昭和の戦争の真っただ中で生まれた、、日本の男子。
皆80歳を超えても、、一生懸命生きてゆく。
爆撃機の、、、
ゴンゴンゴン、、ゴン、、、、と唸る空の下を
座布団を合わせた様な
防空頭巾をかぶって、、、地に伏せながら、、、
生き延びてきた、、、。
ウクライナの戦争や、、、宗教の違いからくる戦争は、、、
幼い細胞の中に眠っていた恐怖を呼び覚まし、、、
どんなことが有っても、、戦争の終戦を阻むような
男たちの意地は捨ててほしいと思うのです。
やったら、、、やり返す、、、
繰り返しが
一部の人間の追い詰められた状況からの
反射反応だとしたら、、、
もはや感情で動いてしまっていたとしたら
戦争に終わりがやってきませんよね。
人生の春は、、、戦争をしない季節です。
最後のプライドは、、、話し合いで、、終戦へと向かう、、、
人間だからこそできる、、、
話し合いに、、、
国連のような、、、世界の国の議会に、、仲裁に入ってもらい
国と国が、、、破壊し合う戦争を、、、
終わらせるわけにはゆかないのですか?!!
家庭婦人や、子供や、、、
生まれようとする、、、、無垢な者たちが
戦争のとばっちりを受けて、、、、
無表情になって、、、
犠牲者は、、、どんどん出るばかりです。
どうか、、、、婆ちゃんは、、
戦争の終った世界が観たいのです。
婆ちゃんが一才になったばかりの、、、
夏の日に
原子爆弾で、、壊滅状態のなった
広島!、、、長崎!!
80年かかって、、、こうして復興した日本になれて、、、
80年かかって、、、
世界の人が観光旅行に来てくれるようになった日本で、、、
1歳だった私は、、、、
もうすぐ80歳になろうとしています。
婆ちゃんは、、、日記を書くとき、、、
いつも「歳を書いています」。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/55/61bc93e5c00f058681734b8ed8a78ef9.jpg)
戦争のさなかに生れた時から、、、
防空壕の中だったのです。
大陸で日本軍が、、玉砕して、、、
サイパンでは、、
日本女性が、
捕虜になるぐらいならと、、、
万歳岬から、、、海に飛び込んで、、、
女としての、、、最後のプライドを守った、、、
日本女性の魂が愛おしいのです。
まもなく、、、広島、、、長崎に
弐発の原子爆弾が投下されて、、、
長崎の爆弾の方が、、、強力な威力の爆弾だったらしいと
大人たちからは、、うわさされながらも、、、
広島の被害が、、、尋常でない、、、
人間の考える被害の域を超えていた。、、、、!!
悪魔のような被害の爪跡を残して
人が爆弾の為に、、、「元素」になってしまっていた。
死体は無くて、、、人間の影だけが残っていた、、、広島、、。
涙も出ない、、、、驚愕の惨状!!、、、、!
人間が人間として死ぬことさえ、、、出来なかった「広島の爆弾の爪跡」
天に向かって、、、嗚咽のような、、、叫びをあげて、、、
狂気に驚愕した原爆の被害者。
被害はまぬかれた者たちの、、、
狂気で焼け野原を彷徨う戦後、、、
あれから80年近く経ちました。
防空壕で生まれた、、あかちゃんだった私は、、、
80歳の婆ちゃんになろうとしています。
江戸っ子の父の実家が焼け野原になり
たぶん、、、、三井三菱住友、、、、のクラスの
国と一体の企業が、、、
誰のものとも分からなくなった廃墟のような爆撃された跡地を
国の事業のような勢いで、、、戦後の東京を復活させていったのだと思いますね。
小学校の時、東京に戻って、、、目にした物は
アメリカ人相手の、、、「おんりー」と呼ばれていた女性たちの住むアパート群、、、
音羽信子の「どぶ」、、、という映画、、、
知恵遅れの女性が、、、生きてゆく姿、、、
戦後の映画は、、、理解に苦しむほどの、、、人間の生きざまでした。
「日本昆虫記」、、左幸子さんだったかな?
清川虹子のお婆ちゃんが
知恵暮れの左トンペイが演じる青年に
母心で、応じて、、、
そのセリフが、、、笑えない、、、涙を超えた達観した生きてゆく女性の慈愛?
知恵遅れの青年になったトンペイは、、、婆ちゃんの慈愛によって、、、男になってゆく。
そのセリフが、、、肩の力が抜けて、、、敗戦の中の、、、戦後のドサクサを
たった一言で、、、清川虹子の婆ちゃん役が、、、言ってのける、、、
「使い物に、、、なるかのら?、、、」
ポーカーフェイスで 画面いっぱいの大写しの顔、、、、
トンペイの、、男の目覚めに、、哀れと思うのか、、、婆ちゃんの、、、マリア、、
戦後のありのままを、、、感情を入れないで、、、
多くの映画から察知出来た戦後の、、、貧しさ!!
こんな映画は、、、世界の人の目に、、、どのように映るのだろうか?
万引き家族、、、、心の貧乏が、、あるのか?、、、無いのか?
戦争を体験し田昭和の生れの私たちは、
日本全体が、、、負け組になった時代を観て来たから、、、
生きてゆく人々が,、、
愛しい、、、
みっともないけど、、、愛しくて涙が止まらない。
仕方ないけど、、仕方がないのです、、、、生きてゆくのですから、、、
父も母も、、祖父に導かれて、、都会は素通りした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/29/12d83a90086e484c860038ff88675d23.jpg)
、、南紀の山奥に、、疎開するという
逃避行の中で
戦地まで、、連絡船を乗り継いで
地雷発射の海の爆撃を受けながら
娘夫婦を迎えに、、、戦場までやってきてくれた
祖父に導かれて
最後の連絡船に間に合ったという、、、
奇跡の逃避行でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/91/d35db703df8f42f859a03f7261dcf792.jpg)
祖父のゆかりの深い、、、串本の坂本薬局に泊まり
祖父の手によって、、、私の戸籍は
串本の役所から発行されました。
戦地の指揮官の皆さんや、
重症の米兵の収容される「病院の院長」をしていた父は
日赤の提灯袖のような看護婦さんの白衣に囲まれて、、、
すぐそばの、、、
家族の住んでいる宿舎にも、、、
何日も帰えることが出来なかった忙しさだったと聞いていた。
小さな「のどき窓だけある」ような、、、宿舎に、
母と4人の子供は、、
父の戦場の仕事場であった病院に合流して、
Nippon緒勝利を信じていた報道は、、、
家族一体になりたいという母の気持をプッシュして
日本を出てしまっていた。
宿舎には
現地人の従軍者が
日常の物資の調達に
便宜を図ってくれていたという。
外出は、ほとんどすることも出来ず、
戦争は、、あたり一帯が衛生的な都会とは違って
赤痢や、ジフテリア、、、諸々の感染症が、、
パンデミックすれすれの、、、
子育てには全く持って、、、不衛生な状態であったという。
戦争は、、、衛生的な住居ゾーンも、、、汚染してゆくという。
終戦まじかになった時は、、、
日本の敗戦色を感じた現地の従軍兵も、
日本軍の領域で働いていた現地人も、、、
ことごとく敵になってゆくという
終戦間際の、、、
韓国 中国 ハルピン あたりの空気だったと、
母が話していました
軍医はそれでも、、、数が少ないからであろう、、、
階級は大佐以上の位をいただいていた様でした。
激戦の昭和19年も終わるころは、、、軍医は本国に帰還を許されて
本土決戦の時の医療にそなえるべく、、、
どんどん帰国していったそうです。
我が家の父母は、祖父が宮内庁に勤務していたこともあり
戦場で、、陛下の為に一命を捧げて、、、医療に御奉公と、、、
外科の医局の臨床部は、、父の院長の名前で病院を預けてくれて、
指揮官や、将校や、、重傷者の手術などを連日、寝る暇もないほど
病院勤務に明け暮れていたと言っていました。
当時の日本語の新聞は、、、
政府によってコントロールされていたのではないかと思えるほど
本当のことは報道されていないようだった。
情報の信じがたい新聞が、日本語で有った事も、、、。
敗戦を危惧するような発言は禁止されていたという。
仕事というより、、義務である仕事の父。
家族が住んでいる宿舎に帰ってくることはまれで、、
母は、つま先立ちで、、、小さな窓から見える山頂の灯りを観ていたそうです。
政治家と地域の仕事を預かっていた町長だった祖父に
日本の玉砕が近いと聞いて、、、
祖父は現地まで、、娘夫婦を迎えに行きました。
日本の劣勢を口に出すことなど出来ない時代に、、、
政治家との交流の多かった祖父は
いち早く、日本兵の惨状と玉砕を知ったと言っていました。
日本国内の新聞は、日本が敵艦を沈めたとか、、、報道はもはや、、、
真実を書く事さえ、、、出来ない状況だったそうです。
着のみ着のまま、、、外科用の器具を飾ってあった絵で巻いて、、、
その上から、、、さらしで包んで腰に巻いて
母は、一握りの食品と子供を抱いて
臨月のお腹を抱えて、、、日本へ向かう、、、
連絡船に、、最後の壱便に、、乗れたそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/98/a760932d7aeeae9e1bbde6f1d8b37f91.jpg)
母は、、精神的に追い詰められていたのかもしれません。
子供の頃、、、母に抱かれた記憶はないのです。
「女の子は、、要らなかった、、、」と、よく言われました。
「男の子だったらよかったのに、、、」
私の物心ついたときから、、、
我が家には「雛飾りが在りませんでした。」
苦労して、、御国の為にと、、子供を産んだのに、、、
大変な思いで、、日本まで無事に連れて来れて、、、
生まれてほしくない所で生まれて、、、
女の子だったなんて、、、、 殺されずに済んだのが不思議だったと、、、
母は、、、私を、男の子の髪型に散髪して
半ズボンをはかせて、、、現地に居るのと間違っているのか??
女の子の姿で居ると、、、殺されると、、、おびえていた時期が在りました。
小学校に入るころまで、、、
私は「医者のウチノ、、、坊ちゃん」だと言われていました。
戦後になって、、、弟が産まれてから、、、
私は弟の傍で、、弟を守る姉として、、、
母は、、自分の洋服を縫い直して、、私に着せるようになり
急には、、女の子になれない私は、、、
スカートで、、、庭の、、ヤマモモの木などに登っていました。
小学校に上がってからは、、、母の洋服を縫い直した物を着て
女の子として、、、やっと、、、当たり前のスタンスの生活が始まりました。
母は、、、男の子ばかり、、可愛がりましたね、、、。
私は別に、、、それが当たり前という時代に生れていたので、、、
我が家ではいつも、、「二等兵でしたね。」
お正月のお寿司を囲んで、、、
御茶汲みは私でしたね。
みんなの御茶当番や醤油を配ってしまう頃には
海苔巻きしか残っていませんでしたね。
男の子は、、、女の子よりも、、上役なのだと、、、空気が強要していた時代でしたね。
男の子のような、ダイナミックな動きをするので
おばさん方は、「坊ちゃん」と呼ぶ人もいましたね。
私自身は、、ひとによって、、全く異なる扱いを受けるので
自分は、自分だと、、決めて、、、ひとの見方はいろいろで、、
「
一切気にしないで、、、
「坊ちゃん」と呼ぶ人には、、
「ハイ」と返事をしましたね。
小学校になっても、、、祖父に連れられて、、、
串本にはしばしば、、泊まりに行きました。
刈上げで、、木綿の半ズボンをはいて行ったことをおぼえています。
泊めてもらった薬局には
坂本薬局、、、という看板が出ていました。
昭和時代のの20年代だと思いますが、、、
薬局には「エビオス」と書いた、、クスリが置いてあり、
差だオジサンと呼んでいた薬剤師の、太った坊主頭のオジサンが
「エビオスは酵素だよ、、、良い薬だね、、、
飲んでみるかい?」と
手のひらに、、ひと救い置いてくれました。
手のひらを舐めて、、パフパフ、、とした粉が
着なこのような味がしたのを、新鮮な気持ちで、食べたことを思い出します。
私が、、、クスリと出会ったのは,、、「エビオス」が初対面でした。
薬局のお爺ちゃんンは、、、
「おと松お爺ちゃん」と呼んでいた記憶があります。
太った店長さんは、、、
「ただオジサン、、」、と呼んでいました。
本名が「ただオジサン」なのか、、、
何でもかんでも、、、タダでくれるので、、、「タダ叔父」さんだったのか?
忘れてしまいましたが、、、幼かった私は、「ただオジサン」の記憶が甦るのです。
もう一人、、忘れられない、、、ニキビがいっぱい出ていた、、美人の欲剤師さん。
お姉ちゃんのような、、、はきはきして、、オカッパの薬剤師は
「はるみちゃん」と呼んでいました。
おばさんは、、子供を背負って、、薬局の後ろの母屋で
かいがいしく働きながら、、、
「はるみ~~!」と呼んでいたから、、、この薬局の娘だとすぐに解りました。
子供をおんぶしたまま、、、
良く動き回って働いていたおばさんが
食事を世話して下さったことが昨日の様です。
「ただ叔父さん」の「長男坊」が、、、
その後、、
東京の薬科大学に受かって
昭和30年代の事だったと思いますが、、
東京で開業していた我が家に来てくれて、、泊って行ったことを思い出します。
私は、、周りが、、医師と薬剤師の多い家庭環境で育ったこともあり、、、
医学部も受かったのですが、、、私立の医家大学だったので
家中から、、無視されました。
どちらでもいいとは思うのですが
私立の医学部に女の子を進学させることのできるのは、、
跡取娘以外は、、、たぶん、、
昭和30年代の戦後の復活期でしたから、、
何処の家でも、、私立医科大学に進学させてくれるという事は無理な時代でしたね。
私の場合、、短大に面接だけで合格していたのですが、、、
次男の一つ違いの兄さんが、、、
医学部は解剖が在るから行かないと、、
言い張っているのを
私立医大在学中の兄が
妹のN子も受けさせるから、、、お前も、、受けるだけ受けろ!!と
長男が、2人分お願書を出してしまったから、、
「何でもいいから、、、次男と一緒に、、受験して来い!!」
医師になるのを極度に嫌って、、、解剖ノイローゼになっている次男に
長男が無理やり願書を出させて、、、次男の受検の推進役のあてうまとして、、、
合格しても、、お前は短大が決まっているんだから、、、と念を押されて
私は、、内心、、受けってしまえば、、医科大に行けると思って
良い結果を出したのですが、、、
医学部をいやいや受けた次男が、、、補欠で受かってしまい、、、
昭和30年代で、、、500万円の寄付を打診されたそうです。
もともと解剖も、、父のように、、外科医で血診ると
止血という、、思考過程ではなくて、、、
大出血でなくても、、、真っ青になって、、、ビタカンファーを打たないと
気絶してしまう次男は、、両親い押されて、、
薬学に進学しました。
当然、、親も、長男も、、私も薬学部に行くことに賛成して
妹と一緒に走らせれば、、、薬学部をやめることはないだろう、、、という、、、
今回も、、、、日本男児の成功の為の当て馬として、、
短大は却下、、、 薬学進学するKトになりましたのが、、、
昭和男尊女卑の時代、、、女性の大卒は家を沈没させると言われた時代の
可愛がられない男っぽい女の子の、、、受験戦争の成り行きでした。
「Nippon男尊女卑」の、、、
見えない部分のメンタルな虐待も、、
世間の風潮がそうだと、、、
女性無視が当たり前の時代が見えますか??
女の子は、、よそに嫁に行ってしまうのに、、、
盗人に追い銭だと、、、世間の貧しい時代が言わしたのですよね、、、
戦争で、、、壱〇〇〇〇〇〇〇〇皆が貧乏な復活期は、、、
男尊女卑の「亭主関白の唄」が大流行りした時代でした。
嫁はダンナよりも早く寝るな、、、、遅く起きるな、、、
結婚式では、、男どもが、、、大声で歌った、、、昭和40年代でさえ、、
男尊女卑の唄が大ヒットだった時代でした。
男尊女卑の家でも、、、明治生まれで音楽大卒の母はお弟子を50人以上持っていて
自給自足の、、モダンガールのパワーで、、我が家では、、指揮官でしたね、、、。
私の座布団だけが無かったですね、、、
勉強して、、実力漬ける事だけが、、、活路だと思って
成績をあげて、、、無言の指示総獲得に、、日夜暇さえあれば
実力アップで、頑張るしか無かったですね。
文科系の語学だけは得意な次男尾おかげで、、、
無理やり医療系に進ませたい、、長男と母が、
逃げ回る医療系受検に、、私とセットで受けさせるという
当て馬に私を使ってくれたという事で、、、
オジサンが教授だった大学の短大部に、、、面接だけで進学強要されていたのだけは
回避でき☜、、、弐番目の次男尾為に、、、薬学進学を認めてくれたのが
男尊女卑の時代に生れても、、、不幸中の幸いだったという事ですね。
ただし、、、進学してからの、、金銭的援助はほとんどなくて
バイト人生の始まりも、、、振り返ると、、楽しかったですね。
次男尾兄さんだけは、、大学5分の所に下宿!!
卒業後は、、、ドイツに5年間も留学、、、
男の子は、、得な時代でしたね、、、
国家試験が同時に受けるというめぐりあわせから
次男尾兄さんの当て馬に選んでいただき、、、
なんとなく、、気が付くと薬剤師になっていたというような、、、
医療家族しか理解できない、、、母親の絶対君主、、、
長男の絶対決定権、、、
私が大学をそつぎょうして、勤務しているのに、
かってに縁談をどんどん持ってくるという、、、
女性にも、、
同等の権利があるという法律なんぞは、、
全く、、知らない、、のです。
家族として、、、
亡びに至る出費は、
、嫁に行ってしまう女性にお金をかけることは
泥棒に、、追銭という時代でしたね、、、
何やかやと、、、柳の枝のようにまつわりついて
次男の薬大ブームに乗っかって、、、薬科大を卒業できた私は
結果として、、、男女同権の恵まれた結果で、、、幕引きとなりました。
子供達を、、医師と薬剤師にして、、社会にお返ししたので
女の子を薬剤師にすることは、、、盗人に追い銭にはならないようですよ、、、≪^^👆
しっかり稼ぐし、、子供も、、薬学に進みたいと言い出すし、、、
戴いた分は、、自分で稼いで、、、未来の子供たちの学費にまわせたし、、、
男尊女卑を実行していたら、、、
別の人生を歩いたのでしょうね、、、
本人に経済力がないというのは、、
女性だからこそ、、
、不利な人生を行かざるを得なかったかもしれません。
何時でも飛び出せるという事が、、、
家庭内暴力も、、パワハラも
我慢内で、、なんとかここまで来れたのは
イザとなったら女性も独立してしまうと無言の実力が
家庭の平和には,、、フウテイとして、、必要だと、、
私的には、、女性は力も、、筋肉も、口達者も、、
時には社規の通念はこうだと、、、家庭内での発言の根拠も
家庭内の平和を保つには必要だと思いますね。
男尊女卑が、、、戦争を起こすような男性を育ててしまう、、、見えない根幹だと、、
私は思いますけどね、、、
女性は、、
社会の平和に必要な仕事をしている男性には
真剣になって真摯に応援できる、、、実力が必要だと思うんですよね。
男尊女卑の世界では、、女性は保身に走りがちになって、、、
男性に従属してしまうから、、、武力などで、、相手を抑えようという男性が
幼いうちに、、、思考過程として、、、育ってしまい、、
話し合う前に、、、暴力という、、、
育てる母に力がないと、、、ブレーキは愛だけとなってしまいます。
他人に対しては、、、愛の力はブレーキにはなりえない婆尾が大シギますよね。
強くなった女性は、、、愛を育てることを忘れずに、、、
自分が可愛いい、、鏡よ鏡よ、、此の世で美しいのは、、、という
自分大好き女性になってしまわない事ですね、、、
戦争を始める根っこの部分の胎教から5歳までは
男尊女卑の世界では、、、戦争の種をまいてしまう、、、
男の暴力を、、目覚めさせてしまうかもしれませんね。
岸田首相は、、外交力が在りますから、、、
戦争の拡大を、、話せばわかる次元で、日本が、、弐度と戦争に巻き込まれない様に
少子化の原因と、、育児の段階で、、、目指せ東大は、、、形の違う軍隊のような気がしますね。
教育とは、、、何なのでしょうか?
受験産業で、、甲乙着くのは、、、本当に「教育」なのでしょうか?
体験、、実地、、、団体旅行、、世界見聞、、登山、、經驗にお金をかけた方が
机上の句論の勝負が無くなり、、、受験戦争のやり方も、、、全員合格!!
目的に沿ってからのそつぎょうは、、、マスターできないものは,、、転部も了承済みで
目的の学部入学は 人格と体力と、、時間麻かかる語学だけにするとか、、
戦争を起こす、、受験戦争は、、、もう少し、、やり方がないだろうか、、?
戦争を起こすような人格を育てない方法は無い者だろうか?
戦後は、、戦争で傷ついた人たちの
健康の管理で、、、
戦争の創というのは、、、
心まで、、、ボロボロにしてしまうのだと、、、悲しい姿を見て育ちました。
運よく域のコットしか言いようのない婆ちゃんは
雪を搔きながら、、、人救い人救い、、、ひと救いと
祈りながら、、雪を積んでいます。
婆ちゃんは運よく、、戦場で、軍医をしていた父が
出陣ンおトラックが迎えの来なくて、、、
もはや、、、壱代のトラックも無くなった日本が
南洋の海で、、、次々と玉砕してゆく、、、日本の敗戦の色濃い中で
軍医は本土で奉公して良いという帰国命令が出て、、、
寸前のところで、、命が有ったという、、、
母のお腹の中の
10か月の臨月で運ばれた婆ちゃんです。
戦地で、、3人の兄弟が死んでしまいましたが
母のお腹の中に居た私は、、、
爆弾の音の胎教を受けながら、、、串本の防空壕で
栄養失調で生まれたため、、、
産声をあげることなく、、、社会の仲間に、、、滑りこめたのでした。
防空壕では、、、泣いた赤ちゃんは、、
口を塞がれて、、、ちっそくししてしまったという、、、
待たれて、、、応援されて、、、産道を通過した赤ちゃんではなくて、、、
「なんで!!!、、、こんなところで、、、産まれてくるのよ!!」
とんでもない所で生まれてしまったという。。。
人生に、、受け皿のない所に、、、産まれてきてしまった赤ちゃんを
南紀の疎開先の山奥の、、、
豊かな自然が、、オクルミになってくれて、、、
牛の乳、、、ヤギの乳、、、父の診療所の賄のおばさんの乳、、、
私はたぶん、、、いろいろな。。大自然の本能の恵みで育ったと思いますよ。
森永と明治の、、人工栄養のミルク缶が、配られた戦後でしたね。
そのころ「森永のミルクに、、壱代トラブルが発生して、、、
森永は、全部のミルク缶を回収したので、、、
責任のとり方が完ぺきだったことが、、、社会の信用を得て、、、
その後も、、、明治、、森永は、、、人工栄養の名門として
戦後の赤ちゃんの健康を支えていきましたね。
最後のプライド、、、責任のとり方が、、、森永は見事でしたね。
その後、、、再び、、東京の教育を受けるために、、、
父は、、、最後の力を振り絞ってくれたのでしょう、、、
生まれ故郷の東京に、、、帰ってこれたのでした。
たった、、、6年から7年で、、、開業した診療所は
卒業したての若き医師の兄が継ぎました。
父が慈恵会医科大学の卒業だったことが幸いして
新米医師の兄の所に、、、父の親友たちが支えに来てくださって
兄は、内視鏡の指導医に慣れるまで、、、、国立がんセンターの
崎田先生の門下生として研修にかよいながら、、、
父の有人の先生方に支えられての、、開業を守れたのでした。
運が良かっただけで、、、生き残これた、、、ヒヤリハットの人生を
もし神様がいらっしゃるなら、、、、と、、
私自身の欲や、見栄、、、贅沢には、、、見向きもしないで
ひたすら、、生き残った人生を無駄にしないで
自分の出来ることを、、、
置かれた立場で、、、一生懸命、、生きてゆきなさいと
導いてくれたのかもしれません。
80歳になるまで、、、力いっぱい、、、
置かれた立場で、、、
自分の出来る、、、目の前のことだけ、、、仕事として勤勉にやってきました。
雪掻きだけは、、、もう、、、勘弁してほしいと思いながら、、、
サイの河原で、、、
石を摘んでは崩される、、
、戦争中に死んでしまった二人の兄と、、一人の姉の為にも
雪掻きの日はいつも、、、
鬼が来ても、、、くずされない様に、、、
お姉ちゃん、、お兄ちゃん、、、一緒に雪の城塞を積み上げようね、、、
雪空の下で、、、いつも、、空に居る兄弟と話しながら
雪掻きをして来ましたが、、、
私も80歳に成ったら、、、
兄弟姉妹、父母の居るだろう「オリオン座」に
一足飛びに行って、、
空から地上の雪掻きを視乍ら、、、、
ゆったりとした時を過ごしたくなりましたね、、、
東京に帰るチャンスは消えてしまったけれど、、、
オリオン座に行けるチャンスは、、、消えることがないだけに
ばらばらになった兄弟みんなで、、、
また、、、オリオン座で、、、祖父母も兄弟も会えると信じて
豊かに時を私語すことにしている。
戦争の爪跡は、、、星空が、、、癒してくれるだろう、、、
戦争をする、、男たちの、、、気持ちは、、、永遠に、、ワカラナイ、、、。
男たちの最期のプライドは、、、「話せば、、、わかる!」という言葉に
弾丸を浴びせる追うな、、、野蛮人から、、、抜け出すことではないのでしょうか?
皆80歳を超えても、、一生懸命生きてゆく。
爆撃機の、、、
ゴンゴンゴン、、ゴン、、、、と唸る空の下を
座布団を合わせた様な
防空頭巾をかぶって、、、地に伏せながら、、、
生き延びてきた、、、。
ウクライナの戦争や、、、宗教の違いからくる戦争は、、、
幼い細胞の中に眠っていた恐怖を呼び覚まし、、、
どんなことが有っても、、戦争の終戦を阻むような
男たちの意地は捨ててほしいと思うのです。
やったら、、、やり返す、、、
繰り返しが
一部の人間の追い詰められた状況からの
反射反応だとしたら、、、
もはや感情で動いてしまっていたとしたら
戦争に終わりがやってきませんよね。
人生の春は、、、戦争をしない季節です。
最後のプライドは、、、話し合いで、、終戦へと向かう、、、
人間だからこそできる、、、
話し合いに、、、
国連のような、、、世界の国の議会に、、仲裁に入ってもらい
国と国が、、、破壊し合う戦争を、、、
終わらせるわけにはゆかないのですか?!!
家庭婦人や、子供や、、、
生まれようとする、、、、無垢な者たちが
戦争のとばっちりを受けて、、、、
無表情になって、、、
犠牲者は、、、どんどん出るばかりです。
どうか、、、、婆ちゃんは、、
戦争の終った世界が観たいのです。
婆ちゃんが一才になったばかりの、、、
夏の日に
原子爆弾で、、壊滅状態のなった
広島!、、、長崎!!
80年かかって、、、こうして復興した日本になれて、、、
80年かかって、、、
世界の人が観光旅行に来てくれるようになった日本で、、、
1歳だった私は、、、、
もうすぐ80歳になろうとしています。
婆ちゃんは、、、日記を書くとき、、、
いつも「歳を書いています」。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/55/61bc93e5c00f058681734b8ed8a78ef9.jpg)
戦争のさなかに生れた時から、、、
防空壕の中だったのです。
大陸で日本軍が、、玉砕して、、、
サイパンでは、、
日本女性が、
捕虜になるぐらいならと、、、
万歳岬から、、、海に飛び込んで、、、
女としての、、、最後のプライドを守った、、、
日本女性の魂が愛おしいのです。
まもなく、、、広島、、、長崎に
弐発の原子爆弾が投下されて、、、
長崎の爆弾の方が、、、強力な威力の爆弾だったらしいと
大人たちからは、、うわさされながらも、、、
広島の被害が、、、尋常でない、、、
人間の考える被害の域を超えていた。、、、、!!
悪魔のような被害の爪跡を残して
人が爆弾の為に、、、「元素」になってしまっていた。
死体は無くて、、、人間の影だけが残っていた、、、広島、、。
涙も出ない、、、、驚愕の惨状!!、、、、!
人間が人間として死ぬことさえ、、、出来なかった「広島の爆弾の爪跡」
天に向かって、、、嗚咽のような、、、叫びをあげて、、、
狂気に驚愕した原爆の被害者。
被害はまぬかれた者たちの、、、
狂気で焼け野原を彷徨う戦後、、、
あれから80年近く経ちました。
防空壕で生まれた、、あかちゃんだった私は、、、
80歳の婆ちゃんになろうとしています。
江戸っ子の父の実家が焼け野原になり
たぶん、、、、三井三菱住友、、、、のクラスの
国と一体の企業が、、、
誰のものとも分からなくなった廃墟のような爆撃された跡地を
国の事業のような勢いで、、、戦後の東京を復活させていったのだと思いますね。
小学校の時、東京に戻って、、、目にした物は
アメリカ人相手の、、、「おんりー」と呼ばれていた女性たちの住むアパート群、、、
音羽信子の「どぶ」、、、という映画、、、
知恵遅れの女性が、、、生きてゆく姿、、、
戦後の映画は、、、理解に苦しむほどの、、、人間の生きざまでした。
「日本昆虫記」、、左幸子さんだったかな?
清川虹子のお婆ちゃんが
知恵暮れの左トンペイが演じる青年に
母心で、応じて、、、
そのセリフが、、、笑えない、、、涙を超えた達観した生きてゆく女性の慈愛?
知恵遅れの青年になったトンペイは、、、婆ちゃんの慈愛によって、、、男になってゆく。
そのセリフが、、、肩の力が抜けて、、、敗戦の中の、、、戦後のドサクサを
たった一言で、、、清川虹子の婆ちゃん役が、、、言ってのける、、、
「使い物に、、、なるかのら?、、、」
ポーカーフェイスで 画面いっぱいの大写しの顔、、、、
トンペイの、、男の目覚めに、、哀れと思うのか、、、婆ちゃんの、、、マリア、、
戦後のありのままを、、、感情を入れないで、、、
多くの映画から察知出来た戦後の、、、貧しさ!!
こんな映画は、、、世界の人の目に、、、どのように映るのだろうか?
万引き家族、、、、心の貧乏が、、あるのか?、、、無いのか?
戦争を体験し田昭和の生れの私たちは、
日本全体が、、、負け組になった時代を観て来たから、、、
生きてゆく人々が,、、
愛しい、、、
みっともないけど、、、愛しくて涙が止まらない。
仕方ないけど、、仕方がないのです、、、、生きてゆくのですから、、、
父も母も、、祖父に導かれて、、都会は素通りした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/29/12d83a90086e484c860038ff88675d23.jpg)
、、南紀の山奥に、、疎開するという
逃避行の中で
戦地まで、、連絡船を乗り継いで
地雷発射の海の爆撃を受けながら
娘夫婦を迎えに、、、戦場までやってきてくれた
祖父に導かれて
最後の連絡船に間に合ったという、、、
奇跡の逃避行でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/91/d35db703df8f42f859a03f7261dcf792.jpg)
祖父のゆかりの深い、、、串本の坂本薬局に泊まり
祖父の手によって、、、私の戸籍は
串本の役所から発行されました。
戦地の指揮官の皆さんや、
重症の米兵の収容される「病院の院長」をしていた父は
日赤の提灯袖のような看護婦さんの白衣に囲まれて、、、
すぐそばの、、、
家族の住んでいる宿舎にも、、、
何日も帰えることが出来なかった忙しさだったと聞いていた。
小さな「のどき窓だけある」ような、、、宿舎に、
母と4人の子供は、、
父の戦場の仕事場であった病院に合流して、
Nippon緒勝利を信じていた報道は、、、
家族一体になりたいという母の気持をプッシュして
日本を出てしまっていた。
宿舎には
現地人の従軍者が
日常の物資の調達に
便宜を図ってくれていたという。
外出は、ほとんどすることも出来ず、
戦争は、、あたり一帯が衛生的な都会とは違って
赤痢や、ジフテリア、、、諸々の感染症が、、
パンデミックすれすれの、、、
子育てには全く持って、、、不衛生な状態であったという。
戦争は、、、衛生的な住居ゾーンも、、、汚染してゆくという。
終戦まじかになった時は、、、
日本の敗戦色を感じた現地の従軍兵も、
日本軍の領域で働いていた現地人も、、、
ことごとく敵になってゆくという
終戦間際の、、、
韓国 中国 ハルピン あたりの空気だったと、
母が話していました
軍医はそれでも、、、数が少ないからであろう、、、
階級は大佐以上の位をいただいていた様でした。
激戦の昭和19年も終わるころは、、、軍医は本国に帰還を許されて
本土決戦の時の医療にそなえるべく、、、
どんどん帰国していったそうです。
我が家の父母は、祖父が宮内庁に勤務していたこともあり
戦場で、、陛下の為に一命を捧げて、、、医療に御奉公と、、、
外科の医局の臨床部は、、父の院長の名前で病院を預けてくれて、
指揮官や、将校や、、重傷者の手術などを連日、寝る暇もないほど
病院勤務に明け暮れていたと言っていました。
当時の日本語の新聞は、、、
政府によってコントロールされていたのではないかと思えるほど
本当のことは報道されていないようだった。
情報の信じがたい新聞が、日本語で有った事も、、、。
敗戦を危惧するような発言は禁止されていたという。
仕事というより、、義務である仕事の父。
家族が住んでいる宿舎に帰ってくることはまれで、、
母は、つま先立ちで、、、小さな窓から見える山頂の灯りを観ていたそうです。
政治家と地域の仕事を預かっていた町長だった祖父に
日本の玉砕が近いと聞いて、、、
祖父は現地まで、、娘夫婦を迎えに行きました。
日本の劣勢を口に出すことなど出来ない時代に、、、
政治家との交流の多かった祖父は
いち早く、日本兵の惨状と玉砕を知ったと言っていました。
日本国内の新聞は、日本が敵艦を沈めたとか、、、報道はもはや、、、
真実を書く事さえ、、、出来ない状況だったそうです。
着のみ着のまま、、、外科用の器具を飾ってあった絵で巻いて、、、
その上から、、、さらしで包んで腰に巻いて
母は、一握りの食品と子供を抱いて
臨月のお腹を抱えて、、、日本へ向かう、、、
連絡船に、、最後の壱便に、、乗れたそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/98/a760932d7aeeae9e1bbde6f1d8b37f91.jpg)
母は、、精神的に追い詰められていたのかもしれません。
子供の頃、、、母に抱かれた記憶はないのです。
「女の子は、、要らなかった、、、」と、よく言われました。
「男の子だったらよかったのに、、、」
私の物心ついたときから、、、
我が家には「雛飾りが在りませんでした。」
苦労して、、御国の為にと、、子供を産んだのに、、、
大変な思いで、、日本まで無事に連れて来れて、、、
生まれてほしくない所で生まれて、、、
女の子だったなんて、、、、 殺されずに済んだのが不思議だったと、、、
母は、、、私を、男の子の髪型に散髪して
半ズボンをはかせて、、、現地に居るのと間違っているのか??
女の子の姿で居ると、、、殺されると、、、おびえていた時期が在りました。
小学校に入るころまで、、、
私は「医者のウチノ、、、坊ちゃん」だと言われていました。
戦後になって、、、弟が産まれてから、、、
私は弟の傍で、、弟を守る姉として、、、
母は、、自分の洋服を縫い直して、、私に着せるようになり
急には、、女の子になれない私は、、、
スカートで、、、庭の、、ヤマモモの木などに登っていました。
小学校に上がってからは、、、母の洋服を縫い直した物を着て
女の子として、、、やっと、、、当たり前のスタンスの生活が始まりました。
母は、、、男の子ばかり、、可愛がりましたね、、、。
私は別に、、、それが当たり前という時代に生れていたので、、、
我が家ではいつも、、「二等兵でしたね。」
お正月のお寿司を囲んで、、、
御茶汲みは私でしたね。
みんなの御茶当番や醤油を配ってしまう頃には
海苔巻きしか残っていませんでしたね。
男の子は、、、女の子よりも、、上役なのだと、、、空気が強要していた時代でしたね。
男の子のような、ダイナミックな動きをするので
おばさん方は、「坊ちゃん」と呼ぶ人もいましたね。
私自身は、、ひとによって、、全く異なる扱いを受けるので
自分は、自分だと、、決めて、、、ひとの見方はいろいろで、、
「
一切気にしないで、、、
「坊ちゃん」と呼ぶ人には、、
「ハイ」と返事をしましたね。
小学校になっても、、、祖父に連れられて、、、
串本にはしばしば、、泊まりに行きました。
刈上げで、、木綿の半ズボンをはいて行ったことをおぼえています。
泊めてもらった薬局には
坂本薬局、、、という看板が出ていました。
昭和時代のの20年代だと思いますが、、、
薬局には「エビオス」と書いた、、クスリが置いてあり、
差だオジサンと呼んでいた薬剤師の、太った坊主頭のオジサンが
「エビオスは酵素だよ、、、良い薬だね、、、
飲んでみるかい?」と
手のひらに、、ひと救い置いてくれました。
手のひらを舐めて、、パフパフ、、とした粉が
着なこのような味がしたのを、新鮮な気持ちで、食べたことを思い出します。
私が、、、クスリと出会ったのは,、、「エビオス」が初対面でした。
薬局のお爺ちゃんンは、、、
「おと松お爺ちゃん」と呼んでいた記憶があります。
太った店長さんは、、、
「ただオジサン、、」、と呼んでいました。
本名が「ただオジサン」なのか、、、
何でもかんでも、、、タダでくれるので、、、「タダ叔父」さんだったのか?
忘れてしまいましたが、、、幼かった私は、「ただオジサン」の記憶が甦るのです。
もう一人、、忘れられない、、、ニキビがいっぱい出ていた、、美人の欲剤師さん。
お姉ちゃんのような、、、はきはきして、、オカッパの薬剤師は
「はるみちゃん」と呼んでいました。
おばさんは、、子供を背負って、、薬局の後ろの母屋で
かいがいしく働きながら、、、
「はるみ~~!」と呼んでいたから、、、この薬局の娘だとすぐに解りました。
子供をおんぶしたまま、、、
良く動き回って働いていたおばさんが
食事を世話して下さったことが昨日の様です。
「ただ叔父さん」の「長男坊」が、、、
その後、、
東京の薬科大学に受かって
昭和30年代の事だったと思いますが、、
東京で開業していた我が家に来てくれて、、泊って行ったことを思い出します。
私は、、周りが、、医師と薬剤師の多い家庭環境で育ったこともあり、、、
医学部も受かったのですが、、、私立の医家大学だったので
家中から、、無視されました。
どちらでもいいとは思うのですが
私立の医学部に女の子を進学させることのできるのは、、
跡取娘以外は、、、たぶん、、
昭和30年代の戦後の復活期でしたから、、
何処の家でも、、私立医科大学に進学させてくれるという事は無理な時代でしたね。
私の場合、、短大に面接だけで合格していたのですが、、、
次男の一つ違いの兄さんが、、、
医学部は解剖が在るから行かないと、、
言い張っているのを
私立医大在学中の兄が
妹のN子も受けさせるから、、、お前も、、受けるだけ受けろ!!と
長男が、2人分お願書を出してしまったから、、
「何でもいいから、、、次男と一緒に、、受験して来い!!」
医師になるのを極度に嫌って、、、解剖ノイローゼになっている次男に
長男が無理やり願書を出させて、、、次男の受検の推進役のあてうまとして、、、
合格しても、、お前は短大が決まっているんだから、、、と念を押されて
私は、、内心、、受けってしまえば、、医科大に行けると思って
良い結果を出したのですが、、、
医学部をいやいや受けた次男が、、、補欠で受かってしまい、、、
昭和30年代で、、、500万円の寄付を打診されたそうです。
もともと解剖も、、父のように、、外科医で血診ると
止血という、、思考過程ではなくて、、、
大出血でなくても、、、真っ青になって、、、ビタカンファーを打たないと
気絶してしまう次男は、、両親い押されて、、
薬学に進学しました。
当然、、親も、長男も、、私も薬学部に行くことに賛成して
妹と一緒に走らせれば、、、薬学部をやめることはないだろう、、、という、、、
今回も、、、、日本男児の成功の為の当て馬として、、
短大は却下、、、 薬学進学するKトになりましたのが、、、
昭和男尊女卑の時代、、、女性の大卒は家を沈没させると言われた時代の
可愛がられない男っぽい女の子の、、、受験戦争の成り行きでした。
「Nippon男尊女卑」の、、、
見えない部分のメンタルな虐待も、、
世間の風潮がそうだと、、、
女性無視が当たり前の時代が見えますか??
女の子は、、よそに嫁に行ってしまうのに、、、
盗人に追い銭だと、、、世間の貧しい時代が言わしたのですよね、、、
戦争で、、、壱〇〇〇〇〇〇〇〇皆が貧乏な復活期は、、、
男尊女卑の「亭主関白の唄」が大流行りした時代でした。
嫁はダンナよりも早く寝るな、、、、遅く起きるな、、、
結婚式では、、男どもが、、、大声で歌った、、、昭和40年代でさえ、、
男尊女卑の唄が大ヒットだった時代でした。
男尊女卑の家でも、、、明治生まれで音楽大卒の母はお弟子を50人以上持っていて
自給自足の、、モダンガールのパワーで、、我が家では、、指揮官でしたね、、、。
私の座布団だけが無かったですね、、、
勉強して、、実力漬ける事だけが、、、活路だと思って
成績をあげて、、、無言の指示総獲得に、、日夜暇さえあれば
実力アップで、頑張るしか無かったですね。
文科系の語学だけは得意な次男尾おかげで、、、
無理やり医療系に進ませたい、、長男と母が、
逃げ回る医療系受検に、、私とセットで受けさせるという
当て馬に私を使ってくれたという事で、、、
オジサンが教授だった大学の短大部に、、、面接だけで進学強要されていたのだけは
回避でき☜、、、弐番目の次男尾為に、、、薬学進学を認めてくれたのが
男尊女卑の時代に生れても、、、不幸中の幸いだったという事ですね。
ただし、、、進学してからの、、金銭的援助はほとんどなくて
バイト人生の始まりも、、、振り返ると、、楽しかったですね。
次男尾兄さんだけは、、大学5分の所に下宿!!
卒業後は、、、ドイツに5年間も留学、、、
男の子は、、得な時代でしたね、、、
国家試験が同時に受けるというめぐりあわせから
次男尾兄さんの当て馬に選んでいただき、、、
なんとなく、、気が付くと薬剤師になっていたというような、、、
医療家族しか理解できない、、、母親の絶対君主、、、
長男の絶対決定権、、、
私が大学をそつぎょうして、勤務しているのに、
かってに縁談をどんどん持ってくるという、、、
女性にも、、
同等の権利があるという法律なんぞは、、
全く、、知らない、、のです。
家族として、、、
亡びに至る出費は、
、嫁に行ってしまう女性にお金をかけることは
泥棒に、、追銭という時代でしたね、、、
何やかやと、、、柳の枝のようにまつわりついて
次男の薬大ブームに乗っかって、、、薬科大を卒業できた私は
結果として、、、男女同権の恵まれた結果で、、、幕引きとなりました。
子供達を、、医師と薬剤師にして、、社会にお返ししたので
女の子を薬剤師にすることは、、、盗人に追い銭にはならないようですよ、、、≪^^👆
しっかり稼ぐし、、子供も、、薬学に進みたいと言い出すし、、、
戴いた分は、、自分で稼いで、、、未来の子供たちの学費にまわせたし、、、
男尊女卑を実行していたら、、、
別の人生を歩いたのでしょうね、、、
本人に経済力がないというのは、、
女性だからこそ、、
、不利な人生を行かざるを得なかったかもしれません。
何時でも飛び出せるという事が、、、
家庭内暴力も、、パワハラも
我慢内で、、なんとかここまで来れたのは
イザとなったら女性も独立してしまうと無言の実力が
家庭の平和には,、、フウテイとして、、必要だと、、
私的には、、女性は力も、、筋肉も、口達者も、、
時には社規の通念はこうだと、、、家庭内での発言の根拠も
家庭内の平和を保つには必要だと思いますね。
男尊女卑が、、、戦争を起こすような男性を育ててしまう、、、見えない根幹だと、、
私は思いますけどね、、、
女性は、、
社会の平和に必要な仕事をしている男性には
真剣になって真摯に応援できる、、、実力が必要だと思うんですよね。
男尊女卑の世界では、、女性は保身に走りがちになって、、、
男性に従属してしまうから、、、武力などで、、相手を抑えようという男性が
幼いうちに、、、思考過程として、、、育ってしまい、、
話し合う前に、、、暴力という、、、
育てる母に力がないと、、、ブレーキは愛だけとなってしまいます。
他人に対しては、、、愛の力はブレーキにはなりえない婆尾が大シギますよね。
強くなった女性は、、、愛を育てることを忘れずに、、、
自分が可愛いい、、鏡よ鏡よ、、此の世で美しいのは、、、という
自分大好き女性になってしまわない事ですね、、、
戦争を始める根っこの部分の胎教から5歳までは
男尊女卑の世界では、、、戦争の種をまいてしまう、、、
男の暴力を、、目覚めさせてしまうかもしれませんね。
岸田首相は、、外交力が在りますから、、、
戦争の拡大を、、話せばわかる次元で、日本が、、弐度と戦争に巻き込まれない様に
少子化の原因と、、育児の段階で、、、目指せ東大は、、、形の違う軍隊のような気がしますね。
教育とは、、、何なのでしょうか?
受験産業で、、甲乙着くのは、、、本当に「教育」なのでしょうか?
体験、、実地、、、団体旅行、、世界見聞、、登山、、經驗にお金をかけた方が
机上の句論の勝負が無くなり、、、受験戦争のやり方も、、、全員合格!!
目的に沿ってからのそつぎょうは、、、マスターできないものは,、、転部も了承済みで
目的の学部入学は 人格と体力と、、時間麻かかる語学だけにするとか、、
戦争を起こす、、受験戦争は、、、もう少し、、やり方がないだろうか、、?
戦争を起こすような人格を育てない方法は無い者だろうか?
戦後は、、戦争で傷ついた人たちの
健康の管理で、、、
戦争の創というのは、、、
心まで、、、ボロボロにしてしまうのだと、、、悲しい姿を見て育ちました。
運よく域のコットしか言いようのない婆ちゃんは
雪を搔きながら、、、人救い人救い、、、ひと救いと
祈りながら、、雪を積んでいます。
婆ちゃんは運よく、、戦場で、軍医をしていた父が
出陣ンおトラックが迎えの来なくて、、、
もはや、、、壱代のトラックも無くなった日本が
南洋の海で、、、次々と玉砕してゆく、、、日本の敗戦の色濃い中で
軍医は本土で奉公して良いという帰国命令が出て、、、
寸前のところで、、命が有ったという、、、
母のお腹の中の
10か月の臨月で運ばれた婆ちゃんです。
戦地で、、3人の兄弟が死んでしまいましたが
母のお腹の中に居た私は、、、
爆弾の音の胎教を受けながら、、、串本の防空壕で
栄養失調で生まれたため、、、
産声をあげることなく、、、社会の仲間に、、、滑りこめたのでした。
防空壕では、、、泣いた赤ちゃんは、、
口を塞がれて、、、ちっそくししてしまったという、、、
待たれて、、、応援されて、、、産道を通過した赤ちゃんではなくて、、、
「なんで!!!、、、こんなところで、、、産まれてくるのよ!!」
とんでもない所で生まれてしまったという。。。
人生に、、受け皿のない所に、、、産まれてきてしまった赤ちゃんを
南紀の疎開先の山奥の、、、
豊かな自然が、、オクルミになってくれて、、、
牛の乳、、、ヤギの乳、、、父の診療所の賄のおばさんの乳、、、
私はたぶん、、、いろいろな。。大自然の本能の恵みで育ったと思いますよ。
森永と明治の、、人工栄養のミルク缶が、配られた戦後でしたね。
そのころ「森永のミルクに、、壱代トラブルが発生して、、、
森永は、全部のミルク缶を回収したので、、、
責任のとり方が完ぺきだったことが、、、社会の信用を得て、、、
その後も、、、明治、、森永は、、、人工栄養の名門として
戦後の赤ちゃんの健康を支えていきましたね。
最後のプライド、、、責任のとり方が、、、森永は見事でしたね。
その後、、、再び、、東京の教育を受けるために、、、
父は、、、最後の力を振り絞ってくれたのでしょう、、、
生まれ故郷の東京に、、、帰ってこれたのでした。
たった、、、6年から7年で、、、開業した診療所は
卒業したての若き医師の兄が継ぎました。
父が慈恵会医科大学の卒業だったことが幸いして
新米医師の兄の所に、、、父の親友たちが支えに来てくださって
兄は、内視鏡の指導医に慣れるまで、、、、国立がんセンターの
崎田先生の門下生として研修にかよいながら、、、
父の有人の先生方に支えられての、、開業を守れたのでした。
運が良かっただけで、、、生き残これた、、、ヒヤリハットの人生を
もし神様がいらっしゃるなら、、、、と、、
私自身の欲や、見栄、、、贅沢には、、、見向きもしないで
ひたすら、、生き残った人生を無駄にしないで
自分の出来ることを、、、
置かれた立場で、、、一生懸命、、生きてゆきなさいと
導いてくれたのかもしれません。
80歳になるまで、、、力いっぱい、、、
置かれた立場で、、、
自分の出来る、、、目の前のことだけ、、、仕事として勤勉にやってきました。
雪掻きだけは、、、もう、、、勘弁してほしいと思いながら、、、
サイの河原で、、、
石を摘んでは崩される、、
、戦争中に死んでしまった二人の兄と、、一人の姉の為にも
雪掻きの日はいつも、、、
鬼が来ても、、、くずされない様に、、、
お姉ちゃん、、お兄ちゃん、、、一緒に雪の城塞を積み上げようね、、、
雪空の下で、、、いつも、、空に居る兄弟と話しながら
雪掻きをして来ましたが、、、
私も80歳に成ったら、、、
兄弟姉妹、父母の居るだろう「オリオン座」に
一足飛びに行って、、
空から地上の雪掻きを視乍ら、、、、
ゆったりとした時を過ごしたくなりましたね、、、
東京に帰るチャンスは消えてしまったけれど、、、
オリオン座に行けるチャンスは、、、消えることがないだけに
ばらばらになった兄弟みんなで、、、
また、、、オリオン座で、、、祖父母も兄弟も会えると信じて
豊かに時を私語すことにしている。
戦争の爪跡は、、、星空が、、、癒してくれるだろう、、、
戦争をする、、男たちの、、、気持ちは、、、永遠に、、ワカラナイ、、、。
男たちの最期のプライドは、、、「話せば、、、わかる!」という言葉に
弾丸を浴びせる追うな、、、野蛮人から、、、抜け出すことではないのでしょうか?
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