今日のころころこころ

2018・4・8 宮川香山眞葛ミュージアム。幻のやきもの真葛焼はますますに幻に。

昨日は横浜美術館でロダンに魅せられた。

ついでといってはなんだが横浜美術館コレクション展もみた。
真葛焼があった。なんだか気になった。
この気になったは後でわかるのだけど。。
京都真葛原で生まれ横浜で育った真葛焼。今では幻となっている。
小さな真葛焼の美術館があるのは知っていたが、開館日は基本的に土日。今までは仕事の関係で冠婚葬祭以外に土日に休むことは難しかったけど今は行ける。宮川香山眞葛ミュージアム。
横浜駅東口からポートサイド地区へ。









資生堂パーラーさんなんぞがあってつい引っかかってしまう(^^;













ポートサイド地区はアートがたくさん。



ボラードも作品。

ミュージアム。



中は撮影禁止なので画像はないけど見応えたっぷり。
真葛焼を生み出したのは、宮川長造。
宮川長造とは京都真葛原の楽焼の陶家の10代目。なぜそう思ったかは不明だが、楽焼以外の陶芸修行し嘉永4年に窯を開いた。
この時、眞葛焼の名称は安井宮からたまわり香山の号は華頂宮からたまわったというから、今でいうところの宮内庁御用達のひとつだったのかな。以後、代々宮川香山を名乗ることとなる。
真葛焼初代とされるのは、長造の子の虎之助。
長造が楽焼以外の陶芸修行を始めたのも謎だが、長造が没し兄が病弱だったために18で家督を継いだ虎之助が京都から横浜に来た理由も謎。謎なれど、家督を継いだ10年後の明治3年に妻子と門人4人を連れて久良岐郡西太田村に窯を開き、時代の要請に従うかのように輸出向けの陶業を開始した。
横浜美術館コレクション展は展示条件は悪いけど撮影可能なので横浜美術館コレクション。
海外向けの作品は華美。











40という働き盛りでなぜだか息子の半之助(2代目宮川香山)に家業を任せたのは明治15年。
以後の虎之助(初代宮川香山)の作風は変わる。



そして最晩年大正5年の作品は実に静か。

その後、半之助の子3代目葛之助は戦災死。葛之助の弟4代目智之助が継いだものの横浜大空襲で真葛焼は途絶えた。
真葛焼の窯跡がわずかに残ると知ってたずねたのは去年の4月。





なんとなく気になって再訪。
一本橋を渡ってどんどん商店街へ。









確かあそこから入った。





そこの角を曲がった。



案内板は健在なれど。

ああ・・
無い。。。

無くなってしまったんだなぁ。

去年と同じ花が咲く帰り道。







だからなんだというわけではないけど。。。
ま。
シルスマリアさんのホットチョコレート。

コメント一覧

うさぎ
おお!チサエちゃん(#^.^#)
元気そうでなにより(^^)/
山内図書館に行くときには必ずみてますよ(^^)/
でも月いちとはすごい!!!
最近は時間ができたのでもっぱら中央図書館で数ヶ月一度くらいしか通過してませんでしたm(__)m
道場に行く途中に寄ってみますね(^^)/
チサエ
お久しぶりです〜。
チサエです、覚えていてくださってるかしら。相変わらずスズメに編んだ服を着せてますよー。猫背がたたって、すぐに背中が痛くなるのでなかなか編めないけど、どうにか月イチでお着替えさせてます。機会あったらまた見てやってくださいね(*´︶`*)ノ
うさぎ
tonnkoさまこんばんは〜(^^)/
7名以上の団体だと平日も開けてくれるはずです(^^)/
保存状態も展示方法もとても良いですね
(^^)/
輸出向けの作品はゴージャスでだけど品があって、当時の外国の好事家は欲しがっただろうなぁ。
最後の作品が印象的でした。
まるで、その後をわかっていたかのようですね。。。
tonnko
真葛焼美術館を「ほのぼの散歩」で扱ったことがあり、その折、メンバー全員に入場券を頂きました。
その頃、偶々陶芸教室の経理を週に何日か伺っておりましたので、興味津々でした。
その後全く行っていませんので、懐かしく当時の事を想い出しました。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「博物館・美術館・動物園・植物園・ギャラリーなど」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事