ƔƔ kisujapan ƔƔ 

 
 
          ƣƣようこそ映画紹介を主にしています。ƣƣ

競馬6「オグリキャップ」2

2011年07月27日 17時05分39秒 | 競馬

前回のブログの続きになります。

競馬嫌いの妻を変えたオグリキャップが変えたのは妻だけではなかった。日本の競馬界を変えたのだ。有馬記念前の騒ぎからだ。

あの映像のオグリの顔。笠松の地方から来たスーパースターは、スーパースターとなり引退した。競馬場には若い人が増え、若い女性も多くくるようになった。

引退後北海道の優駿スタリオンという牧場に入居した。それから毎年妻と、北海道旅行に行くことになった。旅行といっても、新千歳空港になってからは、まず空港でお土産を山ほど買って、宅急便で送り、日本競馬界で最大の社台グループが作った馬事公園に行き、乗馬したりご飯食べたり、土産買ったりして空港に戻り日高の浦賀行きのバス午後3:46分に乗り、静内と言う所の駅前のホテルに泊まるというパターンが何年も続いた。

優駿スタリオンは手前の新冠というところにあるが、宿泊施設があまり無かったので。そこから次の日の早朝バスで優駿まで行くのだ。

オグリのために見物台が出来、オグリショップが出来、ご飯や休憩にコーヒーも飲める。オグリを中心に馬のグッズから北海道の土産も売っていてトイレもあった。

肝心のオグリの放牧場は一番手前にあったが、そんなにUPで写真取ったり、離れたところで休憩しているところが多かった。

次年行くと金網が貼ってあった。心無い見物者が大声出したり、物を投げ入れたりするからである。それでもそういった人は絶えず、一つ奥の放牧場に移った。眺望円のカメラやビデオでもいい写真は取れなくなった。それでも観光客は絶えなかった。観光バスも着た。

近くには2着2回にさせたタマモクロスの放牧地や多くの思い出の馬がいた。宿泊している静内には桜並木で有名な百軒道路があったが、その筋沿いに、名馬が集まったアロースタッド、レックススタッド、があり、有名な馬が種牡馬として飼われていた。見学時間があり、時間になると都会から車で来たらしい若い人がいっぱい集まるのだ。

馬は血で走ると言われるように血統が良い馬を外国から買うことがあるが、奇跡の馬と言われた血統がすごく良く走ったことも無いのに3億円のラムタラという馬もいた。他にもそうそうたる馬がいた。

空港のそばの社台も不便なところに見物場を作って人気馬メジロマックイーンや3冠馬ミスターシービーなども見せていた。

何年も行ってほとんど一日中いるから、牧場の人と仲良くなり中に入れるようになった。そして偶然だがあのハイセイコーの牧場長の奥さんが大のオグリ好きで、平気に奥の放牧場に入ってゆくので、話をするようになり、私たち2人でもオグリの放牧場まで入っていけるようになった。

私は一眼レフのカメラとビデオ持って、写真とビデオ取り捲った。白馬になったオグリの写真は何冊ものアルバムが出来た。服は破られたり、腕をかまれたり、夕方までいたときは宿舎まで入ったこともあり、晩御飯のリンゴを食べさせたこともあった。

その他に日本馬で初めてJCを勝ったカツラギエースが犬と一緒にいたのを見たときは愕然とした。ようは血統が良くないから、良い放牧場に入れてもらえなかったのだ。しかしオグリ産駒も笠松に一杯いたが強い馬はいなかった。JRAにも何頭か出てきたが若い人は朝早くから並んで、開門と共に走ってゴール前を陣取った。写真を撮るためだ。オグリが出るまではおっさんばっかりだったのを変えたのはオグリである。日本の競馬界を変えたと言うのはそういうことです。久しぶりの3冠馬になったナリブーと言われたナリタブライアンが出る時など若い人は、前の日から泊り込んでいた。北海道に行っているとき、ナリタブライアンが引退してオグリとハイセイコーの中間あたりの牧場に来たときはすごい人でした。

それより事故で亡くなったときは、報道陣や多くのファンが集まった。京都競馬場にも墓があるのはどうしてだろうか。ついでに書くがハイセイコーは病気で亡くなった事になっているが、実はタイキの冠名で有名なタイキ牧場は道を隔てたところにあり、そこの若い人がハイセイコーの牧場の中に大量のわらを運ぶとき、ハイセイコーの足を折ってなくなったと言うのが事実である。

そういえば笠松にも良く行きました。よく行っているとオグリを育てたすみ厩務員と仲良くなり、通行所がないと入れない厩舎場にも入れるようになった。話をしているとオグリ産駒に牝馬だが8連勝した馬を見せてもらった。すみさんはこの馬ぐらいだと苦笑いしていた。

話は変わるが北海道のハイセイコウの牧場長の家にもいったり、値段が書いてないすし屋に連れて行ってもらった。トロやうになど良く食べたがみんなそんなに食べなかったが出るときチラッと見ると数万円払っていて悪い事したなーと思った。

ご主人は東京の人でたまたまハイセイコーの所でバイトしていたら牧場長になったと言う。そして奥さんは大阪の人で、お母さんが体調悪く、大阪と北海道を通っていた。だから大阪で奥さんとよく会い、乗馬クラブに入っていると言うことで私の妻も乗馬クラブに入った。

オグリは日本の競馬界を変えたが私の妻も変えた。

END


競馬6「オグリキャップ」1

2011年07月27日 14時27分51秒 | 競馬

いよいよ競馬界を変えた超人気馬を書きます。
「オグリキャップ」
この馬は競馬をしない人でも知っているでしょう。
地方の岐阜笠松競馬から鳴り物入りで4歳冬JRAに入居した。
しかし3冠登録していなかったので1冠もないがいきなり重賞(GⅡ,Ⅲ)6連勝。さすがにGⅠの秋の天皇賞は当時の最強馬タマモクロスの2着。JCでは1着外国馬。2着タマモクロス、の3着だった。
しかし4歳年末の有馬記念は2番人気(1番はタマモクロス)だが見事タマモクロスを押さえつけ1着。それから休養に入り、5歳の秋から重賞3連勝。
また秋の天皇賞は2着。この時は武豊の強豪スーパークリークが一着。
JCは外国馬の2着。
6歳になり6月まで休養後GⅠ安田記念を快勝。宝塚記念はまさかの2着。
夏を超え3度目の秋の天皇賞。強力馬がいない1番人気 。
しかしまさかの5着。続くJCでは強豪外国馬が多く4番人気で、本当にまさかの11着。これには小栗氏、マスコミ、競馬ファン、全国的に震撼が走った。
小栗氏は次の有馬記念を最終レースに決めていただけに、2連大敗。
「オグリは終わったのか」とスポーツ新聞は毎日オグリのことを書きたてた。
しかし一番苦しかったのは小栗氏であろう。有馬記念に出すか出すまいか。
激しいファンは、これ以上オグリに恥をかかすなとかみそり入りの手紙を送ってきたり、大騒ぎになったが、出ても勝つと思ったファンは少なかった。
そして小栗氏はオグリに最終の美を飾るため出走を決意した。
マスコミや競馬ファン以外の人も大騒ぎだ。私の会社でも大騒ぎになった。
しかし家に帰れば競馬が嫌いな妻は無視である。おまけに会社の忘年会が有馬記念の前日から泊り込みで、有馬記念は電車の中で聴くことになった。
馬券など買ったことの無い人もほとんどの人が買った。頼まれた私は10人分くらいの馬券を買う羽目になり、梅田の馬券売り場であせった。
そして夜の宴会も終わり、帰途に付いた。
予約した電車に乗り込んだ私たちはオグリの話で持ちきりであった。
終わった馬が浮上することは滅多に無い。私も買わなかった。鞍上には超人気騎手武豊(初騎乗)4番人気であった。いよいよ出走のときにラジオ持ってきた者の周りにみんな群がった。スタート<!-- オグイキャップ引退有馬記念 -->


もう言うことはなかった。涙が止まらなかった。今もレースを見ていたら涙が出てきた。
オグリは白馬だが、当時は灰色で4コーナーを回ってから見た顔は必死であった。
家に帰った時妻が言った一言は「オグリが勝った」である。競馬嫌いの妻までも変えたのだ。   
続く


最後の競馬・勝負

2011年07月24日 18時39分47秒 | 競馬

私は30年ほど前から競馬をしていましたが、10数年ほど前に辞めました。

やめたときの話を書いてみます。

私も色々勉強して2つの出目を考え出し、なかなか当たっていました。

しかし出目からして連に絡むか、複勝に来てもおかしくないので買い続けていました。しかしほとんど2桁着順で、元気で長期休養も無く、一度はオープン馬になったほどです。

もう年で可愛そうでした。準オープンで2桁着順の連続。馬主はどう考えていたのでしょう。

しかし週間誌GALLOPを見ているとその馬がついに辞めると書いていました。

はなむけに単勝を買ったのです。2万円。オッズは300数十倍。入れば700万。

しかし私は馬鹿でした。ずーっと複勝を買っていたのに。

まー3着も無理だと思ったのか、今は定かではない。

ラストラン。オグリキャップのようにかっこいいもんではなかったが、ごくろうさんである。

そして結果は3着。3年ほど追いかけたがまさかの3着。

複勝60数倍。

2万でも120万。頭が割れそうだった、

その後っしばらくして私も競馬をやめたが、準オープンで2桁着順を繰り返していたその馬を忘れられないことになった。

本当に競馬はドラマである。オープンで活躍している馬は多くの人の記憶に残るが、そんな馬は一部の人にしかしられていないだろう。

ご苦労さんでした。「ヤマニンバリメラ」。