■こならの森182号■2003.6発行
表紙 「 麦秋」
C・o・n・t・e・n・t・s
■こならの森7月号■
結婚しました。……………………4
青春レストラン……………………5
「ゼリーフライ、イモフライ」…6
JCジャーナル……………………14
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
[映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
イベント情報/協賛店マップ
■■■■■■■■■■■■■■■
【本文抜粋記事】
編集後記
こならの森から
ある首都圏散策ガイドブックを読んでいたら、渡良瀬遊水地のことが紹介されていた。周遊散策にはもってこいの場所である。だが、どういうところなのかを紹介する導入文にはて?と考えさせられるものがあった。
「………遊水地とはいうが、本来の目的は、足尾銅山から渡良瀬川に流れ込んだ鉱毒を沈澱させることだった。完成は大正7(1918)年。(中略)谷中村を含むこの一帯が遊水地に選ばれたのは、足尾銅山鉱毒事件で、谷中村の反対運動が最も激しかったからだといわれている。」
反対運動が顕著であったとしても立地条件があり遊水池はどこにもでもつくれるというわけではない。反対運動が先にあって一番激しいところを潰すために、あるいは見せしめのために水の下に沈めるということはどう考えてもおかし。
専門家ではないので、詳しいことは分からないが、歴史講座などで聞いた話によれば、事実は逆で谷中村一帯は昔から豊かだったからこそ反社会的な行動が弱かった。つまりは潰しやすかった。実際には隣接する埼玉県の北川辺が最初の候補地なっているが、反対運動が強かっために難を逃れ次に栃木県の谷中村に計画されたという経過がある。結果的に谷中村では田中正造とともに最後まで壮絶な戦いが繰り広げられ、映画や小説になったので反対運動が一番強かったと思われても仕方ないが、「反対運動などすると遊水池にされてしまうぞ」と言わんばかりの教訓めいた表現は、あまりにも軽率すぎる。著者があまり調べもせず書いたにしろ、(ガイドブックだし歴史書ではないから仕方がないといえばそれまでだが)年代を含めて詳しく記述しているのであるならその裏をとるのが出版社に課せられた最低限の道理だろう。
たぶん作者も悪気はけしてないのだろう。本を書く上でいろいろな文献を少しだけ参考にしていって混同しただけなのだろうと好意的、性善説的に思う。だが一番問題なのはその元になった文献はいったい何なのかということだ。その方が一番気がかりだ。そしてガイドブックを手に散策する田中正造を知らないひとたちにどれだけの真実が伝わったのだろうか。
以上の意見は田中正造の地元であるから(それにしては、ちっぽけな「馬屋」一つ、守れないほどの存在でしかなく説得力は無いが)、より厳しい見方になってしまったのかもしれない。けして感情的になっているわけではないが、歴史というのは風化されやすく、なかなか正しく伝えられないものだと思う。後生の世でも田中正造は、義人でいられるのか。たんなる擬人・変人か。反体制とか、イデオロギーとかの枠の中に閉じこめられたままの人で終わるのか。それは、これからの私を含めた人々の行動にかかっているのだと思う。
■■■■■■■■■■■■■■■
表紙 「 麦秋」
C・o・n・t・e・n・t・s
■こならの森7月号■
結婚しました。……………………4
青春レストラン……………………5
「ゼリーフライ、イモフライ」…6
JCジャーナル……………………14
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
[映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
イベント情報/協賛店マップ
■■■■■■■■■■■■■■■
【本文抜粋記事】
編集後記
こならの森から
ある首都圏散策ガイドブックを読んでいたら、渡良瀬遊水地のことが紹介されていた。周遊散策にはもってこいの場所である。だが、どういうところなのかを紹介する導入文にはて?と考えさせられるものがあった。
「………遊水地とはいうが、本来の目的は、足尾銅山から渡良瀬川に流れ込んだ鉱毒を沈澱させることだった。完成は大正7(1918)年。(中略)谷中村を含むこの一帯が遊水地に選ばれたのは、足尾銅山鉱毒事件で、谷中村の反対運動が最も激しかったからだといわれている。」
反対運動が顕著であったとしても立地条件があり遊水池はどこにもでもつくれるというわけではない。反対運動が先にあって一番激しいところを潰すために、あるいは見せしめのために水の下に沈めるということはどう考えてもおかし。
専門家ではないので、詳しいことは分からないが、歴史講座などで聞いた話によれば、事実は逆で谷中村一帯は昔から豊かだったからこそ反社会的な行動が弱かった。つまりは潰しやすかった。実際には隣接する埼玉県の北川辺が最初の候補地なっているが、反対運動が強かっために難を逃れ次に栃木県の谷中村に計画されたという経過がある。結果的に谷中村では田中正造とともに最後まで壮絶な戦いが繰り広げられ、映画や小説になったので反対運動が一番強かったと思われても仕方ないが、「反対運動などすると遊水池にされてしまうぞ」と言わんばかりの教訓めいた表現は、あまりにも軽率すぎる。著者があまり調べもせず書いたにしろ、(ガイドブックだし歴史書ではないから仕方がないといえばそれまでだが)年代を含めて詳しく記述しているのであるならその裏をとるのが出版社に課せられた最低限の道理だろう。
たぶん作者も悪気はけしてないのだろう。本を書く上でいろいろな文献を少しだけ参考にしていって混同しただけなのだろうと好意的、性善説的に思う。だが一番問題なのはその元になった文献はいったい何なのかということだ。その方が一番気がかりだ。そしてガイドブックを手に散策する田中正造を知らないひとたちにどれだけの真実が伝わったのだろうか。
以上の意見は田中正造の地元であるから(それにしては、ちっぽけな「馬屋」一つ、守れないほどの存在でしかなく説得力は無いが)、より厳しい見方になってしまったのかもしれない。けして感情的になっているわけではないが、歴史というのは風化されやすく、なかなか正しく伝えられないものだと思う。後生の世でも田中正造は、義人でいられるのか。たんなる擬人・変人か。反体制とか、イデオロギーとかの枠の中に閉じこめられたままの人で終わるのか。それは、これからの私を含めた人々の行動にかかっているのだと思う。
■■■■■■■■■■■■■■■