コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

研究とフィールドワークと運

2010-09-14 11:39:22 | 
9/13、夜、文学座アトリエで『トロイアの女たち』を観る予定があったので(芝居についてはまたあとで)、ついでに、すぐそばにあるお岩稲荷に立ち寄った。

大学院生の頃か、就職して間もない頃か、とにかく数回訪問したことがあるのだけれど、お堂が閉まっていたり、神官が不在だったりで、お話をうかがったことはない。
最初は多分修論を書くためにはお参りしないとね~、とか言う話だったと思うのだけれど、実際の研究は写本の調査が中心で、「皿屋敷」や「累」と違って、四谷は現地にいっても“調査”することがあるとは思っていなかった。


今回は、少し時間もあったし、欲しい資料もあったので、呼び鈴を押して初めて御当主にお出まし願った。

真っ赤なTシャツに半ズボン、長髪に手拭い姿の私が、アポも無しに訪ねていったら、名刺を渡したところで簡単に信用できるはずもないのだけれど、教育委員長までなさったという栗岩英雄氏(現在は、ご子息が田宮姓をついでいらっしゃる)は、若干の見解の違いを認めながらも、私が簡単にお話した研究をご理解下さり、色々のコピーや最新の新書まで下さったうえに、残部のない貴重な本を貸して下さった。
これは、もちろん、栗岩氏のお人柄なんだけれど、やっぱり何か因縁力?
それとも私の研究の賜物???


お岩稲荷で、というか、栗岩氏が考えている縁起は、“通説”とはかなり違う。
四谷紹介のサイトで読めるのでリンクしておく
これは、一見して現田宮家のご先祖であるお岩を“美化”しているように見える。
子孫にとっては家の名誉に関わること、だけれど、私にとっては、お岩の美醜は、それほど重要な問題ではない。
この説で重要なのは、“事件”以前に存在した屋敷神としての稲荷の方だ。
この“縁起”には書かれていないが、栗岩氏は、この稲荷が、家康の家臣だった田宮家が江戸入りの時、駿府から勧請したものだという(田宮家が駿府所縁の者だという話も、他では聞いたことがない。しかし、戦前までは親類があった由)。

一見荒唐無稽で、検証不可能なように見えるはなしだけれど、これは調べてみる価値のある大きな問題だと思う。

江戸に移住した地方の武士たちが、嘗て住んでいた土地の稲荷や地蔵と一緒に引っ越し、江戸の屋敷内に祀る例は存在する。それが何かの理由で流行伸になるという話もあるだろう。

お岩以前の“稲荷”のこと、そして、事件以降、実録ができ、芝居になるまでの長い年月、そこは、どういう場所だったのか。

改めて考えなければならない課題を戴いた。
やっぱり「現場」でお話をうかがうのは大切なことだ。


栗岩様。
有難うございました。
御本は来月にはお返しします。


怪談は先月の講座でネタにしたんだけれど、“四谷怪談”をふくめ、久しぶりに“仕事”として取り組むことになりそうだ(というわけなので、詳細は省略)。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 男女同量への道(続) | トップ | 正統ポップカルチャーの水脈 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事