知っていることと理解していることでは違います。
今高度情報社会ですから、知識がありふれています。
例えばアインシュタインの相対性理論の式は、知っていますが理解できていません。
放射能の働きや数字を知らされていますが、よく理解できません。
法図を少し学んで、分かった!分かった!とすぐ言う方がいますが、
知ったことに過ぎないのです。
ですから、当たり前を真の当たり前(アタ・アリマ・ヘブ・ドモス)を理解することにより、
当たり前の実体がハッキリするのです。
「奇跡」を「当たり前」と言うことが分かる。
そうなって、当たり前となるのです。
学者が知っている事柄はアヤしいものです。
「知識」を正しく知る者が何人いるのでしょうか?
識(記号・さとり・しるし)を知ることを知識と言いますが、
今の知識人は、正しくは知雑識人です。
無知の知と無智の知を知ることから、気づきが始まります。
真摯に求めれば与えられ、真摯に求めないと与えられない大事なモノがあります。
人間は、何を知り何を理解しょうとしているのでしょうか?
あなたが、なぜ今ここに一人いるのか?
ハッキリ理解していますか?
こんな当たり前の事すら分からないのです。
自己存在の証明がハッキリできないようでは、
ましてや、神界がどこにあってどういう状態なのか分からない事になります。