コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

科学は空想であること。

2008-03-25 07:49:21 | 
歴史的事実に関わる実証史学にとって、日付け、年代はまさしく生命線であって、それのないところで資料を云々するとしたらまさしく歴史学にとっての自殺行為と言うことになるだろう。その生命線を失えば歴史学は歴史学であることをやめて、文学になってしまう。フィクションになってしまう。私が指摘したいのは、その日付けとか年代なるものも実はフィクションではないのかということだ。
富山太佳夫「フィクション抜きの史実は存在するか」~森明子編『歴史叙述の現在』(2002,12 人文書院)



カイチ君。
すごい事になってる。



杉山開知 〔暦師 デイキーパー〕プロフィール

1977年12月26日 満月の日に静岡に生まれ、思春期はギターの弾き語り、青年期はピザの宅配に精を出す。2001年、レイブパーティーで人生が一転し、2002年に西暦に疑問を感じたコトがきっかけでカレンダーにハマる。
2004年自作の暦に限界が訪れマヤの長老フンバツメン訪ね、それ以来師事している。
口伝の知識を学び、古代マヤカレンダーの聖なる日の数え方「デイカウンティング」に関する仕組みを、全て手描きで写し取らせてもらい2007年、再びマヤに行きマヤカレンダーの誕生の秘密である「年」の数え方の口伝を継承し、長期計算法ロングカウントをマスターする。
古代マヤカレンダーの研究、企業カレンダーコンサルティング、百姓をライフワークにしている。

おもな作品 『地球暦』『ピラミッドカレンダー』『Ge』(円盤形宇宙船 “へ” )
問い合わせ daykeeper@ever.ocn.ne.jp



富山太佳夫「フィクション抜きの史実は存在するか」からもう少し。

……それはある特定の時代の人間が発明し、工夫した、時間を区切るためのフィクションである。西暦の年月日、世紀、時代の区分などはすべて人間の頭脳が生みだしたフィクションであり、その支えなくしては、歴史の現場にそれこそ多方面多次元的な連鎖をなして生起する(アルチュセールが構造論的因果性と呼んだもの)出来事は歴史的な事実として立ち現れてこないのである。

……このように考えてくると、歴史学は事実に関わり、文学はフィクションの領域であるという区別など、議論の立脚点にはそもそもなり得ないはずなのである。



12月14日付で、ここまで書いて、放置してました。
すみません。
スケール大きすぎて。
しかし、「地球暦」という視座は、我々を大きく変える。

宿題宣言。

最初の杉山開知論は私が書くぞ!

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