写真 泉岳寺の山門
赤穂浪士奇襲に成功せり
時は元禄15年(1702)12月14日(15日未明)、大石内蔵助を頭とする赤穂浪士は、
本所松坂町の吉良邸に討ち入り、元高家筆頭 吉良上野介義央の首級を揚げ見事本懐を遂げた。
元禄14年3月14日に発生した江戸城内 松之大廊下における主君 浅野内匠頭長矩の刃傷事件(内匠頭は即日切腹・改易)以来1年9ヶ月の永きに亘り、忍びがたき忍び、耐えがたきを耐えてきた赤穂浪士は、12月14日に吉良邸で開催された茶会により、吉良上野介本人の在宅が確実であることを認め、同日夜半、密かに吉良邸から僅か1km余り離れた林町の杉野十平次の道場に集合した。
改易時に浅野家家臣は約300名ほどいたが、志を同じくしたのは僅かに47名を数えるのみ。
各々鎖帷子を火事装束の下に着込み、額に鉢金、頭巾などをかぶり、各自が個々に用意した大小の刀、槍などで武装を整えた。
12月15日未明(午前4時ころ)、赤穂浪士47名は、表門組23名と裏門組24名の二手に分かれ吉良邸へ強硬突入し、戦闘におよぶこと約1時間で邸内を制圧。
吉良上野介は台所の炭小屋に潜んでいたが、突入から約2時間後に発見され、同時に槍で突かれて殺害された。
上野介の本人性確認は門番に首実検をさせたという。
吉良方は、不覚にも不寝番などを立てておらず全く警戒を怠っていたものと思われる。
屋敷には常に約80~100名程度の家臣がいたにも関わらず、抵抗を見せたのは40名程度に留まり、吉良方の損害は死者16名、負傷者22名ののぼった。
対する赤穂浪士方の損害は、死者0人、負傷2名を数えるのみで、まさに圧勝であった。
吉良方の半数以上の家臣は、赤穂浪士が突入と同時に長屋の雨戸などの出入り口に釘を打ちつけたため、閉じ込められていたという。
なお、吉良家当主の義周(よしちか)は、長刀を奮って抵抗するも重傷を負い失神。また、吉良方の奥方及び女中など女性全員は屋敷修繕のため、白銀の上杉家に外泊しており偶然難を避けることができた。
同日午前6時30分ごろ、首尾よく上野介の首を揚げた赤穂浪士47名の面々は、当初吉良邸に隣接する回向院に入ろうとしたが、関わりを恐れた寺が堅く門を閉ざしたため、永代橋を渡り鉄砲洲の旧赤穂藩上屋敷前を通り、浅野家の菩提寺であり内匠頭が眠る品川高輪の泉岳寺を目指し凱旋。
途中、汐留橋付近で大石内蔵助は、大目付仙石伯耆守へ討入次第の報告に吉田忠左衛門と富森助右衛門の両名を派遣。
両名より、討入次第の報告を受けた仙石伯耆守は、ただちに老中、若年寄にも報告するとともに上杉家へ赤穂浪士の追討禁止を命じた。
また、桜田門の上杉家上屋敷では、午前5時ごろ吉良邸に隣接する豆腐屋の何某より赤穂浪士襲撃を知らされ、ただちに合戦準備に取り掛かかったが、幕府から赤穂浪士への追討禁止の命を受け追撃を断念した。
赤穂浪士の一団は泉岳寺に到着後、亡き主君 浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の首を捧げると、一人一人焼香を上げ討入成功を報告した。
また大石内蔵助は、関係者へ討入り成功報告の使者として寺坂吉右衛門を派遣し、46名となった一団は幕府からの沙汰があるものと、寺よりふるまわれた粥などを啜り潔く待機している。
【赤穂事件(2)】なぜに内匠頭は刃傷におよんだのか?! 2011-12-18
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(リポート 月乃和熊)
赤穂浪士奇襲に成功せり
時は元禄15年(1702)12月14日(15日未明)、大石内蔵助を頭とする赤穂浪士は、
本所松坂町の吉良邸に討ち入り、元高家筆頭 吉良上野介義央の首級を揚げ見事本懐を遂げた。
元禄14年3月14日に発生した江戸城内 松之大廊下における主君 浅野内匠頭長矩の刃傷事件(内匠頭は即日切腹・改易)以来1年9ヶ月の永きに亘り、忍びがたき忍び、耐えがたきを耐えてきた赤穂浪士は、12月14日に吉良邸で開催された茶会により、吉良上野介本人の在宅が確実であることを認め、同日夜半、密かに吉良邸から僅か1km余り離れた林町の杉野十平次の道場に集合した。
改易時に浅野家家臣は約300名ほどいたが、志を同じくしたのは僅かに47名を数えるのみ。
各々鎖帷子を火事装束の下に着込み、額に鉢金、頭巾などをかぶり、各自が個々に用意した大小の刀、槍などで武装を整えた。
12月15日未明(午前4時ころ)、赤穂浪士47名は、表門組23名と裏門組24名の二手に分かれ吉良邸へ強硬突入し、戦闘におよぶこと約1時間で邸内を制圧。
吉良上野介は台所の炭小屋に潜んでいたが、突入から約2時間後に発見され、同時に槍で突かれて殺害された。
上野介の本人性確認は門番に首実検をさせたという。
吉良方は、不覚にも不寝番などを立てておらず全く警戒を怠っていたものと思われる。
屋敷には常に約80~100名程度の家臣がいたにも関わらず、抵抗を見せたのは40名程度に留まり、吉良方の損害は死者16名、負傷者22名ののぼった。
対する赤穂浪士方の損害は、死者0人、負傷2名を数えるのみで、まさに圧勝であった。
吉良方の半数以上の家臣は、赤穂浪士が突入と同時に長屋の雨戸などの出入り口に釘を打ちつけたため、閉じ込められていたという。
なお、吉良家当主の義周(よしちか)は、長刀を奮って抵抗するも重傷を負い失神。また、吉良方の奥方及び女中など女性全員は屋敷修繕のため、白銀の上杉家に外泊しており偶然難を避けることができた。
同日午前6時30分ごろ、首尾よく上野介の首を揚げた赤穂浪士47名の面々は、当初吉良邸に隣接する回向院に入ろうとしたが、関わりを恐れた寺が堅く門を閉ざしたため、永代橋を渡り鉄砲洲の旧赤穂藩上屋敷前を通り、浅野家の菩提寺であり内匠頭が眠る品川高輪の泉岳寺を目指し凱旋。
途中、汐留橋付近で大石内蔵助は、大目付仙石伯耆守へ討入次第の報告に吉田忠左衛門と富森助右衛門の両名を派遣。
両名より、討入次第の報告を受けた仙石伯耆守は、ただちに老中、若年寄にも報告するとともに上杉家へ赤穂浪士の追討禁止を命じた。
また、桜田門の上杉家上屋敷では、午前5時ごろ吉良邸に隣接する豆腐屋の何某より赤穂浪士襲撃を知らされ、ただちに合戦準備に取り掛かかったが、幕府から赤穂浪士への追討禁止の命を受け追撃を断念した。
赤穂浪士の一団は泉岳寺に到着後、亡き主君 浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の首を捧げると、一人一人焼香を上げ討入成功を報告した。
また大石内蔵助は、関係者へ討入り成功報告の使者として寺坂吉右衛門を派遣し、46名となった一団は幕府からの沙汰があるものと、寺よりふるまわれた粥などを啜り潔く待機している。
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(リポート 月乃和熊)
司馬遼太郎氏がいうほどの愚将ではないと、信じますです。