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錦絵で識る我が街の歴史3

2016年04月28日 | 我が町探訪
錦絵で識る我が街の歴史、今回は歌川国芳が描いた相州大山道田村渡景です。



ネット上にいい絵がなかったのでわざわざ市役所の出張所に行って錦絵の絵ハガキを買ってきました。この絵ハガキ、何度か撮影&スキャンしたのですが、残念、これ以上きれいに撮影(スキャン)できませんでした。この絵でご容赦ください。

田村の渡しとはなんなのか事前に調べてみたら、かなりおもしろい発見がありました。実は田村の渡しは2つの街道を兼ねてたのです。1つは前回も触れた大山街道(錦絵内では「大山道」)、もう1つは中原街道。
ええ、中原街道? 私が知ってる現在の中原街道は、JR南武線武蔵中原駅のガード下をくぐってJR茅ヶ崎駅北口でゴールしてたような記憶があります。あらためて調べてみたら、現在の中原街道は、国道1号線JR五反田駅付近の中原口交差点からスタートして、茅ヶ崎駅北口で終了してました。
では江戸時代の中原街道はというと、虎ノ門からスタートして我が市にある中原御殿でゴールしてました。つまり中原街道の「中原」とは、中原御殿の「中原」だったのです。長年生きててこれは新発見でした。いや~ いろいろと調べて見るものですねぇ。
中原御殿とは初代徳川将軍家康の別宅。中原街道は江戸からこの別宅に行くための専門の街道だったようです。1657年中原御殿は撤去されたようですが、中原街道は裏東海道としてその後も使われたようです。また、中原街道は江戸時代より前から存在してて、その時代のゴール地点は大磯町化粧坂だったようです。私がよく行くマクドナルドの側ですな。
と、ここでまた新たな疑問が浮かびました。前回紹介した冨嶽三十六景では「仲原」という地名が出てきました。場所的に現在の中原と推測しましたが、どうやら徳川家康の時代から中原だったようです。
なんで葛飾北斎は「仲原」なんて地名を書いたのでしょうねぇ。北斎の時代は表現の自由なんてものはなかったから、北斎もよく絵の件で捕縛されてたようです。北斎は徳川幕府が大っ嫌いで、それで徳川家康とゆかりのある地名を避け「仲原」という地名を書いたのかも?
ま、江戸時代の古文書を見てみると、歴史上の人物の名前や地名が微妙に違ってる場合が多々あります。この時代、固有名詞はいい加減だったのかもしれませんね。

本題に入りましょう。上掲錦絵の場所には現在田村の渡しがあったことを示す石碑が立っており、神川橋がかかってます。この橋を錦絵と同じ角度から撮影しました。



この写真、上掲錦絵と決定的に違うところがあります。錦絵には山が描かれてますが、写真にはありません。当たり前です。あの山は写真のう~んと左側にあるのです。
橋の反対側から撮影した写真を掲げてみましょう。



見ての通り、錦絵の山は逆側にあるのです。これはいったいどういうことなんでしょうか?
この川、相模川は江戸時代は蛇行してたのかもしれません。現在の相模川は河口から神川橋までほぼ直線に北上してます(若干東に寄ってる)が、江戸時代は大きく蛇行してた可能性があります。いや、そうだとしても、かなりおかしいような。
錦絵と同じ角度に山を配置しようと思えば、河口から見て左にカーブしてる必要があります。その角度は90度では足りません。150度くらい曲がってないといけないのです。これはいくらなんでも暴論でしょう。
この錦絵、歌川国芳の創作か記憶違いが入ってるようですね。


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