LIFE IS GOOD! うろうろ人生旅日記

20代はいろんな国を歩き30代はサラリーマン。40で早期退職に手を挙げた。現在訪問69か国+1。只今バンコクで生活中。

懲りずに再度フェズ・エル・バリの迷路へ

2010年04月28日 | アフリカ日記
4/28 夜行バス

夜中何度も蚊に起こされる。2匹は退治したがまだいたらしい。。11時過ぎチェックアウト。

近くのレストランで遅い朝食をとった後、昨日の復讐に向かう。ブー・ジュルード門前のカフェでゆっくり休憩しゆっくり歩を進めメディナ侵入。





昨日たどり着けなかったのはタンネリと呼ばれる革の染色職人街。今日もなかなか見つからず10人以上聞く羽目に。タンネリなんてどうでもいいけどここまで来たら意地でもみなくちゃ、と探し続ける。どうやらこの景色を見るには誰かの建物に上がらなくてはいけないようで金目当ての奴らが、俺が連れて行ってやる、だのここから屋上に上がれ、上がれとうるさい。

結局みやげ物やの中からお望みの景色にはようやく会えたもののそこの兄ちゃんも金金と立ちはだかる。そいつはちぎったものの出口で親分みたいなじじいにも追いかけられ20円ほど渡して大変気分の悪いタンネリツアー終了。モロッコ人好感度50%ダウン。


【これを見るために大変なことに・・】

その後迷路を彷徨いつつどうにかギッサ門まで辿りつきちょっと小高いところからメディナを眺め2日間に渡るフェズ・エル・バリ攻略、疲労濃い中終了。




【いやはや、疲れた・・】

タクシーで宿まで戻りカフェで時間を潰し夜9時の夜行バス発車を待つ。。

8時頃バスターミナル到着。近くにいたカナダ人旅行者がひとつ向こうのリッサニまでのチケットを持っていることに気付き窓口で変更を申し出るも不可能、エルフードで新しくチケットを買ってくれといわれる。できないわけねーだろ、と思いながらも引き下がる。

21:00発車。

フェズ・・世界最大の迷路を彷徨う

2010年04月27日 | アフリカ日記
4/27 フェズ

8時起床。朝は使えないといわれたホットシャワーは問題なし。使えない、ではなく使うなということか。。

8時45分お散歩開始。今日も快晴。日差しが眩しくサングラス無しでは目が痛いほど。先日セビーリャで落とすまで4ヶ月使うことなくただのお荷物だったのに、ようやく必要になったら手元にない、とは。

ハッサン2世通りを北上してフェズ・エル・ジェディド地区へ。観光客は入れない王宮の正門と壁を見ながらダッカーキーン門を抜け世界遺産にも登録されている「フェズ・エル・バリ」を目指す。


【王宮正門】




【鳥が綺麗に並んでた】


【フェズ・エル・バリが見えてきた】

ブー・ジュルード門から世界最大にして世界一の迷路と言われるメディナに入る。入ったところで簡単な朝食をとり地図を片手に出撃。


【ブー・ジュルード門】


【水場】

最初は地図を見て自分の位置を確認しながら歩いていたが、途中からお決まりのように自分がどこにいるのか分からなくなる。


【迷わせる仕掛けがたくさん】

小さな路地は枝のように四方八方に伸びていて目で来た道を確認したはなから後ろを振り向くともうどっちの方向から来たのか分からなくなる始末。「犬並みに」自分の方向感覚には自信があったがここの迷路はすごかった。行きたいところにもたどり着けず完敗。



人、埃、匂い、坂、音、強烈な紫外線、加えてどこを歩いているか分からない状況が風邪に蝕まれている弱った身体から容赦なく体力を削っていく。ほとんどそこに思考は働かず出口を探してただ彷徨うだけ。ブー・ジュルード門に戻ってきたときには体はすっかり疲れ果て、出口のカフェに落ちるように座りコーラ一気飲みした後そのまま眠ってしまった。

歩いて帰ろうという気は起こらずヨーロッパで1回も使わなかったタクシーで新市街に戻る。プチタクシー代はかなり安く今後お世話になるかも。CTMで明日の夜行バスのチケットを取り宿に帰り体力回復させるためお昼寝。

数時間寝た後、昨日のカフェに晩御飯を食べに行く。酸っぱいドレッシングがやたらおいしいモロカンサラダとちょっと苦手なスパイスの効いたチキンタジン。

回復してきたと思っていた風邪はまた復活し夏風邪の様相。1日3回きちんと風邪薬を飲むはめに。

緑の美しい大地。フェズ到着

2010年04月26日 | アフリカ日記
4/26 フェズ

よく寝た。体調もかなりよくなってきた。


【今日は快晴。青い壁がよく映える】

デニッシュとコーヒーだけの朝食を1階のレストランでレストランでとり11時チェックアウト。月曜木曜の週2回たつマーケットをバス停に行く途中歩いた。ヤギから下着、ガラクタまで何でもござれのよく見かける市である。



バスは13時発車。途中ひとつの山全体が白い壁の家々に埋め尽くされているすごい街を見た。バスの運ちゃんに聞くとウェザーンと言う街らしい。あんなのが普通にあるこの国はすごい。


【山全体がメディナ】

フェズに着くまでの4時間半、ず~~~~っと柔らかな緑と金色にも似た小麦かなんかの穂のコントラストが美しい桃源郷のような景色が続く。どこにも日本人がイメージしているアフリカはない。この景色を眺めながらウタタネする幸せのヒトトキ。





のどかな景色から一転、急にどでかい街が向こうに現れる。ここのところずっと大都会ばかりを回ってきていたからいいかげん食傷気味。騒がしいから落ちつかないし移動大変だし。。街をみてちょっと面倒くさそうだな・・と思った。

17:30フェズ到着。でかい街。排気ガスにまみれながら宿探し。ここから距離のある旧市街は避け新市街で泊まることにして2件目で荷物を置く。この安宿午後8時からしかホットシャワー使えないとのことで水シャワーして新市街を街ぶら。

ネットをしようとマクドへ。モロッコではまだWIFIの使えるカフェを見たことがない。ネット環境まだまだのようである。このマクドもWIFIなし。ちなみにマクドの料金は結構高め。明らかにちょっと生活レベル高い人たちしかいない。(ビッグマックミール約510円)

シャウエンの青い壁とモロカン料理

2010年04月25日 | アフリカ日記
4/25 シャウエン


【シャウエンの青い壁】

9時半前チェックアウトしストリートカフェでコーヒー。日曜だからか活気のない朝。
10:00がらがらのフェズ行きバス発車。アフリカらしからぬ緑あふれる景色。でもここはアフリカだという事実が気持ちを高揚させ何度も車窓から写真を撮ってしまう。世界遺産の街ティトゥアンは白いメディナ(旧市街)が山に張りついているように見えた。

午後1時頃シャウエン到着。1キロ先のメディナまで急な上り坂を汗かきながら上がっていく。メディナに入るとひっきりなしに行き交う地元の人間で活気があった。青く塗られた壁が有名なところであるが生憎の曇り空で残念。。5つ目に入った宿に決め早速迷路のようなメディアをうろつく。





メディナの家すべてが青くなってるわけじゃなくて茶色だったり、白だったりとまとまりがない。けっこういい加減に塗ってるのだが、まそんなことはモロッコ人はしったこっちゃない。お店ではペンキの元みたいないろんな色の粉が売られていた。

メインに使っているクレジットカードのキャッシングが昨日とうとう限度額いっぱいに。今日初めてリーマン時代に作っておいた会社提携の無料ゴールドカードを使う。持ってきておいてよかった。

お昼ごはんはモロッコスペシャルとも呼ぶべきベジタブルクスクスとチキンタジン。


【定番タジン】


【定番クスクス】


【定番ミントティー】

日本でも何度か口にする機会があったクスクス。おいしいと思ったことはない。スムールという粗粒状の蒸された小麦は味がなくやっぱり今ひとつだったが乗った野菜(タジンと同じ味付けだったけど)の味はおいしかった。あと果物屋で買ったびわも日本の味と全く変わらずおいしい。


【魔法使いのような服きたおじいちゃんがいっぱい。よからぬ相談か?】

彷徨い疲れ午後8時前宿に戻る。体調がまだ万全でないためちょっと横になったら寝てしまい結局その後夜の散歩できず。近くのレストランでケーキとポテチを買ってきてそれを晩御飯とする。

2夜連続コンセントなしの宿だった。

アフリカ大陸上陸!モロッコ・タンジェへ

2010年04月24日 | アフリカ日記
4/24 グラナダ-アルヘシラス-タンジェ【モロッコ】

夜中何度か目が覚め悪寒と戦う。。

7時起床。風邪の症状はまだまだきつい。8時前鍵を返すことができず部屋に置いて出る。タイミングよく来た33番のバスに乗りバスターミナルへ。



09:00発車したバスは立ち寄ることができなかったマラガを経由して12:45アルヘシラスに到着。車窓から見える太陽サンサンの景色は何故かオーストラリアのイーストコーストを思い出させた。



1キロほどの先の港まで歩き13:30発のスピードボートのチケットを購入しスペイン側パスポートコントロールを抜け待合室で遅れている船の到着を待つ。


【アルヘシラスの港】

ジブラルタルを渡ったことのある友人Yはかなりの揺れで吐いてしまった、との話を聞いていたのでビビッた相棒は久々に酔い止めを飲み船に乗り込む。そんなに古くはない。4ヶ月前の燕京号と遜色なし。


【船のキオスク】

2時過ぎ出航するやいなや入国カード書かされモロッコの入国スタンプを押される。幸運にも海はほとんど荒れてなく船酔いするほどのものではなかった。というより風邪で頭がボーっとしている上、関節痛で船酔いを感じる余裕もなかったのが正直なところ。ヨーロッパからアフリカへの楽しい移動のはずがこの体調不良でデッキに出て景色を楽しむどころではなかったのが悔やまれる。でもさすがに白い壁建ち並ぶ土地を船から向こうに見ると、「おお、アフリカ」とつぶやいてみたくなる。


【おお、アフリカ】



朝から水1滴も飲んでいなかったので船中でマフィンの昼食。

約90分後の15:30(モロッコ時間13:30)。エジプト以来17年ぶりのアフリカの大地モロッコ・タンジェ上陸。荷物検査されるでもなくすぐ外へ。「インフォメーション、インフォメーション」と怪しいおじさんがいきなり登場したりしてなんだか笑ってしまう。そういうの待ってたんだよ。ヨーロッパではほとんど見かけなくて寂しかったよ。。でもあんまり登場しすぎるとすぐ愛想悪くなるけど。

アラビア語の看板を見るとアフリカと言うより中東を思い出し、またタンジェの街はオマーンのマスカットのようだった。

最後の力をふりしぼり20分歩いて宿に。今日の宿代は2700円ほど。ちなみに500mlのコーラは55円。こないだまで250円以上払わされたこともあったからようやくあのバカ高い毎日から開放されてほんと嬉しい。これで遠慮なく飲み食いできる。。

部屋に入ると相棒は酔止め薬の副作用とうつされたらしい風邪の症状でダウン。時計をモロッコ時間に2時間戻すとまだ午後2時。こっちも体調悪いのでちょっと昼寝。

夕方1人で外出。明日のバスチケットを買った後、街ぶら。Tシャツ1枚ではまだまだ寒い天気。迷路のようなメディナを歩き、なんだか久々に外国に来た気がした。


【メディナへの入口】

プチ・ソッコ、グラン・ソッコからバスツール通りを歩いて帰ってくる。しつこいがアフリカではなくここは何もかも中東である。レストランも頭の悪そうなでもなんか憎めないハシシ売りのおじさんも。


ナイルヒルトンでコーヒー

1993年02月27日 | アフリカ日記
2月27日 (土) カイロ 快晴 (ORIENTAL PALACE HOTEL)

10:00AM起床。となりの部屋の東京の学生のノックで目がさめた。

ケンタッキーで朝食。一緒にナイルヒルトンに行き手紙を出した。彼はカイロ大学にIDをつくりに行くというのでバス停で見送り、もう一度ナイルヒルトンへ戻りコーヒーを飲みながら日記を書く。ここは欧米人などがテニスをしていたりして空気が違っていた。大阪ヒルトンのTシャツ一枚でいるので寒い。

とうとう明日でエジプトの旅も終わりを告げる。15日間、いろいろなことがあった。ホームステイさせてもらったことで色々な庶民と階級の違いなどもわかりよかったと思う。ただ残念だったのは自らのルール(お金)に縛られ他にもできたであろう経験があまり出来なかったことである。あの「ジャパニーズハウマッチ」には頭から嫌悪感に満たされてしまった。時がたてばまた楽しかった想い出へとかわるであろうが・・・。

ホテルに戻り植村直己の本を読みながらうたたね。

5:20PMとなりの部屋の工田君という人と晩飯を食べに外にでる。丁度ラマダーンが終わる時間で大勢の人と一緒にスパゲティ、フール(豆)などを食べた。スークでいちご、ネーブル、バナナをそれぞれ1kgづつ買ってきて部屋で食べた。

カイロに戻る

1993年02月26日 | アフリカ日記
2月26日 (金) カイロ 晴れ時々曇り (ORIENT PALACE HOTEL)

10:00AMカイロに到着。一度地下鉄でSADATまででてORIENTAL PALACE HOTELへ。まだ部屋が空いていなかったのでケンタッキーで2時間をつぶした。

昼過ぎ12Pの部屋に荷物をおいて、ハネムーンから戻っていたTAREKのお兄さん夫妻に会う。お兄さんはとても感じのいい人で結婚式のVIDEOと写真をみせてくれた。ラマダーンスペシャルといわれるピーナッツなどを包んで揚げたものにハチミツをかけたものとチーズケーキに似たものを食べた。

09:00PMすぎ地下鉄に乗って新しく近くに見つけた駅ナセルでおりてホテルに戻った。日本人がいきなり5人もいてびっくりした。1時すぎまで水パイプを吸っているシリア人の親父としゃべっていた。

至上最悪の列車でお戻り

1993年02月25日 | アフリカ日記
2月25日 (木) アスワン 快晴 (夜行列車)

9:30AM起床。
11:00AMチェックアウトしてモナリザレストランで例のものを。私はおいしいと思うものはあきるまで食べる主義である。スークを歩いてネーブル10個を240円程で買い、あまりの暑さのためにホテルに戻る。もう部屋はないためにソファに座って食べようとしたが、ラマダーン中の人たちを前にして食べることはできず、ついうとうとと2時間程昼寝。

3:40PM、ASWAN MOONでこれまた死ぬほどうまいグアバジュースを飲んだ。「冷たい!」 冷たいのは初めてである。ナイルをたくさんのフルーカが走っている。乗ってもよかったのだがつまらない意地がそうさせてくれなかった。

4:30PMホテルで荷物をピックアップして駅へ。
5:30PM列車に乗り込んで座席に座ったのはいいが、あとからここは俺の席だという奴がでてきたのですかさずTOURIST POLICEに文句をいいにいったらTICKET COUNTERですぐ今日のに書き換えてくれた。昨日TICKETを見たら24日付けだったのでおかしいと思い確認までしたのだが、いいかげんなものだ。

列車の中はすごかった。来た時よりもひどかった。となりの親父はガンガンラジカセからアラビックミュージックをかけていて気が狂いそうであった。至上最悪の列車であった。

アブシンベル大神殿

1993年02月24日 | アフリカ日記
2月24日 (水) アスワン 快晴 (KEYLANE HOTEL)

夜中3時20分起床。3時半に誰かが起床のノックにきた。頭を洗い4時に下におり車に乗った。さすがにこの時間になるとスークもすっかり静まりかえっていた。

同じホテルからドイツ人2人、違うホテルから日本人2人、アメリカ人2人の計7名の客であった。星の輝く真っ暗な道をワゴン車は全速力で走った。車の中は埃がすごく窓をあけざるを得なかった。荷物になるのを予想してロングTシャツと薄手のセーターだけできた私は、凍えそうになる程寒かった。

東の空がだんだん真っ赤にそまり、砂漠の地平線からゆっくりとのぼってきた太陽は美しかった。8時前アブシンベルに到着。我先にと先入りするエジプト人ガイドに頭にきて罵声を浴びせたものの、20分以上かかってチケットをとった。

ナセル湖を右手にみながら神殿にまわりこむ。たしかに巨大だがあまり威圧感とか感動はなかった。とりあえず見てまわり

9:40AM出発。砂漠の中の一本道を280kmの帰路に入った途中、これまたたいしたことのないアスワンダムを見て2:30PMホテルについた。

手紙でもゆっくり書こうと昨日のASWAN MOONへ。するとまた昨日の学生がいて夕食も一緒に食べた。夕食はビーフを四角に切って焼いたもの、エジプト特製のゴマパンのようなもの、サラダ、ライスで4P。とてもおいしかった。めしを食べている時だけエジプトにもう少しいてもいいなあと思ってしまう。夕方ラマダーンの終わりを告げるスピーカが始まるとともにスークを歩いてまわる。自分で値切りの天才などと勝手に満足しつつ、うるさい親父をもてあそび、6個1Pのネーブルとミネラルウォーターだけ買ってホテルに戻った。

9:30PMまたモナリザレストランに行きグリルドビーフセットを食べた。

夜のナイルは美しく港街のたたずまいであった。何故か潮の香りがしていた。一人きりではもったいないロマンチックさであった。ずっと同じことを考えてすごした。早く日本に帰ろうか。

アスワン到着

1993年02月23日 | アフリカ日記
2月23日 (火) アスワン 快晴 (KEYLANE HOTEL)

雲ひとつないアスワンに午前11時到着。

駅を出ると早速ホテルの客引きがよってくる。その中の一人がしつこく付いてくるので値段を聞いてやったらFiftyだというのでアホらしいという顔をしたら「NoNo Fifteen」といいなおしてきた。それでも高いのでこっちの希望を教えてやった。「FIVE!!」そしたらそれでOKだというのでここから歩いて5分というところに向かって歩いていたが遠いので文句行ったら車に乗せてくれた。

はじめエジプト人は歩くのが好きだなんていってたのに文句言うと昨日サッカーをして足が痛いから車にするなどとずいぶん調子にいい奴だ。アスワン駅からずいぶん遠いところにあるKEYLANE HOTELというところにつれてこられた。とても清潔そうな部屋だったのですったもんだの問答をえて8Pでないた。奴は3Pのチップを手にして消えていった。

アラブ人というのは本当よく分からない。ターレックや友人を見るといい奴ばかりで好感が持てるのだが、それ以外は以下に私をだまそうとしているかのごとく感じられる。お金の額はたいしたことないのだから少々使ってもいいのだが心が狭いのかそうもいかない。彼らの話しているアラビア語がすべて悪口に聞こえてしまうのだ。

1時過ぎカウンターで明日のアブシンベルツアーを予約してから散歩に出かける。ナイル川は美しくヌピア人たちものんびりしていてカイロで見かけるエジプト人より好感が持てた。スークを歩いた後、千葉からきたという学生とASWAN MOONというナイル川の上にあるレストランで虫のついたチキンと恐ろしくうまいグアバジュースを飲みながら落ち着いたひと時を景色とともに楽しんだ。

午後5時45分スピーカーから日没を知らせる声が流れるとともにその日のラマダンが終わり、人々は食事にありつくことになる。スークは一層賑やかになり夜中まで騒がしく、なかなか寝付けなかった。