内の様子を見届けると、鎮守社に一礼して、本堂の上の峰に上がって、人のいない坊に火を放って、一斉に鬨の声を揚げた。

四方の寄せ手はこれを聞いて、

「さては、城中に寝返った者が出て、火を掛けたぞ。鬨の声を合わせよ」といって正面・搦め手七万余騎が声々に鬨を合わせてわめき叫ぶ。

陶山の五十余人の兵達は城内の各所で火を掛けては、鬨の声を揚げた。

彼らは四方八方に走りまわっていたので、持ち場持ち場を固めていた宮方の兵達は、城の中に大軍が攻め込んできたと思って、鎧兜を脱ぎ捨て、弓矢を投げ捨てて、崖をも堀をもかまわず倒れ転んで落ちていった。

籠城していた後醍醐天皇は、幕府軍の兵から逃れるために、若干名の供を連れて山道を逃げ隠れることになった。

向かうは、楠木正成が籠もる赤坂城であった。

雨風が激しく道は暗く、敵の鬨の声がここかしこに聞こえたので、次第にばらばらになって、最後は、ただ藤房と季房二人が後醍醐天皇のそばにいるだけだった。

どうにかして夜昼三日かけて、山城の多賀の郡(現滋賀県犬上郡多賀町)にある有王山(現京都府綴喜つづき郡井手町の東部にある山)の麓まで辿り着いた。

しかし、この有王山は笠置山の北西側に有り、目的の赤坂城は南西側であり、全く別方向に逃げたということである。

疲れと空腹で三人は動けなくなった。

苦しく、悲しい気持ちを歌にする。さすが、貴族の心根である。

後醍醐天皇が

さしていく 笠置の山を出しより 天が下には隠れ家もなし

と詠むと、

これを聞いた藤原藤房は涙ながら

いかにせむ たのむ陰とて 立ちよらば なほ袖ぬらす 松の下露

と詠んだという

 

後醍醐天皇一行は疲労困憊のなか捕らえられる。

 

笠置山

山頂には笠置寺がある。

この寺の歴史は古い。

しかし、元弘元年(1231年)8月醍醐天皇の行在所となり幕府との攻防が始まった。

同年9月29日全山焼亡する。

その後、少々の復興が行われたが、江戸末期に荒廃し明治初年に無住寺となる。

明治9年大倉丈英和尚が入山し、真言宗智山派の寺院として現在に至っている。

笠置山寺緣起の碑


(笠置山寺の歴史は古く、その創建は不明であるが出土品から 見て飛鳥時代すでに造 に造営されていたようである。

奈良時代大和大峰 山と同じく修験行場として栄え、平安時 代には永七年(一〇五二)以後世の末法思想の流行とともに、生 山寺本尊弥勒大磨崖仏は天人彫刻の仏として非常な信仰をうけた。

更に鎌倉時代、建久二年(一一九一)藤原貞慶(解脱上人)が 日本の宗教改革者としてその運動を当寺から展開するとき信仰の寺として全盛を極めた時代であった。

しかし、元弘元年(一三三一)八月倒幕計画た後醍醐天皇の行在所となり幕府との攻防一ヶ月九月二十九日全山焼亡、以後復興ならず、室町時代少々の復興をみるも江戸末期には荒廃、ついに明治初年無住寺となった。

明治九年、大倉丈英和尚錫を此の山に止め復興に力を尽すこと二十年ようやく現在の姿に山容を整えられ たのである。)

 

笠置寺のある頂上付近には奇石・怪石が多く、ひときわ奇観を呈している。

また、ここには「弥勒磨崖仏」「虚空蔵磨崖仏」と、2つの磨崖仏がある。

「虚空蔵磨崖仏」はくっきりとその姿を見ることができるが、「弥勒磨崖仏」は姿が見えない。


「笠置寺縁起」によると弥勒仏は「約1300年前、天智天皇の皇子の求めに応じて天人(天上界の人)が刻んだ」とされる。

実際は渡来系の技術者が彫ったと考えられている。現在その姿がみえないのは鎌倉末期、元弘の乱に巻き込まれた際に焼失したとされるからである。

1331年、幕府打倒を企て失敗した後醍醐天皇は笠置山に入った。

当時50に上る寺院があり僧兵がいたとされる笠置山は、幕府軍の攻撃で堂塔がことごとく焼亡した。

「拝殿などの建物が炎上し、磨崖仏にも火の手がかかったのでは」と推測されている。

仏が刻まれていた花こう岩は構成する鉱物の熱膨張率がそれぞれ異なり、炎にあぶられると表面が剥がれたり割れたりするという。

戦火で磨崖仏が失われた可能性は十分あるようだ。


笠置寺縁起絵巻の第1巻には、天人が弥勒像を彫り、完成した像を仰ぐ中大兄皇子(天智天皇)​​が描かれている。

また第2巻には笠置山の攻防で、絶壁を登る決死隊(陶山藤三義高の部隊)が描かれている。

 

笠置町名発祥の石

前述の「弥勒磨崖仏」の左横に「笠置町名発祥の石」というのがある。

その下に説明板があって

「天武天皇(第40代)が皇子のころ鹿を追って狩の途中、この岩上で進退きわまり、仏を祈念して難を逃れられたので、後日の目印として笠を置かれたという伝説がある。

笠置町の町名の発祥の石である」と書かれている。

仏を祈念して難を逃れたとは、

進退きわまった皇子が仏に「若扶吾命者、於此巌畔奉刻弥勒尊(私の命を助けてくださるなら、この岩に弥勒仏を刻んで差し上げます)」と仏に祈り、難を逃れた。

ということである。

 

<続く>

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