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東海道と中原街道の交差点はどこにある?

2017年03月14日 | 我が町探訪
まず初っ端からお断り書きを。ここに貼った地図は、ネット上の地図を一度印刷して、それに手書きで線を引き、スキャンしてます。文字はフォトショップの機能で書いてます。また錦絵は市役所から買ってきた絵葉書を写真撮影し、フォトショップでオリジナルぽい彩色を再現してます。
では、始めます。

去年平塚市内を走る旧中原街道を調べました。そのとき東海道と中原街道の交差する地点を下記のA地点としました。

東海道がへの字に曲がるところに中原街道が交差する、つまり東海道と中原街道が三叉路になってたと思ったのです。明治迅速測図(明治19年制作)でもそうなってました。しかし、歌川広重の東海道五十三次平塚縄手道という錦絵を見ると、ちょっと違うような気が。ここにその絵を貼りましょう。

この絵は平塚市と大磯町、江戸時代で言えば平塚宿と高麗村(高麗寺村)との境界線が描かれてます。絵に描かれた杭型の看板(榜示杭)がその境界線です。そのちょっと奥には松の木があり、さらに石でできた道路標識があり、さらに道路が描かれてます。道路標識があるくらいだから、この道は何か重要な道であることはたしか。明治19年の地図ではその道路は描かれてませんが、どうもこの道が江戸時代後期の中原街道ではないかと思えてきました。

果たしてここに描かれた榜示杭はいったいどこにあったのでしょうか? 実は前述の市役所から買ってきた絵葉書には、こんな錦絵もありました。

この絵の作者も歌川広重。前出の錦絵の十数年後に描かれたようです。この絵にも榜示杭があり石製の道路標識があります。前述の絵より10~20歩ほど下がった場所から描いたと推測できます。
この絵の中では、東海道は左隅から始まって右へ。すぐに左に曲がってます。この角が現在の地図のA地点だと推測していいと思います。その角にあるのはお茶屋さん。これでは中原街道と交差できません。やはり石製の道路標識の向こうにある道が中原街道のようです。となると、江戸時代の中原街道は下記の地図の点線にあったと推測できます。



つまり、中原街道はB地点で曲がることなく、そのまま直進してC地点で東海道と交差していた。となると、江戸時代の平塚宿~高麗村(高麗寺村)の境界線は●で示した箇所にあったと推測できます。B地点で曲がるようになったのは、それ以後だったんじゃないかな?
錦絵ではC地点の交差点の角度はかなり鋭く、30度くらいはあります。私が想像した中原街道もそれくらいの角度がありますね。
実際その場所に行って、あらためて写真を撮ってきました。A地点に立って撮影した国道1号線がこれです。

どうです。道がくの字に曲がってますよね。錦絵とまったく同じです。ただ、錦絵の東海道は花水川に架かる橋の手前でまた左に曲がってますが、現代でも過去を示す資料でもその箇所に曲がりはありません。その点は歌川広重の創作があったようです。

ちなみに、現在の平塚市と大磯町の境界線は、もうちょっと西に行ったところ、古花水橋の交差点にあります。写真だと信号のある場所。地図上だと一点鎖線を引いたところが現在の境界線です。なんでここが現在の市町境になったと思います? これは私の想像ですが・・・
現在の日本の市町村の制度は明治22年大晦日から始まってます。前述の明治迅速測図は明治19年制作だから、この地図とほぼ同じ時期。明治迅速測図ではこの場所には小桜川という小川が流れてました。その川を平塚市(当時は平塚町)と大磯町の境界線にしたんだと推定できます。
現在小桜川は95%以上暗渠になっていて、相模貨物駅前の交差点に埋まってます。

最後に、錦絵に描かれてる富士山ですが、近年この付近は建物が建ってしまって、まったく見えません。ただ、前述の旧平塚宿~高麗村(高麗寺村)の境界線に立つと、かろうじて見ることができます。


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