LIFE IS GOOD! うろうろ人生旅日記

20代はいろんな国を歩き30代はサラリーマン。40で早期退職に手を挙げた。現在訪問69か国+1。只今バンコクで生活中。

サッカラの階段ピラミッド

1993年02月18日 | アフリカ日記
2月18日 (木) カイロ 晴れ (ターレックの家)

8時前起床。シャワーを浴びて9時、5人で車に乗って出発。ギザのピラミッドをすぎて砂漠に近いところに小さな村があり、堀内さんが取材のために立ち寄りたいというのでターレックが通訳をかねて訪れたのだ。

鷹についての取材らしい。この村は本当にエジプトらしい雰囲気がした。汚い身なりで皆それぞれの事をしていた。村のすぐそこまで砂漠がきていた。村を離れると祭りをしているところがあり人形劇を見たがさっぱりわからなかった。悪い村長をやっつける話らしい。

堀内さんを下ろして3人でサッカラへ。1Pのみかんを食べながらのスリリングなドライブであった。サッカラには階段状のピラミッドがあり砂漠を隔ててたくさんのピラミッドが見えた。

3時半帰宅。ケンタッキーのホームデリバリーを待つ。

5時。アビールと友達のギゴを拾ってヘリオポリスのメリディアンホテルにこれまた友達のディナのバースデーパーティー(22歳)にいく。地下一階のディスコではアラビックミュージックなどに合わせて踊っていた。イスラム社会にこうやってミニスカートで踊れる場所があるとは思わなかった。下にイチゴのシロップがのたまったオレンジジュースはとてもおいしく最後に出てきたエクレアのようなケーキもうまかった。

9時半帰宅。帰宅したらターレックのお兄さんのベッドのマットが届いていて苦労して部屋まで上げた。

友達の家で

1993年02月17日 | アフリカ日記
2月17日 (水) カイロ 晴れ (ターレックの家)

10時半起床。
ハミーダさんと言うメイドがすでに洗濯などをして働いていた。彼女が作ってくれたパン生地の中に卵が入ったものですごくおいしくおかわりした。メイドさんは週3回9時から5,6時頃までで15Pだそうだ。安い。夕食も作るそうだ。

今友達(名前忘れた)が来てやたらケンスイをやっている。その友達の車で修理工場へ出かける。壊れた車を直しているらしくそこの少年が古いバッテリーをもってターレックのアパートに戻ってきた。手を真っ黒にしてバッテリーを付け直したもののエンジンはかからず、近所の人も手伝って押しがけでかけた。もう一度工場に戻り新しいバッテリーに付け替えた。145Pかかったらしい。

近くの総合施設にも行きビデオを借りた。テニス、卓球、プール、スカッシュ場などがありそこでは有名女優(らしい)がなんかの撮影をしていた。

夕食はチキンと豆のハヤシライスのようなものであった。アビール、メイドさんと一緒に写真をとった。メイドさんの働きには本当頭の下がる思いでもってきた新しい靴下をプレゼントした。ただ写真を撮るとき頭の布をとって姿をあらわしたのでびっくりした。そこには巨大なカリフラワーが。

夕方ターレックのおばさん(アメリカ大使館勤務)が来ていた。あと堀内さんの知り合いの女性も来ていてリビングルームで談笑していた。借りてきたビデオ「ユニバーサルソルジャー」を見て寝た。明日一緒にサッカラにいくアムルも下で寝ている。

おおピラミッド

1993年02月16日 | アフリカ日記
2月16日 (火) カイロ 晴れ (ターレックの家)

冷え込んだ夜であった。何度も目がさめダウンジャケットをも着込んだ。

6時半起床。荷物をフロントに預けてモガンマアのバス停に行く。8時過ぎ83番のバスに3,4番手で乗り込み前から2番目の席に陣取った。このバスの席はすべて座ることになっていて、席がすべて埋まった時点で客は乗れなくなる。つまり早いもの勝ち。そのためバスが入ってくる前に番号を識別し、そのバスが止まるところを推理し走らなければならないという弱肉強食バスなのである。

40分ほどして先生をしているという隣のおばさんに教えられてピラミッド近くでバスを下りた。少し遠くから見るピラミッドは威圧的でこんなものが4500年も前に作られたと言うのは驚きでしかない。

「らくだに乗れ」「馬はどうだ」「はがき、バッグ...」というしつこいアラブ人をふりきりながら一番大きなクフのピラミッドの中へ。かがみながら急な傾斜のトンネルを登ると大きな部屋に出た。こんなものを始めて発見した人の驚きが少なからず分かるような気がした。

バスで移動する日本人や欧米人を横目に見ながら歩いてカフラー王のピラミッドに。クフよりも回廊は長かった。次はスフィンクス。ここから3つのピラミッドがすべて見渡せ素晴らしい眺めであった。

いざカイロへ帰ろうと追ってもスフィンクスあたりからのバス停など分かるはずもなく警察官に聞いたところすごく遠いところにあるという。どうしようか、またきたところまで戻ろうにも遠すぎる。またらくだ親父の攻撃をかわさなければならない。ポリスとしゃべっているとタクシーの親父が出てきて、乗れと言う。とにかくすでに疲れていたので値段交渉に敗れ15Pで落ちた。車に乗った人々が書いたノートなどを見せられながらタハリールで下りた。このとき車に置き忘れたカメラをクラクション鳴らして返してくれてアラブに正直者がいるのだなと少し嬉しくなった。

何度も通っている道なのにまたまた迷いながらもケンタッキーを見つけ昼食。客がテーブルをあけるたびにマスタード、ケチャップの容器を拭くやつに感心した。

荷物を取りに宿に戻る。電話してもターレックが不在なのでコーヒーをすすりながらこれを書いている。ここは10階だというのにひっきりなしに鳴っているクラクションがとてもうるさい(どいつもこいつもすぐ鳴らす)。

午後2時45分、ターレックに電話がつながる。
3時20分、タハリールのサダト駅から地下鉄に乗り8つめのマーディ(MAADI)駅へ。4時待ち合わせで3時50分頃着いた。Maadiと付く駅が3つあり迷ったが4時過ぎ友達のアムルという人が迎えに来てくれてほっとした。

タクシーで5分くらい行ったところに家があった。久々にターレックと再開。職場の大阪ヒルトンで別れて以来だ。アムルがお茶を入れてくれてる間にターレックはステップマザーと買い物のため外出。夕方ターレックの彼女のアビールも来て夕食ハヤシライスによく似た味のバミアを食べた(まあまあ)。ケーキを食べた後カードでケントというゲームをした。

ここには堀内さんという夫妻が勉強のため訪れていて夜中台所で何かやっていた。11時頃アムルもアビールも帰ってソファーベッドのふとんにはいり寝ようとしたがターレックのいびきが以上にうるさいのでリビングルームにふとんを持って行き寝心地の悪い寒い夜を過ごした。

エジプト考古学博物館

1993年02月15日 | アフリカ日記
2月15日 (月) カイロ 晴れ (ORIENT PALACE)

7時起床。8時過ぎモガンモアで外国人登録。予想外にすぐ終わった。

この後ナイル川を見てエジプト考古学博物館へ。学生証で5P。中はまだきれいに整理されておらず大雑把でガイドもいないのでただ中をぶらぶら見て歩いた。2階にはあのツタンカーメンの黄金のマスク、棺などがあり素晴らしかった。ただここのポリス(?)には閉口した。写真を取らせてはチップをせがんでいた。

ケンタッキーフライドチキンに入り日本と変わらぬ味に安心した。アメックスのオフィスで100ドルを331Pに両替。普通の銀行ではトラベラーチェックは取り扱ってもらえなかった。

昼1時過ぎ、ピラミッドに行こうとバス停と83番のバスが近くまで行くということを聞き込み調査で突き止めたものの地元民との座席取りの戦いに敗れ、明日再戦することにした。

3時ごろ部屋に戻ってきて昼寝。夕方おきて晩飯を食べに行った。小汚いところでライスとマカロニのごった煮(コシャリと言うらしい1P)。見た目は最悪であったが味はまあまあ。値段も1Pの安さであった。

夜10時ターレックに電話がつながる。14日は友達を迎えによこしたらしいがモスクワからくることを知らなかったので日本からの便を調べて帰ったそうだ。

24歳の誕生日はカイロで

1993年02月14日 | ヨーロッパ日記1993
2月14日 (日) モスクワ 快晴-カイロ くもり (ORIENT PALACE)

7時半起床。
枕カバーをタオル代わりにしてシャワーを浴び外へ出てみる。濡れていた髪がすぐカチカチになった。朝のモスクワは今まで持っていたイメージ通りであった。食堂まで戻り朝食(パン、卵、サラミ)をとり9時半ピックアップバスで空港へ。カイロまでのチケットを受け取り搭乗を待った。

午前11時の予定時刻を過ぎてもロシア航空は慌てる様子もなくマイペースでやっていた。タバコを1カートン、スウォッチの時計を買ったりして時間をつぶした。12時35分離陸。チケットにシート番号は記載されてあったものの皆好き好きに席を取っていた。窓から下を眺めるとモスクワは白く美しかった。昼食(あまりおいしくない)をとり空いている後ろの席でタバコを吸って過ごした。

飛行機は地中海を越えアフリカ大陸に入りしばらく緑の大地が続いたものの次第に茶けてきてまもなく黄色い大陸に変わった。カイロの空港に午後4時頃着き銀行で20ドル両替。VISAをとり入国手続きも難なく終えることができた。迎えに来ているはずのターレックには会えず、ぼろぼろのバスに乗りタハリール広場へ。見当をつけて下りようとするのだがバスはわざわざ止まってくれたりはしない。人でごったがえしているバスの出口にたどり着くことだけでも大変で、スピードが落ちる瞬間を狙って飛び降りるのも命がけである。重い荷物が体をふらつかせ後ろから突っ込んでくる車をよけるの冷や汗がでる。

車の多さに驚く。かなり街を歩いてORIENTAL PALACE HOTELに入り、空港から一緒にきたハタ、マツ君と晩飯を食べに行く。途中で見つけたレストランでドライカレー、ミートボール、ペプシをいただく。おなかが一杯になったところで街ブラ。車の洪水の中を泳ぐように歩く。9時に宿に帰ってきてこれを書いている。今日は24回目の誕生日。めでたい。

モスクワはさぶかった

1993年02月13日 | ヨーロッパ日記1993
1993年2月13日 (土) 成田-モスクワ 晴れ (オリンピック村)

アエロフロート582便。
1時発予定の便は遅れて1時50分になっていた。お土産のマトリョーシカ人形、ピーナッツ、飲み物をもらい2回の食事の間は毛布をかけて寝た。窓が汚れていたのでほとんど景色も見えずじまいであった。

ロシア時間午後7時暗いモスクワに到着。
トランジットなのでロシアの地は踏めないと思っていたのだがショートツアー(2000円)がホテルにいく前にあるというので申し込む。外はかつて今まで経験したことのない寒さであった。バスは市内に向かって走った。凍てついた道路でバスを待つ人々、マクドナルド、ピザハット、KGB、みんなかぶってる帽子、物売りの少年、物寂しそうな夜景、こういうところもあるのだなと思った。

赤の広場では10分ほど歩かせてもらったが耳が取れるのではないかというほどの寒さで、やっぱりあの帽子が必要なのである。さてホテルにつくと夕食が出された。小さい魚、酢の味がする野菜、ビーフストロガノフのような肉、硬いパン、紅茶。うまくない。歩いて数分のところに宿があり1部屋4人のバストイレ付であった。約30人の日本人が宿泊したようであった。荷物はカイロまでスルーしてあったので着替えもタオルもなく12時過ぎベッドに横になった。