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旅日記

望洋−59(南西諸島の日本軍降伏調印)

34.降伏調印

34.1.日本の降伏文書調印

昭和16年(1941年)12月8日早朝、日本軍が当時イギリス領だったマレー半島(現在のマレーシア)へ上陸し、その直後ハワイ・真珠湾(パールハーバー)を奇襲攻撃して、大東亜戦争が始まった。

そして、3年8ヶ月後の昭和20年9月2日、東京湾に停泊した米海軍の戦艦ミズリー号において​​、対連合国降伏文書への調印がなされ大東亜戦争は終わった。

日本側の代表として重光葵外相と梅津美治郎参謀総長が調印を行った。

<降伏調印 重光葵>

<降伏文書>


<降伏文書 一部(英文+和訳文>

<和訳文>
下名は茲ニ合衆国、中華民国及「グレート、ブリテン」国の政府の首班が1945年7月26日「ポツダム」に於て発し後に「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦が参加したる宣言の条項を日本国天皇、日本国政府及日本帝国大本営の命に依り且之に代り受諾す右四国は以下之を聯合国と称す。

下名は茲に日本帝国大本営並に何れの位置に在るを問はず一切の日本国軍隊及日本国の支配下び在る一切の軍隊の聯合国に対する無条件降伏を布告す。

下名は茲に何れの位置に在るを問はず一切の日本国軍隊及日本国臣民に対し敵対行為を直に終止すること。

一切の船舶、航空機並に軍用及非軍用財産を保存し之が毀損を防止すること及聯合国最高令官又は其の指示に基き日本国政府の諸機関の課すべき一切の要求に応ずることを命ず。

下名は茲に日本帝国大本営が何れの位置に在るを問はず一切の日本国軍隊及日本国の支配下に在る一切の軍隊の指揮官に対し自身及其の支配下に在る一切の軍隊が無条件に降伏すべき旨の命令を直に発することを命ず。

下名は茲に一切の官庁、陸軍及海軍の職員に対し聯合国最高司令官が本降伏実施の為適当なりと認めて自ら発し又は其の委任に基き発せしむる一切の布告、命令及指示を遵守し且之を施行することを命じ並に右職員が聯合国最高司令官に依り又は其ノの委任に基き特に任務を解かれざる限り各自の地位に留り且引続き各自の非戦闘的任務を行ふことを命ず。

下名は茲に「ポツダム」宣言の条項を誠実に履行すること並に右宣言を実施する為聯合国最高司令官又は其の他特定の聯合国代表者が要求することあるべき一切の命令を発し且斯る一切の措置を執ることを天皇、日本国政府及其の後継者の為に約す。

下名は茲に日本帝国政府及日本帝国大本営に対し現に日本国の支配下に在る一切の聯合国俘虜及被抑留者を直に解放すること並に其の保護、手当、給養及指示せられたる場所への即時輪送の為の措置を執ることを命ず。

天皇及日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施する為適当と認むる措置を執る聯合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす。

1945年9月2日「アイ、タイム(日本標準時間)」午前9時4分日本国東京湾上に於て署名す

大日本帝国天皇陛下及日本国政府の命に依り且其の名に於て
重光葵
日本帝国大本営の命に依り且其の名に於て
梅津美治郎

1945年9月2日「アイ、タイム」午前9時8分日本国東京湾上に於て合衆国、中華民国聯合王国及「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦の為に並に日本国と戦争状態に在る他の聯合諸国家の利益の為に受諾す

聯合国最高司令官  ダグラス、マックアーサー
合衆国代表者  シー、ダブリュー、ニミッツ
中華民国代表者  徐永昌
聯合王国代表者  ブルース、フレーザー
「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦代表者  カー、デレヴヤンコ
「オーストラリア」聯邦代表者  ティー、エー、ブレーミー
「カナダ」代表者  エル、ムーア、コスグレーヴ
「フランス」国代表者  ル、クレール
「オランダ」国代表者  セイ、エイ、ヘルフリッチ
「ニュー、ジーランド」代表者  エル、エム、イシット

第二次世界大戦の終結

また、昭和14年(1939年)9月1日より6年にわたって続いた第二次世界大戦もこれで終結することになった。

1939年9月1日
ドイツ軍がポーランドに侵攻した日。
この侵攻によって第二次世界大戦が勃発し、イギリスとフランスはポーランドの国境保障のため、2日後の9月3日にドイツに宣戦布告した。

 

連合国一般命令

降伏文書調印とともに連合国から日本政府に手交された最初の指令には、日本の陸海軍に対する命令の第一号(一般命令第一号)を遵守させるべしとの主旨が示された。

<一般命令第1号 一部>


添付された一般命令第一号では、対日占領の前提となる日本軍の戦闘停止と武装解除の手続き、軍事施設、捕虜・抑留者に関する情報提供、外地日本軍の降伏相手先など、軍事事項の細目が規定されていた。

 

34.2.軍の降伏文書調印

日本軍は、各地域でGHQに対する降伏と降伏式を行った。

降伏先の指定は1945年9月2日の降伏文書調印直後に「一般命令第一号」としてGHQから発令された。

9月7日、沖縄県旧越来村森根(現在の沖縄市域嘉手納空軍基地)において南西諸島の日本軍は米軍に対して琉球列島の無条件降伏を受け入れる旨を記した降伏文書に署名した。

南西諸島のほか、本土(青森県)、中国(南京・青島・香港)、豪州(ボルネオ・ニューギニア)、マーシャル、ギルバート、韓国(京)、フィリピン(ルソン島)、スマトラ、シンガポール、ベトナム(サイゴン)などの各地に於いて現地軍降伏文書の調印が行われた。

<イギリス海軍の中尉に軍刀を引き渡す日本海軍の将校 ベトナムサイゴンでの降伏式>

 

34.3.南西諸島の日本軍の降伏

34.3.1.南西諸島戦線経緯(あらまし)

昭和16年(1941年)

12月8日
日本海軍、真珠湾への奇襲攻撃し大東亜戦争始まる

大東亜戦争

この戦争の名称は昭和16年の開戦直後に「大東亜戦争」と閣議決定された。

「亜」は「亜細亜」すなわちアジアの略語であり、大きな東アジアの意味で大東亜と名付けた。

そして「アジアの欧米植民地を解放し、大東亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指す」という理念を掲げた。

だが、この名称は植民地宗主国を中心に構成された連合国側にとっては都合が悪かったため、戦後連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策で「大東亜戦争」は「太平洋戦争」へ強制的に変更させられた。

とは云っても、実際の戦争の地域は満州・支那、マレーシア、ビルマ(現ミャンマー)など太平洋区域でない場所も含まれており、太平洋戦争の名称は的確な表現ではないと思わざるを得ない。

昭和19年

3月22日   
   南西諸島に第32軍創
   初代司令官:渡辺正夫中将、2代:牛島満大将(8月8日〜)
6月26日
   第28師団、第32軍戦闘序列に編入、宮古島・石垣方面を担当。
   この地域の部隊をまとめる先島集団が設けられる。
   第28師団長が集団の司令官に就任。
10月10日   
   沖縄大空襲

昭和20年 

3月2日  
   米軍慶良間諸島に上陸
4月1日  
   米軍が沖縄島西海岸の読谷・嘉手納・北谷に上陸する
4月7日  
   戦艦「大和」が九州南方にお いて撃沈される
5月31日  
   米軍が首里を占領する
6月23日  
   牛島第32軍司令官が糸満市摩文仁で自決する
7月2日   
   米軍が沖縄作戦の終了を宣言する
7月26日  
   連合軍が対日ポツダム宣言を発表する
8月6日
   広島に原爆が投下される
8月8日
   ソ連が日ソ中立条約を破棄する(9日侵攻開始)
8月9日
   長崎に原爆が投下される
8月14日
   ポツダム宣言の無条件受諾を決定する
8月15日
   昭和天皇による玉音放送
9月2日
   日本政府が東京湾に停泊した米海軍の戦艦ミズリー号において降伏文書に調印する
9月7日
   南西諸島の日本軍が降伏文書に調印する

 

34.3.2.南西諸島の日本軍降伏文書調印

昭和20年(1945年)8月26日午後6時43分第10軍司令官ステイルウェル大将(注・沖縄で戦死したバグナー中将の後任)は9月2日後に琉球列島の全日本軍の降伏に応じるよう作戦命令を受けた。

第10軍
かつて存在したアメリカ陸軍の部隊の一つで、太平洋戦域を含めた第二次世界大戦の全期間において、最後に創設された軍でもあった。「琉球派遣隊」とも呼ばれた。

 

第10軍が真先にとるべき処置は琉球各地の日本軍指揮官と連絡をとることだった。

その結果、まず重要な島々にメッセージを空中投下することから行動を開始することになった。

徳之島、宮古、石垣、西表、喜界、奄美各島の高級指揮官に宛てた命令が和英文で作製された。

この命令は全部で24通作製された。

8月28日

午前11時30分にそれぞれメッセージ袋に詰められて東部の第五十空軍第三四五爆撃部隊に届けられた。

第五百爆撃中隊からB25ミッチェル三機が北部各島へ向け飛び立ち、第五〇一爆撃中隊から も同じく三機が南西部の先島群島へ向け飛び立った。 

編隊は各島に超低空で到着するとメッセージ四通を投下、うち二通は主要飛行場または海軍施設の上空でそれぞれ投下された。

8月29日

徳之島、奄美、宮古から米軍宛に「謹んでメッセージを受領した」と無線で回答がされた。

9月2日

午後に日本軍代表者を集合させるための手配が無電連絡によりなされた。

9月4日

西部の宮古派遣代表者一行は九七式機に搭乗、宮古を出発して同日正午宮古上空で米軍護衛戦闘機隊に迎えられ、そこから読谷に向かって飛行し午後3時50分に着陸した。

飛行基地で米軍の出迎えを受け、宿舎である第10軍司令部内の特別調査本部に案内された。

午後6時30分日本軍代表全員は参謀長室に案内され、そこで短時間の協議が行なわれたあと各自の指揮官に対する指示事項を伝達され、同夜遅くまで指示事項の内容について検討した。

9月5日

朝第10軍参謀長フランク・ディー・メイル少将と会見、降伏指示項の内容について多少質問することが出来た。

同日午後1時に日本軍代表一行は読谷飛行場を出発し帰島した。

9月6日

降伏文書に正式署名する日本軍指揮官らが沖縄本島に向かった。 

宮古代表の一行は次の通りで ある。

陸軍中将 納見 敏郎(陸軍総指揮官)
海軍大佐 村尾 重二(海軍警備隊司令)
陸軍大佐 一ノ瀬 寿(師団参謀長) 
陸軍中佐 杉本 和朗(師団参謀)
                   少尉 小坂 高春(通訳)
                   高村(通訳)


徳之島関係

陸軍少将 高田 利貞(陸軍指揮官)
陸軍中佐 中溝 猛

奄美大島関係

海軍少将 加藤 唯男(海軍指揮官)
 佐藤サダオ(副指揮官)
海軍大佐 サカト朝太郎

一行は9月6日午後6時に読谷飛行場に着陸、他の一行の場合と同様、 特別調査本部に案内された。

翌日署名すべき降伏文書の内容について誤解がないよう検討のため一行にその夜予め同降伏文書の写しが手渡された。 

9月7日

午前11時20分、第10軍司令部戦闘司令所に於て正式の降伏調印式が執り行われることになり、シャーマン、バーシング両戦車、一五五ミリ自動推進砲を出場させるほか陸海軍のライフル銃兵小隊が、 参列することになった。

午前11時第二五九陸軍地上部隊のバンドが演奏を始めこの吹奏がしばらく続いた、間もなく下記の高官が来賓として式場に現われた。

第八空軍司令官 中将 ゼームス・エイチ・ドウリットル
第九十六機動部隊指揮官 海軍中将 ゼイ・ビー・オルデンドルフ
第一海兵師団長 少将 デウィットペック
        少将 ギルバート・チェイブス
第七空軍 准将 トーマス・デイ・ホワイト
第七空軍副指揮官 准将 カール・ビー・マクダニエル
第七爆撃隊司令部 准将 ローレンス・ゼイカー

午前11時20分かっきり、 ラーセン大佐の案内で日本軍指揮官一行は納見中将を先頭にしてその場に並べられたテーブルと椅子の後ろの席を占め、残りの者はその後ろに一列に並んで立った。

 

午前11時30分スチルウェル大将が現われ、そのあとからメリル少将と二世の小田軍曹が姿を見せた。

スチルウエル総司令官は小田軍曹の通訳を通して「本官の指示事項を実行する責任を貴官ら自身に負っていただく」と降伏にのぞんだ日本軍指揮官に告げた。 

まず最初に納見中将が六通の降伏文書に署名し、続いて高田少将、 加藤少将の順で署名が行われた。

納見中将は第32軍関係指揮官で将官クラス生存者の最先任上位者、加藤少将は海軍部隊最上位者にあたるのでそれぞれ陸海軍を代表して出席、調印するものである。

また高田少将は第16方面隷下の奄美守備隊を代表して調印した。

降伏文書は簡にして要を得たもので、全文は次の通りである。

降伏状

下記に署名した日本軍司令官は、1945年9月2日に日本帝国政府が横浜に於て調印した全面降伏状に従い、下記境界内の琉球諸島の無条件降伏を正式に行う。

北緯30度、東経126度から北緯24度、東経122度から
北緯24度、東経133度から北緯29度、東経131度から
北緯30度、東経131度30から原地点

降伏状に示す引き渡し範囲は次の領域となる。

<調印署名画像>

次にスチルウェル大将が歩み寄って降伏受諾の書類に署名してから日本軍代表一行に向って立った。

スチルウェル大将は小田軍曹の通訳で「これで調印式を終る。貴官らは宿舎に戻ってよろしい」と話し、このあと降伏文書の写しが一通づつ署名した日本軍指揮官各自に手渡された。

このように降伏調印式は正式に終了し、ここ南西諸島 (琉球)より成る島々は米国に移管されることになった。

午後12時30分、日本軍代表一行は読谷飛行場に帰り、飛行機で各自の基地へ向かった。

 

34.3.3.米軍捕虜の解放

8月28日に投下されたメッセージには降伏と共に連合軍の捕虜の存否についても報告するよう指示されていた。

奄美群島の指揮官高田少将、南西集団指揮官納見中将は、先島集団揮官納見中将は捕虜は皆無であること、かつ以前に捕虜になった者は全員沖縄または台湾に移動済みである旨回答した。

一方奄美群島の高田少将はコリンズ少将およびマクドー海軍少尉の両人を捕虜として収容中である旨の回答をした。

この両人の身柄は第七空軍の飛行機を使用して引き取ることが決まり、まず連絡機二機を徳之島飛行場に着陸させて飛行場の状態を調べた上で良好であればC−47機一機を着陸させて両名を引き取ることになった。 

徳之島飛行場は爆弾による破裂口だらけで、その上、日本機の残骸が散乱していることが分ったが、徳之島代表者を迎えるための米軍機の飛行は予定通り行なわれた。

使用された米軍機はL52機で、第10軍代表者と共にコーナー少将とホッ グス大佐が搭乗した。

同機は同飛行場の一部修理済みの箇所に着陸した。 

飛行場にはコリンズ少将とマクード海軍少尉が待機しており、自由の身となって米国製煙草、チューインガム、水の歓待を受けた二人は狂喜した。

二人の健康状態は良好だった。

抑留中の取扱いは他の場所の連合軍捕虜よりも良かったと云うことだった。 

 

なお、前述したように、終戦後に宮古島、石垣島で米軍飛行士が殺害されたことが明るみにでて関係者が処刑などの刑を下されている。

そして納見中将がB・C級戦争犯罪容疑者として指名されたが裁判出頭まえに自害したのも、この宮古島での米軍飛行士殺害の責任を感じていた結果かもしれない。

 

<続く>

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