2001年度、というのは、02年春卒業なんだけれど、コニ研の卒業論文に、「雑誌の未来」というのがあった。
この頃は、まだ、オンラインマガジンに関する「研究」というのは、ほとんど無くて、先行研究探しに随分苦労した記憶がある。
この論文作りの過程で、彼女が参考にしたのは、これも最終局面が近づいていた『本とコンピュータ』数冊と、文学概論ネタ用として手元にあった『ラストメッセージ in 最終号』(93年刊。この本は裁判沙汰になってるのに、いまでも簡単に手に入る)。
著作権使用許可取らないで本を作ってたってのも驚くけれど、それはさておき、状況はどう変わったんだろうか。
今日、このことを書く気になったのは、もちろん『しずおかの文化』終刊の続報をまとめなきゃ、と言うことがあるんだけれど、もう一つ、3/9朝日新聞朝刊が「JANJAN」の休刊を記事にしていたのが目に留まった、と言う事情もある。
「JANJAN」は、コニ研の雑談の中で、何度か話題になっていたと思う。市民記者によるニュースサイト、と言う発想は、なるほど、と思ったし、海外ではこう言うのを支える“文化”もあったんじゃないかと思う(今、どうなってるか、全く知りません)。
公式サイトでは、理由を3つに整理してあげているが、朝日含め、多くのメディアは広告料収入の激減を見出しに使っている。
様々な見解が披瀝されている“オムニバス”での議論でも、広告料の問題が深刻だったんだな、と言う印象は確かにある。
広告料収入に頼るメディアは、経済状況に左右されやすい。
そして、広告主の意向を意識せざるを得ない。
例えば、『暮らしの手帖』は、広告を取らないのに、ではなく、広告を取らないから、滅びないのではないか。
『暮らしの手帖』がどのように運営されているのかは、全く識らないのだけれど、世の中の雑誌の多くは、広告収入で回転している。
売り上げで儲けるより、広告収入の方が確実だ。
フリーペーパーが花盛りなのもそういうことだろう。
しかし、余程しっかりした背景がないと、フリーペーパーはただの広告紙になってしまうし、売られている雑誌でも、広告なのか記事なのか判然としない物が多い。
こういった傾向は、ネットでもTV番組でも、かなり一般的であるように思える。
「JANJAN」の場合がどうだったのか、というのも判らないが、例えば、いくつもの大きな広告主がついていたら、それはそれでいろんな枷になっただろうし、逆に“民主的”なメディアに広告を出せる程、度量の大きな企業はそうそう無い、と言うのが現実だ。
さて、では、広告主に頼らずに、直ぐには売れそうもない物をつくる為には、どうしたらいいのだろう。
ここまで来ると、これは芸術家と金主の話なんだ、と言うことが理解できる。
何でも好きにしなさい、と言うパトロンがつけば、芸術家は才能を存分に発揮できる。
しかし、やっぱりそういう大旦那もいないんだろうな。
さて、話を『しずおかの文化』に戻そう。
終刊号が刊行されて後、暫くして、八木編集長たち10人ほどの関係者とお話しする機会を頂いた。
席上で出たいろいろな人たちの話を総合すると(つまり、伝聞です)、
『しずおかの文化』は、雑誌としては廃刊。
挨拶文にあった、「現代ニーズに対応した新しい形」、と言うのは、webサイトではなく、新書形式、と言うことらしい。
コンペが行われ、新書を提案した業者が選ばれた由。
廃刊の理由の中心は、売れない、と言うことらしい。
“現代のニーズ”にあってない、と言うことか。
公開されている会計情報などから、この雑誌が、元々採算性を見込まれていないことも判っている。
年間予算は現在700万円(最近大幅に削られて、現在こうなっている由)。
これで、4冊、各2500部を、単価700円で売る。つまり、売り上げと予算が全く一致している。
こういう帳尻の合わせ方は大学を含め、官公庁では(企業もそうなのかな)多分必須なんだろうが、実際には、それだけの収入は見込んでいない(全部の事業の収支がとんとんなら、税金はいらんものね)らしく、予算の収入見込みでは、約50万円分売れればOKと言う設定だったとのこと。実際、バックナンバーのストックも必要なので、全部売れたら困るはずだし。
現在(と言うか、ついこの間まで)、700万円の予算は、制作会社であったピーエーシーにそのまま移管され、それを制作費としてまるまる使い、広告料収入があれば、ピーエーシーの物になる、と言う勘定だったらしい(つまり、収入見込みには、広告料は含まれていない)。改めてみてみると、広告が少ないのに驚かされる。前の記事で紹介した30号では
松坂屋・静岡第一テレビ・やまだいち・静岡新聞・SBS・テレビ静岡・アミーデザイン・静岡信用金庫と、8社あったものが、100号では、JAバンク・駿府博物館・浮月楼の3社のみ。
それは、広告に頼らない中立性、なのか、採算を気にせずに済む気楽さだったのか。
売れる本なら広告主もつく。売れなければ、広告を出す意味がない。
今広告を出しているところは、そういう意味で、パトロン。出資者だといえるのだろうけれど、そのお金は制作会社に行ってました、と言う話らしい。
話逸れた。
元々、採算性を考えるようなメディアとして作られてはいないのだ。
それが、何故、今、廃刊になるのか。
700万円の“節約”が、どれだけ、県の予算を救うのか?
県文化財団は無料の広報誌『G』を発行している。
グランシップマガジン G.[ジー]は、静岡の文化の息吹をお伝えする総合情報誌。グランシップで繰り広げられる様々なイベントシーンや文化・芸術を幅広く紹介し、グランシップをより身近に感じていただくことを編集方針としています。
●仕様:A4判オールカラー 32ページ
●発行日:年4回/3・6・9・12月の15日 ※時期は掲載内容によって前後する場合があります
●発行部数:20,000部
かなりの予算規模らしい。
これは、“広報”だから、採算合わなくて良い、と言うことなんだろう。
この辺に、妙なねじれがある。
『G』のバックナンバーは、10年後、100年後に、必要とされるだろうか。
『しずおかの文化』がやってきたことは、そういうことなのだ。
各号に特集があり、当事者も、学者も、アマチュアも、いりまじってそこに情報を載せ、論じている。
それは、今も、これから先もずっと、静岡で、その分野について識りたいと思ったら、必要不可欠な情報源であり続ける。
そして、それこそが、静岡そのもの、静岡の文化そのもの、さらに、文化行政の見識そのものを見せる“広報誌”として、長く意味を持ち続けるのだ。
静岡県文化財団は、それを、当座の採算性を理由に捨てた。
10年後、20年後、更にずっと先に行って、誰かが調べるだろう。
この、四半世紀に渡って採算性を度外視して文化の集積と情報発信のために尽くした雑誌の息の根を止めた知事が誰で、財団の幹部が誰だったのかを。
長くなったので、雑誌/新書の話は別に書く。
この頃は、まだ、オンラインマガジンに関する「研究」というのは、ほとんど無くて、先行研究探しに随分苦労した記憶がある。
この論文作りの過程で、彼女が参考にしたのは、これも最終局面が近づいていた『本とコンピュータ』数冊と、文学概論ネタ用として手元にあった『ラストメッセージ in 最終号』(93年刊。この本は裁判沙汰になってるのに、いまでも簡単に手に入る)。
著作権使用許可取らないで本を作ってたってのも驚くけれど、それはさておき、状況はどう変わったんだろうか。
今日、このことを書く気になったのは、もちろん『しずおかの文化』終刊の続報をまとめなきゃ、と言うことがあるんだけれど、もう一つ、3/9朝日新聞朝刊が「JANJAN」の休刊を記事にしていたのが目に留まった、と言う事情もある。
「JANJAN」は、コニ研の雑談の中で、何度か話題になっていたと思う。市民記者によるニュースサイト、と言う発想は、なるほど、と思ったし、海外ではこう言うのを支える“文化”もあったんじゃないかと思う(今、どうなってるか、全く知りません)。
公式サイトでは、理由を3つに整理してあげているが、朝日含め、多くのメディアは広告料収入の激減を見出しに使っている。
様々な見解が披瀝されている“オムニバス”での議論でも、広告料の問題が深刻だったんだな、と言う印象は確かにある。
広告料収入に頼るメディアは、経済状況に左右されやすい。
そして、広告主の意向を意識せざるを得ない。
例えば、『暮らしの手帖』は、広告を取らないのに、ではなく、広告を取らないから、滅びないのではないか。
『暮らしの手帖』がどのように運営されているのかは、全く識らないのだけれど、世の中の雑誌の多くは、広告収入で回転している。
売り上げで儲けるより、広告収入の方が確実だ。
フリーペーパーが花盛りなのもそういうことだろう。
しかし、余程しっかりした背景がないと、フリーペーパーはただの広告紙になってしまうし、売られている雑誌でも、広告なのか記事なのか判然としない物が多い。
こういった傾向は、ネットでもTV番組でも、かなり一般的であるように思える。
「JANJAN」の場合がどうだったのか、というのも判らないが、例えば、いくつもの大きな広告主がついていたら、それはそれでいろんな枷になっただろうし、逆に“民主的”なメディアに広告を出せる程、度量の大きな企業はそうそう無い、と言うのが現実だ。
さて、では、広告主に頼らずに、直ぐには売れそうもない物をつくる為には、どうしたらいいのだろう。
ここまで来ると、これは芸術家と金主の話なんだ、と言うことが理解できる。
何でも好きにしなさい、と言うパトロンがつけば、芸術家は才能を存分に発揮できる。
しかし、やっぱりそういう大旦那もいないんだろうな。
さて、話を『しずおかの文化』に戻そう。
終刊号が刊行されて後、暫くして、八木編集長たち10人ほどの関係者とお話しする機会を頂いた。
席上で出たいろいろな人たちの話を総合すると(つまり、伝聞です)、
『しずおかの文化』は、雑誌としては廃刊。
挨拶文にあった、「現代ニーズに対応した新しい形」、と言うのは、webサイトではなく、新書形式、と言うことらしい。
コンペが行われ、新書を提案した業者が選ばれた由。
廃刊の理由の中心は、売れない、と言うことらしい。
“現代のニーズ”にあってない、と言うことか。
公開されている会計情報などから、この雑誌が、元々採算性を見込まれていないことも判っている。
年間予算は現在700万円(最近大幅に削られて、現在こうなっている由)。
これで、4冊、各2500部を、単価700円で売る。つまり、売り上げと予算が全く一致している。
こういう帳尻の合わせ方は大学を含め、官公庁では(企業もそうなのかな)多分必須なんだろうが、実際には、それだけの収入は見込んでいない(全部の事業の収支がとんとんなら、税金はいらんものね)らしく、予算の収入見込みでは、約50万円分売れればOKと言う設定だったとのこと。実際、バックナンバーのストックも必要なので、全部売れたら困るはずだし。
現在(と言うか、ついこの間まで)、700万円の予算は、制作会社であったピーエーシーにそのまま移管され、それを制作費としてまるまる使い、広告料収入があれば、ピーエーシーの物になる、と言う勘定だったらしい(つまり、収入見込みには、広告料は含まれていない)。改めてみてみると、広告が少ないのに驚かされる。前の記事で紹介した30号では
松坂屋・静岡第一テレビ・やまだいち・静岡新聞・SBS・テレビ静岡・アミーデザイン・静岡信用金庫と、8社あったものが、100号では、JAバンク・駿府博物館・浮月楼の3社のみ。
それは、広告に頼らない中立性、なのか、採算を気にせずに済む気楽さだったのか。
売れる本なら広告主もつく。売れなければ、広告を出す意味がない。
今広告を出しているところは、そういう意味で、パトロン。出資者だといえるのだろうけれど、そのお金は制作会社に行ってました、と言う話らしい。
話逸れた。
元々、採算性を考えるようなメディアとして作られてはいないのだ。
それが、何故、今、廃刊になるのか。
700万円の“節約”が、どれだけ、県の予算を救うのか?
県文化財団は無料の広報誌『G』を発行している。
グランシップマガジン G.[ジー]は、静岡の文化の息吹をお伝えする総合情報誌。グランシップで繰り広げられる様々なイベントシーンや文化・芸術を幅広く紹介し、グランシップをより身近に感じていただくことを編集方針としています。
●仕様:A4判オールカラー 32ページ
●発行日:年4回/3・6・9・12月の15日 ※時期は掲載内容によって前後する場合があります
●発行部数:20,000部
かなりの予算規模らしい。
これは、“広報”だから、採算合わなくて良い、と言うことなんだろう。
この辺に、妙なねじれがある。
『G』のバックナンバーは、10年後、100年後に、必要とされるだろうか。
『しずおかの文化』がやってきたことは、そういうことなのだ。
各号に特集があり、当事者も、学者も、アマチュアも、いりまじってそこに情報を載せ、論じている。
それは、今も、これから先もずっと、静岡で、その分野について識りたいと思ったら、必要不可欠な情報源であり続ける。
そして、それこそが、静岡そのもの、静岡の文化そのもの、さらに、文化行政の見識そのものを見せる“広報誌”として、長く意味を持ち続けるのだ。
静岡県文化財団は、それを、当座の採算性を理由に捨てた。
10年後、20年後、更にずっと先に行って、誰かが調べるだろう。
この、四半世紀に渡って採算性を度外視して文化の集積と情報発信のために尽くした雑誌の息の根を止めた知事が誰で、財団の幹部が誰だったのかを。
長くなったので、雑誌/新書の話は別に書く。
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