少し間が空いてしまったが、先週の月曜に学内で行われた上映会のこと。
ドキュメンタリー映画「Roots of many colors」
監督:宮ヶ迫ナンシー理沙
制作:永野絵里世
製作:かながわ国際交流財団/マルチカルチャーチルドレンの会
かながわ民際協力基金協働事業
この上映会の主催は、教育学部の生涯教育課程国際理解教育専攻と人文学部、というか、大学院人文社会科学研究科臨床人間科学専攻の共催、と言うことだったらしい。
文部科学省の「平成21年度組織的な大学院教育改革推進プログラム」に採択された「対人援助職の倫理的・法的対応力の育成-多文化共生社会における臨床実践力と実証的研究能力の向上」の一環だった由。
様々な理由で日本に住むことになった親に連れられ、子供時代に日本に住むことになってしまったアジア・南米の若者達に対するインタビュー。基本的に、互助サークルのような団体の支援によって道を誤らずに生きている人たちの話。監督も日系ブラジル人。
若者風の言い方をすれば“普通に”良質の作品だったと思う。
トークをつけることで理解を深める手助けにもなる。
映画で残念に思ったのは、取材対象が限定的なこと。それから、聞き取りにくい声の人もいたので、字幕がある方が良かったのではないかな、と。
取材対象が限定的だ、と言うことについては、監督自身自覚があるようで、最後にも、これがすべてだと思わないで、と言う念押しをしていた。
それは、ジャーナリストの良心として高く評価できるのだけれど、逆に、映像作品として自立していないことの表明でもある。
検索してみると、監督や“出演者”が必ず出席してトークを行う上映会形式を守っているらしいので、それは問題ないのだろう。
ここにはちょっとしたメディア論的な興味があるけれど、論点が逸れるのでまた別の機会に。
映画で気になったのは、取材対象の若者たちが所属している活動グループが、自助的な組織ばっかりだったこと。それがみんなうまくいっているとは思えないし、逆に、自治体や大学などが運営しているところでも成功例はあるんじゃないか(あって欲しい)というのもある。
その辺、訊いてみたかった。
映画のことはさておき、後半の質疑応答には、正直がっかりした。
勿論、制作者のメッセージも一つではないのだから、あれはあれで良かったのかも知れないけれど、静岡大学の学生達の、少なくとも“異文化共生”や“国際理解”を学んでいる学生達の浅さに愕然とさせられる。
質問の時間になって、フロアからたくさんの手が上がったのは素晴らしい。それは良いのだけれど、そして、指名されなかった中に、もっと深い議論に導ける種があったと思いたいのだけれど……。
そして、その前に、登壇して「自己紹介」と称して感想だか研究発表だか分からないような発言と質問をした人たち、それから、面白い種を拾わずに次に行ってしまう司会。これが静大生のレベルだとは思いたくないんだけれど、現実を直視しないといけないんだな。
卒業式の日に“ガイジン”発言をした学生を思い出した。
多分、関係者は打ち上げか何かあっただろうから、そっちではもっとずっと深い議論があったはずで、そこで、登壇した学生達に新しい気づきがあってくれたことを祈るのみ。
私は、日本で生まれ、日本で暮らしている成人男子のひとりだ。
身体にも、多分精神にも、取り立てて不具合はなく、経済的には、年齢の平均よりは少し「楽」な暮らしをしているかも知れない。
好き嫌いはあるだろうけれど、見た目も、特段問題があるとは思っていない。
では、私は、日本で日本人として生きていることに違和感を感じていないか、と言うと、そんなことはない。なんて生きにくい国なんだろう、と思う。ある友人が“在日日本人”という言い方をしたので、私も時々使わせて貰っている。だからと言って虹の向こうに自分の居場所があるなどとは思っていないから、ここでナントカするしかないのだけれど。
学生たちの議論が深まっていかない原因は、日本にいる日本人学生たちが、かなり「満足」な状態にあり、留学生たちは相当に不満な状態にある、ということなのかもしれない。
いずれにしても、自分たちは「何不自由なく」暮らしていられるんだけれど、大変な思いをしている人たちのために何が出来るでしょう、と言うようなスタンスがどこかに潜んでいる。
それ自体が思い上がりだと言うことを識るためには、どこかで、本当に「アウェイ」の経験をする必要があるのかも知れない。
日本人は、様々な要因でえらそうにしていられるけれど、世界的に見ればどうしようも無くマイノリティだ。
そう言う「国際的」な問題ばかりでなく、障害の有無、容姿の美醜、学歴や貧富……。我々はそういうあれやこれやによって、常に強弱の秤に掛けられて生きている。
そしてそれは、いつ逆転するか判らない不安定なものだ。
『膝栗毛』のすごい所は、弥次喜多という当時のオールマイティ(健康な江戸町人成人男子)が、道中で女子供老人障害者田舎者貧乏人……と言った「弱者」に悪さをするのに対して、「弱者」たちが悉く反撃して弥次喜多がやりこめられるという構図にあると思っている。
これが「共生」だ。
一九は、おそらく実体験の中で、どん底も、アウェイも経験している。
だから、と言ったら彼の想像力を低く見るようで申し訳ないが、我々は、その作品を通して、他者の痛みを我が事として想像することが出来る。
それがブンガクの効用でもある。
解った気になる前に、色んな小説よんでみたら、と思ったりしました。
ドキュメンタリー映画「Roots of many colors」
監督:宮ヶ迫ナンシー理沙
制作:永野絵里世
製作:かながわ国際交流財団/マルチカルチャーチルドレンの会
かながわ民際協力基金協働事業
この上映会の主催は、教育学部の生涯教育課程国際理解教育専攻と人文学部、というか、大学院人文社会科学研究科臨床人間科学専攻の共催、と言うことだったらしい。
文部科学省の「平成21年度組織的な大学院教育改革推進プログラム」に採択された「対人援助職の倫理的・法的対応力の育成-多文化共生社会における臨床実践力と実証的研究能力の向上」の一環だった由。
様々な理由で日本に住むことになった親に連れられ、子供時代に日本に住むことになってしまったアジア・南米の若者達に対するインタビュー。基本的に、互助サークルのような団体の支援によって道を誤らずに生きている人たちの話。監督も日系ブラジル人。
若者風の言い方をすれば“普通に”良質の作品だったと思う。
トークをつけることで理解を深める手助けにもなる。
映画で残念に思ったのは、取材対象が限定的なこと。それから、聞き取りにくい声の人もいたので、字幕がある方が良かったのではないかな、と。
取材対象が限定的だ、と言うことについては、監督自身自覚があるようで、最後にも、これがすべてだと思わないで、と言う念押しをしていた。
それは、ジャーナリストの良心として高く評価できるのだけれど、逆に、映像作品として自立していないことの表明でもある。
検索してみると、監督や“出演者”が必ず出席してトークを行う上映会形式を守っているらしいので、それは問題ないのだろう。
ここにはちょっとしたメディア論的な興味があるけれど、論点が逸れるのでまた別の機会に。
映画で気になったのは、取材対象の若者たちが所属している活動グループが、自助的な組織ばっかりだったこと。それがみんなうまくいっているとは思えないし、逆に、自治体や大学などが運営しているところでも成功例はあるんじゃないか(あって欲しい)というのもある。
その辺、訊いてみたかった。
映画のことはさておき、後半の質疑応答には、正直がっかりした。
勿論、制作者のメッセージも一つではないのだから、あれはあれで良かったのかも知れないけれど、静岡大学の学生達の、少なくとも“異文化共生”や“国際理解”を学んでいる学生達の浅さに愕然とさせられる。
質問の時間になって、フロアからたくさんの手が上がったのは素晴らしい。それは良いのだけれど、そして、指名されなかった中に、もっと深い議論に導ける種があったと思いたいのだけれど……。
そして、その前に、登壇して「自己紹介」と称して感想だか研究発表だか分からないような発言と質問をした人たち、それから、面白い種を拾わずに次に行ってしまう司会。これが静大生のレベルだとは思いたくないんだけれど、現実を直視しないといけないんだな。
卒業式の日に“ガイジン”発言をした学生を思い出した。
多分、関係者は打ち上げか何かあっただろうから、そっちではもっとずっと深い議論があったはずで、そこで、登壇した学生達に新しい気づきがあってくれたことを祈るのみ。
私は、日本で生まれ、日本で暮らしている成人男子のひとりだ。
身体にも、多分精神にも、取り立てて不具合はなく、経済的には、年齢の平均よりは少し「楽」な暮らしをしているかも知れない。
好き嫌いはあるだろうけれど、見た目も、特段問題があるとは思っていない。
では、私は、日本で日本人として生きていることに違和感を感じていないか、と言うと、そんなことはない。なんて生きにくい国なんだろう、と思う。ある友人が“在日日本人”という言い方をしたので、私も時々使わせて貰っている。だからと言って虹の向こうに自分の居場所があるなどとは思っていないから、ここでナントカするしかないのだけれど。
学生たちの議論が深まっていかない原因は、日本にいる日本人学生たちが、かなり「満足」な状態にあり、留学生たちは相当に不満な状態にある、ということなのかもしれない。
いずれにしても、自分たちは「何不自由なく」暮らしていられるんだけれど、大変な思いをしている人たちのために何が出来るでしょう、と言うようなスタンスがどこかに潜んでいる。
それ自体が思い上がりだと言うことを識るためには、どこかで、本当に「アウェイ」の経験をする必要があるのかも知れない。
日本人は、様々な要因でえらそうにしていられるけれど、世界的に見ればどうしようも無くマイノリティだ。
そう言う「国際的」な問題ばかりでなく、障害の有無、容姿の美醜、学歴や貧富……。我々はそういうあれやこれやによって、常に強弱の秤に掛けられて生きている。
そしてそれは、いつ逆転するか判らない不安定なものだ。
『膝栗毛』のすごい所は、弥次喜多という当時のオールマイティ(健康な江戸町人成人男子)が、道中で女子供老人障害者田舎者貧乏人……と言った「弱者」に悪さをするのに対して、「弱者」たちが悉く反撃して弥次喜多がやりこめられるという構図にあると思っている。
これが「共生」だ。
一九は、おそらく実体験の中で、どん底も、アウェイも経験している。
だから、と言ったら彼の想像力を低く見るようで申し訳ないが、我々は、その作品を通して、他者の痛みを我が事として想像することが出来る。
それがブンガクの効用でもある。
解った気になる前に、色んな小説よんでみたら、と思ったりしました。
実はこのたび「居場所」をテーマに文章を書く関係で
このキーワードで検索しているうちに、
こちらを覗かせて頂くことができました。
勉強させて頂きました。
ありがとうございました。
このブログも居場所がテーマでしたが、
面白かったですよ。
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