昨日の夕刊に、成人向けの国語力試験をやるという記事が載っていた。
こういう話を聞くたびに、“学力”判定の基準そのものが、どうなんだろう、と考えてしまう。
たとえば入学試験は、本当に、必要な“学力”を判定し得ているんだろうか。
落ちた受験生は、本当に授業についてこられなかっただろうか、受かった学生がついてこられないのはなぜだろう。
欲しい・育てたい学生と実際に入ってくる学生にミスマッチがあるなら、それは入試問題そのものに何か欠陥がるんじゃないか。
たとえば、入学後の追跡調査をすると、センター試験のできが良かった学生が、やはり良い、ということになったとして、それは、とんでもなくばかげた統計にしか思えない。
つまり、大学の授業における成績評価の基準が、相変わらずセンター試験的なモノであるなら、そこに相関関係が見えるのは調べるまでもないことだ。
そうじゃなくて、“個性”重視で入試をやるなら、入ってからも個性重視の授業をやって、個性重視の成績評価をしなきゃいけないんじゃないのか。それだけの覚悟はなくて、カンニング可能な試験を生産しているのじゃぁ、“学力”に未来はない。
その上、就職試験でまたぞろわけのわからんクイズみたいな問題出されちゃ、教師の立つ瀬はない。もちろん、そうばかりじゃなくなっても来てるんだけど。
下らん入試問題作る学校、会社には行くなよ、若者!
こんな事を考えたのは、私が、密かに、ノーベル賞に一番近い友人と思って尊敬している幾霜が、「日本のノーベル賞偏重と実学重視の風潮には危機感を抱いています」と書いていることに、改めて納得し、危機感を更新してしまったからだ。
私の現在の社会的活動の多くは、“実学”の問い直しにかかってるのだけれど、それはまた別の機会に書くとして、ノーベル賞が対象としない学問分野は山ほどあるということ。
それは、他の“賞”でもいえることで、どこかで“権威”のある賞を取ったら偉いのか(って、そりゃ偉いけどさ)。そういうのがないジャンルに切り込んでいって新しい世界を築いたひとはどうなるの?
“一流”大学にはいり、“一流”企業に就職? “一流”の基準は何さ?
指標のまやかしに乗るな。
なんだか話がずれてきたようなので、一回切ろう。
なお、
入試問題を作る
参照。
こういう話を聞くたびに、“学力”判定の基準そのものが、どうなんだろう、と考えてしまう。
たとえば入学試験は、本当に、必要な“学力”を判定し得ているんだろうか。
落ちた受験生は、本当に授業についてこられなかっただろうか、受かった学生がついてこられないのはなぜだろう。
欲しい・育てたい学生と実際に入ってくる学生にミスマッチがあるなら、それは入試問題そのものに何か欠陥がるんじゃないか。
たとえば、入学後の追跡調査をすると、センター試験のできが良かった学生が、やはり良い、ということになったとして、それは、とんでもなくばかげた統計にしか思えない。
つまり、大学の授業における成績評価の基準が、相変わらずセンター試験的なモノであるなら、そこに相関関係が見えるのは調べるまでもないことだ。
そうじゃなくて、“個性”重視で入試をやるなら、入ってからも個性重視の授業をやって、個性重視の成績評価をしなきゃいけないんじゃないのか。それだけの覚悟はなくて、カンニング可能な試験を生産しているのじゃぁ、“学力”に未来はない。
その上、就職試験でまたぞろわけのわからんクイズみたいな問題出されちゃ、教師の立つ瀬はない。もちろん、そうばかりじゃなくなっても来てるんだけど。
下らん入試問題作る学校、会社には行くなよ、若者!
こんな事を考えたのは、私が、密かに、ノーベル賞に一番近い友人と思って尊敬している幾霜が、「日本のノーベル賞偏重と実学重視の風潮には危機感を抱いています」と書いていることに、改めて納得し、危機感を更新してしまったからだ。
私の現在の社会的活動の多くは、“実学”の問い直しにかかってるのだけれど、それはまた別の機会に書くとして、ノーベル賞が対象としない学問分野は山ほどあるということ。
それは、他の“賞”でもいえることで、どこかで“権威”のある賞を取ったら偉いのか(って、そりゃ偉いけどさ)。そういうのがないジャンルに切り込んでいって新しい世界を築いたひとはどうなるの?
“一流”大学にはいり、“一流”企業に就職? “一流”の基準は何さ?
指標のまやかしに乗るな。
なんだか話がずれてきたようなので、一回切ろう。
なお、
入試問題を作る
参照。
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